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【小説】チープなドラマ感覚で【みたいな】

1 :名無し娘。:2006/09/17(日) 19:57
ハロプロ全般、上から下まで。
予定は未定で確定ではないけれど、書いていこうと思います。
『ヒロインx男』の形が多くなると思うので、好まない方はスルーでお願いします。
下の方でコソコソいきます。
レスしてもらえるなら喜んで受けます。
類似したものを書いてくださる方はどんどん書いてください。

254 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 19:57

 5

孝之に手を引かれ、梨沙子はニコニコとその背を見ていました。
なにがこんなに嬉しくさせるのか、自分でも解ってなどいないままで公園への道程を楽しんでいたのです。

「はい。到着っ」
「え? うわっ、あ゙ぁっ!?」

前を行く孝之が、不意に止まってそう言いました。
が、梨沙子は気がつかず──気づいても止まり方を知らなかったのですが──、勢いそのままに孝之の肩へぶつかってしまったのです。

「っ!?」

支えようと踏ん張りかけた孝之でしたが、力を込めても無情に廻るローラーが邪魔をしました。

「う〜……」
「っ、てぇ……」

辛うじて大転倒とはならなかったものの、思いっ切り尻もちをつき、繋いでいた手に引っ張られた梨沙子が、その上に倒れ込みました。

255 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 19:58

「あぃた〜……」
「りさちゃん……?」
「はぁい?」
「重いからどかない?」
「えぇ!? りー、おもくないもん!」

孝之の言葉に飛び跳ねるようにして脇に降りた梨沙子が言いました。
まっ白な頬を少しばかり朱に染めて言う梨沙子に、身体を起こしながら孝之が笑いかけました。

「そうだね。りさちゃん細いもんなぁ……ほらっ」

先に立ち上がった孝之の両手が梨沙子の脇に添えられて、小さなかけ声に合わせてひょいと持ち上げられました。

「……う〜〜っ、おろしてぇ」
「うわっ!? ははっ、ごめんごめん」

一瞬何をされたのか解らなかった梨沙子が、顔を真っ赤にしてバタバタすると、孝之はすとんと足から梨沙子を下ろしてあげました。

256 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 19:58

子供だとからかわれたように感じた梨沙子は頬を膨らませて背を向けてしまいました。

「たかちゃん、きらいっ」

そんな梨沙子を微笑ましく思いながらも、機嫌を直そうと四苦八苦する孝之でした。
やがて梨沙子にも笑顔が戻り、丁寧なスケートのレッスンが始まります。

初めはバランスを取ることだけで精一杯だった梨沙子も、意外な勘の良さをみせ、次第に上達していきます。
時に転びそうになると、すぐ横で教えている孝之が手を差し伸べて支えます。
あまりにゆっくりで、これはと思う時には転び方すらも教えるように、手を出さずにいることもありました。
そんな時、黙って口をとがらせ「なんで?」という目で見る梨沙子に、孝之は「転ぶことも覚えなきゃ」と言うのです。
なお不満顔の梨沙子へ「それくらいなら、子供じゃないなら痛くないでしょ?」と重ねて。
すると梨沙子は、口を尖らせたままで「うん」と頷くのでした。

そんなレッスンも二時間ほども過ぎた頃、孝之が飲み物を買いに梨沙子の元を離れました。
両手にオレンジジュースの缶を握り、元いた場所へ戻ってきた孝之でしたが、梨沙子の姿が見あたりません。

「りさちゃん……?」

きょろきょろと辺りを見廻した孝之は、きた道とは反対の方向に滑っていく梨沙子の背中を見つけました。

257 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 19:59

後を追おうと動き出し掛けて、ある事に気がついた孝之は握っていた缶を置くことも忘れ、全力で滑り出しました。

「りさちゃんっ!」

近づく勢いはそのままに、大きな声で呼びかけると、上体だけで振り向いた梨沙子が手を振ってきました。
足は止まっていましたが、ゆっくりと回り続けるローラーはそのままに。

「たかちゃーん。みてみてっ♪」
「っ……止まって!」
「? ……え? わっ!?」

そこで梨沙子はやっと気がつきました。
自分がなだらかな下り道にいたことに。
そしてその勾配が徐々に急になっていることに。

「ふわわっ……た、たかちゃん」
「りさちゃん!」

段々と上がっていくスピードと、坂の向こうに見える光景に身をすくませ、転ぶことも出来ず孝之の名を呼ぶ梨沙子。
孝之は手に持っていた缶を放り出して、坂の向こうを往来する車のことを考え、必死に後を追いました。

258 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 20:00

目前に迫る道路に、恐怖感で一杯になった梨沙子が眼を閉じ、身体を硬くした数秒の後。
車にはねられたと感じた大きな衝撃。
梨沙子が気がつき目を開けた時、そこは道路から僅か一メートル程の場所でした。

「たか、ちゃ──っつ」

隣で倒れている孝之に気づき、手を伸ばそうとした時、上腕に鈍い痛みを感じて動きを止めました。

「はっ! りさちゃん!?」

遅れて気がついた孝之が梨沙子を見ると、痛みを堪えるように表情を歪ませ、ブラウンの瞳一杯に涙を浮かべて。
それでもなぜだか笑顔を作ろうとしている梨沙子がいました。

「りさちゃん、どっか痛い? 大丈夫?」
「ちょっとだけ、いたい。けど……こどもじゃないからへーきだもん」

額にうっすらと汗を浮かせながら、無理に作った笑顔で話す梨沙子。
そんな梨沙子を見た孝之は、理由も解らないままに泣き出してしまいそうになりました。
それは悔い、憤り、哀しみ、哀れみ、様々な感情の表れでした。

259 :『小さな恋の……』:2006/10/13(金) 20:00

ともすれば溢れてしまいそうになる涙を、ぐいと拭って梨沙子に背を向け屈んで言いました。

「のって。家に帰って、それから病院に行こう」
「えぇっ、だって……」
「いいからっ、早く!」
「……うん」

ごにょごにょ言い続ける梨沙子を背負って、梨沙子の家に着いた二人を見て、梨沙子の母は驚きながらも、手早く行動しました。
休日診療のしてもらえる病院へタクシーで向かう途中、詳しい話を聞いた梨沙子の母は、二人を叱りもしませんでした。

病院で診察を終え、帰りのタクシーの中で、梨沙子は叱られ孝之は謝られていました。
二人は、その扱いや心境こそ違いましたが、同じように右腕を吊り、同じようにしょんぼりしていたのです。
梨沙子の母は、困ったように梨沙子を見て。
申し訳なさそうに孝之を見て。
小さく溜息をついて言いました。

「とにかくヒビだけで済んでよかったわ……」

夕暮れを走るタクシーの中、二人はただ俯いているだけでした。

260 :名無し娘。:2006/10/13(金) 20:01

今日はこの辺で。
あ、まだデビュー前なんですよ。

ではでは。

261 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:36

 6

いつものように二人で下校してきたある日、両親が不在だった孝之は梨沙子の家に呼ばれしました。
菅谷家のリビングで、孝之は見るでもなくTVの画面を見つめています。
その番組に特に興味を惹かれなかった梨沙子は、ソファーの端に座る孝之に背中を預け、足を肘掛けに投げ出して漫画を手にしていました。
孝之は右の肩から背中辺りで、梨沙子の背中を支えながらも、じっとTVの画面へ向いたままでいます。
一方の梨沙子は背中越しに孝之の温もりを感じ、飼い主の膝に乗った子猫のように満足げにページをめくるのでした。

「はい。おやつでも如何かしら?」

そんなところへ、キッチンから梨沙子の母がトレイを手にして声を掛けました。

262 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:36

「わぁい。いただきまぁす」
「ありがとうございます」

ペコリと頭を下げて、テーブルに置かれるショートケーキとジュースに目を遣りながら、ほっとしたように笑う孝之。
跳ねるように起きあがり、ケーキに手を伸ばそうとした梨沙子は、その動きを母親に止められました。

「りーちゃんはちょっと待ってね」
「え〜っ!?」

おあずけをくって、不服さを身体一杯に表す梨沙子に、母親が一言囁きました。

「見せたいものがあるから、あっちにいらっしゃい」
「なぁに……?」
「孝之くんは食べててね」

手を引かれて歩いていく梨沙子を見送って、ケーキとジュースを見ながら、孝之は考えました。
きっとすぐに戻ってくるんだろうから、手を付けないで待っていようと。

263 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:37

孝之がそう決めて、座り直した時でした。
一人で戻ってきた梨沙子は満面の笑みを浮かべて、ぽすっと音を立てて孝之の隣りに腰を下ろします。
とても嬉しそうに笑っているけれど、特になにも話そうとしない梨沙子に、孝之が困ったように笑いながら折れてあげるのでした。

「……なにかいいことあったの?」
「あのねー……まだ、なぁんでもないの♪」
「……そう?」
「うん♪」

にこにこと笑みを浮かべながらケーキを頬張る梨沙子は、その報せによるものなのか、それとも内緒にしているということ自体なのか、ただ楽しげにしています。
釈然としないものを感じながらも、“まだ”というなら、きっとそのうち教えてくれるだろうと納得しておく孝之でした。

264 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:37

その週末のことです。
いつもならば楽しげに「あしたはどこいく?」とか聞いてくるか、少し淋しげな表情で「あしたはおでかけするんだって」とか言う梨沙子。
それが、今日の彼女は孝之の知っているどの梨沙子とも違うようでした。

「あのねー、あしたはおでかけするからあそべないの」
「そうなんだ?」

そう言いながらも、その表情は一緒にいる前の日のように楽しげに笑っていました。
いつもと違う調子に戸惑いながらも、孝之はなるべく普通に接しようとするのでした。

「でも、りーのかわりにてれびみててね」
「え?」
「おひるのやつ。もーにんぐむすめの」
「あぁ……うん」

そう返事をしながら、孝之は思い出します。
そういえば何度か一緒に観たことがあったかなと。
孝之自身は、特別にいつも観ているわけではありませんでしたが、梨沙子といるその時間にはよく一緒に観たものでした。

265 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:37

そして日曜日。
律儀に約束を果たす為、TVを観ていた孝之は、画面に釘付けになったまま言葉を失っていました。
いつも隣で笑っていた梨沙子。
べそをかいては孝之にすがっていた梨沙子。
そんな“りさちゃん”が画面の中にいる、その不思議な光景と、なんとも表現しがたい感情に混乱していたのです。
画面に映るのは右手を吊ったあの頃の、VTRであろうもので、硬い表情のままぎこちなくインタビューを受けている梨沙子。
そしていかにも生放送らしく、オーディションに受かって驚き喜ぶ表情を映し出したりしていました。
そしてまとめるような話が流れた後、梨沙子は二万七千九百五十八人の中の、たった十五人の一人に選ばれ残ったのだと、ナレーターの声が告げていました。

不意に鳴った着信音に我に返り取りあげた携帯に、またなぜだか微妙な心持ちになる孝之でした。
急かすように鳴る携帯に出ると、がやがやとざわめきの聞こえる電話口から、少し興奮しているような元気な声が響いてきました。

『たかちゃん、みてたっ?』
「……うん」
『ねーねー、びっくりした?』
「え? ……うん」

自慢げにしっぽを振る子犬のような梨沙子の声。
そんな梨沙子に曖昧な返事を返しながら、孝之は思い出していました。
あれはそういうことだったのか、と。

266 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:38

何気なくTVを見ていた時に、いつものように寄り掛かっていた梨沙子が身をよじるようにして孝之に聞きました。

「たかちゃん、すき?」
「え?」

孝之は、一瞬なにを言われたのか解らず、小さな驚きの声をあげました。
それが画面に映っている女の子のグループを指していると気がついた孝之は、何の気無しに答えたのです。

「う〜ん、そうだね」
「そーなんだ」
「うん、そうかも」

特別に好きなわけではない孝之でしたが、ただ会話の流れから単純にそう言っただけでした。
梨沙子はなにか考えるようにアヒル口に指をあて、それから笑顔でこう言ったのです。

「ならりーもなる」
「え?」
「りーもミニモニ。みたくなる」
「え〜?」
「なに?」

懐疑的な孝之の反応に、梨沙子は少し頬を膨らませて問い返しました。

「ん〜、なったらすごいね」
「えへへぇ」

なにを想像したのか、やけに嬉しそうに笑う梨沙子の顔が印象に残った孝之でした。

267 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:38

『──ゃん、きーてる?』

電話の向こうで大きくなった声に、はっとした孝之が慌てて聞き返しました。

「え? なに?」
『もお! あのね、なんかよばれてるの』
「あ、うん」
『じゃあまたね』
「あっ!」
『んー?』
「あの……おめでとね」
『ん? うん♪』

余程急かされていたのか嬉しそうにそう言い残して、慌てて電話は切られました。
孝之は切れた電話を見つめ、その向こうの梨沙子の笑顔を思って呟きました。

「おめでと……」

梨沙子がそうなりたいと思って、そうなれたのだから、それはとても祝福すべきことだと孝之は思いました。
そして、祝ってあげるつもりでそう呟いたのに、どうしてだか笑えずにいる自分をおかしく思うのでした。

268 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:39

 7

互いに意図してではなく会う機会の減った二人に、某かの変化を求めるように時間は過ぎていきます。
それは夏休みに入っても変わらず、梨沙子は母親に連れられて頻繁に出かけていき、孝之は仲の良い学友と遊ぶ以外には、特にすることもなく家にいることが多くなりました。

そんな八月のある日、孝之はなにをするでもなくベッドに横たわり、小さなきっかけに思いをやっていました。
孝之が、梨沙子のことを初めてブラウン管越しに見たあの日。
あれ以来、二人の関係が微妙に変わってきたと孝之は感じていました。
なにがどうとは言い切れなかったものの、それは孝之の中に、確かに根付いた感情だったのです。

 自分である必要はない

きっと、言葉にすればそんなことだったのかもしれません。
あの留守番の夜以来、仲の良い妹のように、常に孝之のそばにいた梨沙子。
常に梨沙子の一番近くにいて、危うい無邪気さを庇護し、必要とされていた孝之。

269 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:39

そんな梨沙子が……“りさちゃん”が、数千人もの人を前に舞台に立った。
例えそれが、グループ全体の為にある舞台であるとしても、その中に梨沙子の名を叫ぶ声が耳についたのだから。
自分の知らない世界に入り、多くの人達に求められるような存在になれば、その役目など幾らでも代わりが出来るだろう。
そう考え、一つの結論にたどり着いた孝之なのでした。

270 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:40

「孝之っ、梨沙子ちゃん来てるわよ!」

母親の呼ぶ声に、小さく舌打ちをしながら部屋を出て階段を下りていく孝之。
心のどこかが波立ち、苛立っていることに、自分でも気がついてはいませんでした。

「なに?」
「……たかちゃん?」
「……?」

それがなにとは解らないけれど、小さな違和感を感じた梨沙子の声は、いつもの元気に開いた花のような声ではありませんでした。
自身の変化には気がつかない孝之も、梨沙子のその声の調子に、わずかに眉根を寄せて答えにならない答えを返しました。

「…………」
「どうしたの?」

何も言わず、困ったように見上げる梨沙子に、改めて問いかける孝之。
その声からは、梨沙子が感じたいつもの孝之とは異なる“色”が薄れていたようでした。

271 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:40

「たかちゃん……ん〜ん、なんでもない」
「……? なに?」
「いいのっ。なんでもないっ」
「いいならいいんだけどさ……上がる?」
「…うん」

互いに互いの変化に気がつきながら、自身の変化に気づかずに、自身の中で異なる角度から歪んだ形に納得してしまいました。
もし気がついたとしても、それがどのような“形”をもたらすのか、二人には解らないことだったのですから。

「たかちゃん、あのね……」
「んん?」

孝之の部屋に通され、ベッドの上で脚を投げ出すように座り込んだ梨沙子は、改めて切り出すように口を開きました。
学習机の椅子に、逆向きに座り、背もたれに手を乗せて体重を預けていた孝之は相槌を打つように声を漏らしました。

272 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:41

「えっとぉ……」
「なに、どうしたの?」

何か考えながら話し、言葉を探している様子の梨沙子に、小さく笑いながら孝之が問い返しました。
笑われたことに対して、少しばかり口をとがらせはしましたが、それでも気を取り直してさらに言葉を探している様子の梨沙子。

「あ、ぇっとねー、えーが……」
「えーが? 映画?」
「うん」
「行くの?」
「うんっ」
「お母さんと?」
「そうだけどぉ……」
「もしかして?」

273 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:41

思いついたように自分を指さす孝之に、さも嬉しそうにぶんぶんと力一杯に頷く梨沙子。
それを微笑ましく見ながら、孝之が言葉を続けました。

「別にいいけど、いつ?」
「あしたからなの」
「ふ〜ん……」
「いっしょにきてくれる?」
「いいよ」
「あー……えへへ、ありがと♪」

そうしてしばらく話した後、笑顔で帰っていった梨沙子を見送ってから、孝之はあることに気がつきました。

「あっ、なんの映画か聞かなかった……」

口に出して呟いてから、軽く笑って思うのでした。
きっと夏休みによくあるような、子供向けのアニメとか何かだろうと。
もし自分の好みではなかったにしても、それを観て梨沙子が喜ぶのならそれはそれでいいな、と。

274 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:42

 8

視界に映る光景から目を逸らさずにいながら、意識はまったく別の所にある。
そんなアンバランスな自分と、なんともいえない居心地の悪さに戸惑う自分。
そんな自分に困惑しながらも、目の前で一生懸命な梨沙子に同調するような気持ちも感じている。
自分の心の歯車に、小さなズレが生じているのを解っていながら、それを表現させられる程に子供ではなく、やりすごせる程に大人でもない孝之。

有り体にいえば、孝之は迷っていたのです。
梨沙子に対する自分のポジション、立ち位置、距離感に。
お互いの……というよりも、梨沙子の立つ位置が変わったと認識したことによって、自分はどうしたらいいのか。
今までの距離を保つ為にいるべきなのか、相応の距離で接するべきなのか。
ブラウン管越しに梨沙子を見ては一方に傾き、隣に座る梨沙子を見ては一方に傾く。
不安定な天秤にのせられた気持ちの持っていきように迷っていたのです。

275 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:42

「孝之くん?」
「え? あ、はい」

心ここにあらずだった孝之にかけられた声。
隣の席に座っていた梨沙子の母は、柔和な笑顔で孝之を見ていました。

「退屈じゃない? ごめんなさいね、梨沙子が我が侭言ったみたいで……」
「そんなこと…ないです」
「本当に? だったらいいんだけど……」
「あ…ほら、なかなかこんなトコ、見られないですから」
「……ありがとうね」
「え?」
「うちの子、孝之くんに迷惑ばかりかけてるでしょ」
「いえ、そんな……全然」
「ありがとうございます」

そう改めて言われた孝之は妙に気恥ずかしくなり、あらぬ方へ視線を逸らしたのでした。

276 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:43
そんな孝之を微笑ましく見つめて、そして一度梨沙子の様子を横目で見て、梨沙子の母は言葉を続けました。

「どういうつもりでこんなことしようとしたのか、私には分からないんだけど……。
 私達よりよっぽど孝之くんと一緒がいいみたいでね。これからもあの子のこと、よろしくね」
「っ――。そんなこと…ないです。……あっ、トイレ行ってきます」

一瞬、言葉に詰まるのを、顔を逸らして隠してそう言いながら、逃げるように孝之が立ち上がりました。
梨沙子の母は、そんな孝之に我が子を見るような優しげな視線を送りながら、小さくため息をついたのでした。


孝之は出入り口付近で手が空いてそうなスタッフに声をかけると、足早にその空間から離れました。
人気のない通路を教えられたとおりに歩き、用を足して手を洗っているとき、ふと鏡に映った自分の表情に気がついたのです。

「……なんて顔してんだろう」

梨沙子の母と交わした会話で、一時、現実の中に過去がクロスオーバーしたものの、それは“ひととき”のことでしかなく。
いざ一人でこの場にいると、改めて“現実”というものを実感させられている。
それが今、表情に表れてしまっていると、そう感じた孝之でした。
それはきっと、今の梨沙子との距離のように、日頃の孝之とはかけ離れた生気の無い表情でした。

277 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:43

「こんなんじゃダメだなあ……」

そう呟くと、なにかを振り払うように流れ出る水に手を差し出し、バシャバシャと顔を洗うのでした。
ひとしきりそうした孝之は「ふう」と一息つき、濡れた顔をぬぐってその場を後にしました。
そうして元いた空間に静かに入り込んだとき、ふいに横合いから腕を掴まれました。

「ちょっと待って。関係者以外は立ち入り禁止だよ」
「あ、僕は――」
「ん? あぁ、誰かの連れかい?」
「っ――、りさ…菅谷梨沙子の……」
「お兄さん?」
「いえ、家族じゃ……」
「家族、じゃないの? じゃあなんでいるの? ……まぁ、いいか。あまり動き回らないようにね」
「……はい」

それだけ話して去っていった男の背を見るでもなしに見ながら、まるで言われたとおりにしているかのように孝之はその場に立ちつくしていました。
ただ、音が聞こえてきそうなほど強く握った拳だけが小さく震えていました。
その感情を、なんと表現するのか孝之は知りません。
ですが、自分がどうしたいのか、それだけは解っていた……解ってしまったのです。

278 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:44

孝之は歩き出しました。
その、まだ幼いといえる顔立ちには不釣り合いなほどに感情を失った表情のままで。
撮影は休憩に入ったらしく、元いたスチールの椅子には、梨沙子の母と、そして梨沙子本人が座って談笑しています。

「あの……」
「たかちゃん♪ ねぇねぇ、みててくれた?」

梨沙子の母に話しかけようとした孝之の腕に、飛びつくようにすがりつきながら梨沙子が言いました。
孝之は、ほんの僅かな瞬間、苦しげな顔になりますが、無理矢理に笑顔を作って梨沙子に応対しました。

「あ、あぁ。うん、見てたよ」
「がんばったの。すっごいがんばったよ?」
「……うん。そうだね。ビックリした」
「孝之くん?」

訝しげに梨沙子の母が問い掛けました。

279 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:45
その声に救われたように、微かな安堵をにじませて孝之が口を開きました。

「ごめんね。……あの、ちょっと用事を思い出して、先に帰ります」
「ええっ!」
「孝之くん……大丈夫? 顔色が――」
「平気です。ごめんなさい」
「たかちゃん……?」
「ごめんね、りさちゃん」
「たかちゃん…へーき?」
「うん。ごめんね、りさちゃん」

280 :『小さな恋の……』:2006/10/15(日) 19:46

精一杯の努力で、梨沙子にだけは悟られないように、複雑な感情を押し殺して。
心から自分の情けなさを詫びる孝之は、痛々しくもみえそうな笑顔で話します。

「んーん……」
「ホントにごめんなさい。じゃあ……さよなら」

ハの字にした眉で心配そうな梨沙子に、届くか届かないか……掠れそうな声で告げた言葉でした。
自分でも意識しないところでの言葉でした。

早足にならないように、意識して歩みを抑えて辿り着いた重々しい扉。
強く押し開いた扉の向こうで、甲高い声が聞こえました。
するりと身体を滑らせた孝之は、扉の前で座り込むように転んでいる女の子の姿に気がつきました。

「ごめんなさい」

そう口にして、座り込んでいる女の子に手を差し伸べ立ち上がらせた孝之。
それを驚いた顔のままで見返す女の子に、もう一度「ごめんね」と謝罪して、孝之は歩きだしました。

まるで逃げるように。

281 :名無し娘。:2006/10/15(日) 19:49

りしゃこデビュー!
したところで、今日はこの辺で。
企画のせいなのか、年齢のせいなのか、読んでる人がいない感じ(^^;;;
長編は終わってみなきゃ解らないからな、とか思われてると考えておこうw

ではでは。

282 :名無し娘。:2006/10/16(月) 15:55
やっぱ匿名さんなの?

283 :名無し娘。:2006/10/16(月) 20:19

>>282
読んでる人いたw って、あまりに直球な。
えっと、ねえ。そうですけど、まあ、このままで行きましょう。

さ、続き続き(^^;;;

284 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:19

 9

「もうへーき?」

数分に及んだ沈黙を破ったのは、不安や恐れ、そして微かな望みで彩られた梨沙子の言葉でした。
組んだ腕に頭をのせて、昼前だというのにベッドに横たわった孝之。
少し離れた大きなクッションに座り込んで、話すきっかけを探していた梨沙子。
きっかけを与えたのは、うるさく鳴いていた蝉が窓に跳ねた音でした。

「……うん」

孝之の言葉は短く、梨沙子はまた接ぐべき言葉を探します。

「えっと……」
「…………」
「…………」
「……それだけ?」

天井を見つめたままで孝之が言いました。

285 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:20

「そおだけど……」

『でも、そうじゃないもん』と、続けたかった梨沙子でしたが、孝之から感じる異質なものに、その言葉を口にすることが出来ませんでした。
梨沙子には解っていませんでしたが、それはほんの僅かな拒絶。
その“拒絶”は梨沙子の前に見えない硬質な壁を作っていました。
二人は互いに意識していません。
拒絶していることも、されていることも。
壁を作っていることも、作られていることも。
だから二人は、考え、迷い、決められずにいるのでした。

「りさちゃん」
「はあい?」

二度目の沈黙――より重い沈黙――を破ったのは、大きな惑いと小さな苛立ちに染まった孝之の言葉でした。

286 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:20

逃げるように目線を逸らしていた姿勢のままで、迷った末に言葉を洩らします。

「ごめんね」
「……なあ――」
「もう少し寝たいんだ」
「――っ」

返事すら遮られて届いた言葉は、いつもの孝之からは考えられないような言葉でした。
泣きたくなるような気持ちになった梨沙子は、その理由を体調が悪いからだと自分に納得させるのでした。
それは無意識下での自衛行為。
自身にとって最優先されるといっても過言ではない相手から、自身が拒絶されるという信じたくない事態に対しての精神的防衛でした。

「…………」
「……あのね」
「…………」
「あの……じゃあね」

気がつかないうちに“壁”に手をかけた梨沙子は、言葉という形を作りきることが出来ず、力尽きて滑り落ちるように“壁”から手を離してしまいました。
弱々しく現実化された言葉は逃避でしかなく、今の梨沙子では越えられないと、無形の理解が成された瞬間。
最後まで目を合わせることなく、梨沙子は立ち上がり、部屋を出ようとし。
ドアを閉める瞬間、なにか言葉をかけようとしかけた梨沙子は、躊躇し、そして……ドアを閉めたのでした。

287 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:21

その夜のことでした。
食事を終え、部屋に戻ろうとした孝之は、父親に呼び止められ食卓に戻りました。

「あのな孝之」
「うん?」

父は何故だかすまなさそうに、いつになく言葉を選んでいるようでした。

「今の学校はどうだ?」
「どう…って、別に。普通だけど」
「お、おう。そうか?」
「うん……?」
「あのな、実は……すまんが転勤が決まってな」
「え?」
「しばらく九州に行かなきゃならないんだ」
「きゅうしゅう……」
「ああ、単身赴任も考えたんだがな。だけど……」

288 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:21

父親の言葉を耳にしながら、孝之は呆然としたまま、ただ一つのことを考えていました。
この家を離れる。
それは自分にとって庇護すべき対象から離れるということを意味していました。

 りさちゃん……

「……孝之?」
「……いつ?」
「え? ああ、孝之の学校のこともあるからな。この夏休みが終わる前にはと考えているんだ」

 あと一週間……二週間くらいしか

「孝之……すまんが解ってもらえんか」
「……とつ」
「うん?」
「一つだけ、お願いがあるんだけど……」
「なんだ? 言ってみろ」
「りさちゃんには言わないで」
「うん? ああ、解った」

それで話は終わり、孝之は自室に戻りました。
力なくベッドに倒れ込み、ただひたすらに考えるのでした。

289 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:21

 10

夏休みだというのに、いえ、だからこそなのか“仕事”で留守がちな梨沙子。
その梨沙子に、幾度か一緒についてきてほしいと孝之は声をかけられていました。
ですがあれ以来、どうしても一緒にとは思えずにいた孝之だったのです。
気持ちの整理がついていないということも勿論でしたが、引っ越しの為の荷造りにも追われていたからでした。
正確には、そう理由をつけて梨沙子と顔を合わせることから逃げていたのかもしれません。
自分で告げる、そう言いはしたものの、それをどう、どのように切り出せばいいのかも解らずにいて。
自分が梨沙子になにを話したいのかも解らないでいる孝之でした。

一日は流れるように過ぎ、幼い二人に残された時間は、あっという間に失われていきました。
そして終わりがすぐそこまできているある日。
片づいていく荷物のように、自分の心にも整理をつけたと思った孝之は、とうとう意を決したのでした。

梨沙子の家の玄関に立ち、チャイムを鳴らしてしばし待っています。

290 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:22

カチャっと鳴るドアの向こうに梨沙子の母の柔和な笑顔が見えました。

「あら……」

梨沙子の母の温かい笑顔の中に、寂しさが混じるのを感じた孝之は、それを悲しく思いながら、少しだけ嬉しいとも思いました。
そして嬉しいと感じてしまった自分を嫌悪して、小さく首を振り口を開くのでした。

「梨沙子、呼んできましょうか」
「あ、いえっ、あの……梨沙子ちゃんに言って欲しいんです」
「……なんて?」
「公園で待ってるって」
「……それだけでいいの?」
「……はい」
「解ったわ。梨沙子のこと……、ううん。孝之くん、ありがとうね」

全て解っているかのように、悲しげに微笑んでいるその姿に、なにも言えず、深々とお辞儀をして孝之はその場を離れました。

291 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:22

真夏の陽差しが降り注ぐ公園の中、僅かに木々がかかり日陰になっているブランコに、浅く腰を下ろして孝之は待っていました。
十分、二十分と時間は過ぎ、もしかして来てはくれないのかなと孝之が考え出した頃。
陽炎にかすむ公園の入り口から、真っ白い人影が近づいてきます。
地を蹴るように立ち上がり、近づいてくる人影に目を凝らしていると、それは真白な薄手のワンピースに身を包み、それに負けないくらいに透き通るような肌の梨沙子でした。
とてとてと歩いてくる梨沙子から、いつもの元気さは見られず、心なしか表情にも陰があるように感じた孝之は自分から口を開きました。

「りさちゃん……」
「……おはなしってなあに?」
「あっ、うん……座って」
「……うん」

292 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:22

二人で並んでブランコに座り、梨沙子は下を向いたままで。
孝之はそんな梨沙子に目を遣りながら、言葉を探すように話し出しました。

「なんか元気ない?」
「そんなことないもん」
「そう? そっか」
「うん」

沈黙。
それは話の取っかかりとしてはあまりに不十分な会話。
お互いに、表現しきれない感情に振り回されたままの、ぎこちないやりとりでした。

「あのさ……みんな優しくしてくれる?」
「……?」

孝之の言葉に顔を上げた梨沙子は、アヒルのような口のまま、表情自体は疑問符そのものの沈黙を浮かべていました。

293 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:23

言葉が足りなかったと悟った孝之は、少し考えて言葉を継ぎます。

「ほら……事務所? の人達とか、一緒の子達とか、さ」
「あー……うん。みんなやさしー。たまにおこられるけど」

幾分和らいだ表情で、照れたように話す梨沙子と、聞かされたその内容に孝之は安心したように頬を緩ませました。
すると梨沙子はニッコリと笑顔になり、さっきよりも一つ弾んだ声で言葉を続けます。

「たかちゃん、わらったぁ」
「え?」
「あのねー、なんか……んーっと。……えへへ♪」

うまく言葉を見つけられない自分に、話す代わりに照れ笑いの梨沙子。
けれど、梨沙子の話したかったことは孝之にも伝わっていたのです。
あの日以来、ろくに笑顔も見せずにいた自分と、そんな自分の態度に傷つき塞いでいた梨沙子。

294 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:23

「ごめんね」

だから孝之は謝るのでした。
近頃の自分と、これから話さなければならない言葉の分まで。

「ん〜ん。りーね、わらってるたかちゃんのほーがいいの」

一点の曇りも感じさせない無邪気さで言う梨沙子に、孝之はもう一度、心の中で、そして改めて口に出して謝るのでした。

「りさちゃん……ごめん」
「……んー?」

繰り返される謝罪の言葉に梨沙子は困ったように首をかしげます。

295 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:24

そんな梨沙子から目を逸らさないように努めて、孝之は話し出しました。

「うちね……また引っ越さなきゃいけないんだ」
「……?」
「わかるかな……九州に行かなきゃならないんだって」
「…………」
「お父さんの仕事なんだって」
「たかちゃんもいっちゃうの?」
「……うん。ボクだけ残るなんて許してもらえないし、お母さんも行かないわけにはいかないんだって」
「…………」

孝之の言葉を理解した梨沙子は真白な顔を蒼白くして、呆然と足下を見つめていました。

296 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:24

「りさちゃん……?」
「……いっちゃうんだ?」
「仕方ないんだ」
「――いいもんっ」

不意に叫んだ梨沙子が立ち上がりました。
同じように立ち上がった孝之を、その小さな両手で突き飛ばして走っていきました。
追いかけたかった孝之でしたが、突き飛ばされ座り込んだ膝がいうことをききません。
その瞬間に見せられた、孝之が初めて見る梨沙子のあんな表情に。
ぼろぼろと涙をこぼし、少しの怒りすら入り交じった大きな悲しみに包まれた表情。
力なく座り込んだ孝之は、ただ届かない呟きをもらすのでした。

「ごめんね……」

297 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:25

 11

それは夏も盛り。
暑い日が続いていた所へ、程良い潤いをもたらす雨降りな一日のことでした。
夜半から降り続いている雨に、夏の陽差しも隠れ、ただいるだけで汗がふきだすような、日々の暑さを忘れられる、そんな一日の始まりだったのです。

あの日、走り去っていった梨沙子を、追うこともできず別れてしまったあの日。
あれから二日がすぎた今日、いよいよ引っ越しの当日になっても、いまだ顔をあわすこともできないでいる二人。

298 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:25

もしも二人の感情を一望できるとしたら。
それはきっと、とても簡単なことだったのかもしれません。
孝之はただ、梨沙子を守りたかっただけで。
梨沙子はただ、孝之が笑う、その側にいたかっただけで。
それは子供じみた自己満足ともとれる思いなのかもしれません。
けれど、子供だからこそ持ちうる、とても純粋で、真っ直ぐな気持ちだったのです。

しとしとと降る雨の中、必要に迫られる分だけはと、運び出される荷物を横目で見ながら、孝之は隣家の様子を気にしていました。
短い期間でこそありましたが、孝之と梨沙子、子供同士が仲良くなったおかげで、相応に交流を持った両家の親達は、菅谷家でその時を待っています。
開け放たれたカーテンのガラス越しに、時折こちらへ視線を向けてくる親達には気づかないフリで、孝之は静かな時間の中、濁流のように渦を巻く思考に身を任せていました。

299 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:25

屋外からでは気がつかないほど、薄く隙間を空けたカーテンの向こうを、とがらせた唇でじっと見下ろしている梨沙子。
そのブラウンの瞳は雨に濡れるガラス越しに、悄然と座り込んでいる孝之の姿を見つめていました。

梨沙子にだって、それが仕方のないことだとは解っていたのです。

あの後、泣いて家に帰った梨沙子は、事情を問いただす母親に、しゃくり上げながらもおぼつかない説明をし。
そして母親から聞かされていたのです。
父親の仕事の都合で引っ越すけれど、またあの家に戻ってくるんだよ、と。
ただ、それがどれほどの期間になるのか、それは行ってみなければ解らない。
だから父親だけではなく、母親も、孝之もついて行くことになったんだと。
そうは聞かされたけれど、梨沙子には、その何年かの間、孝之が側にいないという事実を受け入れることができずにいたのです。
孝之が側にいる、それが当たり前すぎて……。

300 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:26

そうしていると、階下から梨沙子を呼ぶ声が聞こえます。

「りーちゃん、下りてらっしゃい。孝之くん、行っちゃうのよっ」

二度、そう繰り返された声に、梨沙子は怒ったように言うのです。

「いかないっ! いっちゃえばいいんだもんっ!!」

僅かな沈黙の後、聞こえてくる足音にふり返る梨沙子はドアを開けた母親と目が合いました。
歯を食いしばって唇をとがらせる梨沙子に、優しく笑いかけながら梨沙子の母は口を開きました。

「孝之くん、行っちゃうわよ?」
「っ……」

301 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:26

「喧嘩したままでいいの?」
「…………」
「いつかまた会う時に、笑って会えなくなっちゃうわよ?」
「――っ!」
「いいの?」
「……しらないもん」

その言葉を聞いた梨沙子の母は、深い息をついて部屋を出て行きました。

302 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:27

やがて、微かに聞こえる雨音に、車のエンジン音が混ざりだして。
それが隣家の車だと気づいた梨沙子は、先ほどまでしていたように、そっと表の様子を窺いました。
一台の車を囲むようにして、孝之の両親と梨沙子の両親。
そして孝之の姿がありました。
なごやかに、それでいてどこか寂しげに話をしている両親達から、少し離れた位置に立つ孝之は、肩を落として梨沙子の家を見やっている。
そんな風に梨沙子の目に映っていました。

303 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:27

 ズキッ

304 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:27

どこか、身体の奥で、締め付けるような、切り裂くような痛みを覚えました。
その時、不意に視線を上げた孝之と目があったと、梨沙子は思ったのです。
それは間違いではなく、カーテン越しに梨沙子の姿を浮かべた孝之は、小さく手を振り、「さよなら」と、そう口にしていました。
それは梨沙子の表層で、本心の現れを邪魔をするように残っていたしこりを瞬く間に押し流してしまうのに充分な事実でした。
食い縛った梨沙子の口元から零れる嗚咽、それは紛れもない本心の発露。
涙で滲んで見える窓に、飛びつくようにはねのけたカーテンの下で、孝之の乗った車のドアが閉められました。
その孝之に一言だけでも告げたいと窓を押し開けた時、車内の孝之がついと顔を上げたのです。

305 :『小さな恋の……』:2006/10/16(月) 20:28

孝之はなにかを訴えかけるように梨沙子を見つめていました。
開いた窓に手をかけたままの姿勢で、ぼろぼろと零れていく涙にのせて、一言。
聞こえるはずもない言葉を、梨沙子はただ一言だけを口にしたのです。

「ばいばい…」

その瞬間、ぐにゃぐにゃと霞む視界に梨沙子は見たのです。
哀しげにしていた孝之が優しく笑うのを。
動き出した車の窓越しに、「じゃあね」と、そう口にしたのを。
梨沙子は泣きながら手を振りました。
車が見えなくなるまで……
いえ、離れていく車が、その視界から消えても、手を振っていました。
いつかまた、梨沙子の側に孝之の姿が ある時を待つ為に。

306 :名無し娘。:2006/10/16(月) 20:30

はいどーも。
梨沙子、低学年時代でした。
えー、終わりませんよ。まだ。
もーしばらく続きます。

ではでは。

307 :名無し娘。:2006/10/20(金) 22:55
乙です。続きがめっちゃ気になります。

308 :名無し娘。:2006/10/21(土) 20:45

>>307
それはどうもです。
四日、五日か。ぼちぼちいきます。

309 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:45

 12

ここ数週間……いえ、正しくはを一ヶ月は数える間、梨沙子はあるものを待っていました。
学校へ行く前、帰ってきたとき。
仕事へ行く前、帰ってきたとき。
ことあるごとに真っ黒く口を開けた郵便箱をのぞき込んでは小さなため息をつき。
時にはアヒルのように口をとがらせて、その場にはいない大切な人へ抗議する。
そんな姿を呆れながらも微笑ましく見ていた母親のため息から、逃げるように梨沙子は自室へ入っていきました。
“あの日”から三年の時が流れ、その間に「一人の時間も欲しいでしょ」と、与えられた自分だけの部屋。
その部屋で、梨沙子はため息の理由に目をやるのでした。
その視線はまだ新しい机の一角。
簡単ながらも鍵のかけられる引き出しに注がれていました。
梨沙子は思い出します。
あれ以来、ともすれば沈みがちだった自分に一通の手紙が届いたあの日を。

310 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:46

それは「じゃあね」と、一言を残して孝之が去ってから、一ヶ月と少しが過ぎた頃でした。
朝、学校へ行き、終業後の数時間を忙しなくも撮影するための時間に充てられたその日。
撮影終わりに合わせ、車で迎えにきてくれた母の様子に、いつもと違う何かを感じた梨沙子は、後部座席からのぞき込むように話しかけました。

「おかーさん?」
「なあに」

訝しげにかけられた声に、ハンドルを握る母がちらりと視線を返してきます。

「なんかうれしそう」
「……いやだ、そう?」
「うん」
「う〜ん、おうちまで黙ってようと思ったんだけどね」
「?」
「そこにあるバッグ、開けてごらんなさい」
「これ?」

助手席におかれていた母のバッグ。
それへ手を伸ばし、自分の脇に置いた梨沙子は、そっとバッグの口を開き中を見てみます。

311 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:46

「なぁに?」
「薄いブルーの封筒」

言われたそれを取り上げた梨沙子へ、母が言葉を注ぎます。

「それ、よく見てごらんなさいな」

取り上げたそれをひらひらと揺らめかせながら、ふと目についたのは表に書かれた『菅谷梨沙子様』の文字。
自身の名前で、送られてきたそれは。
親しい幾人かの友人から貰った年賀状、そんな程度しか経験がなかった梨沙子にとって、それは不思議な感覚の品でした。

「えっと……」
「裏側、よっく見てみなさい」

困ったようにそれを見つめていた梨沙子に、母が出す助け船。

312 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:48

「ん……あっ――」

慌てて――それでも汚くならないように気をつけて――封を開けたその封筒には、見知った名前がしっかりと記してあったのです。
カサカサと音をさせて、言葉もなく食い入るように手紙を読んでいる梨沙子に、母のくすくすと笑う声など耳に入りませんでした。
その手紙は、梨沙子にも読めるように、必要最低限の漢字以外は平仮名で、簡単な言葉で、意外なくらいに綺麗な字で綴られていて。
そして何よりも、二枚に収められたその手紙は、他の誰でもなく梨沙子のためだけに書かれた手紙だったのです。
言葉もなく、ただ先へ先へと読み進めて。
読み終えたそれに読み飛ばしや読み間違いがないか、確かめるように二度ゆっくりと読んだ梨沙子は、思いだしたように「ほぅ」とため息を一つ。

313 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:48

「えへ……えへへ♪」

きっとそれは……そうやって手紙を書くという行為は、孝之にしても数少ないことだったに違いないと、梨沙子にすらそう感じさせる手紙でした。
二人の仲の良さからはあり得ないほどにかしこまった調子で、引っ越し先でやっと落ち着いたこと、そして自身の近況が大半を占める一枚目。
そして梨沙子の様子を心配するように問いかけられていた二枚目。
孝之がいなくなって、梨沙子の中で大きかったその存在の分、ぽっかり空いてしまった心の中へ染み渡るように入り込んできた言葉たち。
今は遠く離れてしまった場所で、それでも自分を心配してくれていると感じさせてくれる孝之の言葉たち。
日々過ぎていく時間の中で生まれる、心の隙間を埋めてくれる大切な手紙でした。

314 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:48

それ以来、毎月のように、拙いながらも一生懸命な手紙を書く梨沙子の元へ、一通また一通と増えていく手紙。
梨沙子自身は意識していないけれど、大切な宝物のように引き出しにしまわれる手紙。
返事に携帯電話のメールアドレスも書いたのに、それでも届くのは手で書き記された手紙で、それが余計に孝之の気持ちを伝えてくれるように感じていたのです。

そんな大切な、唯一の交流でもある手紙。
それが今年に入ってから何かあったかのように届かなくなっていました。
もちろん、梨沙子に心当たりなどあるはずもなく、何度も書いた手紙すら、本当に届いているのかと疑わしくなってくるほどに。
毎日毎日郵便箱を確かめては、届かない手紙に肩を落としていたのです。

315 :『小さな恋の……』:2006/10/21(土) 20:49

そうして過ごしていたある秋の朝。
半ば惰性のように郵便箱を開いた梨沙子が、一つの郵便物に気がつきました。

薄いブルーの封筒。

ドキドキしながらも、宛名を、そして差出人を確かめて、安心したように深い息をつきました。
そっと開いた封筒の中に、いつもと同じ手紙が一枚。
手紙を書けなかったことを詫びる孝之の言葉に、梨沙子は心の中で「ホントだよぅ」などと呟いては微笑むのでした。
そして短い文章の最後に、ぽつりと添えられていた言葉。
ぱちぱちとまばたきをし、そこに書いてあることを確かめるように、じっと見つめる梨沙子。

 『近いうちに、そっちへ戻ることになりそうです。』

一足早くやってきた夏の向日葵のような、晴れやかで明るい笑顔を浮かべた梨沙子は、もう一度その言葉を噛み締めるように目を通しました。
そしてバタバタと慌ただしい足音とともに家の中へ、大切な報せを手に駆け込んでいくのでした。

316 :名無し娘。:2006/10/21(土) 20:50

少ないですが、ひとまず。
調子よければまた……明日にでも。
ではでは。

317 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:10

 13

「おつかれさまでした」
「はい。お疲れ様」

そんな挨拶をして、送ってくれたマネージャーの車を降りた梨沙子は、荷物で乱雑になった鞄に差し入れた手で家の鍵を探ります。
ごそごそと手を動かしながら「ん〜」っと漏らした声に、かすかな喧騒が重なりました。
なんだろう? そう思いながら、やっと探り当てた鍵で玄関を開けると、小さな違和感を感じたのです。

「あれ? クツ……あぁっ!」

蹴り飛ばすようにして脱いだ靴もそのままに、ドタドタと上がり込んだ梨沙子はリビングのドアに手をかけ一つ息をつきました。
まるで初めて舞台に上がったときのように、緊張とも昂奮ともつかないまま高鳴る胸を押さえて。
それを意識しないように、精一杯に装った日常で「ただいまぁ」とドアを開きました。
リビングには出前でも取ったらしい、ザルに盛られた蕎麦や天ぷらがあり、引越祝いの食事を兼ねた場となっているようです。

318 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:10

「おかえり、りーちゃん。ほら、お隣の――」
「久しぶりね、梨沙子ちゃん。またよろしくね」
「大きくなったねえ。頑張ってるみたいで」

三年の時間などなかったかのように親しげに話しかけてくれるのは、しっかりと覚えていた……孝之の両親で。
二人に、ぺこりとお辞儀をした梨沙子は、そっと目を動かしていました。
その場にいて、和やかに談笑していたのは、梨沙子の両親と、そして孝之の両親……だけでした。

「孝之くんはおうちにいるんですって。お部屋を片付けてるのね」

梨沙子の様子に気がついた母が、横から笑いながらそう言いました。

「まったくねえ、少しぐらい顔出せばいいのに……孝之ったら」
「…………」
「孝之くん、お腹すかないのかしら」
「いやぁ、放っておけばいいんですよ」
「でも……あ、そうそう」

どうにも微妙なその場の空気に、梨沙子は立ち去ることも座ることもできずにいたところ、梨沙子の母が思い出したように立ち上がり、キッチンへと入っていきました。
すぐに戻ってきたその手には、小さなお盆に店屋物らしい器とペットボトルのお茶が二つずつ用意されていました。

319 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:11

「これ、まだ温かいから、持って行ってあげたらいいわね」
「ホントに、構わないのに……すいませんね」
「いいえ。久しぶりで気恥ずかしいんじゃないかしらね。さっ、行きましょ、りーちゃん」
「え? あっ、うん」

そう母に誘われて、梨沙子はその場を後にしました。
さっさと歩いていく母の背を見ながら、梨沙子は色々なことを考えてしまうのです。
孝之が戻ってきてくれたということ。
孝之が一人だけで家に残っているということ。
孝之の父のどこか複雑に見えた表情。
母がこうしてくれていること。
いずれの疑問も、今の梨沙子にとってはまだ答えを出すには難しいことでした。

320 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:11

「さ、りーちゃん。行ってらっしゃい」
「え?」

我に返ってみれば、母は開いた隣家の玄関を背で押さえ、梨沙子に入れと促していました。

「えっと……」
「お母さんは忙しいから。一人で行ってらっしゃいな」
「あ〜……うん」
「色々話してらっしゃい。あっ、ケンカなんかしちゃだめよ」

クスクスと笑いながら言う母に、からかわれてると思った梨沙子は口をとがらせて言い返すのでした。

「しないもんっ。ケンカなんか」
「はいはい」
「もうっ、おかーさんキライっ」
「じゃあね。……頑張りなさい」

口をとがらせたままの梨沙子がお盆を受け取ると、入れ替わるように立ち位置を変えた母が扉を閉める直前にぽつりと言い残していきました。

321 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:12

何を頑張るんだろう。
そう考えながら、靴を脱いで「おじゃましまぁす」と、ささやくような声で言いました。
前と同じだったら二階の奥が孝之の部屋だと、梨沙子はお盆を傾けないように注意してそろりと歩き出します。
まだまだ片付け終えていないらしい家の中を、きょろきょろと見回しながらもたどり着いた階段。
落としちゃいけないと、より慎重に、足音を忍ばせるように一歩一歩上っていくと、奥の部屋のドアに見慣れたものが掛けられていました。

 『たかゆき』

ポップな字体の平仮名で、そう飾られたプレートは昔のままで、あまりに昔のまますぎて、思わず声を殺したままで笑いだしてしまう梨沙子でした。
ひとしきり笑った梨沙子は、手にしていたお盆を脇に置き、わずかに背筋を伸ばし、その表情までもやや硬くして、そっと一つ、ドアをたたきます。
数秒、中は静まりかえっているようで、それでいて返事もありません。
さっきよりも、ほんの少し強く二回。

322 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:12

「はい?」

数秒で返ってきた声に、梨沙子は小さく身を震わせました。
それは、記憶の中のものよりも、ほんの少しだけ低くなっているように感じられたけれど、間違いなく……。
自分が間違えるはずがないと、そう自信を持って言えそうなほどに、耳に残った声でした。

「お母さん? 入っていいよ」

重ねられる声は、自分へ向けられてはいないけれど、自分に対してのもので。
ドキドキしてくる自分にも気がつかないままで、梨沙子は口を開くのでした。

「たかちゃん……」

323 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:12

 14

開かれたドアはただそれだけを意味するものではない。
ただそれが持つ別の意味まで理解はできないでいる、大人というにはほど遠い自分に確たる形を持たない歯痒さを感じる梨沙子でした。

「りさ、こ、ちゃん……」

ドアの向こうから姿を現した孝之は、三年の月日をすごしたことを感じさせました。
大きく伸びた身長も、少し低く変わった声も、子供らしさが抜けてきた表情も、その全てが会えずにいた時間を感じさせていて。
それでも……やはり梨沙子にとって、今目の前にいるのは孝之であり“たかちゃん”でした。

「たかちゃんっ」

飛び込むように埋めた距離、背中に廻した腕で強く抱きつく梨沙子は、孝之の胸に顔を押しつけて、ただ同じ言葉を繰り返すのでした。

「たかちゃん……たかちゃん、たかちゃん……」

324 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:13

次第に小さくなっていく言葉は掠れながら潤んでいき、孝之は困惑の度を深めてやり場なく腕を宙にさまよわせていました。
涙に消された梨沙子の声に、さまよわせていた手をふわりとウェーブのかかった髪に落とす孝之。
そっと……零れる涙を拭うような優しさで髪を撫でる手は、溢れてしまった梨沙子の気持ちを落ち着かせるだけの温かさを持っていました。

「……コドモじゃないんだからっ」

久しぶりに会って、その上泣いてしまったことに感じた気恥ずかしさは、思いと逆の力を梨沙子の声に含ませます。
もっとこうしていたいと心の奥で思っていながら、すがりついていた身体を離してしまう裏腹な行動。
それを理解しているのか孝之は真面目な顔で「ごめんね」とだけ、潤んだ瞳で見上げてくる梨沙子に言うのでした。

「電話も教えてくれないで、手紙だって……」
「ごめん」
「イッパイ書いたのに……」
「ごめん」
「んんーぅ」

ふてくされるようにのどを鳴らして、同じ言葉を繰り返す孝之の胸を、小さな握り拳でパシパシ叩く梨沙子。
されるがままの孝之は、困ったような顔をして、やはり「ごめん」と繰り返しました。

325 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:13

「たかちゃん、あやまってばっか」
「……そうだね」

その言葉に憮然と返した孝之に、クスクス笑い出した梨沙子。
そんな梨沙子を見て、ため息を一つもらした孝之もくすぐったそうに笑いました。
二人の抑えた笑い声だけが広がる部屋の中で、唐突に小さな異音が割り込みました。

「……ぐう?」
「…………」

言葉で発するならそんな音だと、そう口にした孝之と、その言葉に黙り込み俯いて顔を真っ赤にする梨沙子。
孝之は笑いを噛み殺しながら「なにかあるか見てくる」と言い残して部屋を出ようと動き出しました。
横をすり抜ける袖口を、きゅっと掴む梨沙子に動きを止められた孝之が「うん?」と問いかけるように梨沙子を見ます。

326 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:14

「あるの」
「あるの?」

赤面したままの顔を隠すように俯いたままで、ぼそぼそと口にした梨沙子の言葉を、意味がわからずに繰り返した孝之。
梨沙子はこくんと頷き、部屋のドアを開けると、脇に置いてあったお盆を指さしました。

「あぁ」

そこに置いてあるものを見つけた孝之は、二つある丼物にそっと手を置くと納得したように頷いてくすりと笑いました。

「まだ少しあったかいや。食べよっか」
「……うん」
「あっ、そこ座って」
「……うん」

唯一片づいているベッドを指さして、まだ恥ずかしそうにしている梨沙子を座らせました。
その前に段ボールをテーブル代わりにしてお盆を置くと、孝之はその反対側の床へ直接座り込みます。

327 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:14

「あっ……」

それを見咎めた梨沙子は小さな声を漏らし、軽く小首をかしげ、コホンと漫画のような咳払いを一つ。
それから孝之に視線を向けて、自分の隣をポンポンと叩いてみせました。

「…………」

それが何を意味しているのか理解していながらも、腰を上げようとしないでいる孝之。
座り込んだままで丼物を食べ始めようとする孝之を見て、「んんーっ」と催促をするように喉を鳴らした梨沙子は、強くパンパンと自身の横を叩きました。

328 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 01:14

「……はいはい」

諦めたように苦笑しながら立ち上がった孝之が隣に腰を下ろすのを待って、ようやく梨沙子は満足げな笑顔を浮かべました。
それは孝之の苦笑をより強い物にすると同時に、より柔らかな物にさせる笑顔でした。

「えへへ♪」

十センチほどの距離に腰を下ろした孝之に、背中を預けるように半ばまで寄りかかった梨沙子は照れくさくも嬉しそうに笑います。

「……食べよ」
「うん♪」

満足げに箸を動かす梨沙子と、梨沙子が楽でいられるように少しだけ窮屈そうに箸を動かす孝之。
それは梨沙子にとって、三年の空白を埋めてくれる、温かくて心地よい時間だったのです。

329 :名無し娘。:2006/10/22(日) 01:15

なんか寝そびれたんでもう一回(^^;)
次は……まぁ近いうちに。
ではでは。

330 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 20:58

 15

『Berryz工房 様』

そう扉の脇に書かれた部屋の中、ほぼ同世代といえる数名の娘たちと、梨沙子は何をするでもない時間を過ごしていました。
それは夕方……もうじきに夜ともいえる時間の中でのこと。

梨沙子が加わって活動しているグループ、Berryz工房のメンバーのうち、すでに迎えがきて帰った二人。
そして迎えがこられずに、マネージャー送られて帰って行った二人。
残っているのは夏焼雅と須藤茉麻の二人、そして梨沙子だけでした。
窓際の壁にもたれた雅は携帯をいじり、ドアに近いところで横になった茉麻はそこにあった雑誌をパラパラとめくっています。
梨沙子はテーブルに突っ伏すようにして手の先にある携帯の時刻表示を見ていました。

331 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 20:59

やがて梨沙子は「はふぅ」と、今日何度目かになるため息をつきました。
それを耳にした雅が、違う色のため息を一つ漏らし、パクンと携帯を折りたたんで梨沙子に話しかけました。

「今日は遅いね。お母さん」
「んー……」

話しかけられた梨沙子は、テーブルに突っ伏したままで、気のない返事を返します。

「いつもだったら一番早いのにね」
「……うん」

本腰を入れて相手をしてあげようとしているにもかかわらず、まったく乗ってこない梨沙子に、話しかけた雅の方が継ぐべき言葉を探す有様。

332 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 20:59

そんな時、ぽっかり空いた間をすくい上げるように、入り口横の壁に備え付けられた内線が鳴り響きました。
雅は救われたように、梨沙子はすることもなしに、電子音の元を見やると、立ち上がった茉麻が受話器を耳に当てているところでした。
幾度か「はい」と頷いていた茉麻が、耳から受話器を離し「りーさこ」と手招きをします。
淡いブラウンの瞳を見開き“あたし?”という意思表明をした梨沙子に、茉麻が大きく頷いてみせました。

「なぁに?」
「よくわかんない。受付? の人だって」

互いの位置を入れ替えるように、受話器を受け取り話し出す梨沙子と、元いた場所に座り込む茉麻。
茉麻は何気なく、雅は興味を押し殺しながら、二人はそれぞれの反応で梨沙子を見ていました。

「ちょっといってくるね」

話し終えたらしい梨沙子が一言。
それだけ言うなり足早に部屋を出て行ってしまいました。

「なに?」
「さあ?」

残された二人は返事をする間もなく、ただ呆れと疑念で閉ざされたドアを見つめて。
それから互いに目を移し、そんな意味もない言葉を交わしあうのでした。

333 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:00

一方の梨沙子は、そんな二人のことなど念頭にないように、早足から徐々に小走りになって一階の受付へ向かうエレベーターに飛び乗りました。
数字を減らしていくエレベーターの中で、梨沙子は聞かされた話を反芻していました。
心の中を懐疑と期待で揺らしながら、一階に着くなり飛び出した梨沙子は、危うくぶつかりそうになった人に詫びながらも辺りを見回すのでした。

お目当ての物は見つけられず、受付で自分の名前と先ほどのやりとりを口にした梨沙子に、受付の女性が一方を指し示しました。
その先へと視線を延ばしていくと、警備員の制服の向こうにある姿に気がついたのでした。
慌ててそちらへ走り出し掛けた梨沙子は、思い出したようにその足を止め、受付の女性に深々とお辞儀をします。
それを微笑ましく見つめる視線に送られて、先ほど見つけたその姿へと走り出しました。

「あのぉ……」

厳めしく立っていた警備員の背中に、そう声を掛けると、一から事情を説明する梨沙子。
真顔で頷きながら、そんな梨沙子の話を聞き終えた警備員は、納得したように深く頷くと、その横で緊張したまま座っていた姿に謝罪し離れていきました。

334 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:00

「ふう……」
「ありがとう」

一息ついた梨沙子に、少し下から掛けられる声。
その声は梨沙子の表情をとても柔らかな物に変えてくれる力を持った声でした。
はにかむように微笑んだ梨沙子は、口を開き掛けて思い出します。

「あっ、えっと……たかちゃん?」

その短い言葉で梨沙子の問いかけを理解した孝之が思い出すように口を開きました。

「あのね、りさちゃんのお母さんが急に出かけなきゃならなくなったんだって。
 ちょうどっていうのかな、ボクが帰ってきたところで出くわして……あ、座れば?」

じっと見つめたまま立っている梨沙子に、座るように促して孝之は続けました。

335 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:00

「それで、家の人、他にいなくなっちゃうし、りさちゃんは待ってるだろうしって。
 仕方なかったんだろうね。その場にいたボクに行ってくれないかって。初めて一人でタクシー乗ったよ」

話を締めくくるためにか、冗談めかして言いながら、孝之が笑いました。
なんだか訳もわからないままに、ただ嬉しくてたまらなくなった梨沙子は、その表現の仕方に困り、口をとがらせるのです。

「あっと……やっぱボクじゃマズかった?」
「ううん。そんなことないっ。すっごい嬉しい♪」

困ったようにそう聞く孝之に、ぶんぶんと音がしそうなほど強く首を振り、にっこりと微笑んで梨沙子は言いました。
それまでぎこちなかった孝之の表情が、幾分柔らかく、梨沙子にとっての孝之らしい表情へ変わったように感じたのです。
そうやって見下ろす孝之に不自然を感じた梨沙子は、やっと自分が立ったままでいることに気がつきました。
もう一度、その光景を目に焼き付けるように見て、いぶかしげな孝之の表情にクスリと笑った梨沙子は、横の空いているイスにぽすっと腰を下ろすのでした。

「……えへへ♪」
「なに?」
「なんでもなぁいー♪」

訳が解らないでいる孝之に、そう歌うように話しかける梨沙子は、ただ、なによりも満ち足りた表情を浮かべていました。

336 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:01

 16

「じゃあ帰る?」

しばらくロビーで話し込んだ、その会話の合間に孝之が言いました。

「うんっ」

仕事の後の疲れもみせず、元気に立ち上がった梨沙子が応じます。
後に続いて立ち上がった孝之が、後ろで手を組んでリズムでもとるように身体を揺らしている梨沙子を見て、ふと気がついたように口を開きました。

「りさちゃん……いつも手ぶら?」
「え? ……あっ、あはは……置いてきちゃった」

言われて初めて気がついたようで、組んでいた手をぷらぷらと振り、耳朶を赤く染めながら、ごまかすように笑う梨沙子。
そんな梨沙子に笑いかけながら「待ってるから取ってきなよ」、そう言おうと口を開きかけた孝之がピクッと身体を硬くしました。

337 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:02

「いこっ♪」

満面の笑みで、当たり前のように、孝之の手を取って梨沙子が言います。
想像していなかった事態に何も言えず、立ちつくしている孝之をグイっと引っ張るように梨沙子が歩き出します。
諦めて力を抜き、引かれるままに後をついて歩く孝之の手を強く握りながら、梨沙子は楽しげにきた道をたどって歩きました。

元いた楽屋の前までたどり着き、立ち止まって待っている意思を表す孝之を、意に介さないように手を握ったままで開けたドアをくぐる梨沙子。

「ただいま、みや」
「おかえり〜」

そんな梨沙子に引きずられるままに、室内に入っていってしまった孝之が見たのは、一人くつろいでいた少女の姿でした。
一瞬、硬直する二人と、何もおかしなことなどないと自分のカバンを探す梨沙子。
孝之は、繋がれていた手をそっとほどいて、後ずさるようにドアに背中を預け、少女を視界から外しました。

「りさこ……その人、誰?」
「んー? たかちゃん」
「たかちゃん……って?」

338 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:03

はいたままの靴を浮かせながら、見つけたカバンににじり寄り、うまくバランスを取りながらグッと手を伸ばした梨沙子。
少女は抑えた声で「りさこ、ちょっと」と呼びかけながら、伸ばされた梨沙子の細い腕を掴みました。
微妙なバランスで保たれていた梨沙子の姿勢は、ひとたまりもなく崩され「あうっ」と一声を残して少女に引き寄せられました。

抑えた声で交わされる会話を否応なく耳にした孝之は、その少女が梨沙子と同じグループの子、夏焼雅という名前だったことを思い出していました。
そんなことを考えながらも所在なく立ちつくしていた孝之は、ドアに手をかけ廊下へ出ようと動き出します。
重々しい作りだけれど、意外と軽く引けるドアを開き、後ろを気にしながらも廊下へと踏み出したときでした。
ふいに感じた柔らかい衝撃に一歩押し戻された孝之は、廊下に尻もちをついた女の子に気がついたのです。

「ごめんなさい」

そう謝罪をして差し伸べた手は、何ものに触れることもなく、ただ二つの視線を繋ぐだけでしかなくて。
交差した視線は、互いに違う色の疑念に満たされていました。

「あの……大丈夫?」

伸ばした手はそのままに、少し心配げに眉を寄せて問いかける孝之の視線の先で、少女は膝をハの字にして呆けたように座り込んでいました。

339 :『小さな恋の……』:2006/10/22(日) 21:03

「あの、ごめんなさい。ほんとに……平気ですか?」
「え? あぁ、はい」

やっと我に返ったという反応を見せた少女は、今になって気がついたように孝之の手を取りました。
グッと力を込めた右手で少女を立ち上がらせながら、「ごめんなさい」と、もう一度詫びた孝之は、少女をすり抜けるように廊下へ出ます。
孝之と入れ違いに、部屋へ入ろうとした少女は、不思議な物でも見るような表情で小さくペコリとお辞儀をしてドアを閉めました。

孝之は上着のポケットに手を差し入れ、向かいの壁に寄りかかるように背もたれて、大きく深呼吸をしました。
一連の出来事へのとまどいを全身に感じて、様々なことが散り散りに浮かんでは消える思考を繰り返すのでした。
そんな孝之がようやく落ち着いた頃、目の前のドアが開いて不安げな表情の梨沙子が姿を現します。
が、目の前の孝之に気づくなり、にっこりと笑顔になってトテトテと歩み寄り、手を差し出して梨沙子が言いました。

「帰ろっ」
「……うん」

孝之は自身の日常にない体験に困惑しながらも、そんな梨沙子に笑顔を作って見せ、先に立ってここまできた道を思いだしながら歩き出します。
数歩歩いた孝之は、ポケットに入れた手、その張った肘の辺りに微かな“重さ”を感じて僅かに視線を巡らせると、白く細い指が上着を掴んでいました。
そのほんの僅かな“重さ”を大切に感じながら、それでもまだぎこちなさを残してしまう自分を認識もしている孝之でした。

340 :名無し娘。:2006/10/22(日) 21:04

進んでるような、そうでもないような。
ぼちぼちと。
ではまた。

341 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:53

 17

それはとある日曜日のことでした。
その日の梨沙子は、学校も、仕事も休みだというのに、日常通りに……いえ、それよりも早くベッドから抜け出していました。
シパシパと眠い眼でまばたきを繰り返し、ぼんやりと、完全には起きていない頭で、顔を洗わなきゃと洗面所へ向かいます。

濡れた顔をふわふわのタオルで拭き終え、幾分はっきりとしてきた意識の中で、鏡に映る自分の顔に笑いかけてみました。
仕事の面で写真を撮られる機会が多い梨沙子は、ファインダーで覗かれているときのように幾通りもの笑顔を形作るのです。
こぼれるような笑顔、花が咲いたような笑顔、愁いを含んだ笑顔……様々な笑顔を鏡越しに見ながら考えます。

「んー……やっぱかっこよくない」

ぼやくように呟いて、早く起きた用件を片づけるため、とことこと歩いていきました。
途中で心配げに話しかけてくる母親と、ケンカでもするようなやりとりをしながらも、ようやっとそれを終えた頃には時計の針は十時を廻った頃。

「あ〜ん、時間ないよぅ……」
「はい、着替え」

342 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:55

助け船のように母親が差し出したお気に入りの洋服たちに慌ただしく着替え、鏡の前でくるりと回っては、どこかおかしなところはないか確認する梨沙子。
そんな様子を見て、おかしそうに笑いながら「大丈夫、可愛いわよ」と言う母親に、梨沙子がはにかむような笑顔を浮かべたときでした。
軽やかな電子音が鳴り渡り、来客を告げます。

「さ、行くんでしょ、りーちゃん」

母親に手を引かれ玄関へ出ると、そこには孝之の母親が笑顔で手を振っていました。

「あら、梨沙子ちゃん。また可愛いわねぇ」
「すいません、お邪魔しちゃって……よろしくお願いします」
「いいのよぉ、うちのも喜ぶでしょ」

おろしたてのスニーカーを履き、少し大きめのキャップをまぶかにかぶった梨沙子は、孝之の母に連れられて自宅を後にしました。
数十分の間、電車に揺られる往き道で、大きめのバスケットを大事そうに抱えた梨沙子はとても楽しげに脚を揺らしていました。

343 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:56

電車を降りて、数分歩くと見えてくる大きな建物は、今日、梨沙子が楽しみにしていた場所でした。
自分の通う小学校とはだいぶ違うその建物は、梨沙子の目にとても新鮮に映るのでした。

「うわぁ」

周囲を見回しながら孝之の母について歩く梨沙子は、喧騒に混ざり合うような音に気がつきました。
近づくにつれ明瞭になるそれは、磨かれたフロアを噛むゴムの音であり、リズムを刻むようなボールの音でした。
孝之の母が差し出したスリッパに履き替え、体育館に入った梨沙子は周囲の温度が上がったと思うほどの熱気を感じます。
色もデザインも違う二つのユニフォームが交差するバスケットコートの中で、梨沙子はベンチに座り声を出している孝之を見つけました。

「たかちゃん……」
「ありゃ。ま、一年だから当然かしらね」
「出ないのかなぁ」
「ん〜、ちょっといい勝負してるみたいだから、ないかもねぇ」
「……ん」
「ほら、練習試合だって聞いたけど、どっちもえらく本気みたいだしね」

その言葉に梨沙子が注意を向けると、確かにどちらの選手達も激しく当たりあっているようで。
肩や脚、肘、時に頭まで、一つのボールを奪い合うために身体を張る選手達に孝之の姿を重ねてしまう梨沙子は、思わず呟かずにいられませんでした。

「たかちゃん、出ない方がいいよぉ」
「ぷっ……ふふ、そうかもね。孝之ってば、こんな中じゃちっちゃい方みたいだしねぇ」

344 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:56

そんな時、コートから転がり出たボールに飛びついた選手が苦痛に顔をゆがめ、仲間に支えられベンチに座ります。
それと入れ替わるように一つ二つと頷いた孝之が立ち上がりながらジャージを脱いだのです。

「おや、出るみたいね。頑張んなっ!」

大きな声を上げ手を振る孝之の母に遠慮するように、その横で小さく手を振る梨沙子。
まず母親に気がついた孝之は困ったように眉をしかめ、それから隣に立つ梨沙子にも気がついたようでした。
何も言わず、ただ軽く手をあげただけの孝之でしたが、梨沙子はそんな仕草すらも一瞬たりとも目を離さないように見つめるのでした。

再開された試合の展開の速さに目を奪われていると、気がついてみれば孝之はシュートすることもなく、パスを回し、相手を抑えるだけで時間は過ぎていきます。
そんな状況に梨沙子が歯がみして見つめていると、味方の放ったシュートのこぼれ球に飛びついた選手の手から、弾かれたボールが転々と転がります。
近くにいるのは孝之と、違うユニフォームの選手が一人。
同時に動き出したように見えたけれど、一瞬早く孝之の手がボールに届き、梨沙子が「やった」と小さな声を出したそのとき。
追いかけていた相手選手が止まれずに激突し、孝之はバランスを崩してコートにたたきつけられてしまいました。
その瞬間、コートを叩く鈍い音に梨沙子の悲鳴にも近い声が重なりました。

345 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:57

 18

思わず目を覆った梨沙子の肩に、温かい手がそっと置かれ「大丈夫よ」と声が聞こえます。
覆った指の隙間からそっと伺い見ると、ふらふらと立ち上がった孝之が自身の身体を確かめるようにさすっているところでした。
かまわず再開される試合に、梨沙子は顔の前で祈るように手を組んで「もういいよぅ」と呟いていました。
別に大活躍なんてしなくたっていい。
ただ怪我なんてしないでくれればいい。
梨沙子はそれだけを祈っているのでした。
試合も終了間際、こぼれ落ちたボールに飛びついたのは孝之でした。
梨沙子は先ほどの光景が繰り返されるような気がして、目を伏せてしまいそうになった時、隣で孝之の母が「三点っ?」と口にしたのが聞こえとどまりました。

346 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:57

そのとき梨沙子は見たのです。

羽でも生えたようにふわりと跳んだ孝之の手から、柔らかに放たれたボールが美しい放物線を描くのを。
そして、そのボールがほんの微かな音とともにフープをくぐり抜けて落ちていくのを。

魔法のような数秒の後、歓声と、同数のため息に彩られて得点板が同じ数字に換えられました。
そこから十数秒、梨沙子の中で止まっていた時間を動かす笛の音が鳴り響きました。

347 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:57

放心したようでいる梨沙子に話してるのか、それとも独り言なのか、孝之の母が言いました。

「ライン、かかっちゃってたんだ……三点だったらヒーローだったのにねぇ。ったく、ツメが甘いわぁ」

梨沙子は何も言いませんでした。
ただ思うのです。
初めて会って、二ヶ月ほどが過ぎたあの日。
あれ以来、梨沙子にとって孝之は、何物にも代え難い“ヒーロー”で、そしてそれがずっと続けばいいと。
改めて口に出すのは照れくさいけれど、それは二人に共通する……二人だけの“想い”であればいいと。

348 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:58

「きてたんだ」

そんな想いに包まれた梨沙子の後ろからかけられた声。

「お疲れ。出番あってよかったねぇ」
「まぁ、ね」
「じゃ、母さんは先に帰ってるから。あんたちゃんと梨沙子ちゃん送ってくのよ」
「は? 解ってるよ」

孝之の母親が帰っていく、振り向いた梨沙子のすぐ目の前で、蒼黒いジャージに身を包んだ孝之が立っていました。
訳も解らないままに気恥ずかしくなった梨沙子は、抱えていたバスケットを孝之に押しつけるようにして距離を取るのでした。

349 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:59

「りさちゃん? これは……?」
「お弁当……」

孝之の確かめるような声に、梨沙子は目を合わさずに帽子の陰で頷きました。

「そっか。ありがとう。じゃあもっと静かな……教室で食べよっか」

もう一度頷いた梨沙子は、先を歩く孝之について歩くのでした。
心なしか梨沙子にとってはシックにすら感じる校舎の中を歩いていくと、「ここだよ」と招き入れられた教室。

「へえー……」
「うん? なんか違う? そうかなぁ……小学校ってどんなだったかな」

驚いたような声を上げた梨沙子に、孝之が椅子を引き、笑いながら言いました。

350 :『小さな恋の……』:2006/10/27(金) 23:59

「さ、座って」
「うん」

孝之の様子をうかがいながら、少し緊張した様子の梨沙子。
一つの机を挟んで向かい合うように座ったその席に、梨沙子の抱えていたバスケットケースが広げられていきます。
温かいレモンティーの入った小振りのポットや、丁寧に蓋をされた三つのパック、少し大きめに包まれたアルミホイル。

「すごいね、りさちゃん。全部一人で作ったの?」
「うん。あの……」
「開けてもいい?」
「……うん。あっ、あのね、少しカタチが崩れちゃったの」
「そう? どれ……」

言いながらも次々と開けられるパックは、小さめのハンバーグ、鶏の唐揚げ、それに卵焼き。
それとは別にサクランボと、一口サイズに飾り切られたバナナが詰められていました。
そしてホイルに包まれた中には少し小さめのおにぎりが四つ。

351 :『小さな恋の……』:2006/10/28(土) 00:00

「べつに。おかしくないよ?」
「そっかな?」

全てを開けて、当たり前のように言ってくれた孝之に、やっと少し柔らかくなった表情で梨沙子が問い返しました。

「うん、全然。食べてもいい?」
「うん。あっ――」

梨沙子は何か言い訳をするよりも早く、孝之は摘んだ唐揚げを口に放り込みます。
もぐもぐと嚥下するのを緊張した面持ちで待ちながら、梨沙子はそれを食い入るように見つめていました。

352 :『小さな恋の……』:2006/10/28(土) 00:00

「ん……」
「ど、どぉ?」
「んぐ……ん。おいしい」
「ホントっ!?」
「うん。ビックリした。普通においしいよ」
「そう? えへへ、おいしい?」
「ん……うん、これ、ハンバーグも。ちょっと形が崩れてるだけで、ちゃんと火も通ってるし、味もいいよ?」
「よかったぁ〜」

安心して力が抜けたように背もたれに寄りかかる梨沙子に、孝之が笑いながらも姿勢を改めて言いました。

「どうもありがとう。大変だったでしょ」

その言葉に、梨沙子も身体を起こして背筋を伸ばし、改まった口調で言います。

「……ちょっと。お母さんに教わりながらだけど」
「ははっ、食べよ」
「うん」

広い静かな教室で、梨沙子の手料理を笑いながら食べる。
それは梨沙子にとって、苦労をした時間などなんでもないと、そう感じさせてくれるほどに楽しく過ごせる。
幼い頃よりも減ってしまったその時間は、とても貴重で大切な時間でした。

353 :名無し娘。:2006/10/28(土) 00:02

ほい、今日はこの辺で。
二話分くらい、手を入れ終えたらまた。
ではでは。

354 :名無し娘。:2006/10/29(日) 22:43
終わりが見えないね

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0ch BBS 2006-02-27