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ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!5

1 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:16

【10秒でわかるあらすじ】

とある事情で、とある部屋に、とある奴らが来るようになった。そんな話。


【過去スレ】

ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!! (第一部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1040831621/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1040831621.html
ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!2 (第一部→第二部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1043831353/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1043831353.html
ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!3 (第二部→第三部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1053111546/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1053111546.html
●ショムニ● (第三部→第四部→第五部)
http://www.omosiro.com/~sakuraotome/live/test/read.cgi/bbs/1041444474/22-

52 :名無し娘。:2004/02/29(日) 16:01
羊でやってくれ
保全が面倒だ

53 :52:2004/02/29(日) 16:06
ごめん、狼にいるのと間違えた…_| ̄|○

54 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:16

飯田圭織。――モーニング娘。のオリジナルメンバーで現リーダーでもある。
その飯田がオーラを漂わせながら私の目の前に立っていた。

「驚きました?」
「え?いやっ、まあ驚いたというか……事務所の人間が来ると思ってたから。てっきり怖い人かと……」
「ですよね。でも私も一応、事務所の人間なんですよ」

そう言って彼女は再び笑みを浮かべた。ただ、その笑みは私を試しているような、そんな感じにも見えた。

驚きながらも彼女をリビングに通し、ソファに座るように勧めると、
その彼女の話し声が気になったのか、市井がリビングに顔を見せた。
予期せぬ再会……というやつだろう。この前のつんくの時もそうだったが。

「カオリン……?」
「かーさん!……ここにいたんだ……」

この部屋にどういうメンバーがやって来るのか、それは当然、飯田も知っているはずなのだが、
しかし、まさかその日その部屋で、それも市井と会うことになるとは予想していなかったのだろう。

「まあね。ちょっと用事があったから……」
「元気……なの?」
「どうだろ……色々あったからね……」
「そう……」
「あっ、話あって来たんだよね。私部屋戻ってるから……」
「そう……それじゃまた後でね」

二人の関係を表しているかのようなぎこちない会話の後、市井が部屋を後にした。

飯田はテレビで見るよりも断然綺麗で美人だった。それにその名前の通り、いい香りがしていた。
以前見かけた時はそんなことは全く思わなかったのだが、それもやはり、私の中で、
保田への想いが徐々に薄れていっている証拠なのだろうか。――ついついそんなことを思ってしまう。

55 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

と、そう考えた時に、私の脳裏にふと、ある疑問が浮かんでいた。

彼女は先ほど、私に対して「お久しぶり」と言った。
でも、前に会った時はただ廊下ですれ違っただけで、一言も会話を交わさなかったはずなのだ。
そんなことをわざわざ覚えているとは思えないし、それだけで私のことを認識したとも思えない。
私でさえ、ほとんど興味もなく――その時のことを詳しくは覚えていないのだから。

「あ、あのさ、さっき『久しぶり』って言ってたけど、それって……あの時の?」
「やっぱり……覚えてませんか?」
「えっ、いや、俺は覚えてるけどさ、でも話すのも今日が初めてだし……」
「ほら、やっぱり、覚えてませんよね」

そう言って彼女は再び笑みを浮かべた。そしてその笑みを見て私は確信していた。
何かは知らないが、彼女は私を試していた。その笑みは確かにそうした意味を含んでいたのだ。

「これ、見覚えありませんか?」

そう言って彼女は黒く小さなカバンの中から一枚の写真を取り出した。
真ん中に二人の人物が写っており、その背景はどこかの遊園地、多分ディズニーランドだろう。
人物のうちの右側の女の子は飯田だった。様子からして中学生くらいだろうか。
まだ美人という感じは全然せず、ただの芋臭い女の子だったが、どことなく面影は見て取れた。

しかし問題は左側だった。そこに写っている人物を見て、私はかなりの衝撃を受けていた。
それは私が、私がこの世で一番よく知っている人物だったからだ。

「これ……ディズニーランドだよな?」
「ええ。ここには思い出があるんです。○○さんも、行ったことありますよね?」
「……そう言えば……俺にもなんとなく思い出っぽいもんがあるかもな……」

それは私が高校二年生の時、修学旅行でディズニーランドに行った時のことだった。
そこで私は多分、ある女の子と出会っている。それはほとんど記憶から消えかけていたことだったが。

56 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「アトラクションの前に並んでたんです、わたし。中二の時に修学旅行で行ったんですけど」
「……」
「そしたら突然倒れちゃって。でも貧血とかってわけじゃなくて、多分疲れてたんだと思うの」
「……」
「それで、後ろに並んでた人に助けられちゃって。おんぶして医務室まで運んでもらったんです」
「まあ、よくある話だよな……」

私がそう返すと、それに対して飯田がクスッと笑いをこぼした。
ただ、その言葉は、決して私が笑いを取ろうとしたとか、彼女を和ませようとしたというものではなかった。
私はまだ、それがそうだという確信を持てずにいただけなのだ。

「その人は高校生で、あまりパッとしないようなタイプで、どっちかっていうと暗い人だったんですけど」
「そりゃ随分な言い方だな。……まあ俺が否定するようなことじゃないんだろうけどな」

再び飯田が笑う。もういいでしょ、と言わんばかりの笑顔だ。
それはやはりそういうことなのだろうか――。
目の前には証拠の写真もあり、それはおぼろげながら私の記憶とも合致するものだった。
でも、なぜかはわからないが、私はそれを認めていいものかどうか迷っていた。

「でもね、その人、ベッドで休んでる私の横にずっといてくれて。友達はみんないなくなっちゃったのに」
「そりゃまあ、せっかくのディズニーランドだからな。ずっと面倒見てるわけにはいかないだろ」
「でもその人はずっといてくれて。ちょっとね、心強かったの。わざわざわたしのためにって」
「それは、あれだな。多分他にやることなかったんだろ。修学旅行自体あんまり楽しんでなかったとかさ」
「そうなんですか?」
「さあな。……で、そいつはどうなったんだ?その後」
「わたし、一時間くらい横になってて、それで気分が戻って友達と合流しようと思って……」
「で、一緒に探したってわけか。その暗い男と」

その『暗い』という言葉に苦笑し、一瞬躊躇しながら飯田が返事をする。

「ええ……。それで見つかったんですけど。お世話になったんで、その人の名前と住所を聞いて……」

57 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「記念に一緒に写真撮ってそれを送ったんだろ?」
「一度返事が来たんですけどね。もう一度手紙出したらそれっきりで……」
「そりゃ冷たい奴だな。それかかなりの照れ屋か、あるいは人間不信だったとか」

正直、それはほとんど覚えていないことだった。そして、かなり信じられないようなことでもあった。
あの時の子がまさか、今目の前にいるような美人に成長し、しかもそれが飯田圭織だったとは……。
なんとか記憶を蘇らせようとするも、当時の彼女の顔や名前をはっきりと思い出すことはできなかった。
ただ、その写真を見る限り、それは確かに飯田だった。そして左側にいるのは……。

「いつわかったんだ?それが……そいつが俺だって」
「すっかり忘れてたんですけどね。その人のこと。でも、ある時突然思い出しちゃって」
「ある時?廊下ですれ違った時か?」
「ううん。そのことは覚えてないんです。ごめんなさい」
「まあ、当然だろうな。俺も覚えてないし」

飯田が再び苦笑し、目の前にあったお茶請けに手を出した。
この前つんくに出したものと同じ、後藤から貰った老舗の煎餅だ。

「みんなからね。圭ちゃんの噂を聞いててね。色々」

突然飯田の口から出てきた『圭ちゃん』という言葉に、無意識的に一瞬ドキッとしてしまう。
何か悪いことをしているというわけでもないのに、なぜか後ろめたいような……。

「……どんな、噂だ?」
「えっと、ドラマが流れちゃったって話とか。それが最初で、その後は裕ちゃんたちとよく会ってるって話」
「ここのことか」
「ええ。圭ちゃんとか裕ちゃんとか、後ごっちんもだけど、今も一緒の番組出てるんですよ。その時とかに」
「ハロモニ。だろ?毎週見てるよ、ビデオ録ってさ」

それが予想外だったのか、飯田は少し困ったような表情を浮かべていた。
キモヲタと思われたのだろうか。まあ、ある意味では今の私はその範疇に含まれるのかもしれない。

58 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「それで、ごっちんと話してた時に、『もうさくさん』って名前聞いて……聞き覚えがあるなって」
「まあ確かに珍しい名前だわな。生まれてから一度も同じ名前の奴と会ったことないし」
「私もそれが気にかかって、それで実家に帰った時に、昔の手紙探してみたら……」
「名前が同じだったってわけか」
「ええ。でもその時はまだ信じられなくて……それで一度確認したいなって思ってて」
「なるほどな。それで来たってわけか」
「一目でわかりました。この人だって」
「それはあれか?俺がパッとしないタイプで暗かったからか?」

もう何度目かわからない飯田の苦笑い……。
ただ、その苦笑いは、私のその自虐的な思考がその時の人物と重なったからなのかもしれない。
あの頃は自分の性格が嫌いで、何度も性格を変えようとしていた頃だっただろうか。
その時の少女と私がどのような会話を交わしたのかは全く覚えていないが、
しかし飯田はその数時間にも満たない時間の中で触れた私の性格というものを覚えていたのかもしれない。
私と違い、飯田にとってはそれは確かに一つの思い出だったのだから……。

「でも、安心しました。○○さんなら、わたし、信用します」
「それは……あれだよな。事務所の人間としてってことだよな?」
「わたし志願したんですよ。のんちゃんたちが心配だったし、それにわたしも来たかったですし」
「ああ、辻と加護が来たがってるんだってな。昨日初めて聞いたけどさ」
「でも断られちゃって。それでつんくさんが俺が行くって言って事務所に交渉したんですけど、それも駄目で」
「つんくが?」
「でもつんくさん、勝手に来ちゃったみたいで。俺が責任取るとかって言ってたんですけどね」
「責任を?」
「ええ。でも事務所も焦ってたみたいで。その辺の理由はよくわからないんですけどね」
「俺はもっとわかんないけどな。突然辻とか加護のこと聞かされたし……何がなんだか……」
「ですよね」
「後藤はどうなんだ?後藤だってこの部屋来てるだろ?何か言われたりしてないのか?事務所に」

飯田の言葉に、私は反射的に後藤の名前を出していた。
それは多分、『ですよね』という言葉が以前後藤のマイブームだったからなのだろう。

59 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

随分長い間話した気がしたが、飯田が来てからまだ十五分くらいしか経っていなかった。
その短い時間の中で、思い出話をし、そして事務所の話をし、そしてそれをまとめ終え……。

「とにかくわたしにまかせといてください。わたしとつんくさんで、なんとかやってみます」
「ああ、頼むよ。っていうか、どうしてそんな話になったのかまだわかんないんだけどな」
「この世界って、そういうところありますからね」
「あ、一つ聞くけど、飯田さんはさ、この部屋に来たりとかは……まだだよな?」

その質問に戸惑ったのか、それとも『飯田さん』という言い方が気になったのか。
彼女は少し考えてから、また元の微笑みを浮かべて言葉を返した。

「どうでしょうね。でも、今のところそういう話はありませんから。ちょっと残念ですけどね」

残念なのかよ……と私が思ったのと同時に部屋に市井が戻ってきた。
飯田が来たのが六時半だったから、そろそろお腹が減ったということなのだろう。
そう言えば晩御飯の準備をしたままだっただろう。

「あ、飯田さんはこの後仕事とか?」
「飯田でいいですよ。普段みんなを呼んでるみたいに呼んでください」
「あ、ああ、やっぱそうだよな。それじゃさ、飯田は……ってのもなんか変だよな?」
「それじゃカオリンでいいです」
「カオリンか……それもなんか照れくさいんだけどな」

その様子を市井が不思議そうな様子で見守っていた。
彼女は私と飯田との関係については知らないのだから、それも当然なのだろう。
ただ、その表情には、飯田がこの部屋にとって敵なのか味方なのか、
それを考えあぐねているような、そんな思いも含まれているように見えた。

「まあいいや。で、仕事とかあるのか?無かったらさ、飯食ってかないか?」
「いいんですか?」
「ああ。最近ずっと市井と二人だったからさ。それにせっかく美人がやって来たわけだし」

60 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

それは市井をからかった言葉だったのだが、当の市井はそれをなぜか嬉しそうに聞いていた。
まるでそうしたやり取りを楽しんでいるような、そこに懐かしいものを感じているような……。

と、その時だった。

部屋にインターホンの音が鳴り響き、またもや私を驚かせるような事件が起こったのだ。
いや、それは飯田と出会っていたことが霞んでしまうような、そんなとてつもない迫力を持っていた。

部屋にやって来たのは石黒だった。もちろん事前に連絡は受けていない。
飯田が来ることを知ってやって来たのかとも思ったが、そうではないらしい。

彼女は飯田が部屋にいるのを見て、少し驚いていた。
でも、石黒の目当ては飯田ではなく……市井だったのだ。

「紗耶香、もう決めたの?」

石黒はそう言った。それはとても真剣な表情だった。
それに対して市井は笑顔で答えた。

「うん……」

何をどう決めたのか、私にはさっぱりわからなかった。
当然飯田も私と同じような気持ちだったことだろう。

「そう……じゃあ、東京戻ろうか……一緒に」
「え、でも……後少しだけ……」
「三日で戻ってくるって言ってたでしょ」
「そうだけど、でもまだ……」
「今が一番大事な時期なんだから……ちゃんと安静にしてないと」
「うん……わかってる……」
「もーちゃんからも言ってあげてよ。紗耶香から聞いてるんでしょ?」

61 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

聞いてる……というのは何のことなのだろうか。

市井が来たのは五日前のことだった。しかし、それから彼女から何かを聞いたということは無かった。
それともそれ以前のことなのだろうか、と思ったのも束の間だった。
私は――そして飯田もだが――石黒の口からとんでもない事実を知らされてしまったのだ。

「紗耶香ね、妊娠してるのよ」
「えっ……はあ?…………ああああああああああ???」
「……」
「やっぱり言ってなかったんだ。そんなことだろうと思ってたのよねえ」
「ごめん……言いそびれちゃって……」
「って、ちょっと待てよ。なあ、それって……冗談だろ?おい」
「ごめんね、もーちゃん……ずっと言いたかったんだけど……言えなくて」
「マジかよ!ってか誰の子だよ!あの漫才師か?それともルービックキューブの方か?」
「ちょっと違うけど後者ね。ギタリストさんの方」
「なんだよお前、あいつとは別れたんじゃなかったのか?そう言ってただろ?」
「その時はそうだったんだけど……」
「妊娠しちゃってたのよ。ほら、お腹見てわからない?ってかもーちゃんじゃ気づかないか」

そう言って石黒が私の顔を見た。いや、見たというより睨みつけたというべきだろうか。
確かに市井のお腹は少し膨らんでいるように見えた。それはかなりショックなことだったが。

話を聞く。
市井が妊娠したのはちょうど引退した頃だったらしい。
そして今年に入る前にはすでに薄々妊娠に気づいていたらしい。

市井はかなり悩んだらしい。
引退した後、市井が私を挑発したり、どこか様子がおかしかったのはそのせいだったのかもしれない。
そして、市井が妊娠を確信したのは今年の一月。
去年の年末に石黒がやって来た時に、すでに生理が来ないという相談をしていたらしいが、
それが確定したのが今年に入ってからということらしい。

62 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

相手の男とももちろん相談したらしい。それが今年の正月休み。
当然、相手も戸惑っていたらしいが、それでも相手は前向きにそれを捉えてくれたらしい。
ただ、むしろ市井の方がそれを迷っていたということで……。

それで東京で石黒に相談し、それを聞いた中澤が気分転換に旅行に誘った……と。
その前に芸人をぶっ叩きに行ったのも、もしかするとそれが関係していたのかもしれない。
――話を聞く限りでは、どうもそういう流れだったらしい。

「だったらさ、なんで教えてくれなかったんだ?それに、キャッチボールなんてやってる場合じゃ……」
「ごめんね……」
「紗耶香がね、もーちゃんには自分から話したいって、それで三日で戻るからって」
「それで来たのか……」
「でもずっと言えなくてさ、だってもーちゃんこれ以上悩ませたくなかったし……」
「俺のことはどうでもいいだろ。こんな大事なこと、なんで話してくれなかったんだよ」
「……」

そこでようやく飯田が口を開いた。私以上に戸惑っていたかもしれない。

「ね、ねえ、かーさんさ、結婚するの?」
「うん。多分そうなると思う」
「そっか。でもさ、良かったじゃん。おめでとう」
「うん!ありがとう」

その時に初めて気づいた。驚いても戸惑っても、市井が妊娠しているという事実は変わらない。
とすれば、私も飯田のように、素直にそれを祝うべきなのだと……。

「まあ……なんにせよ、良かったじゃねーか。自分の人生見つけたみたいでさ」
「うん……」
「それにごめんな。何にも知らずにさ、ほんっと俺って駄目な男だよなあ」
「えへへ。でもそこがいいんじゃん。この前気づいてくれるかなって思ってたんだけどね」
「この前って……」

63 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

その言葉を聞いて少しドキッとする。そして石黒と飯田の顔をそっと窺う。
この前というのは、多分私が彼女を抱きしめた時のことなのだろう。
その時の私は、女性の温もりを久しぶりに感じるだけで精一杯だったのだが、
そこにはその膨らみかけたお腹に気づいてほしいという思いがあったのかもしれない。

それなのに私は何も気づいてやることができなかった。
こんなに一緒に過ごしていたのに……私は、彼女たちの何を見ていたのだろうか……。

もしかすると、私はこの部屋で、自分のことしか見ていなかったのかもしれない……。
彼女たちを全て自分の生活の中だけで捉え、彼女たち自身のことなど全く見ていなかったのかもしれない。

そうだとすれば、この部屋に私がいる理由……それはもう……。

いや、それは以前からわかっていたことだった。でも、気づかない振りをしていただけだったのだ。
ただこの生活を失いたくないという理由で……。

「さ、帰るよ。もーちゃんもいいでしょ?帰るの、許してくれるよね?」
「ああ……もっと早く教えてくれても良かったんだけどな。でも、まあこれで良かったんじゃねーの?」
「ごめんね……ほんと……」
「いやいや、今大事な時だろ?東京帰ってゆっくりしろって。相手とも色々相談とかあんだろうし、な」
「うん」

話がまとまり、市井は部屋に戻って東京に帰る支度をすることになった。
もちろん全ての荷物をまとめるというわけではなく、またこの部屋に来ることにはなるのだろうが。

石黒が飯田に対し、彼女たちの部屋に行って帰り支度の手伝いをするようにと頼んだ。
それは多分、私と二人きりで話がしたいということなのだろう。飯田もそれを察してか部屋を出た。
ただ、石黒はどこか冷たい目をしていた。まるで私に全ての問題の責任があるかのように……。

「もーちゃんなら、大丈夫だって思ってたんだよ。だからここ来るの許したんだから」
「すまん……全く気づかんかった……」

64 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

「まあいいけど。ねえ、紗耶香どうだった?様子とか、見てて」
「普通だったけどな。あ、でもなんかいつもより笑顔が多かったかな、最近」
「そう……ならいいんだけど」
「しかし驚いたな。あいつ、本当に俺に何にも言わなかったかんな」
「本当は私から言うつもりだったんだけどね。紗耶香から止められたのよ。自分の口から伝えるって」
「俺にか?」
「そうよ。それなのにもーちゃん、何してたのよ。話も聞いてあげてないなんて」
「何してたって言われてもなあ。でもま、あいつらしいんじゃねーの?そういうのって」

石黒は何度も私に何かを言いたそうな表情を浮かべていた。
でも、それは私には不要だと、そんな思いを抱いているようにも見えた。

石黒と市井、そして飯田の三人が部屋を後にした。新大阪まで下の人たちに車で送ってもらうらしい。

一人残された私は、ただただそれを無言で見送るだけだった。
そして私の心には、ただただ不思議な淋しさだけが残るだけだった。

もう限界かもしれない……。
いつもそうだった。私にとってこの部屋は……。

そう、いつもそうだ。いつも私は『私にとってこの部屋は』と言うばかりだった。
私は自分自身のことしか考えていなかった。そして見ていなかった。
もちろん彼女たちのことを色々と考えることもあった。
でもそれは、私を中心とした彼女たち、私に接する彼女たちでしか無かったのだ。
私は彼女たち自身を、本当の彼女たちを、何も見ていなかったのだから……。

辻と加護がこの部屋に来たがっているという話があった。
それは昨日初めて聞き、今日飯田と話したばかりのことだ。

でも、もし彼女たちがこの部屋に来ることになったとしても、
多分、その時にはもう、この部屋には私はいない……。

65 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:19

以前から考えていたことだった。私がこの部屋を卒業するタイミング……。
その日のことで、私はそれを確信していた。それがそう遠くない日だということを……。

結局飯を食いそびれ、私は近所の居酒屋に向かった。
『座布団』――いつもの居酒屋の名だ――ではなく、初めて行く店だった。

しかし、酒を一口飲んだだけで、気分が悪くなり、吐き気を催す。
まるで胃に穴が開いたかのような、そんな感じですぐに店を出た。

三十分もしないうちに部屋に戻ったものの、頭の中はぐちゃぐちゃなままだった。
今すぐにでもこの部屋から出たいような、そんな罪悪感が頭をよぎっていた。

でも、今ここを離れるわけにはいかない。
姉さんとの約束もある。それに保田のことも、まだ何もけじめをつけていない。
それに何より、今私がいなくなれば、市井はそれに責任を感じることだろう。
だから、今はまだ、このままでいるしかないのだ。
それがどんなに辛く、自分というものを嫌いに感じる時間だとしても……。

私はただ、その決意だけを胸に秘め、またその生活を続けるしかなかったのだ。

でも、それも後少しの辛抱だった。
姉さんとの約束さえ済めば、私を拘束するものは何も無くなるのだ。

ただ一つあるとすれば、それは私の中の気持ち……。
彼女たちへの想い……そして保田への想い……。

それを断ち切ることができるかどうか、それは今の私にはまだ……。

――――――
   つづく
――――――

66 :名無し娘。:2004/03/02(火) 18:32
更新乙!市井の妊娠でどうなることかと思えば、
うまいねぇ。軽くかわしちゃった

67 :名無し娘。:2004/03/03(水) 06:55
リアルで動きがあるほどこっちの深みが出てくる感じがする
しかしうまいなぁ、まいったw

68 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

市井の妊娠が写真誌によって報じられた翌日か翌々日、その日は姉さんとの予行演習の日だった。
その間、彼女たちは誰もこの部屋へ立ち寄らなかった。皆、反応の仕方に困っていたのかもしれない。
ミュージカルで大阪に来ていた後藤も、結局この部屋へ来ることはなかった。

「よっしゃ、ほなら行くで!準備はええやろな?」

開口一番、姉さんがそう言った。部屋に上がらずに玄関に立ったままでの発言だ。

「って、どこ行くんですか?」
「まずはスーツや。スーツ買いに行ってびしっとキメるで」
「スーツなら持ってますよ」
「アホやなあ。持ってる言うてもその辺の青山とかの安もんやろ」
「まあそうですけど」
「そんなんやのうて、もっとちゃんとしたスーツや、それがスーツってもんやろ」
「はあ……」
「よっしゃ、ほな行くで!」

姉さんに腕を引っ張られながら、マンションの下に待機していたベンツの後部座席に乗り込む。
下の人たち――組員のことだ――の普通車には乗ったことがあったが、このベンツに乗るのは初めてだった。

車の中で姉さんは一言も喋らなかった。韓国の土産話も、そして市井の話も何も無く……。

しばらくして車が止まり、姉さんに連れられてある店の中へと入った。
私が聞いたことのないような店名だったが、多分かなりのブランドなのだろう。

「えーと、こんな感じがええかな?それともこっちがええか?」
「あの、これ値札ついてませんけど……」
「ああ。お金のことは気にせんでええで。全部うちにまかせてや」
「でも、困りますよ、そんなの」
「大丈夫やって。これはうちが買うんやさかい。あんたにはただ貸してあげるだけや」
「はあ……」

69 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

姉さんの見立てでスーツを購入。そしてその仕立てが出来るまで、次の場所へと向かった。
予行演習というよりもまだその下準備という感じだっただろう。

次は美容院だった。どうやら姉さんの知り合いが経営している店らしい。
男なら床屋というのが私のポリシーだったのだが、姉さんの迫力に負けてしぶしぶ店に入る。
ただ、顎鬚にあった感じで爽やかな好青年に、というのが姉さんの注文だった。

髪を切り終え、自分としてはかなり違和感のあるものだったが、姉さんはかなり上機嫌だった。

「うん。ええなあ。やっぱあんた、ちゃんとすればそこそこイケるんやんか」
「何がイケるんですか、何が」
「ははは。さてと、ほなスーツの方も終わっとるやろうし、そろそろ予行演習始めるとするで」
「はあ……」

先ほどの店に戻り、スーツを貰い受け、そして店内で着替える。
シャツもネクタイも革靴もベルトも、おまけにハンカチまでもが全部姉さんが見立てたものだった。
鏡の前にはまるで別人のような私が立っていた。別人というか、私が忘れていた自分と言うべきかもしれない。

「ほんじゃ、こっからは予行演習やからな。うちの彼氏として振るまうんやで」
「はあ」
「はあや無いやろ。ほんま、しっかりしてや」

姉さんが私の腕に寄り添いながら、その辺を適当にぶらぶらと回り、店に入ったり出たり……。

「ねえねえ、次はこの店入ろ?ね、もうさくさん?」

姉さんは完全になりきっていた。さすがは昼ドラの主演が決まっただけのことはあるだろう。
しかし、私にはそれになりきれるだけの余裕は無かった。……心の中は悩みでいっぱいだったのだから。

「もうさくさん、どうしたの?あんまり楽しくないの?」
「いや、そんなことないですよ。姉さんとデートですから、そりゃ楽しいですよ。ある意味……」

70 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

「もう、もうさくさんったら。姉さんじゃなくて裕子って呼んで!」
「はあ。じゃあ裕子さんでいいですか?一応姉さん年上ですし……」
「せやから姉さんはやめって言うてるやん。裕子でも裕子さんでもええさかいに!」

突然演技が中断し、素の姉さんに戻る。なんともよくわからない会話だ。

「じゃあ裕子さんって呼びますから。それでいいですよね?」
「それからもうさくさん、その話し方も直してくださいね?彼氏なんですから」

姉さんの話によると、夜にレストランを予約しているらしい。
それまでは私に全てを任せるということだったが、しかし特にやることも思いつかず……。

「ねえ、もうさくさん、映画でも見ませんか?」
「映画かあ。あんま好きじゃないんだよな。嫌な思い出とかありまくるし……」
「じゃあ、どこか行きましょうよ。もうさくさんの好きなところでいいから。ね?」

それにしても、こんな会話に一体何の意味があるというのだろうか。
確かにお見合いでは私は姉さんの彼氏として振る舞わなくてはいけないのだろうが、しかし、
こんな見せかけよりも、いつもの姉さんと私との関係の方がよっぽど自然で親しいように思えて……。

「姉さん、こういうの、変じゃないですか?」
「変?」
「なんか、いつもよりよそよそしいですよ。ドラマならそれでいいんでしょうけど」
「……」
「いつも通りにしませんか?呼び方だって、別に姉さん⇔あんたってカップルがいてもおかしくないですよ」
「そっか。……そうやな。その方がええか」
「そうですよ。大体なんで標準語だったんですか?滅茶苦茶違和感ありましたよ」
「ははは。そうやなあ。なんでやろ」
「それに姉さん年上なんですから、もうさくさんなんて言われても困りますよ」
「よっしゃ。ほなもうさく、どっか連れて行ってや!」
「はいはい。それじゃ適当にどっか行きますか!あくまでも適当っすけど」

71 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

結局、私が姉さんを連れて行ったのはお決まりのコースだった。
大阪城公園の梅園。去年保田と紺野と三人で来たところだ。

「こういうの、あんた好きやなあ」
「別に好きってわけじゃないんですけどね。ただ落ち着くというか」
「悩みとかあるんやろ?そうやないとこんなの見ようとは思わへんで」
「……かもしれませんね。ある意味、現実逃避なのかもしれませんね……」
「……あんたには色々迷惑かけたなあ。……ほんま、悪いと思ってるで」
「なに謝ってるんですか。こっちだっていっぱい迷惑かけてるじゃないですか」
「なあ……限界やったら……ちゃんと言うてや。うちが何とかするさかい、な」
「ええ。……わかってますよ。その時はちゃんと言いますから」
「ほうか。でもあれやなあ。梅なんて久しぶりに見たわ。あんたのおかげやな……」

そう言った姉さんの後ろに温かい陽光が射し込み、爽やかな風が吹いていた。
特に会話は無かった。ただ、二人で梅を眺めただけだった。

その日は色々なことがあった。
ベンツを運転したり、ビルの最上階の夜景の見えるレストランでフランス料理を食べたり。
それはいつもとは違う自分……でも、中身はいつもの自分だった。

ただ、それは自分の本当の姿を隠しているという点において……。

「姉さん、これ、どれ使えばいいんですか?ナイフとフォーク、内側からですかね?」
「なんや、それはボケか?それともマジか?」
「マジに決まってるじゃないですか。こんなとこ来るの初めてですもん」
「なあ……今日くらいええんちゃうか?ええ機会やと思うで……」
「何がですか?」
「あんたのことや」
「自分……ですか?」
「せや。自分を飾るの、もうやめたらどうや?いくらなんでもわざとらしいやろ」
「……」

72 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

姉さんは気づいていたのだろう。本当の私というものに……。

「飾ってるように……見えます、か?」
「全然見えへんで。せやけどそれが逆に飾ってるいうことやんか。見えへんように飾る言うか……」
「……」
「まあええわ。あんたがその気無いんやったら、うちも別に無理強いはせえへんけどな」
「すいません……」
「あんたにも色々あるんやろ。過去を捨て去ったくらいやねんから……」

姉さんは私の過去を知っていた……。姉さんたちがこの部屋に来始めた頃に、
私について色々と調べ上げたらしいので、それも当然と言えば当然なのかもしれない。

でも、それまで姉さんは一度もそのことを尋ねたりしてこなかった。
ただのうだつの上がらないボサッとした冴えないフリーターの男として接してくれていた。
だから、それだけで姉さんには感謝すべきなのかもしれない……。

食事の後、再びベンツに乗ってドライブに行くことになった。
再びと言うのは、さきほど大阪城公園に行く時にも私がそれを運転していたからだ。

姉さんが音楽が聴きたいというので、一度部屋まで戻り、数枚のCDをチョイスする。
姉さんに頼まれたのは『銀蝿』で、私が持ってきたのは二枚のCDだった。

再び車に乗り込むと、後部座席に座っていたはずの組の人の姿は消えていた。

「あれ、○○さん、帰しちゃったんですか?」
「せっかくのドライブに邪魔はいらへんやろ?デートなんやし」
「邪魔はないでしょ。それに自分運転自信無いですよ。代わりの人がいないと安心できないですし」
「大丈夫やて。もう一台で後ろ付いてくるさかい。事故っても安心やで」

安心というか、それは怖いお兄さんが出てきて恫喝する……ということなのだろう。
そういうことを聞くと、安心するどころか逆に運転に慎重になってしまうと思うのだが。

73 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

「どこ行きますか?やっぱ夜景ですよね?神戸にします?それとも生駒?」
「あんたの好きな方でいいで」
「それじゃ生駒でいいですか?そっちならそれなりに道わかりますから」
「もうさくさんにぜーんぶまかせます。ね、もうさくさん?」
「もう、かわかわないでくださいよ。裕子さんったら」

笑いながらCDをセットし、スピーカーから『銀蝿』の曲が流れ始めた。
二人には全くミスマッチの選曲だったが、姉さんはそれが気に入っているらしい。
そう言えば初めてのドライブで『銀蝿』を聴いたというような話を聞いたことがあったような気がする。
世代の差というか、まあそれは人によりけりなのだろう。

会話を交わす。正直、夜の運転というのは免許を取って六年目で始めての経験だった。
まあ車を運転すること自体、年に数回あるかないかというようなペーパーだったのだから当然だろう。

それでいきなりベンツなのだから、会話を交わす余裕などほとんど無かった。
ただ、逆に会話でもしてないと不安で仕方がないという心境でもあった。

「韓国、どうでしたか?」
「ん?ああ、それなりに楽しかったで」
「ヲタと腕組んだりしたんですよね?写真見ましたよ」
「あははは。なんやそんなの出回ってるんかいな。ほんま怖い時代やなあ」
「ええ。ネットで実況もしてたみたいですね。それは後で知ったんですけど」
「ああ。そう言えばそんなこと言うてる奴おったわ。ネットラジオで実況するとか言うてな」
「姉さんサービスし過ぎじゃないですか?ちょっと妬いちゃいましたよ」
「はははは。それほんまか?そんなん聞くとなんや逆にこっちが困るやんか」
「じゃあ困ってくださいよ。今日は一応自分が姉さんの彼氏なんすから」
「あんた、もしかしてうちに気ーあるんとちゃうんか?」
「何言ってんすか。そんなことあるわけないじゃないですか。……まあ、憧れってのは少しありますけどね」
「憧れかいな。せやけどまあ、それでも正直嬉しいわ。この年になると、な」
「その年だから憧れるんですよ。大人の女性って言うか、自分はまだ子供ですからね」
「そうか?うちもまだまだ子供やと思うで。最近つくづくそう思うねんさかい……」

74 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

大通りから少し脇道に逸れ、車は山道へと入り始めた。
姉さんが『銀蝿』のCDを取り出し、私が用意した『JOURNEY』の曲をかける。


  When the lights go down in the city
  And the sun shines on the bay
  I want to be there in my city
  Ooh, ooh

  So you think you're lonely 
  Well my friend I'm lonely too
  I want to get back to mycity by tha bay
  Ooh, ooh

  It's sad,
  oh there's been mornings out on the road without you,
  Without your chams,
  Ooh, my my my


  〜 JOURNEY 『LIGHTS』 〜


歌詞には何の意味も無い。ただ、このメロディが好きだった。
楽しい時間が終わった後に訪れる、少し淋しいながらも落ち着くような雰囲気。そして、
どこか帰る場所を求めているような、懐かしい場所に行ってみたくなるような、そんなメロディ……。
最近ではほとんど聞く機会は無くなっていたけれども、でも、私は無意識的にそのCDを選んでいた。

もしかすると、それが昼の姉さんの言葉に対する返事だったのかもしれない。
何を表しているわけでもないけれど、彼女たちとの別れ、そして自分の旅立ち“JOURNEY”……。
そんなことを表わしているような、そんな曲に私には聞こえていた。

75 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

車が右に左に向きを変え、生駒の稜線を進む。
木々の間から時より大阪の市街地の夜景が視界に映った。

「あんた、ようこんなとこ知ってたなあ。来たことあるんか?」
「まあ、こっちにも色々ありますからね。というか、まあその時は男集団で来たんですけどね」
「そりゃ淋しいなあ。あんた、ほんま女には奥手やさかいなあ」
「ただ求めてなかっただけですよ。今はまあ……確かに奥手かもしれませんけど」
「なあ、自分が一番わかってる思うけどな、あんた、いなくなるんなら……圭ちゃんのこと」
「……その話はよしましょうよ。今日は姉さんの彼氏なんすから」
「……そうやったな。わりいわりい。ほなもうさくさん、一番夜景の綺麗なところで停めてくださいね?」
「わかってますって。裕子さん」

少し進み、見晴らしのいい高台で車を停める。目の前には市街地の夜景が広がっていた。
白いネオンにオレンジのネオン、赤いネオンに青いネオン……。
それらが混ざり合って、七色に輝く雪がうっすらと積もったような、そんな感じにも見えた。

車から降り、夜景を眺める。姉さんも私の後に続く。
車の後ろには組の人の車がエンジンをつけたまま停まっていた。

「綺麗ですね……」
「ああ、ほんま綺麗やな」
「でもちょっと冷えますね。山の上ですから」
「そうやなあ。って、あかんあかん。これはあかんわ。なんで気ー効かせへんのかいなあ」

そう言って姉さんは私から離れ、後ろに停まっていた車に近付いた。そして窓越しに何かを話す。
その直後、車はバックして視界から離れ、姉さんがそれを確認して満足そうな表情で戻ってきた。

「ほんま気ー効かへん人やろ?せっかくのデートやのになあ」
「追い出しちゃったんですか?」
「ここが一番ええとこやろ。そこは二人きりにしてくれへんと。なあ?そう思うやろ?」
「ははは。○○さんには後で何かお礼しときますね。今日は一日お世話になりましたから」

76 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

「ええねん、ええねん。ああいう人は何か命令されてる方が幸せなんやさかい。なんもせえへんよりも」
「そんなもんなんですかね?」

二人きりになったせいか、妙に緊張してしまう。
姉さんはそんなことは無いと思うのだが、やがて二人の間に会話は無くなっていた。

「寒いですね。車に戻りますか」
「そうやな。山ん上やからな」

車の中に戻る。エンジンを停めたため、ルームランプも消え、車の中には音も無かった。
ただ、フロントガラス越しに夜景を眺めていた。姉さんと、そして私とで……。

「なあ、今日はあんた、うちの彼氏なんやで。わかってるやろな?」
「わかってますよ。だからここまで来たんじゃないですか」

と、姉さんが再び標準語に戻った。でもそれは冗談ではなく……。

「それじゃ、この後のこともわかってますよね?もうさくさん?」
「何がですか?」
「せっかく夜景の綺麗なところに来たんですよ?ね?」
「……それは何すか?もしかしてキスってことですか?」
「もうさくさんにお任せしまーす」
「ちょ、ちょっと、からかわないでくださいってば。困りますよ」

困る私とは裏腹に、姉さんは助手席から少しずつ運転席へと体を寄せ始めた。
そして私の腕にそっと寄り添うと、顔を私の方へと近づけ……そして目を閉じた。

「よ、よしましょうよ。ね、姉さん。予行演習なんすから。ね?ねえ?」
「今日はあんたがうちの彼氏なんやで。せやから、無理せんでもええんやで?」
「ちょ、困りますって。そんなのいけませんって」
「ええやん……もうさく……。うちら、前にもしてるやん……なあ?」

77 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

確かに、私は以前に一度だけ、姉さんとキスをしたことがあった。
いや、キスだけではなく、その時は姉さんの胸にまで手を伸ばしていただろう。
でも、今はあの時とは違う。あの時は二人とも酒に酔って理性を失っていたし、
それに私自身、あれから自分の存在や役割というものを深く考えるようになったのだから。
だから、姉さんとキスすることはできなかった。例え姉さんに大人の魅力を感じていたとしても。

もし、それをするとすれば、それは……私が全てを終えた時なのだから……。

「だ、だから困りますってば。ほんっと、勘弁してくださいって」
「……駄目……なんか?」
「駄目ですよ……自分には……好きな人がいますから……」

と、そこまで言った時だった。姉さんの表情が一変し、口元から笑いがこぼれたのだ。

「ははは。やっと白状したやん。その言葉をずっと待ってたんで!」
「……もしかして……罠にかけたんですか?」
「まああれや。あんたのな、最近の気持ちがどうなんかなって、ちょいと気になってたさかいな」

姉さんはそう言っていた。でも、その時の姉さんが本当はどう思っていたのか、それはわからない。
私に気があるというようなことは多分無いのだろうが、ただ、その日の私は姉さんの彼氏だった。
だから、もしかすると、姉さんはそれを求めていたのかもしれない……。

しかし……しかし、それから一週間が過ぎた日のこと。
その日の私は、その時の言葉とは全く違った行動に出てしまっていた。

私がどうしてそんな行動に出てしまったのかはわからない。
悔しさからだったのかもしれないし、意地だったのかもしれない。
でも、心のどこかに、姉さんを含めて、彼女たちを失いたくないという気持ちがあったことは確かだった。

その気持ちは日に日に強くなっていた。
市井の妊娠を知り、自分自身の愚かさを痛感し、そして部屋を去ることを考え始めた瞬間から……。

78 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

エンジンをかけ、来た道をゆっくりと降りていく。
CDは『銀蝿』でも『JOURNEY』でもなく、私が用意したもう一枚のCD……。

それは私が編集した、姉さんのシングル曲を順番に集めたものだった。

「なんやこれ。なんでこんなん持ってきたんや?」
「姉さんの歌好きですから。もちろん知ってますよね?」
「そりゃ何度も聞いてるけどもやなあ」
「だから生歌聴かせてもらおうかなあ、なんて。今日は自分が彼氏ですからね」
「歌うんか?うちが歌うんか?」
「ええ。いいじゃないっすか。彼氏なんすから、聴かせてあげても」
「それやったら歌うけどもやなあ、でも『カラスの女房』はパスしてええか?」
「ははは。まあいいっすよ。でも『お台場』はパスなしですよ。自分も歌いますから」

そう言って、二人で『お台場ムーンライトセレナーデ』を歌う。
ただ、姉さんは歌いながらかなり驚いていた様子だった。

「なあ、あんた、なんで完璧なん?歌詞かてそうやし、巌(げん)さんのパートかて完璧やん!」
「いつか姉さんとデュエットしようと思って、練習してたんすよ。カラオケで福田相手に歌ったりとか」
「あんた、ほんまわけわからん人やなあ。でもあれか、あんた巌さんのファンやったな」
「ははは。ファンというか、心凍らせてって感じですけどね」
「まあええわ。あんたがあまりに上手かったさかい、今日はサービスしてぎょうさん歌ったるで!」
「それじゃ『二人暮し』と『GET ALONG』リクしていいすか?」
「オッケーオッケー!全然かまへんで!」
「その代わりねんねんころりは駄目っすよ。眠っちゃうといけませんからね」

長く続く赤いテールランプに囲まれながら、姉さんの歌声だけが私の耳に響いていた……。

そして……その歌声の余韻がまだ冷めやらぬ一週間後……。
私は京都のとある高級料亭にいた。姉さんのお見合いが行われる場所……。
ただし、その時の私は予行演習など無かったかのように、その場には全く相応しくない格好をしていた。

79 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

「あ、姉さん遅くなってすいません。ちょっと道込んでたもんで」

いきなりの『姉さん』という呼びかけは私から姉さん、そしてお見合い相手への先制パンチだった。
ただ、姉さんはそのパンチよりも、私のその格好に驚いていた様子だった。

「ちょ、ちょっと、も、もうさくさん?その格好は?」
「駄目でした?なんかこんな高級そうなとこだとは知らなかったんで」

ユニクロのフリースにユニクロのジーンズ。それはまさにいつも通りの格好だったが、
ただ、さすがに姉さんもそこまで鈍感ではなかった。私の意図をすぐに察し、軌道を修正する。
予行演習が無ければ、まさかこんな展開にはなっていなかったことだろう。

「も、もうさく!こらっ!スーツ着てきてって頼んだやろ?うちの大事な席やて言うたやんか!」
「ああ、そう言えばそんなこと言ってましたっけ?でもあれっすよ。スーツ埃かぶってたから」

と、さすがにこのやり取りに面食らったのか、座っていた男性が声をかけた。

「あの……あなたは???」
「あっ、○○さん、こちら私が今お付き合いしている、○○もうさくさん」
「どうも。姉さんの彼氏っす」
「ほ、本当にこの方……ですか???」
「あれ?見えませんか?結構お似合いだって言われるんですけどね。まあ年の差はありますけど」
「はあ……」

さすがにこの態度には相手も面食らった様子だった。それはかなりの賭けではあったが。

相手は社長の御曹子で京大卒のエリート……それに勝つのは容易なことではないだろう。
いくら私がスーツを着ておしゃれをして堂々と振る舞ったとしても、それで相手が納得するとは思えなかった。
もちろん、私が過去の自分というものを全て出し切って勝負すれば、相手を超えることはできただろう。

でも、私はその武器を使うつもりは無かった。例え姉さんがそれを目当てにしていたとしても……。

80 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

ようはお見合いを破談させればいいのだ。だったら、堂々と勝負をする必要はない。
むしろ相手が真似できないようなことをすればいいのだ。
姉さんがそういう人を選んだのならば、相手にそれをどうこう言う権利はないのだから。
そして、それこそがまさに、いつもの、普段の私の姿だったのだ。

広く綺麗な和室に光沢のある黒く四角い机が置かれていた。
その床の間側に相手の男性が座り、そして向かい側に姉さんが座っていた。
相手に軽く頭を下げた後、私はその姉さんの隣にどかっと座り込んだ。

「しかし凄いっすね。さっき店の人に案内されたんすけど、なんか美食倶楽部みたいっすね」
「美食倶楽部て……もうさく、もっとマシな例えはできへんのか?」
「姉さんだってこういうとこ珍しいんじゃないですか?姉さん、場末の居酒屋が好きじゃないですか」
「も、もうさくっ!」

と、さすがに疑問を覚え始めたのか、相手の男性が声をかけた。

「あの、この方が本当に中澤さんの彼……いえ、お付き合いしている男性なんですか?」
「ええ。まあ。そういうことになっちゃうんですよねえ……」

相手の疑問を更に膨らますような姉さんの答えだったが、それも当然演技だった。

「もうさく!こらっ、あんたのせいで恥かいたやんか。なんでもっとちゃんとせえへんのや!」

姉さんが小声でそっと私に呟き、そして私の足をつねった。
もちろん相手に見られることを承知の上での演技だ。

「本当……なんですか?……姉さんって呼んでますよね?」
「まああれっすよ。普段は姉さんっすけど。そりゃまあ特別な時はあれっすよ、あれ。たははははっ」
「もうさく!もうええ加減にしてや!うち、どうしようもない女やて思われるやんか!」
「あははは。そのまんまじゃないですか」
「もうええさかい、そこでじっとしとき!これ以上恥かかさんといてや!」

81 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

私が来る前にすでに色々と話をしていたらしく、二人の会話はスムーズに進んでいた。
ただ、学歴だとか年収だとか家柄だとか、まあそういう話は聞いてて気分が悪くなってくる。
相手の言動にはそういうものを鼻に掛けるというような感じはあまり無かったが、
それでもそういうことを話すということ自体、私の嫌いな人種には違いなかった。

まあ見た感じ、それを除くと、顔もそこそこで人柄もそこそこというところだろうか。
この人と結婚すれば確かに姉さんは幸せになれるのかもしれない。
でも、姉さんがそれを望んでいない以上、私にはそれを阻止する責務があった。

姉さんへの質問が尽きたのか、相手は私に対して質問してくるようになった。

「自分っすか?そうっすね。地方の四流大学卒のフリーターっすけど」
「も、もうさく!あんた一応雑誌に文章載せてるやんか。なんでそれ言わんのや」
「仕方ないっすねえ。じゃああれです。一応文筆業ってやつです。本職はフリーターですけどね」
「もうええわ。帰ったら説教やからな!」
「たはははは」

相手の話が再び年収に触れる。
私に対して、本当に姉さんを幸せにできるのかどうか……。そういうことが言いたいのだろう。
お金では幸せは買えないというが、しかし現実面においてお金がないと辛いのは確かだ。

「まああれっすよ。一応姉さんがっぽり稼いでますからね。いいんじゃないですか?専業主夫ってやつでも」
「専業主婦?」
「あ、主な夫って書いて専業主夫ってやつですよ。まあまだ結婚とか本気で考えたりしてませんけどね」
「も、もうさく!」
「ははは。姉さんからはせがまれてるんすけどね。今はまだこんな感じでいいかなあ、なんて」
「すいません。ほんと。こんな頼りない彼氏で……でもこの人がうちの好きになった人なんです……」
「……」

相手はかなり困った顔をしていた。多分そこそこの彼氏が登場することを予想していたのだろう。
それなら勝てると。でも実際に現われたのは、勝負するにもタイプが違いすぎる男だったのだ。

82 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

会話の合間に料理が運ばれてきて、それをゆっくりと時間をかけて食す。

「なんか凄いっすねえ。なんでいっぺんに持って来ないんですかね?」
「も、もうさく!もう頼むさかい変なこと言わんといてって言うたやろ?」
「でもやっぱ美食倶楽部みたいっすよ。後でぼったくられるんじゃないですか?頑固な親父とかに」
「ぼったくるとか親父とかそんな、あんたなあ、ここどこや思うてんねん!」
「でもなんか味付けおかしくないっすか?いかにも京都って感じですよね。なんつーか……まずい?」
「まずいて、もうさくっ!ファミレスとかほか弁とは違うんやで!これが京料理言うもんやんか!」
「でもあれですよ。これ、季節外れのもの結構ありますし。この魚なんて養殖ですよ、これ」
「……そうなんか?」
「ええ。大体この吸い物、何なんすか?出汁と湯葉が喧嘩してるじゃないっすか。これじゃ台無しっすよ」

姉さんもそうだが、相手もかなり面食らっていた様子だった。
何の取り得も無いと思っていた男が、突然料理を指摘し始めたのだから。
ただ、それは決して『美味しんぼ』で覚えた知識というものではなく、私が自然と身につけたことであって……。
ある意味、それは武器を使ってしまっていたのかもしれない。

「でもまあ、白身魚は養殖の方が味が淡白で好きって人も最近は多いですからね」
「そうなんか」
「自分はほか弁の白身魚で満足っすけどね。でもここよりは旨いっすよ」

完全に相手の面子を潰したという感じだっただろう。
最初は面食らっていた相手も、徐々に眉間に皺を寄せ始めていた。

そして料理が机の上から姿を消し、再びの会話の後、相手は最後の賭けに出た。

「どうも私にはわかりません。本当にお二人はお付き合いされているんですか?」
「それ、どないな意味ですか?○○さん」
「ですから、お二人は本当にお付き合いされているんですか?演技で私を翻弄しているんじゃないですか?」
「はははは。姉さん一応女優っすからねえ。そりゃそうだ」
「一応って何やねんな!うちはちゃんとした女優やで!昼ドラかて主演するんやで!」

83 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

その会話に気を取られないように、流すように相手が言葉を発する。

「証拠を見せてもらえませんか?」
「証拠、ですか?」
「ええ。本当に付き合ってるのなら、キスくらいできますよね?」
「キスて、○○さん、何言ってるんですか!」
「お二人が本当に付き合ってるのなら、できますよね?それとも、やっぱりできませんか?」

まるで逆切れのような強い口調だった。さすがに笑ってばかりはいられなかったかもしれない。

「あれっすよ。人前でキスとか、そんなはしたないことできませんよ。そんな趣味ありませんしね」
「わかりました。じゃあ私は部屋を出てますから。その間にキスしてください」
「ちょ、ちょっと○○さん?それじゃあ本当にキスしたかどうかわからないじゃないですか」
「それくらいわかりますよ。私だってそこまで鈍感じゃありませんからね」

そして立ち上がりながら付け加える。

「その時は中澤さんのこと、諦めることにします。私の、負けですからね……」

部屋からは外の庭園が見えていた。その前には来た時に通った板張りの廊下があり、
彼はその廊下を通って私たちの視界から消えていった。

部屋に残されたのは、もちろん姉さんと私……。

「なあ、どないすんのや?キスしろやて」
「さあ、どうしますかね。別にしなくてもばれないと思いますけどね」
「そうやなあ。ほな、キスしたいうことにし……ムグッ」

その瞬間、私は姉さんの唇を塞いでいた。もちろん、その自分の唇で……。

でもそれは姉さんのためではなく……自分の……。

84 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:44

家に戻り、リビングのソファにぐったりと座り込む。

終わった。

これで全てが終わったのだ。私の役割も、そして私の存在も……。
ただ、一つだけ済ませていないことがあるとすれば、それは保田への想い……。

そのけじめをつけないことには、私はまだ……。

それがいつになるかはまだわからない。
彼女は最近はこの部屋に立ち寄ることはほとんど無くなっていた。
特に仕事があるというわけでもないのに、やはり私とのことが理由なのだろう。

でも、彼女はそのうち必ずこの部屋に来ることだろう。
そして、その時が私にとって、本当の終わりということになるのかもしれない。

だから、今はそれを待たなくてはならない。

もちろん、その間に彼女たちとの最後の思い出を作るということもあるだろう。
市井とはもう会うことは無いだろうが、他のメンバーはまだまだこの部屋に来るはずなのだから。

そう言えば紺野とも秋以来一度も会っていなかっただろう。
事務所の問題というのもあるのだろうが、やはり最後に一度会っておくべきだろう。
紺野はこの部屋の住人ではなくても、私の友達なのだから……。

それは消化試合に過ぎないのかもしれない。でも、それでも私にとってはそれが最後の時間だった。
彼女たちと過ごし、そして彼女たちと別れるために必要な……時間……。

――――――
   つづく
――――――

85 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:00

目を覚ますと、いつもとは違う部屋にいた。そして何より頭が痛い。
久しぶりに感じるこの感覚、それはもちろんアルコールのせいだった。

「お、もうさく、起きたか……」
「あ、ああ……そっか、昨日飲んで騒いだんだったか……」
「ちゃんと覚えてるか?」
「……店で飲んで、それでこの部屋に来たってとこは覚えてるけど、その後は……」
「やっぱりかいな。まあ、あんだけ飲めば当然やな」
「もしかしてなんかやらかした、とか?」
「いや、特にないで。ただな、なんや色々変なこと口走っとったわ」

ちょっとまずい展開になりそうな予感がしていた。
昨日は知り合い四人で酒を飲んで騒ぐということになっていたのだが、
記憶を失っている間に、私がもし彼女たちのことを話していたとしたら……。

「た、例えばどんな?」
「そうやなあ。最初は笑うたで。俺、好きな人がいるんだとかなんとか、な。真面目な顔して」
「それはなんとなく覚えてるような……」
「でもなんや、事情があって告白でけへんとかなんとか言うとったわ。これも真面目な顔して」
「ほ、他には?」
「そうやなあ。どうして好きになっちまったんだ、みたいなこと言うとったかな?」
「……」
「まあおもろかったし、別にええんちゃうか?結局“安田”って子のことは教えてくれへんかったしな」
「……!」
「その子なんやろ?もうさくが好き言うんは」
「名前……出したのか?」
「ああ。なんや“安田”に俺は釣り合わないとか、俺が告白しても迷惑なだけとか、色々言うとったで」
「それ、だけ?」
「まあそんなもんやったかな。でもあれやで、うちらかてもういい年やさかい、そろそろ相手見つけんとな」

結局、私が口走ったのは彼女の名前だけだったらしい。それは少し安心できることではあったが……。

86 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:00

部屋に戻り、ソファにもたれながら水を飲む。それでも気分の悪さは変わらなかった。
台所に行き、棚から青汁の粉末――保田が舞台のためにずっと愛飲していたものだ――を取り出す。
それを水に溶かし、そして飲み込む。以前に酔い覚ましに効くというのを聞いたことがあったのだが、
当然すぐには効果は表れなかった。ただ痛む頭のまま、色々なことを考えていた。しかし……。

自分でもよくわからなかった。自分がどうすればいいのか……。
自分の気持ちはもう十分過ぎるほどわかっている。そして、それを伝えるべきだということも。

でも、部屋を去る前にそんなことをして、本当に意味があるのだろうか、とも思う。
これまで彼女を待たせた責任として、最後にそれを告げるべきだと、そういう気持ちももちろんあるし、
それが一番大きなウェイトを占めているのも確かだ。でも、その後の彼女の気持ちはどうなのかとも思う。

しかし、何も言わないまま立ち去るのは、何より自分自身に対して納得がいかないし、
それに彼女だって、それまで待っていた時間は何だったのかということになるだろう。
むしろ彼女にとっては、私が気持ちを伝え、そしていなくなった方が、そのままいなくなるよりも、
気持ちを切り替えることができてすっきりするのではないかと、勝手ながらそう思うのだ。

もちろん、それは彼女自身にしかわからないことだし、それにどちらにせよ、
その選択が彼女を傷つけることになることに変わりはないのだろうが……。

唯一救われるとすれば、それは彼女が私を振るということなのだろうが、
でも、それはそれで私にとっては辛いものであるし、それに、
それで私がいなくなれば、彼女は更に責任を感じてしまうことだろう……。

そもそも私が彼女を好きになったこと自体がいけないことだったのかもしれない。
いつか離れなくてはならないことは最初からわかっていたことだったのだから。
でも、私はずるずるとその環境に甘んじていた。その選択が辛くなるまでに……。
そして、いっそのこと、今すぐにでも消えてしまいたいと思うほどに……。

福田から電話があった。数日後にこちらに来るということと一週間と数日滞在するということ、
そしてその間に後藤が来るらしく、一緒に渓流釣りに行こうという話になっているということ。

87 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:01

どうやら福田はいつの間にか後藤と仲良しになっていたらしく、
東京でもたまに会ったりして遊んでいるということだった。まあ、特にありえないことではないだろう。

でも驚いたのは、福田が後藤のことを『真希ちゃん』と“ちゃん付け”で呼んでいたことだった。
対等な関係を構築したいから名前で呼び合うと言っていた福田だったが、
その形式的な約束事が、決して対等でも、そして親しくもないということにようやく気づいたのだろう。
頑固で自分の意見を決して変えない福田だったが、この部屋に来て少しは変わったのかもしれない。

「でもどうして釣りなんだ?お前釣りなんか興味なかっただろ?」
「真希ちゃんの話を聞いてて興味を持ったんですよ。いけませんか?」

後藤とは三度ほど釣りをしたことがあった。一、二度目は夏前だっただろうか、場所は近くの川だった。
私が知り合いに誘われて釣りに初挑戦したという話を聞いて、後藤が私もやりたいと言い出したのだ。
もっとも、後藤が釣りに興味を持ったのは、送り迎えをしてくれる下の部屋に住む○○さんが、
釣りが趣味だということをその送迎の時に何度か聞いていたからだったらしいが。

そこで○○さんと一緒に、三人で近くの川に釣りに出かけたのだ。
それが最初で、二度目もほぼ同じ頃。三度目は秋頃で、その時の場所は大阪湾だった。

そう言えば、第三部において、私が遠い将来に後藤と川で釣りをしていたのも、
そうしたことがあったせいで、私がそれを夢に見てしまったということだっただろう。

とにかく、福田と後藤との最後の思い出は、多分その渓流釣りになることだろう。
それで大体のメンバーとの思い出は終わり……ということになるかもしれない。
市井とはもう会うことも無いだろうし、彩っぺは先月来たばかりで多分しばらくは来ないだろう。
姉さんとはデートもして、お見合いもしたのでもう十分だし、あと残っているとすれば……。
それはもちろん……。

――――――
   つづく
――――――

88 :名無し娘。:2004/03/15(月) 22:13
もうすぐ終わっちゃうのか・・?いやだぁ

89 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

それから数日後、福田が姿を見せたのは、私が押し入れの整理をしている時だった。

「何してるんですか?」
「ああ、ちょっとな。たまには整理しようかな、なんてさ」
「もうさくさん、整理整頓とか好きですよね。男の人なのに」
「まあな」

確かに福田の言う通りだったが、ただ、その時はいつもとは目的が違っていた。
もちろん福田はそんなことには気づいてはいないのだろう。

「あ、なんですか?このケース?」
「あっ、勝手に触んなって!」
「……これ、笛ですか?……なんだか、かなり煤けてますけど」
「あーあ、触んなって言ったろーが……」
「もしかしてもうさくさんが吹くんですか?これ?」
「あれだあれ。昔な。ちょっとかじっててな」
「へえ、それは意外ですね。もうさくさんが笛なんて……。しかもこれ、普通の笛じゃないですよね?」
「龍笛(りゅうてき)ってやつだ……まあ知らんだろうけど」
「それって、もしかして雅楽とかで使うやつですよね?」
「よく知ってんな」
「へえ。もうさくさんにそんな雅な趣味があったなんて、全然知りませんでしたよ。人は見かけに……」
「ほら、もういいだろ?……しまうぞ。それ結構高いんだからさ……」
「えっ?もうしまっちゃうんですか?聴かせてくれないんですか?」
「もう何年も吹いてないからな……。それに人に聴かせるようなもんでもないし……」
「……そうですか。……それは残念です……」

福田はそれ以上せがんだりはしなかった。
それは多分、私のその顔色を見て、それが無駄だとわかったからなのだろう。
なんだかんだ言っても、福田と私とはもう一年の付き合いになるのだから。

ただ、その残念そうな表情は、私の中にもどこか淋しげな感情を植え付けるものでもあり……。

90 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

翌日、バイトを終えて帰宅する途中、片側一車線の道路を歩いていると、
後ろから来た一台のタクシーが私の横に止まり、そしてウイーンという音がして窓が開いた。

「おう!青年!」
「……姉さん、ですか?」
「もうさくさん!私もいますよ!」
「後藤もか……」
「おう、ちょいと待っててや!今降りるさかいな!」

そう言って姉さんと後藤がタクシーから降りてきた。

「さっきラジオ終わったとこやねん。あ、先言うとくけど、今日は圭ちゃんおらへんで」
「わかってますよ。そんな連絡聞いてませんもん」

私がそう返したものの、姉さんはそれには背を向け、タクシーの助手席の方を向いていた。
多分姉さんのマネージャーなのだろう。この前会った見習いの女性の人ではなく、その時は男性だった。

「大丈夫やて。絶対寝坊なんてせえへんさかい。ほんま大丈夫やから。ほな運転手はん、進めたってや」

半ば強引というか、しぶしぶという感じで、タクシーが再び走り出す。
助手席の男性に対して軽く会釈をすると、意外にも向こうも笑顔で会釈を返してきた。
私が問題の部屋の住人だということはタクシーを止めた時点でわかっていただろうから、
まあ事務所の人間であっても、私のことを敵視している部類の人ではないのだろう。

「ふう。やっと邪魔者がいいひんくなったわ」
「いいんですか?」
「ああ。大丈夫や。いつものことやから」
「ならいいんですけど……」
「私は明日オフだからいいけど、裕ちゃんは、ね?」
「ええんやて。どうせ名古屋のイベントとそのついでの仕事やさかい。朝出れば全然余裕やで」
「でも忙しいんじゃないんですか?昼ドラの収録とか、もう始まってるんですよね?」

91 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

「今はまだゆったりやけどな。でもあれ、後の方になるとかなり大変らしいなあ」
「期待してますよ。最近昼ドラとか見ないですけど、学生時代は欠かさず見てましたからね」
「ほんまかいな。ああいうのは普通主婦が見るもんやろ?」
「そんなことないですよ。昼ドラのためにわざわざ三限空けたりとかしてましたし」
「勉強しないで?」
「あははは。まあ単位はちゃんと取ってたからね。それに三限ってそもそも講義とか少ないし」
「そうなんだぁ」
「そそ。まあ今思うともっと勉強しとけばよかったなあとか思うけどさ……」
「あんたそうやって後悔ばっかの人生やなあ。もっとしっかりせえへんと駄目やで」
「ですよねえ……」
「あ、違いますよ。ですよね!ってやる時はこうやって親指を立てて、外にえぐるように……」
「こうか?」
「そうそう。それで、ですよね!って」
「でもそれはいいわ。なんか恥ずかしい……」

姉さんと後藤と三人で歩く道……でもその道はもう後わずかしか残されていないのだろう。

部屋に戻ると、福田が何やら忙しそうに部屋の中を行ったり来たりしていた。

「あ、一緒だったんですか?」
「さっきばったり会ってな。てかお前何やってんだ?その手に持ってるの……」
「これですか?さっき荷物が届いたんですよ。それで準備をしてたんです」
「準備?」
「後でわかりますよ、ね?」

そう言って福田が後藤に微笑みかけると、後藤は親指を立て、外にえぐるように突き出した。
どうやら後藤もその福田の行動が何なのか、すでに知っていたらしい。

「さて、それじゃ始めるとします」

福田がそう宣言し、わけもわからず和室に招き入れられる。

92 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

こたつは綺麗にしまわれ、その机は脚を折って部屋の隅に立てかけられていた。
座布団が四枚敷いてあり、その周りには見たことのあるような道具が並んでいた。

「これ、もしかして茶道ってやつか?」
「そうです。実は最近習い始めたんですよ。それでここで練習しようと思って」
「あ、うちにある道具を送ったんです。私も昔かじってましたから」

少し照れながら後藤がそう告げる。
ということは、どうやら福田が後藤に触発されたということなのだろう。

「おっと、ちょっと待ってろ。それなら……せっかくだからさ、BGMあった方がいいだろ?」
「もしかして昨日の笛、吹いてくれるんですか?」

福田がちょっと嬉しそうに尋ねた。
ただ、いくらなんでもこの席で龍笛というのはあまりにも場違いだろう。
私が用意したのはCDラジカセと、そして和楽――琴と尺八だ――のCDだった。そしてもう一つ……。

押し入れの中から取り出してきたものを見て、福田が目を丸くした。

「な、なんでもうさくさんがそんなもの持ってるんですか?」
「まあいいじゃねーか。たまには使ってあげないともったいないしな……」
「それなら笛も吹いてくださいよ。もったいないですよ?」
「ははは……」

それは桐の箱に入った茶器だった。由緒書きもついているが、達筆すぎて字は読めない。
姉さんはもちろん、すぐにそれがかなりの値打ちモノだということに気づいた様子だったが、
ただ、それが骨董品の美術館に展示されたことがあるということまでは予想できなかっただろう。

それは私がまだ幼い頃、骨董品収集を道楽にしていた祖父にせがんで貰い受けたものだったが、
私自身、その時のことはあまり覚えていない。ただ、その黒と緑の中間くらいの釉薬の光沢に惹かれ、
それを毎日眺めてうっとりしていたことだけははっきりと覚えていた。我ながら変な子供だ。

93 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:49

四人の座る狭い和室に琴と尺八の音色が流れる。
それはそれで場違いだったか、福田と後藤はかなりご満悦な様子だった。

「そんな道具持ってるんですから、もうさくさんはもちろん作法心得てますよね?」
「ああ?俺が作法知ってるように見えるか?クルクル回して飲めばいいんだろ?」
「回すと言っても絶対に縦には回さないでくださいよ。こぼれますから……」

福田の冗談に後藤がクスッと笑う。……そして不思議な時間が流れた。

「どうでしたか?たまにはこういうのも趣があっていいですよね?」
「そうやなあ。せっかくこの部屋来るんやさかい、こういうのがあってもええわな。気分転換にもなるやろし」

姉さんがそう言い、後藤も面白かったというようなことを口にした。

福田は道具を片付け、そして後藤と二人でスーパーへ買い物に出かけた。
その間に姉さんが複雑そうな表情で私に声をかけてきた。

「なんや、あんたほんまに作法知らへんかったんやなあ。てっきりそれくらい知ってるんかと……」
「茶道は苦手なんすよ。形式ばってるというか、本来はもっと自由なものだと思うんで……」
「自由なあ……」
「ワビサビなんてものは拘束されて感じるものじゃないですからね。自然に感じるものですから」
「あんたほんま難しいことばっかり考えてるんやなあ。そりゃ人生疲れるで……」
「ですよねえ……」

一度部屋に戻った姉さんが再びリビングに姿を見せる。今度はさらに真剣な表情だった。

「なあ、あんたもう決めたんか?……いつにするんか……」
「来月、ですかね……今月一杯はバイトありますから……」

94 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:49

「そうか。ほなその前に圭ちゃんに来てもらわんとあかんな」
「……」
「まあそれはうちにまかしとき。それまでにこっち来るように仕向けるさかいな」
「でも自分のことは言わないでくださいよ?」
「了解了解、バッチグーや!」

そして翌日。――その日は約束していた渓流釣りの日だった。
後藤と福田の二人がお弁当を作り、そして下の人の車で目的地へと向かう。

「それじゃ師匠、お願いします。帰りは私が運転しますから……」

“師匠”というのはもちろん○○さんのことだ。いつもは姉さんに忠誠を尽くす組員として、
私たちにも特別な接し方をしていたのだが、釣りの時だけは別だった。
釣りの時は私と後藤――それにその日は福田もだ――は○○さんの弟子なのだ。

途中、新大阪で姉さんを降ろし、そのまま北上して山道を走る。
詳しくはわからなかったが、車は兵庫県と京都府の県境付近を目指していた。
ちょうど鳥インフルエンザが話題になっていた地域のちょっと手前ということになるだろう。

渓流釣りというのはよく知らなかったが、ちょうど3月上旬あたりから随時解禁になるらしい。
場所によっては入場料みたいなものを払うところもあるらしいが、
そういうところは大体は養殖の魚を放流するため、解禁直後はかなり釣れるらしい。
ただ、師匠はそういうのは好きではないらしく、その日目指したのは放流魚のいない自然な渓流だった。

川のせせらぎの音を聞きながら師匠からやり方を教わり、後藤がまず棹を投げる。
師匠が用意していた棹は三本。師匠と後藤が一本。そして私と福田が二人で一本だった。

しばらく成り行きを見守るも、当たりは全くこなかった。
痺れを切らしたのか、福田が川に向かって石を投げて遊び、そして師匠から怒鳴られる。
“声は出しても小石は落とすな”――それが釣りの基本であるらしい。
まあ福田の場合は小石を落としたのではなく、思い切り投げたわけだが……。

95 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

「全然釣れませんね。こんな退屈だとは思いませんでした」
「まだ始めたばっかだからな。そのうち釣れるだろ」
「本当に魚いるんですか?川の中覗いても一匹も見つかりませんよ。冬眠してるんじゃないですか?」
「やれやれ。ちっとは後藤を見習えよ。ほら、後藤なんてさっきからじっと棹見つめてるぞ」

福田と後藤は好対照な存在だった。
どちらがどうというわけではなかったが、とにかくいい意味でコントラストを描いていた。
二人がもし同時期にモーニング娘。として活躍していたらどうなっていたのだろうか、と、
ついついそんなことを考えてしまう。まあもし福田が辞めていなかったとしたら、
こうして彼女たちと釣りをすることもなく、私もモーニング娘。自体に興味を持つこともなかったのだろう。
福田が抜け、後藤が抜け、そして保田が抜けたからこそ、“今”というものがあるのだから……。

と、師匠がようやく一匹目を釣り上げる。確かヤマメだったはずだ。
体長はかなり小さかったものの、とにかく、それでその川に魚がいるということが証明されたわけだ。

「ほれ、やっぱり魚いるみたいだぞ?」
「隠れてるなんて卑怯ですよ。いるならいるで姿を見せてくれないと困ります」
「なんだそりゃ……」

午前中の釣果は師匠が二匹、後藤が一匹、そして私と福田が零匹だった。
せっかくなのでその場で焼いて食べるということで、もう一匹釣れるのを待つ間、私が火を起こして準備する。

それから二十分して、福田の棹にようやく当たりが来た。

「な、なんか引いてるんですけど!こ、これどうすればいいんですか?巻くんですか?引っ張るんですか?」

福田はかなりテンパッていた。それも師匠の声が聞こえないほどに……。
そして案の定、私が駆け寄るよりも早く、魚はどこかへと逃げてしまった。

「あーあ、逃げちゃったなあ。まあ逃げた魚はでかいって言うから、もしかしたら鯨だったんじゃねーか?」
「……」

96 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

いじける福田をよそに、師匠があっさりもう一匹を釣り上げ、めでたく昼食となった。
後藤と福田が早起きしてこしらえたお弁当はサンドイッチだった。
それに昨夜の残りのからあげなんかも入っていて、まあいかにもピクニックという感じのものだった。
もちろん四人分で、それにアンバランスながらも釣り上げた魚も加わる。

「いっただっきまーす!」

後藤と福田が声を揃えてサンドイッチをパクつき、自画自賛の言葉を連発する。

「そりゃ後藤が作ったんだから旨いに決まってるだろ。うん、旨い!」
「あのお、私も一緒に作ったんですけど。もうさくさんも見てましたよね?」
「それが不安材料なんだよなあ……どれどれ……うん、まあ足は引っ張ってないみたいだな」
「なんですかそれ!なんで素直に美味しいって言えないんですか!それも私の時だけ!」
「そりゃ決まってるだろ。後藤は料理旨いし、それになんてったってかわいいからな」
「差別です!断固抗議します!」
「なんだそりゃ、差別じゃなくて区別だろ。だって後藤がお前よりかわいいのは歴然とした事実なんだから」
「今日という今日は許しませんよ!裁判所に訴えます!」
「お前が勝てる見込みはゼロだけどな。まあ東京地裁で藤山雅行裁判長なら奇跡が起こるかもしれんが」
「誰ですか……それ?」

釣ったばかりの魚のハラワタを取りのぞき、串に刺して塩を振って焼いただけの魚を食べる。
やはりこういう場所で食べるというのは雰囲気的にもかなり格別な味だった。
後藤はこういう時は本当に幸せそうな表情を浮かべる。
それに比べて福田は、さっきから私を睨んでばかりだった。やはり少し言い過ぎたのかもしれない。

昼食を食べ終え、再び釣りに戻る。師匠はポイントを変えるとかで、かなり川下の方に移動していた。
後藤もその半分くらいの距離を移動し、午前中に師匠がいたポイントを福田が掠め取る。

「さっきは場所が悪かったんです。ここなら絶対釣れますよ」
「そんなもんか?」

福田がキッと睨む。一人だけ釣れなかったことがかなり悔しいらしい。まあ私も福田とペアなわけだが……。

97 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

釣りは福田にまかせ、後藤の場所へと移動する。

「よっ、楽しんでるか?」
「えへへ、とっても楽しいですよ。今日は福ちゃんも一緒だし」
「福ちゃんか……お互いに呼び方変えたんだな」
「そうなんですよ。福ちゃんが一番呼びやすいのでいいって。その方が自然だからって」
「あいつも丸くなったんだなあ……」
「もうさくさんも丸くならないと駄目ですよ?」
「えっ?」
「圭ちゃんのこと、よろしくお願いしますね?」
「ははは……あはははは……」

まさかこんなところで彼女の名前を聞かされるとは思ってもおらず、私はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
そこから更に下り、師匠の場所へと向かう。

「師匠、話があるんですけど……今いいですかね?あ、釣りのことじゃなくて部屋のことで……」

そう言ってからしばらく師匠と話し込む。もちろん私が部屋を離れることについてだった。
そして更に、私がいなくなった後、彼女たちの相談に乗ってあげてほしいということなど……。

師匠と二人きりでこうして話をするのは久しぶりだった。
と言うのも、実は以前、私は師匠からあることを相談されたことがあったのだ。
それはまあ、人間として自然に湧き出てくる感情に関するもので、そして部屋に関することでもあった。
はっきり言うと、師匠は後藤に恋していたのだ。もちろん、それが叶わない恋であることも、
叶えられない恋であることも知っていた。それも痛いほど……。だからこそ私に相談してきたのだ。

ただ、その時の私はその相談に応えることはできず、それは今も変わらないままだった。
それはどの恋についても言えることだろう。今の状態のままを続けた方が幸せな時もある。
逆にその状態を壊してまで自分の気持ちを伝えた方が幸せな時もある。例え玉砕するとわかっていても……。
でも一つだけ思うことがある。それは――どちらを選んだとしても、
それが悩みぬいた末の決断であれば、それがいつかきっと、いい思い出になる日が来るということ……。

98 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

もちろん、そんなことを私が年上の師匠に言うことはなかった。
でも、師匠のように男気のある人間には、私としても幸せになってほしいと、そう思うのだ。

と、遠くから悲鳴にも似たような声がマイナスイオンを伝って周囲に響き、
振り向くと福田が棹を振り回して喜んでいた。その手には魚が握られていた。

福田はかなり嬉しそうだった。いや、嬉しそうというレベルではなかった。
駆け寄った私に対し、釣れた時の状況を延々と繰り返し語るのだ。

「はいはい。それはわかったからさ。ほら、釣れたって言ってもまだ一匹だろ?後藤は二匹目釣ってたぞ」
「わかりました。真希には絶対に負けませんよ!私の方がかわいいってこと、証明してみせます!」
「なんだそりゃ……」

福田らしいというか、まあそれこそが福田なのだろう。
そんな福田の姿を見て、私の心の中もどこか晴れやかな気分になっていた。

リューーーーールーーーーー。

緑の木々と川のせせらぎの間を龍笛の音色が響いた。
三人が不思議そうな表情でこちらを振り向く。ただ、その中では福田の笑顔が確実に一番だった。

「もうさくさん!聴かせてくれるんですね!」
「ああ。一度こういうとこで吹いてみたかったからな」

リューーールルルルールルーーーーーリューーーールルルルールルーーー。

「それ、もしかして……『愛の種』ですか?」
「よくわかったな。でもなんか変だよな。やっぱこの笛の曲じゃないよな」
「そんなことないですよ。とっても素敵です!」

それからしばらくの間、その渓流には不思議なメロディが流れ続けた……。

99 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

そして翌朝。
後藤は前日の中澤同様、名古屋のイベントに出演するらしく、朝早くに部屋を出ることになった。

「それじゃ行ってきますね。ハワイのお土産、期待しててくださいね!」
「いいよいいよ。気ー使わなくてもさ。その気持ちだけで嬉しいって」
「でも、せっかくですから。ね?」
「……それじゃさ、俺宛てじゃなくてさ、この部屋へのお土産ってことでいいか?」
「わかりました。それじゃそうしますね」
「あ、でもあれだぞ。紺野みたいに変な民族のお面とか買ってくるなよ。これ不気味なんだよな……」

玄関の壁に飾られた民族のお面を見ながらそう言うと、後藤は親指を突き立て、外にえぐるように……。

正直なところ、次に後藤が来た時、この部屋に私がいるかどうかはわからなかった。
だから、私宛てのお土産を買ってこられると困るというのがあったのだ。
そしてドアが閉まり、私の視界から彼女の姿は消えていった……。

「どうかしたんですか?なんだか淋しそうですけど……」
「えっ?いやっ、別になんもないけど……」
「怪しいですね」
「ああ、あれだあれ。やっぱかわいい子がいなくなるってのは淋しいからな」
「なら私が帰る時はきっともっともっと淋しくなりますよ。保証します!」
「ああ、別の意味でなら淋しくなるかもな」
「なんですか、それ!」

それから三日後、去年の夏に続いて私たちは甲子園にいた。春の高校野球。
しかし、そこに紺野の姿は無かった。仕事が忙しく、またフットサルの試合が近いということらしい。
ただし、そこには福田と、そしてもう一人の姿があった。それは……。

――――――
   つづく
――――――

100 :名無し娘。:2004/03/27(土) 20:36
ゆったりとおしまいにちかづいているのが
たのしみやらさみしいやら。

101 :名無し娘。:2004/03/29(月) 21:57
ほんとに・・・さびしくなるなあ・・
けど楽しみ

102 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:38

「うわあ、結構広いんだあ……」

私と福田との間に守られるようにして立っていた安倍なつみがそう呟きを漏らした。

安倍は前日の夕方に突然やって来たのだが、事前には何の連絡も受けておらず、
バイト中に福田から私の携帯に電話がかかってきて初めて知ったことだった。
安倍は多分、自分がどれほど危険な存在なのかがわかっていないのだろう。
こちらで仕事があって、翌日は夜まで仕事がないということで、急遽泊まることにしたらしいのだが、
それならそれで連絡をしてほしいというのが私の正直な感想だった。

とにかく、安倍というのは物事をあまり深く考えず、成り行きで行動してしまうようなところがあるらしい。
それは福田と対照的であって、それはまあ、二人の会話にも当てはまることだった。

「当たり前です。狭かったら野球できないじゃないですか。全部ホームランじゃ試合になりませんよ」
「えへへ、そっか。そうだよね」
「それで納得すんのかよ……そういう問題じゃないと思うんだけど……」

とにかく二人は二人ともマイペースだった。ただ、そのベクトルの向きは全く異なっており、
それがまあ、二人の関係を体現するものなのだろうと、そうも感じていた。

「でも思い出すなあ、昔ね、野球場でCD売ったんだよ。福ちゃんたちと」
「手売りってやつか。俺は話でしか知らないけどさ」
「懐かしいですね。あの頃のなっちは白くてほっそりしていてかわいかったんですけどね」
「福ちゃんだってぽっちゃりしてて子供っぽくてかわいかったよ!」
「なあ……昨日から言おうと思ってたけどさ、お前らさ、実は仲悪いだろ?」

前日からの二人の関係を踏まえ、私はあえて単刀直入に尋ねてみた。
どうも当事者の二人もその関係というものを認識しているように思えたからだ。

「そんなことないよ!福ちゃんとなっちは友情宣言したことだってあるんだから」
「ええ、偽りの友情ですけどね」

103 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:38

「あ、なんかそれ面白そうだよね。ドラマとかでありそう!」
「ありそう……じゃなくてさ、お前ら完全に仲悪いだろ?てか特に福田!お前安倍のこと嫌いだろ!」
「嫌いな人にわざわざそんな皮肉言うと思いますか?見ての通り、相思相愛ラブラブですよ」
「でも偽りのラブラブなんだよね?」
「はいはい。もういいから。なんとなくお前らのこと理解できたような気がする……」

二人が以前、ライバル関係にあったということは私も知っている。
ただ、その二人の実際の関係については、私の事前の予想とはかなり違ったものだっただろう。

福田が安倍に接する時の態度は、他のメンバーの時とはかなり異なっていた。
ただし、福田のそんな態度を見るのは決して初めてのことではなかった。
なぜなら、それは福田が私と接する時の態度とかなり似通ったものだったのだ。

皮肉というか、揚げ足を取るというか、それはまあ一種攻撃的なものではあるが、
しかし福田流のコミュニケーションで言えば、それは親しみがあるからこそできるものなのだろう。
そしてまた、それは安倍の方にもそうした関係が成り立つ要因があるということでもあった。

安倍については、当然私もまだよく把握しきれてはいないし、私が把握する日は多分来ないことだろう。
ただ、昨夜からずっと二人の関係を見ていて、なんとなくわかったことがあった。

それは安倍がかなり自分中心主義で、他人から何かを言われたとしても、
それをまるで他人事のように聞き流してしまうらしいということ。いや、聞き流すと言うよりも、
自分に対する言葉だということに気づかない、あるいは受け取らないと言うべきかもしれない。
ある意味お気楽というか、脳天気というか、安倍の方も少し変わっているのは確かであって、
もしかすると福田もそんな安倍の性格を知り抜いているからこそ、そうした皮肉が言えるのかもしれない。

ただし、それは福田が私と接する時とはまた違ったものであるのは確かだろう。
私の場合は自分も皮肉を言うのが大好きということで、それは当然、福田も知っていることだ。
そんな人間は皮肉に対してどこか楽しさのようなものを感じているところがあって、
しかもそれは一方的なものではなく、むしろ受け手としても通用し、それを欲しているものなのである。
一種変人であるが、それがまあ、私と福田の関係の基盤と言えるのかもしれない。

104 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:39

「今日はダルビッシュは出ないんですか?」

昨年の夏、福田と紺野と甲子園に来た日は、ちょうど話題のダルビッシュが登板した日だった。
と言っても、事前に調べて行ったというわけではなく、たまたまその日だったというだけのことだったが、
しかし福田にとってその名前はかなり印象深いものだったらしい。

「ああ、今日は出ないな。もちろんメガネッシュもな」
「それは残念です。また見られると思ったんですけどね」

無料の外野席に入った前回とは違い、その日入ったのは三塁側の内野席だった。
屋根のついている部分とアルプススタンドのちょうど中間くらい、その中段の席だ。
なんと言っても安倍なつみが一緒なのだから、人目につくことだけは避けなければならないのだ。
外野席も確かに人はまばらではあったが、一番安全そうだったのはやはりその辺りだっただろう。

それから席に座って野球を観戦し、そして色んな話になった。
野球のルールの話やアルプススタンドの応援合戦についての感想、
それから安倍がホームランを見たいと言い出し、ラッキーゾーンについての話なんかにもなった。

「昔はさ、ラッキーゾーンってのがあってさ……」
「なんですか、それ?」
「外野のさ、フェンスの数メートル前に柵があってさ、その中に入ったらホームランだったんだけどな」
「おまけってことですか?」
「そうそう。その中でキン肉マンが試合したりとかしてさ」
「それはどういう?」
「いや、はははは、まあそれは関係ないんだけど」
「気になります。へのつっぱりはいりませんから、ちゃんと説明してください!」

多分そんな話をしている時だっただろうか。カキーンという乾いた金属音が響いたとともに、
周辺から「あっ」という驚きの声が一斉に沸き起こった。
そう、打者の打ったライナー性の打球が、こちらのスタンド目掛けて一直線に飛んできていたのだ。
それもガランとした空席にではなく、その空席の真ん中に座っていた私たちの方に向かって……。

105 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:39

安倍は動転したのか、「わわわっ」と言いながら生まれたばかりの仔鳥のように手足だけをただばたつかせ、
一方の福田は両手で頭を押さえてうずくまっていた。普段は何事にも動じず、
冷静に対処する福田だったが、そういう時には自然と本来の弱さが出てしまうらしい。

結局その打球は私たちの二列前の座席に直撃して、そして下の方へと跳ね返っていった。

「……もういいぞ……頭上げても……」
「……」
「いやああ、凄い打球だったなああ、そりゃ普通びびるよなああ、なああ福田ああ」
「……な、なんですかそれ……もしかして私への嫌味ですか?」
「ははははは。いやいや、まあ別に恥ずかしがらなくてもいいんじゃね?凄い打球だったし、なあああ」
「さ、最低です!かよわいレディをからかうなんて!」
「そうそう、確かにかよわいレディだよな、安倍は。安倍の仕種はかなりかわいかったぞ」
「えへへ。なんかびっくりしちゃって」
「だよなあ。うんうん。俺もちょっとびびったもん」
「もうさくさん、最近やたらかわいい子を優遇しますよね?この前の真希の時とか……」
「そりゃ誰だって優遇したくなるだろ。実際かわいいんだから。なんか間違ってるか?」
「間違ってます!完全に差別です!区別だなんて言い訳は今日はなしですよ!」
「はいはい。ほんじゃ差別でいいから。潔く認めてやるよ」
「なんですかそれ!それじゃ話が進まないじゃないですか!」
「いいっていいって。どうせ俺元々差別主義者だし。ははははは……」
「笑い事じゃありません!」

その日は第二試合の途中まで観戦し、そしてその場を後にした。
来る時はちょうど下の組員さん――師匠ではない人だったが――が神戸に用事があるとかで、
ついでに送ってもらったのだが、帰りは阪神電車で梅田まで引き返すことになった。
本当ならもう少し試合を観戦したかったのだが、
安倍が仕事の都合で夕方の新幹線に乗らないといけなかったのだ。

ただ、電車の時間にはまだかなりの余裕があり、梅田で少し遅めの中華の昼食を取った後は、
デパ地下を回ったり、タイガース応援グッズのコーナーに寄ったりして時間を潰すことにした。

106 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:39

デパ地下に行きたいと言い出したのは安倍と福田だった。
なるべく人込みには入らないようにしたかったのだが、二人の意見が一致したということと、
人込みの方が逆にばれにくいというようなことを説得されて、しぶしぶ承諾したのだ。

まあ、その時はその説得の通り、誰にも気づかれなかったからよかったものの、
もし気づかれていたら大変なことになっていたことだろう。
最悪な場合、私が東京湾の底に沈むということにもなりかねないのだ。

そうして時間を潰した後、私たちは三人で新大阪へと向かった。
本来ならば梅田で別れてもよかったのだが、安倍が無事に新幹線に乗れるかどうか自信が無いということで、
最後まで付き添うことにしたのだ。案の定、安倍は新大阪についても右往左往するばかりで、
新幹線のホームまで見送るどころか、さらに私が車両の座席まで教えなくてはならなかったほどだ。
安倍らしいと言うか、まあ東京まで付き添わなくて済んだだけマシだったのかもしれない。

ドアが閉まり、そして安倍を乗せた新幹線はゆっくりとホームを離れていった。
多分、それが私と安倍との最後ということになるのだろう。それはかなり短い時間ではあったが……。

「さーて、それじゃ部屋に戻るか」
「そうですね」
「ところで、お前はまだ帰らないのか?」
「なんですかそれ、帰ってほしいってことですか?」
「そんなこと言ってねーだろ。ただいつ帰るのかって、ちょっと聞いただけだ」
「そうですね。あと三、四日したら帰りますよ。バイトがありますから」
「大変だよなあ。お前もさ。学校行ってバイト行って、ほんでたまにこっちにも来て」
「別に大変ってこともないですよ。楽しんでますから」
「ならいいんだけどさ、こっち来るのめんどくさくないか?」
「私にとっても必要な部屋ですからね、それくらいは我慢しますよ。それに……」
「それに?」
「いえ、なんでもないです。忘れてください……」

その時に福田が何を言おうとしていたのか、それはすぐにわかることであって……そして私も……。

107 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:39

「今頃なっちも新幹線の中で食べてますかね?」
「だろうな」

部屋に戻ってデパ地下で買った名物のイカ焼きを食べていると、姉さんから携帯に電話がかかってきた。
福田に話を聞かれないように自分の部屋へ戻る。

「あんな、圭ちゃんのことやけど……」

姉さんの話によると、二日後にラジオの収録があって、保田がこっちに来るとのことだった。
なんでも姉さんがディレクターに頼み込んで、無理に保田を加えてもらったらしい。
そこまでしてくれなくても……と思ったものの、それも姉さんの私への最後の親切だったのだろう。
ただ、番組の改変期で人数合わせが必要だったり、いつもと違って二週分の収録ということもあって、
それですんなり受け入れられたということらしかったが。

「なんの話でした?」
「ああ、明後日保田が来るんだと。姉さんは忙しくて来ないみたいだけど」

その言葉を聞いた福田の表情は、表面上は笑顔だったものの、どこか呆気ないものに見えた。

そしてそれから丸一日が過ぎた翌日の夜。私は福田のいる――彼女たちの――部屋のドアをノックした。
福田はトレーナーと綿パン姿でベッドに腰掛け、風呂上りの濡れた髪をタオルで乾かしていた。

「あのさ……実は、相談があるんだけど……」
「どうしたんですか?そんな改まって……」
「その、なんつーか、自信が無くってさ……」
「何の自信ですか?」
「まああれなんだけど……」
「あれじゃわかりませんよ。……はっきり言ってください」

福田の語気はどこか冷たかった。
それはもしかすると、その相談の内容というものに薄々気づいていたからなのかもしれない。

108 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/10(土) 23:40

「俺さ……そろそろ、まあなんつーかぶっちゃけ告白しようかなあなんて……たはははは……」
「……」

そう言ってわざとらしい笑いを浮かべたのは、単に照れ隠しのためだったのだが、
福田はその笑いには全く反応しなかった。そしていつものようにからかってくるようなこともなかった。

「恋の相談ってことですか……」
「まあ、そういうことになるんかな……」
「悪いですけど……それならお断りします」
「んん?なんでだ?」
「そんなことも自分でどうにもできないような男なんて最低ですよ。そんな男は振られて至極当然です」
「まあ、そうかもしれないけどさ……でもさ、俺は」
「どうしても相談したいのなら他の人にしてください。真希でも、裕子でも……」
「なんでだよ……俺はさ、お前のこと信頼してるし、信用してるし……お前になら何でも話せるし……」

福田はいつのまにか完全に怒っていた。私の優柔不断にイライラしたのか、それとも
今さらそんなことを言い出したことが気に食わなかったのか。でも、多分その時の私は
その福田の怒りの理由に“はっきりと”気づいていたはずだった。それまではただ、
その部屋の人間関係を壊したくないという理由でそれを意識しないようにしていただけで……。

「信頼も信用も、そんなのどうでもいいんです!なんで私なんですか!なんで私に相談するんですか!」
「……」

なぜ私が福田にそれを相談したのか……。
それはもしかすると、こうなることを最初から予想していたからだったのかもしれない……。

福田が私のことを好きだという……そういう気持ちを知った上で……。

――――――
   つづく
――――――

109 :名無し娘。:2004/04/11(日) 01:36
いつも楽しみにしてます

110 :名無し娘。:2004/04/13(火) 00:04
また、えらいとこで切りましたな
続き早めにプリーズです

111 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:51

思えば長いようで短い時間だった。よく考えると保田が卒業してからもうすぐ一年になる。
彼女の歓迎パーティーをしたのは、確かこの部屋に引っ越して来たばかりの頃だった。
あの時の私は結局彼女とキスすることができなかった。他のメンバーに邪魔されたというか、
気を利かせて二人きりにしてくれたまでは良かったのだが、まあ今となってはそれもいい思い出だろう。

それからの私と保田は、お互いに意識し過ぎたのか、どことなくぎこちない関係になっていた。
福田と市井に嗾けられて誕生日に電話したこともあった。でも、結局気持ちを伝えることはできず……。

もしかすると、私がこの部屋を出ようと決意したのは、自分を追い込むためだったのかもしれない。
自ら背水の陣を敷くことで、無意識的に臆病さの中から強さを引き出す、そういうことだったのかもしれない。

すでに私の部屋は空っぽになっていた。
自分で決めたこととは言え、それはやはり淋しく、そして虚しく感じてしまう。
ただ、それは特別なことではなく、引越しをするたびにいつも思うことでもあった。

唯一違うとすれば、私の部屋以外は何も変わっていないということだろうか。
そう、いなくなるのは私だけなのだから……。

だから当然、彼女たちに必要なものは例え私の私物であっても全て残してある。
和室にはこたつ――こたつ布団は干してから押入れにしまってあるが――があり、
そして小型のテレビとゲームが置いてある。市井がいなくなってゲームをする人間もいないのだろうが、
まあレトロなゲームが好きな市井が再び来る時のための置き土産ということになるだろう。

ただ、市井も彩っぺも、この部屋にはしばらく来れないことだろう。二人とも出産を控えているのだから。
それまで私のいないこの部屋がうまく機能するかどうかは正直不安だった。
姉さんに保田、福田、後藤、安倍……。よく考えれば残されたのはこの五人だけだった。
これに仮に辻と加護を加えたとしても七人。ただ、七人と言えどもこっちに来る機会はそんなにはない。
最悪な場合、この部屋は自然消滅してしまうことになるかもしれない……。

それは私のせいなのだろうが、しかし、私もいつまでもこの部屋に甘えていることはできなかった。
彼女たちが経験し、克服してきたように、私にもその時が来たのだから。――“卒業”という、時が。

112 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:51

その私の“卒業”の前に、色々と書いておかなくてはならないことがあるだろう。
そのまず最初は福田とのこと――私が福田に相談を持ちかけた時のこと――になるのだが、
結局は自分の愚かしさを改めて痛感させられたというだけのことだったのかもしれない。

「ひどい……ひどいです……私……ずっと……もうさくさんのこと……」
「……」
「もうさくさん、気づいてるって……そう思ってました」
「……」
「なのに……こんな形で言いたくなかったです……」
「……」

その時の私は福田に対して何も言葉をかけてやることができず、
ただ黙ったまま部屋を出るのが精一杯だった。我ながら最低な男だ。

翌朝の福田は前夜のことがまるで無かったかのようにいつも通りの様子だった。
ただ、私にとってはそれが逆に辛く感じられるものであって……。

そして夜になり、晩御飯を済ませた後、私は部屋で一人クラシックを聴いていた。
いかにも教会で流れていそうな感じの、重厚で荘厳なバッハの曲。
私が何かに失敗し、自分というものについて考える時はこんな曲を聴くことが多かった。
重圧感に潰されそうな響きが体を包み込み、そして自分の無力さを痛感させられる。

ある意味懺悔というか、壮大な次元におけるちっぽけな自分の存在というものを認識することで、
逆に自分の存在や行動というものを自虐的に正当化しようとしていたのかもしれない。
自分を取るに足らない男だと思うことで自分を守るというのが、私の基本的な性格なのだから。

と、ドアの開く音がして、福田が顔を覗かせた。
どことなく呆れたような表情をしていたのは、その音楽の意味を知っていたからなのだろう。

「はあ……またこんな暗い曲聴いてたんですか……」
「まあな……」

113 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:51

「こんな曲ばっかり聴いてるから余計落ち込むんですよ……」
「悪かったな……」
「大体もうさくさんが落ち込んでどうするんですか。落ち込むのは私の方ですよ!」

その言葉が励ましなのか、それとも私同様自虐的なものなのかはわからなかったが、
そう言ってから福田はCDの停止ボタンを押し、そして矢継早に言葉を投げかけた。

「それにこれから告白しようって男がそんなんでどうするんですか!」
「そんなことで一々悩んでたらうまくいくものもうまくいかなくなるんじゃないんですか!」
「いつまで経ってもそんなマイナスな性格だから圭だって呆れるんですよ!」
「男だったら好きなら好き、嫌いなら嫌いって堂々と言えばいいじゃないですか!」
「圭だってもうさくさんのことが好きなんですから!ずっと待ってるんですから!」

福田は全ての鬱憤を晴らすかのように、それから延々と捲くし立て続けた。
福田にしては珍しい感情の発露というか、思ってることを全てぶちまけたというか、
ただ、それも全て計算によるものだったのかもしれない。

なぜなら、そんな福田に対して、私はいつしか笑いを浮かべてしまっていたのだから。

「そうですよ。笑顔で堂々と自信持って告白すればいいんですよ。それが私からのアドバイスです!」
「ああ……ありがとな……ちょっと元気出たわ。耳痛くなったけどな」
「私が振られるのは悔しいですけど、でも最初からわかってたことですから、私は諦めます」
「てかさ……お前、本気で俺のこと好きだったのか?冗談じゃねーのか?」
「本気ですよ!そりゃもう、自分でもなんでこんな人好きになったのかって思い悩むほどに!」
「ははは。そっかそっか。それじゃあ、なんでなんだ?」
「わかりませんよ、私に聞かれても!こっちが聞きたいくらいですよ」
「それじゃ教えてやっけど、多分あれだあれ。外見だろ?俺ってなかなかいい男だからな!」
「……やっぱり好きにならなきゃよかったです……全然笑えません……」
「ははははは……」

いつしか二人はいつもの二人に戻り、そして……。

114 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:51

「もうさくさん、たまには明るい曲でも聴いたらどうですか?ほら、これなんかどうですか?」

そう言って福田が一枚のCDを選び、そして先ほどとは違った優雅な音楽が流れた。

「ヨハンシュトラウスU世か……」
「ほら、どうです?ウインナーワルツって感じで楽しくなりませんか?」
「ウインナー?」
「またそうやってとぼけて……ウインナーって言ってもソーセージじゃないことくらい知ってますよね?」
「たははは……」
「そうだ!せっかくですから、一緒に踊りませんか?ね?」
「お前と踊るのか?ここでか?冗談だろ?」
「冗談でそんなこと言いませんよ。ほら、私こう見えてもダンスは得意なんですよ!」
「てかお前ダンス苦手じゃなかったか?それにこういうのはダンスっつっても種類が違うだろ?」
「福田明日香を甘く見てもらっちゃ困りますよ。これくらいの基本は全て習得済みです!」
「なのか」
「さあさ、ほら、立って立って!」

福田は私の手を取って起き上がらせると、その手を持ったままワルツの構えらしきものをとった。
そして最初は音楽には合わせずに、声でリズムを取りながらゆっくりと動き出した。

「いいですか?私が教えますから。言う通りに動いてくださいよ」
「ほんとに大丈夫なのか?」
「大丈夫ですって。簡単なステップ覚えるだけですから。後はグルグル回ればいいんですよ」
「はあ……」
「それじゃ私の足元見てくださいよ。はい、ランタッタ、ランタッタ、ランタッタ……」
「なあ、なんでランタッタなんだ?ズンチャッチャだろ?」
「何言ってるんですか。ズンチャッチャだったら格好悪いじゃないですか!ワルツは宮廷舞踏ですよ!」
「そういう問題なのか?」
「ほら、最初はゆっくりでいいですから、ランタッタ、ランタッタ、ランタッタ……」
「こうか?」
「なかなか呑みこみが早いですね。そうそう、そんな感じです」

115 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:52

「いや、呑みこみが早いというか……えっ?……ちょっとそれ、上手すぎませんか?」
「もしかして才能あるかな?」
「才能というか……それ以前になんでもうさくさんがリード取ってるんですか!」
「ははははは……才能、かな?」
「もうさくさん!もしかして最初からワルツ踊れたんじゃないですか!」
「初心者なんて一言も言ってないだろ?ほれ、ズンチャッチャ、ズンチャッチャ……」
「それならそうって言ってくださいよ!大体なんでもうさくさんが踊れるんですか!そんなのありえません!」
「お前が踊れるってのもありえねーぞ。まあ確かに俺もありえないと思うけどさ」
「人は見かけによらないというか、この前の龍笛もそうですけど、もうさくさん、一体何者なんですか?」
「んー、何者って言われてもな。見たまんまの男だな、ほれ、ズンチャッチャ、ズンチャッチャ」
「知らないことばかりですよね……私……もうさくさんのこと……」
「それでいいんじゃねーの?知ってしまうとつまらん男だぞ、多分」
「それじゃ知らないままでいます。それでいいですよね?」
「はははは。まあ好きにしろって。ただ、ランタッタじゃなくてズンチャッチャだからな、それは譲れないぞ!」

そうやって狭い部屋の中を二人でグルグルと回り続け、
いつしか目が回って二人は床の上に大の字に寝転がっていた。

「もうさくさん……圭にちゃんと告白してくださいよ」
「ああ……」
「振られたりしたら承知しませんからね!」
「はははは……ってかそれ笑えないんだけど」
「まあいいです。圭が今日来てれば、私も結果見れたんですけどね……」

その日は保田がラジオ収録のために大阪にやって来る予定だったのだが、
運悪く翌日に仕事があるとかで、結局部屋に来ることはなかったのだ。

せっかくの姉さんのお膳立てが台無しになったということだったが、
ただ、もし保田が夕方にでもこの部屋を訪れていたとしても、
福田のこともあって、結局私が彼女に告白することはなかったのかもしれない。
そしてまた、福田との最後の楽しい時間を過ごすこともなかっただろう。

116 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:52

福田が帰ったのはその翌日のことだった。
春先は忙しいらしく、次に来るのは六月になるかもしれないという話だったから、
多分もう福田と会うことはないのだろう。
東京でばったり遭遇したような、そんな偶然が再び起きない限り……。

「そうそう、これさ、市井と彩っぺに渡してほしいんだけど」
「なんですか?……お守り、ですか?」
「そそ。安産祈願のさ。もうこっち来ることないだろうから」
「そうですね。わかりました。それじゃ私から渡しておきます」
「頼むな。あとよろしく言ってたって伝えてくれな」
「ええ。それじゃ、行って来ますね!」
「ああ、元気でな……」

そうして福田が部屋を出て、そして静かに玄関のドアが閉まった。
福田が去り、あと私に残されていたのは保田の訪問をただ待つことだけだった……。

それからの数日間は脱力感に覆われた日々だった。最後のバイトを終え、四月に入り、
そして桜が咲き誇るにつれて、その脱力感は徐々に膨れ上がっていた。
この部屋を出るということがいよいよ現実のものとなって迫ってきていたのだ。

ただ、それはもしかすると、福田が帰ったことが影響していたのかもしれない。
福田と一緒に過ごす時間というのは、私にとってはかなり充実したものだったのだから。
もちろん、そこには恋愛感情は無かったが、ただ、そう断言できるかと言われれば……。

私にとって福田は、一人の人間として興味深い存在だった。
自分に似たものを持っており、しかし自分には無い強さも持っている。
そんなところに私は確かに惹かれていたし、それに誰よりも呼吸が合う存在だった。
保田以上に気を許せたし、何より自分のことを慕ってくれていた。

そこに無いのはただ愛だけなのだろう。
だから、それは私がそこに愛を加えるかどうかという、恣意的な問題なのだ。

117 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:52

恋は無意識的であり、愛は意識的なもの。それが私の恋愛観だった。
そのどちらも自己の欲望に基づくことは変わりないが、そこには当然大きな違いがある。

私の経験で言えば、恋が上手くいった試しは一度もなかった。
ごく自然に好きになった女性がいたとしても、大体の場合は何もできずに終わってしまう。
遠くから見つめているだけで幸せだとか、ちょっと話しただけで舞い上がるとか、それが恋なのだと思う。
しかし人は恋だけでは満足しない。もっと近くにいたいとか、もっと一緒にいたいとか、
ぶっちゃけエッチしたいとか、まあそういう欲望を抑えきれなくなるのが人間の本性であり、愛なのだと思う。

そうして告白したことも数回あった。全て玉砕に終わったが……。
でも、恋が上手くいく人というのはそんなにはいないだろう。
恋ではなかったけれど、付き合っているうちに「愛してる」なんて言うようになるのが一般的なのだろう。
それは付き合っているということを意識することによって自然と芽生えるものなのだ。

だから、私が福田に恋をしていないのは当然ではあるけれど、
しかし、それはいつでも愛に発展する可能性は秘めていたわけなのだ。
福田は私のことを慕っており、私もそれを快く思っていたのだから。

その可能性が実現しなかったのはただ、私が別の女性に恋をしていたからなのだろう。
もし私が保田に惚れていなかったり、あるいはすでに振られていたりしていれば、
福田との関係もまた別のものになっていたことだろう。それはあくまでも可能性の話ではあったが。

結局、私がいつまで経っても保田に告白できなかったのは、
これまで恋というものを成就させたことがなかったからなのかもしれない。
だから無意識的にそれを恐れていたのだろう。でも、もうそんな必要は無いのだ。

私はこの部屋を出ると決めていたのだから。そしてもう彼女たちに会うこともないのだから。
普通なら、恋が上手くいけば、それはそのまま愛へと発展していくのだろう。
でも私は、それを恋のまま終わらせようとしていたのだ。

例え彼女が私のことを好きでいてくれていたとしても……。

118 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:52

数日が過ぎ、小雨の降る中を、私は大阪城ホールに向かっていた。
モーニング娘。のコンサートがあることを聞き、最後に紺野に会っておこうと思ったのだ。
と言っても、別にコンサートを見に来たというわけではなかった。

紺野や姉さんに電話をして、リハを見学させてもらえるようにと話をつけてもらっていたのだ。
正確に言えば、紺野に少し時間を取ってもらって少しだけ話そうと思っていたのだが、
姉さんや例のマネージャー見習いの女性の計らいで、中に入ることが許されたのだ。
もちろん勝手に入ることは当然できず、そのマネージャーさんと同行するということだったが。

慌しい裏口から連れられるようにして中に入ると、すでにリハーサルらしきものが始まっていた。
舞台の上には数人のメンバーがおり、どうやら立ち位置を確認しているらしかった。

そんな様子を少し眺めた後、マネージャーさんの後ろについて楽屋近くへと移動する。
その通路で突然声をかけられて後ろを振り向くと、そこには見知った顔が立っていた。
まあ当然会う可能性はあったわけで、そんなに驚くことではなかったのかもしれない。

それは飯田圭織だった。向こうも私がいることに驚いたらしかったが、
そんなに長いこと話し込むような余裕は当然なく、それにそんなに話すこともなかっただろう。

話したことと言えば、私があれから飯田のシングルを買ったということくらいで、
それを聞いた彼女が優しい笑顔で「アルバムも買ってくださいね」と返したことくらいだろう。

そんな話をしているところに、偶然紺野が通りかかった。
毎週テレビで姿を見ていたため、そんなに久しぶりだという感覚はなかったが、
紺野の方は私と飯田に面識があることに驚いている様子だった。

紺野ともそんなに話すことはなかったのだが、でもそれで良かったのだろう。
私と紺野は友達なのだから。だから私が“卒業”する前にただ会っておきたかっただけなのだ。

結局ライブは見ずに、マネージャーさんに何度も感謝の意を伝えた後、私は家路についた。
そしてその翌日のことだった。保田が久しぶりに部屋を訪れたのは……。

119 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:52

それはつまり、私の“卒業”へのカウントダウンの始まりであり、
私はそのためにある計画を立てていたのだったが、しかし……。

彼女は疲れていたのか、それとも私を敬遠していたのか、私の誘いには乗ってこなかった。
一緒にキャッチボールをしようと誘っても、一緒に散歩しようと誘っても、
夜になって夜桜を見に行こうと誘っても、疲れてるの一言で終わってしまうのだ。

別に告白くらいなら部屋の中でもできるのだが、
私としては、どうしてもある場所で告白したかったのだ。
それは私の気持ちを最大限表現できる場所であり……そして思い出の場所でもあり……。

そんな状況を救ったのは、その翌日の昼にやって来た後藤だった。
ハワイから帰ったばかりで、さらにすぐに春のツアーが始まるということで、
後藤はかなり忙しいはずなのだが、色々事情があってこの部屋でゆっくりしたいらしかった。
それは以前からだったが、まあ後藤にも色々苦労や悩みがあるのだろう。

この部屋を頼りにしてくれているというのは素直に嬉しいものだったが、
そう思う反面、この部屋を出ようとしていることへの罪悪感というものも感じてしまう。
私がいなくなった後、彼女たちが変わらずにこの部屋に来てくれるかどうか、それが心配だったのだ。
誰もいない部屋であれば、それはそこらのホテルと何ら変わらないのだから……。

キャッチボールをしようという誘いに対して、後藤はかなり乗り気だった。

「キャッチボールかあ。いいねえ、私もやりたい!ね、圭ちゃんもやろうよ?」
「あたしはいいよ……そういうの苦手だから……」
「そんなこと言ってないで、ね?ね?やろうよお」
「ほら、後藤もそう言ってんじゃん。せっかく来たんだからさ。な?な?」
「二人でやればいいじゃん……ほら、ごっちんやりたいって言ってるし」

私がこれほどまでに保田を誘うというのは珍しいことだった。
後藤もそれに気づいたのか、いつしか率先して保田を説得するような形になっていた。

120 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:53

「あ、私晩御飯の準備しないといけなかった。ね?だから圭ちゃんがもうさくさんの相手してあげてよ!」
「あたし作るからいいよ。あたし作るから」
「あー、それだけは勘弁してくれ。せっかく後藤が来てくれたんだから後藤の手料理……」
「それどういう意味よ」
「んー、はっきり言えば、まあ後藤の料理は美味いってことかな?」
「そりゃごっちんには叶わないけど、あたしだって……」
「ね?ね?私料理作っとくから、だからほら、もうさくさん一人じゃかわいそうだから、ね?」

後藤の説得によって、保田は渋々ながらそれを承諾した。
ただし、キャッチボールをする場所はいつもの川沿いの公園ではなかった。
ちょうど桜の季節ということで、いつもの公園は屋台なども出て、かなり人が多かったのだ。

「あれ?駐車場でするの?」
「いやさ、人のいない場所の方がいいだろ?だから車でさ……」
「もーちゃん車買ったの?」
「そんな金ねーって。下の人に借りたんだよ。ベンツじゃない方だけどな」
「そうなんだ。ねえねえ、あたしも運転したいんだけど、駄目かな?」
「やめといた方がいいんじゃねーか?俺もまだ死にたくないしな」
「どういう意味よ!」
「ははは。てかお前元気じゃんか。なんか元気なかったから心配してたんだぞ」

そして私たちが向かった場所は、とある川の河川敷だった。
本来なら休日にはそこそこ人がいるのだが、そういう人たちは花見に出かけているのだろう。
その河川敷には桜の木が無いため、周辺にはほとんど人はおらず、たまにジョギングの人が走り、
たまに自転車が走り、そして岸辺で数人が釣りをしているという程度だった。

キャッチボールを始めるも、保田の運動音痴は予想以上だった。
山なりの緩いボールを投げても、そのボールとグローブとの感覚が全くわからないらしい。
投げるたびに保田はボールを後ろに逸らし、そして予想もしないような方向へと投げ返す。

それはまあ、別の意味で楽しめるものだったかもしれないが。

121 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:53

ようやく慣れてきたのか、保田は緩いボールであればなんとかグローブに当てることができるようになった。
ただし、無事にキャッチすることは稀で、グローブに当ててそれを拾うといった感じだった。

「お、だいぶ上手くなってきたじゃん」
「うん」
「ただ、投げ方がなあ……」
「でもちゃんと真っ直ぐ投げれるようになったよ、ほら」
「まあそうだけどさ、おっとっと」
「ねえ、なんでキャッチボールとか誘ったの?それもわざわざこんなとこまで……」
「んー?まあなんつーか、たまにはお前と二人でのんびりしたいなって、さ」
「ごっちんは?」
「まあ後藤がいてもいいんだけど、でもなんつーか、お前とさ、会うのも久しぶりだしさ……」

彼女もそこまで鈍感ではないだろう。私が彼女を誘い、そしてわざわざ車で移動してまで
やって来たということで、そこに何らかの理由があるということに薄々気づいている様子だった。

「それにさ、なんつーか……」
「ねえ、さっきからなんつーかばっかりだよね?」
「ははは。だな」
「それで、なんつーか、何?」
「あ、あのさ。俺……お前に言いたいことがあって……」
「……うん」

そう言った途端、彼女の表情が少し険しくなった。
眉に力が入っているのか、どことなく緊張しているようにも見えた。
それは多分、その先の言葉を予見していたからなのだろう。

私はふーっと大きく息をした後、大きく振りかぶってボールを投げた。
そして、彼女と出会ってからずっと言えずにいた言葉を彼女に投げかけた。

「俺…………お前のことが好きだ」

122 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:53

ボールはゆっくりと弧を描き、そして彼女のグローブの中に吸い込まれるように入っていった。
そして、そのグローブの中に収まったボールを右手で取り出しながら、彼女が口を開いた。

「うん…………あたしもだよ……」

そう言ってから投げたボールは、ワンバウンドはしたものの、
それも私のグローブの中へと綺麗に吸い込まれていった。

「そっか…………安心した……」
「うん…………あたしも安心した……」

二人とも安堵の表情を浮かべていた。そしてそれは自然と笑顔になり……。

「ごめんな。遅くなって……」
「ううん、いいよ。だって、あたしもだもん」

何がどうなるというものでもなかったが、私は彼女に想いを伝え、そして彼女はそれを受け入れた。
たったそれだけのことだったが、しかし、二人ともそれをずっと待っていたのは確かだった。
ただし、それは私が全てをやり終えたことを意味していた……。

それからもしばらくキャッチボールは続き、私と彼女の心の中を白いボールが行き交っていた。

「なんかちょっと疲れちゃった。安心したせいかな?」
「ははは。それじゃそろそろやめるか」
「うん」
「それじゃ帰るか……後藤も待ってるしな」

そう言った時だった。彼女は周囲を見回し、そして私に伺うように尋ねた。
それはつまり、彼女もそれを覚えていたということだった。

「ねえ……ここさ……ここ…………やっぱり?」

123 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 19:53

「なんだ……覚えてたか……」
「うん……なんとなくだけど、なんかそんな気がしたから……」
「ははは。まあなんつーかさ……色々考えてさ……」
「ちょっと意外だったかな?もーちゃんにもそんなとこがあるんだって……」

その場所は私にとって思い出の場所だったのだ。そしてそれは彼女にとっても同じだったのだろう。
そこはあのドラマの中で、私が彼女と別れのキスをした場所だったのだ。
そしてまた、架空の話ながら、私が未来においてホームレスをしていたのもこの場所だった。

そう、私と彼女との関係はここから始まったと言ってもいいのかもしれない。
あのドラマの中で、私は自分の未来に向けて歩き出すために彼女とここでキスをしたのだ。
それは別れのキス……でも、それは現実世界の私にとっては、始まりのキスでもあった。
あのドラマがあったおかげで、そしてあのドラマが終わったことによって、
私の部屋に彼女たちが来るようになったのだから。だから、それは終わりであり始まりなのだ。
そして、この場所を選んだということには、当然今の私の決意も含まれていた。
その決意にまで彼女が気づいていたかどうかはわからなかったが。

「ねえ、確かそこの上だったよね?」
「ああ……」

そう言って私たちは斜面を上り、土手上の遊歩道へと向かった。
幸いなことに周囲に人はおらず、遠くの方に人影が見えるくらいだった。

「ここ、だね」
「ああ、だな」

二人ともそう言った後に言葉は無かった。ただ何かの予感だけを抱いていた。それはもちろん……。

――――――
   つづく
――――――

124 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:47

帰りの車の中に会話は無かった。でも、それでよかったのだろう。
カーステレオから曲が流れては消え、消えては流れる……。
そんな中、誰がリクエストしてくれたのか、偶然にも私の好きな曲が流れ始めた。

   素敵な別れさ 出会いの未来があるから
   夢かなう日まで 今はここでそう Bye For Now

   Oh Bye For Now マジじゃ言えないけれど
   誇りに思うよ 君の横顔
   Oh Bye For Now ちょっと切ないけれど
   今はこの場所で Bye For Now

   君の旅立ちを 誰にも止められない
   心に決めた 君だけの勇気だから

   素敵な別れさ 出会いの未来があるから
   夢かなう日まで 今はここでそう Bye For Now

   Oh Bye For Now マジじゃ言えないけれど
   誇りに思うよ 君の横顔
   Oh Bye For Now ちょっと切ないけれど
   今はこの場所で Bye For Now

   記憶の瞳が 想いにかがやくよ
   誰もが微笑んだ 君の笑顔忘れはしない

   素敵な別れさ 出会いの未来があるから
   夢かなう日まで 今はここでそう Bye For Now

   すべての明日は いつだってきっと君の味方さ
   夢かなう日まで 今はここでそう Bye For Now

125 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:47

曲が終わり、パーソナリティがアーティスト名と曲名を告げる。

「はい、ということで、T-BOLANで『Bye For Now』、聴いてもらいましたー」
「ラジオネーム『みかんのいれもん』さん、いかがだったでしょうかー、はい、それでは次の……」

陽気なパーソナリティの声がどこか羨ましくもあり、そして恨めしくもあり……。
私はただ黙ってその声を耳に入れ、そして彼女もまた黙ったまま前を向いていた。

無事に駐車場につき、そして部屋へと戻る前に一階の部屋に立ち寄り、車の鍵を返す。
それは私が初めて、自分のために彼らにお願いしたことでもあり、
そしてそれもまた、私がこの部屋から旅立つという決意を表すものでもあった。

鍵を返している間、彼女はエレベーターの中で私を待ってくれていた。
慌てて乗り込み、そして閉まるボタンを押した。すると……。

彼女は突然、私に抱きつき、そして……。

「ねえ……どこにも……行かないよね……」

やはり彼女も私の何らかの決意に薄々気づいていたのだろう。
それまで長い間、ただ黙っていただけの男が、突然気持ちを伝えるというような行為に出たのだから、
それがただ事ではないと考えるのも、また当然だったのかもしれない。

私は彼女を優しく抱きとめ、そして……答えた言葉は、
多分、私が生まれてから一番辛く、そして一番切ない嘘だった……。

「ああ……どこにも行かないよ……」

その彼女の温もりは、私に幸せを伝えるとともに、私の罪悪感を助長するものでもあった……。

とその時だった。エレベーターの扉が開いた瞬間、びっくりしたような、ある声が周囲に響いたのだ。

126 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:47

「わあおー!……やーるじゃん!お二人さん!」

その声の主は後藤だった。偶然にも、後藤はエレベーターを待っていたのだ。
後藤は手に鍋を持っており、下の部屋に料理を届けようとしていたらしい。
そこで目に飛び込んできたのが、私と保田の抱擁……驚くのも無理はなかっただろう。

「あ、違うの、違うの、これは……」
「いいっていいって。それよりよかったじゃん、二人とも!おめでとう!」

なぜか言い訳する保田に対して、後藤がかけた言葉は祝福だった。
後藤は多分、それを始まりだと捉えたのだろう。
でも、それは私にとっては終わりの抱擁であり、そして別れの抱擁だった……。

翌日、二人は一緒に帰り、そして部屋には私だけが残った。
そして、その時点でもう、私の役目は全て終わったということになる。

……。

そして数日後、私の部屋は空っぽになっていた。
でも、心の中には抱えきれないほどのたくさんの思い出が詰まっていた。
彼女と出会い、そして彼女たちと過ごし、それは良くも悪くも楽しい思い出だった。
そしてまた、彼女たちのおかげで、私は少し前向きになれたのかもしれない。

それまでの私は、ただ過去に縛られてばかりの男だった。
過去を生きようとし、そして生きられないことに苛立ちと諦めを覚えていた。
でも、そんな私に対して、彼女たちは大切なことを教えてくれた。

過去を生きるのでも、現在を生きるのでも、未来を生きるのでもない、
全てを生きればいいのだ。人には過去もあり、現在もあり、未来もある。
だったら、そんなことにこだわらず、全てを生きればいいのだ。
なぜなら、それらは全てが全て、自分に繋がっているのだから……。

127 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:48

リビングのテーブルの上に書置きを残し、そして最後にもう一度部屋を見渡す。

正直、いつまでもこの部屋にいたいという思いもあった。
でも、自分だけが立ち止まっているわけにはいかなかった。
例え彼女たちが私を必要としてくれていたとしても、私が彼女たちを必要としてはいけないのだ。
この部屋は彼女たちのための部屋であり、私のための部屋ではないのだから……。

彼女たちもまた、私のそうした気持ちに気づいてくれることだろう。
そして、快く送り出してくれるはずだろう。私のその“卒業”を……。

玄関へ向かい、そして靴を履く。
決意がぶれないように靴ひもをきつく縛り、そして立ち上がる。

玄関の横の壁に飾られているハワイの民族の仮面がその様子をじっと見守っていた。

「それじゃ……行ってくる、な……」

誰に言うわけでもなく、私は民族の仮面に向かってそう呟いた。
そして、玄関のドアを開けようと手を伸ばした、その時だった。

私が開けるよりも早く、そのドアが先に開いたのだ。
そして、その向こうには一人の女性が立っていた……。

その女性はただ黙ってこちらを見つめていた。
私もただ黙ってその女性を見つめていた。

口元が何か言いたそうに動いていた。
でも、それが何を言おうとしているのかはわからなかった。

ただ、その言葉には心当たりがあった。
なぜなら、その言葉は多分、私の本心でもあったのだから……。

128 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:48

廊下を一人の男が歩いている。
コツコツという靴音が重く薄暗い照明の中を移動しているようでもあった。

男はその廊下の突き当たりに一瞬立ち止まると、何か一言呟いた後、
その左側にあったドアを開けて、その中へとゆっくりと入っていった。

「ああ、来たのかね」

部屋の中で待っていたのだろう、年配の男が声をかけた。
頭はやや薄く、顔の筋肉はそれまでの男の人生を表すかのように引きつったまま固まっていた。

「遅くなってすいませんでした。少しまとめるのに時間がかかったものですから」

男はそう言って、手に持っていたクリアケースを差し出した。中には白い書類が詰まっていた。
しかし、年配の男の方は特に急いでいた様子も無く、それを受け取らずに窓の外を眺めていた。

部屋の中は無機質だった。壁は白く、蛍光灯の薄い明かりがその白さをようやく照らしていた。
部屋の片隅には簡素なベッドが置いてあったが、しばらくの期間使用されていないらしく、
やや埃をかぶって、ぼやけた感じを醸し出していた。
まるでそのベッドだけが現実のものではないかのように。

「あの患者が亡くなってもう一ヶ月になるかね」

年配の男はそう言って口をつぐんだ。視線は窓の外を見つめたままだった。
男はこの仕事を始めてもう何十年も経つ。
どんなことにも慣れている、そしてどんなことにももう驚かないだろう、と、
そう若い男は思っていた。しかしその患者に関してだけは違っていたのだろう。
だからこそ、彼にこの仕事を頼んだのだ。もちろん、あくまでも研究対象として、なのだろうが。

男は白いベッドを見た。あの患者はこの部屋に入院していた。確かにここにいたのだ。
しかし、今はもういない。彼は二年間の入院生活の末、自ら死を選んだのだ。

129 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:48

ベッドから窓の外へと視線を移す。外ではやんわりと雪が舞っていた。

「雪ですね」
「ああ、今年の初雪になるのかな」

二人の会話は、その患者に関わった長い時間を知っていて初めてわかることだっただろう。
彼はこの病院では珍しいくらいまともな患者だった。思考も言動も、行動も安定していた。
しかし、やはりここの患者であることには違いなかった。

彼は一言で言えば、単に妄想癖のある人間だった。
最初にこの病院を訪れた時は、外見も内面も、ほとんど普通の人と変わらなかったほどだ。

ただ一つだけ違っていたのは、彼の妄想が単なるイマジネーションの類に収まらなかったということだろう。
彼は、その自己の妄想を現実だと信じていたのだ。そして、その妄想の中に“確かに”彼は住んでいた。

ある意味、自分の中で理想とする世界を構築していた、そういうことになるのかもしれない。

「君はどう思うかね?彼の話を……」

年配の男が窓の外から部屋の中へと振り返りながら尋ねた。

「そうですね。なかなか興味深いと思いますけど、でもやっぱり現実とは……」
「君は現実と仮想の区別を説明できるかね?」

年配の男は若い男の言葉を遮るようにそう言うと、再び窓の外へ視線を戻した。
二人とも白衣を着ているのは、二人がこの病院の医者であるからだ。
年配の男の方がその患者の最初の担当であり、少し前からは若い男の方がそれを引き継いでいた。
ただ、それもその患者が死ぬまでのことであって、今は二人とも別の患者を担当していた。

「現実と仮想ですか……それは現実じゃない世界が仮想……ということなんじゃないですか?」
「それでは君にとって現実とは何だね?今いる世界を現実だと証明することはできるかね?」

130 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:48

年配の男の問い掛けには、多分哲学的な意味も含まれていたのだろう。
この仕事をしていると、そういう深いことを自然と考えるようになるのだ。
ただ、その若い男の方は、まだそこまで深い思慮に思い至ることは無い様子だった。

「それは……」若い男はそこまで言って口を閉ざした。

現実を証明する、それは果たして可能なことなのだろうか。
それとも、それはいわゆる“悪魔の証明”の類に入ってしまうものなのだろうか。

“悪魔の証明”――それは悪魔がいることを証明するのは容易いが、
悪魔がいないことを証明することは事実上不可能である、というものである。

例えば、“白いカラスがいる”ことを証明するには、実際に白いカラスを見つければいい。
しかし、“白いカラスがいない”ことを証明するには、世界中の全てのカラスを漏らさずに調べ、
そして最終的に断定しなくてはならないのだ。もし1億匹のカラスを調べて全て黒だったとしても、
次の一匹が白いカラスかもしれないし、あるいは次の世代で白いカラスが生まれるかもしれない。

それは事実上不可能なのだ。そして、それは現実を証明することにも当てはまるのかもしれない。

普段生活しているこの世界を、人々は現実と感じ、そして考えている。
しかし、それが本当に現実の世界なのかどうか、それは誰にもわからない。いや、わかりえないのだ。
もしかすると、その世界以外に本当の現実の世界があり、今いる世界は仮想の世界なのかもしれない。

ただ、もしそうだとしても、それは本当の現実の世界というものに触れて初めてわかることなのだ。

「彼にとってはあの世界こそが唯一の現実の世界だったのだよ。我々とは違う世界だがね」

若い男はクリアケースから書類を引っ張り出すと、ベッドの横にあった机の上にそれを並べた。
その年配の男の言葉が彼にとってまるで説教のように難しく聞こえたのかもしれない。

「一応テープ起こしをして、彼のその……“現実”の世界を経過ごとに文字にしてみました」

131 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:49

男は“現実”という言葉を少し意識しながらそう言うと、年配の男の顔色を窺った。
その書類には患者がこれまでに口走ったことが順番に書かれてあった。
もちろん、それをまとめたのはそこにいる若い彼だ。

彼はこの一ヶ月間、録音されていた患者の言動を全て聞き取り、それを文字化する作業に追われていた。
もちろん、今担当している患者の面倒を見ながらだ。だからこそ、若い男はその年配の男に対して、
どこか反発した感情を抱いていたのかもしれない。それは若い下っ端の医者にありがちな感情でもあった。

「どうだったね?彼の世界は」そう尋ねて、年配の男が続ける。
「私は現実の世界よりも、彼の世界の方がよっぽど整然としていると思うがね」

そう言われて若い男は思った。確かにそれはそうかもしれない。
彼の語っていた世界は、単なる妄想癖の患者の話とは思えないくらい、まともなものだったのだ。

「ええ、もっと支離滅裂かと思いましたが、一応全てが一つの線になってましたし、病気とは思えないほどで」

その患者の話――彼にとっての現実世界だ――は大まかに五つに分かれる。
最初の話(その書類では『第一部』と定義してある)は、彼の家庭の生活に関する話だった。
そこでは彼は家族に囲まれて生活しており、そして一人の居候的な女性が話のメインだった。
その女性は歌手をしていたが、定期的に彼の家に泊まっており、そこで彼は彼女に恋をしたのだ。

「私もね、最初彼の話を聞いたときは、これはこの病院に来るような患者ではない、とね、そう思ったのだよ」
男は同意を求めるでもなく、しみじみとそう語った。

「ただね、彼は自分でそれは現実ではない、ということを認めてしまったのだよ。それで少し考えさせられたね」

年配の男が言っているのは、その書類における『第二部』と定義された部分のことだろう。

その患者はある日突然、それまでとは全く別のことを口走るようになったのだ。
しかし、それは単に(彼にとっての)現実の世界を移り変えた、というようなものではなかった。
彼にとって、その現実の世界はずっと一つであり、それまでの話は単なる現実を語る序章に過ぎなかったのだ。

132 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:49

「下手なドラマを見ているようだったね。と言っても、彼もそれまでの話をドラマだと言っていたがね」

その患者はそれまでの話はドラマの中の出来事だったと語った。
つまり、彼はそれまで、その仮想の世界の中で暮らしていたことを自分で認めてしまったのだ。
しかし、だからと言って、彼の次の話が現実であるということには当然ならない。
次の話も――正常な人間から見れば、しょせんは彼が頭の中で作り上げた虚構の世界に過ぎないのだから。

「あの時はね、私も彼は正常な人間であって、一応現実と仮想の区別がついていると思ったんだがね」
「でも、それは逆だったんだよ。彼は仮想の世界を一度構築することで、確固たる現実というものを作ったんだ」

年配の男はそう言ったものの、ただ、若い男にはそれは疑問だった。
その患者はあえて仮想の世界を作ることで、次の世界を本当の、現実のものとしたのだろう。
しかし、そこからは、現実と仮想の区別がついているといった男の正常な脳裏が垣間見えるのも事実だ。
だから若い男にはそれが不思議でならなかった。
その患者はその頃はまだ正常だったのではないのか、単なる普通の妄想癖に過ぎなかったのではないか。
これまで作業をしていて、それが疑問でならなかったのだ。

二人の会話――途中で多少議論っぽくなったところもあるが――はしばらく続いた。
窓の外の雪はいつのまにか止んでいたものの、寒さは部屋の中へもしっかりと伝わってきていた。
外の世界には音は無かった。しかし、そのシーンと静まり返った無音の状態が、
今にも中の世界へ襲い掛かってくるかのような、そんな張り詰めた緊張感が存在していた。

「君はどう思うかね。彼がその結末を話すことなく、死んでしまったということを……」

若い男はそれを聞いて少し自信ありげな表情を見せた。
それはこれまでその患者の話を文字化する作業を行っていたという自負があったからなのだろう。
確かに担当していた期間が長いのは、当然年配の男の方だった。
しかし、若い男はここ数日間、毎日のようにその患者の世界に“実際に”触れていたのだ。

「そうですね。彼にとって、その世界だけが唯一の居場所でした。だから、彼が死を選んだということは」
男が一呼吸置く。「彼は多分、その世界でも、居場所を失ってしまったんでしょう。だからこそ、死を……」

133 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:49

それに対して年配の男が尋ねた。

「つまり、彼はその彼の“現実”から追い出され、それに悲観して死を選んだということかね?」
「ええ、そうです。彼の話では、一応は自分から部屋を離れたことになってますけど……」

若い男の考えはこうだった。
その患者はとある世界に住んでいた。それはその患者にとっての唯一の現実世界だったのだが、
そこでは彼は、彼の部屋を定期的に訪れる数名の女性たちとともに暮らしていた。

彼はその女性たちを、『モーニング娘。』という歌手グループを卒業した存在だと説明していた。
“卒業”というのは、それを脱退した、もしくは脱退させられた、という意味の、彼の世界の用語だ。

その世界において、彼は一人の女性に恋をしていた。第一部から登場する保田という女性だ。
彼の世界はその保田という女性との関係を一応の主軸として進んでいた。
であるならば、彼がその結末を語らずに死んでしまったということは、それはつまり、
その保田と彼との関係に何らかの異変が生じたということなのだと、若い男は考えていた。
その患者の世界は、その女性との関係でこそ成り立っていたのだから。
だからこそ、その女性を失うことで、その彼の現実世界は存在意義を失ってしまい、そして……。

年配の男は彼のその考えをうんうんと頷きながら聞いていた。
しかし、その頷きは決してその考えを認める、というものではなかった。
若い男の考え方自体は評価しつつ、しかしその内容には同意できかねない、そういう意味が含まれていた。

「確かに君の考え方も、彼の世界を正しく捉えているだろう。しかしだね、私はそれは全くの逆じゃないかと」

それを聞いて若い男は渋い表情を浮かべた。
その言葉がそれまでの彼の作業を全て否定しているように彼には感じられたのだ。
自分に面倒くさい作業を押し付けておいてそれは無いだろう、と、そう思うのも当然だったかもしれない。

「それでは、どういうことだと……?」
「私はね、むしろ彼が彼女とうまくいったからこそ、死を選んだんだと思うんだがね」

134 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:50

若い男が理解できない、といった素振りを見せた。
年配の男はそれを見ない振りをしつつ、あるいは相手にせず、ゆっくりと言葉を続けた。

「もっとも、私は彼がそれで満足したからこそ死んだ、とは思わないんだがね」
机の上の資料をなんとなしに眺めながら更に続ける。
若い男は余計にわからない、といった表情を浮かべた。

「むしろ、彼はうまくいったことで、その世界が終わってしまうということを自ら意識し、そしてその世界から……」
「それでは、彼はその世界が仮想であることを認識していたと?」
「いや、そういうことじゃないよ。彼にとっての現実というのはそもそも……」

そう言ったところで若い男が立ち上がった。さすがに寒さに耐え切れなくなったらしい。

「冷えてきましたね。ちょっとコーヒーでも持ってきます」
「ああ、それじゃお願いするかな。ここはさすがに冷えるからねえ」

しばらく時間が空き、再び若い男が戻ってきた。手には二つのコーヒーの入ったカップを持っていた。

「お待たせしました」
「それで話の続きだがね、普通妄想癖の患者というのは、現実逃避の対象として世界を構築するんだが」

年配の男は感謝の言葉も言わないままに話を続けた。
ただ、若い男もそれには慣れているといった感じで、特に気にする様子は見られなかった。

「あの患者はね、むしろ自ら苦悩の世界を構築しようとしていた、そう思えるんだがね」
「自分から、ですか?わざわざ?」
「ああ。だからこそ、彼は自らその世界にリアリティを感じ、現実世界だと認識することになったんだと……」
「わからないでもないですけど……」

二人同時にコーヒーをすする。カップから立ち上る白い湯気が揺れては消えていった。
その湯気を目で追いながら、年配の男が再び口を開いた。

135 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:50

「彼にとって、その世界は現実なんだよ。だからこそ、そこは苦悩の世界でなくてはならなかった」
「それじゃ、彼が死んだのは、それが苦悩の世界ではなくなってしまったから、ということですか?」
「まあ私の個人的な見解だがね。それに、私はあの最後に出てきた人物は、保田ではなく、むしろ……」

そう言って男は再びカップに手を伸ばした。そしてさも旨そうにそのコーヒーを口に含むと、
フーッと深い息を吐いた。まるでその次の言葉が言ってはいけない言葉でもあるかのように、
そして、その言葉をコーヒーとともに飲み込んだかのように。

「むしろ何ですか?保田ではないとすれば、それは……」
若い男はじらされては溜まらないとばかりにその先を促した。
しかし、年配の男は口を開かなかった。彼はただ、どこか面白そうな表情で若い男を見ているだけだった。

その表情は、まるでその若い男に対して、その答えはすでにわかっているんじゃないかね、と、
そう尋ねかけているようでもあった。そして実際、若い男はそう察していた。

「それじゃ……」
若い男はそう言って一旦言葉を止めると、
まるでそれまで眠らせていたものを唐突に目覚めさせたかのように、矢継ぎ早に言葉を発した。
それは多分、彼がずっと、どこかに感じていたことだったのだろう。

「それじゃ…あれは保田ではなく……?だからこそ……その世界は終わりを……?」
年配の男はそれを聞いて顔の筋肉を緩めた。
それは硬直したまま固まっていた筋肉が久しぶりにほぐれたような、ぎこちない笑顔だったが、
ただ、その仕事を彼にまかせたことが正しかったと、そういった笑顔でもあったのかもしれない。

「その答えは誰にもわからないよ。彼が死んでしまった今となってはね……」


   『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる……!!!』

   第五部 「ある患者の現実」 終わり

136 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:50

――(著者あとがき)――


これは以前、ある精神科の病院において、一人の入院患者の語った言動について、
二人の医者が意見を交わした時の話を再現したものである。


その患者がどのような人間だったのか、それを知る術は今となっては残されていない。
しかし、彼が、その患者が、どのような“現実”に住んでいたのか、それについては、
その二人の医者が残した、彼のレポートを見ることで、それなりに知ることができるだろう……。


人が何に生き、何のために死ぬのか、それは哲学的な意味を含む難しい問題ではあるが、
その答えは人それぞれであり、中にはこの患者の例にあるように、
現実とは違った世界、妄想の中に生きるということも決して否定されるべきことではないのかもしれない。


ただ、私が今回のこのドキュメンタリーの取材で感じ、そして一冊の本として出版しようと思ったのは、
それは皆さんに対して、一つの問いかけをしたかったから……それが大きな理由だったのかもしれない。


皆さんにとって現実とは何か……そしてそれが現実である由縁は何か……。
この本を書き上げて、私はようやく、その答えを……自分の答えを見つけたような気がしている。
もちろん、それは私だけの答えではあるが……。




   『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!』

   第五部 「ドキュメンタリー・ある患者の現実」 完

137 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:50

――(以上引用)――

これは、ちまたに流布している一つの物語である。
ある日突然、自分の家に歌手がやって来て、そして一緒に暮らすようになるという物語。
それは物語ではあるものの、しかしどこか都市伝説的な様相を呈しているものでもある。

その証拠に、こうした類(たぐい)の物語はちまたにおいて様々に語られており、
この『モーニング娘。』という名前の歌手グループに関する物語もそれは一つではない。
家にその歌手グループの現役メンバーがやって来るというスタンダードな話の他に、
ここで紹介した脱退メンバーがやって来る話、お好み焼き屋にやって来る話、
太平洋の孤島にやって来る話、そのメンバーがじょんいるという不思議な踊りをする話など、
それは枝分かれを繰り返しながら進化(と、そして衰退)を続けているのである。

そして、ここで紹介した物語の場合も、それは一つの物語でありながら、しかし一つではない。
と言うのも、その結末は語られる場所や人によって様々に変化しているのだ。
登場人物の保田という女性とゴールインした結末もあれば、別のメンバーとの結末もあり、
またバッドエンドもある。そしてここで紹介した物語は、その中でも例外的な結末を持ったものである。
つまり、精神病院の患者の話というまとめられ方で終わっているものであって、
更にその後にドキュメンタリー本という結末が付加されている点は注目に値するだろう。
これはこうした類の都市伝説というものが発生し、変化する過程を考える上で貴重な資料と言えよう。

そして、この系統の都市伝説で一番不思議なのが、その登場する歌手グループの名前である。
『モーニング娘。』というその名前は、明らかに非現実的な印象を持っており、一般的とは言えない。
特に末尾の『。』などは、常識的とは言えないものであって、それが現実の物語として語られ、
そして受け入れられている点で、それは都市伝説というものの在り方に一石を投じるものであろう。
非現実が現実として語られる……。ただし、私はそこにこそ、都市伝説というものの答えがあると思っている。
今の時点では結論は出せないが、それは社会が益々複雑化していくことによって徐々に姿を現すことだろう。
今から10年後、夢の21世紀を迎えた時、我々はその答えを知るのかもしれない。


   『とある一つの都市伝説〜その系統と発生のメカニズム〜』 結

138 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:51

「まあ、こんな感じですかね?」

一人の女性がパソコンに向かってそう問い掛けた。もちろん答えは返ってこない。
その女性はもう一度、そのパソコンに浮かんだ文字列に目を移すと、ふーっと、一つ溜息をこぼした。

それはあまり納得がいっていない、というようにも見え、
そしてまた、長かった作業がようやく終わったことに安堵したようにも見えた。

電気ポットから急須に一定量のお湯が注し落ちる。中には緑のお茶っ葉が入っていた。

「やっぱりお茶が一番ですね」
と、今度は電気ポットに向かって問い掛ける。いや、同意を求めたといった方がいいだろう。
どうやら独り言が癖になっているらしい。部屋には彼女の他に姿は無かった。

彼女はお茶を入れた湯のみを持つと、再び元のパソコンの前へと戻った。
パソコンの画面に見える文章は、多分小説なのだろう。それもその女性が書いたものであるらしい。

再びその画面に見入りながら、やはり独り言を口にする。
今度は自分の書いたものを客観的に批評するような口ぶりだった。

「うん。まあまあですね。精神病の患者に都市伝説……我ながら複雑で期待を裏切る結末です」
「ただ……やっぱり最後は書けませんでしたね……あれが……私だったってことは……」
「最後くらい自分の希望通りに書いても良いのかもしれませんが……」

そう言うからには、そこに書かれてある文章は、彼女の希望通りとは言えないものなのだろう。
それも『私だった』と言ったことを踏まえると、その小説には彼女自身も登場しているということになる。

彼女はしばらくパソコンの前で考える素振りをすると、今度は思い出したように壁の時計を見上げた。
時刻は夕方の六時。それを見て彼女は慌てたようにパソコンを閉じて台所へと向かった。
それはそろそろ誰かがその部屋に帰ってくるということを意味していた。
そして、彼女がその誰かのために料理を作ろうとしている、ということも。

139 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:51

ピンポーンとインターホンの音が響き、玄関のドアがガチャリと音を立てた。
そして数秒して、台所に一人の男性が顔を覗かせた。

「ただいま〜。いい臭いすんなあ。今日は何だ?……β(ベータ)か?」
「残念ですけど、今日はα(アルファ)ですよ」
「なんだよ、またαかよ。……なーんてな。作ってくれるだけ感謝しないとな」
「そうですよ。ちゃんと感謝してくださいよ。こんな美少女の手料理が食べられるなんて、幸せ者ですよ!」
「自分で言っちゃうところがなあ。……まあお前が言うと単なる自虐に聞こえるんだけどな」
「自虐ってどういうことですか!」
「なんだ?聞きたいのか?なら説明してやってもいいけど……本当に聞くか?」
「やっぱりいいです」
「だろ?……な?」
「そうそう、昼に裕子から電話がありましたよ。今夜こっちに来るそうです」
「まじかよ……。この前も無理やり朝まで飲まされたんだぞ。たまにはこっちのことも……」
「いいじゃないですか。裕子だって色々大変なんですから。それだけもうさくさんを必要としているんですよ」
「必要……ねえ……。ただの生贄だと思うんだけどなあ……」

そんな会話が続く。部外者からはそれが冗談なのか本音なのかよくわからない内容だったが、
ただ、先ほどまでの一人の時と違い、彼女はどこかうきうきしている様子だった。

会話が終わり、男性の姿はすでに台所から、そしてリビングからも消えていた。
そして再び、彼女は独り言を呟いた。今度はかき混ぜている鍋に向かって……。

「……やっぱり……書かなくて正解でしたね……」

「だって、それは今も続いているから……今も……この部屋で……」




 『ほぼ毎日、元娘。たちがとある奴の家に行く・・・!!!』 完

140 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:51

新垣「うーん、こりゃ駄目だまめ」

その言葉に、隣にいた少女が不思議そうな表情で声をかけた。

紺野「えっどうして?私は面白いと思うんだけど……特に最後のオチの連続とか……」
新垣「面白いとかそういうことじゃ無いまめ。これじゃ芥川賞は無理まめ」
紺野「芥川賞って……里沙ちゃん、そんなの狙ってたんだあ」

少女は呆れつつも、どこか感心するような口調でそう答えた。

新垣「そうまめ。里沙たんは第二の綿谷りさになるまめ。名前も同じまめ」
紺野「名前はそうだけど……でも……」
新垣「それはどういう意味まめか?あさ美ちゃんは里沙たんが綿谷りさより劣ってると言うまめか?」
紺野「劣ってるとかじゃなくて……それ以上に話題になると思うんだけど……」
新垣「それはそうまめ。モーニング娘。の絶世の美少女が芥川賞を取るんまめ。国民栄誉賞も夢じゃないまめ」
紺野「で、でもさ、そういうのって、仕事にも影響しちゃうんじゃないの?卒業させられちゃうかもよ?」
新垣「……それは困るまめ。里沙たんは歌手業の片手間で適当に娘。小説を書くのが好きまめよ」
紺野「それじゃ、芥川賞なんて取っちゃったら、余計に駄目なんじゃない?」
新垣「……それもそうまめ。うっかりしてたまめ」
紺野「あ、でもペンネームならいいのかな?」
新垣「ペンネームまめか。さすがはあさ美ちゃんまめ。それなら幾つか考えてあるまめ」
紺野「本当?」
新垣「本当まめ。これまでに100の候補を考えたまめ」
紺野「100も???」
新垣「そうまめ。あさ美ちゃん、良かったら選んでくれるまめか?」
紺野「う、うん。いいけど……」
新垣「それじゃ今から読み上げるまめ」

141 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:51

新垣「1番、豆垣里沙」
紺野「ちょっと変わってると思う。もう少し普通な方がよくない?」
新垣「2番、小根垣里沙」
紺野「それもちょっと……」
新垣「3番、新垣里沙太郎」
紺野「男なの?」
新垣「4番、新垣(あらがき)里沙」
紺野「漢字は同じだよね?」
新垣「5番、新垣(あらがき)里沙太郎」
紺野「合体させても……」
新垣「6番、織田信長」
紺野「え?なんで急に?」
新垣「7番、豊臣秀吉」
紺野「そういうのはペンネームとは違うと思うけど」
新垣「8番、羽柴誠三里沙」
紺野「それは選挙のおじさんじゃ……」
新垣「9番、木下藤吉郎里沙」
紺野「よくわからないけど、どうして秀吉なの?」
新垣「10番、綿谷りさ」
紺野「それはまずいよね?他人だし」

142 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:51

新垣「11番、りさ綿谷」
紺野「名字と名前入れ変えても……」
新垣「12番、リサ・ワタヤ」
紺野「カタカナでも同じだし……」
新垣「13番、芥川賞作家・綿谷りさ」
紺野「特定したら余計に駄目だよね?」
新垣「14番、モーニング娘。新垣里沙」
紺野「それじゃペンネームの意味無いし」
新垣「15番、モーニング娘。5期メンバー新垣里沙」
紺野「だからばれちゃうってば」
新垣「16番、モーニング娘。5期メンバー筆頭・新垣里沙」
紺野「筆頭って言われても……」
新垣「17番、モーニング娘。(UFA所属)」
紺野「いや、それだとグループになっちゃうから。しかも所属まで言わなくても」
新垣「18番、モーニング娘。プロデューサーつんく♂(肩書きのみ)」
紺野「だからってプロデューサーも駄目でしょ?勝手に人の名前騙るのとかも。て言うか肩書きだけなの?」
新垣「19番、モームスメンバーR・N」
紺野「騙ってないけどペンネームになってないし」
新垣「20番、新垣メンバー」
紺野「そのメンバーは容疑者って意味だから……」

143 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:52

新垣「21番、新垣里沙」
紺野「え?それそのままじゃん……」
新垣「22番、新垣里沙・通称新垣」
紺野「通称って言うか、ただの名字だよね?」
新垣「23番、新垣里沙・通称新垣里沙」
紺野「どういうこと?」
新垣「24番、新垣里沙・幼名日吉丸」
紺野「幼名って……」
新垣「25番、新垣里沙・改め豊臣秀吉」
紺野「なんでまた秀吉?」
新垣「26番、新垣里沙・旧姓綿谷」
紺野「だからそれはまずいよね?」
新垣「27番、新垣里沙似」
紺野「それは別人ってこと?」
新垣「28番、新垣里沙似・実は本人」
紺野「駄目じゃん……」
新垣「29番、新垣里沙似・実は本人と見せかけて綿谷りさ」
紺野「見せかける意図がわかんないし、似てないし、そもそもペンネームと言えないし」
新垣「30番、新垣里沙似・実は羽柴誠三里沙」
紺野「だからなんで秀吉なの?」

144 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:52

新垣「31番、前田利家」
紺野「秀吉じゃないけど、結局は同じことだよね?」
新垣「32番、利家とまつ」
紺野「それだと作品名になっちゃうよね?しかも大河ドラマだし」
新垣「33番、部屋と利家とまつ」
紺野「それは何?もしかして歌?」
新垣「34番、ウラジホストクで遭いましょう」
紺野「え?それは何?歌っぽいけど元ネタがわかんないんだけど」
新垣「35番、ウラジホストク」
紺野「それは地名だから、ペンネームじゃないし」
新垣「36番、ウラジホ」
紺野「略しても同じだし」
新垣「37番、アラジオ」
紺野「なんか違うし」
新垣「38番、アラガキ」
紺野「微妙にスライドしてるし」
新垣「39番、モーニング娘。5期メンバー新垣里沙(国民栄誉賞受賞予定)」
紺野「予定って言われても……」
新垣「40番、モーニング娘。5期メンバー筆頭侍・新垣里沙・幼名日吉丸(国民栄誉賞受賞予定)」
紺野「それはもうペンネームとしては完全に間違ってるよね?よね?」

145 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:52

新垣「41番、第一回選択希望選手・新垣里沙・メインヴォーカル担当・ウラジホストク在住」
紺野「色々言いたいんだけど、とにかくペンネームにしては長すぎるよね?」
新垣「42番、新垣」
紺野「だからって名字だけっていうのも……」
新垣「43番、里沙」
紺野「それもちょっと……」
新垣「44番、新垣」
紺野「聞いたし」
新垣「45番、里沙」
紺野「それも」
新垣「46番、新垣」
紺野「だから聞いたって」
新垣「47番、里沙」
紺野「……」
新垣「48番、芥川賞作家・新垣里沙」
紺野「絶対受賞させてくれないと思う……」
新垣「49番、さしみ賞作家・新垣里沙」
紺野「それ、なに?」
新垣「50番、モーニング娘。5期メンバー筆頭侍・新垣里沙・またの名を羽柴誠三里沙」
紺野「またの名ってのが普通はペンネームだよね?でもどうしても秀吉?」

146 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:52

新垣「51番、綿谷りさには負けないと自負している新垣里沙」
紺野「心意気を言われても……」
新垣「52番、芥川賞作家・綿谷りさには絶対に負けないと自負している新垣里沙」
紺野「それはもう伝わったから……とりあえず長いから……」
新垣「53番、綿谷」
紺野「だから、それはまずいでしょって。確かに短いけど」
新垣「54番、りさ」
紺野「それも」
新垣「55番、スティッグマイヤー」
紺野「……」
新垣「56番、さしみ賞作家・スティッグマイヤー」
紺野「いや、さしみ賞は貰ってないと思うけど……」
新垣「57番、ポポローニャ=ボルタフスキー」
紺野「突然ロシア人?」
新垣「58番、ウラジホストク在住・ポポローニャ=ボルタフスキー」
紺野「そこでウラジホなんだ。でもペンネームに住所はいらないと思うけど」
新垣「59番、金原ひとみ」
紺野「それはなんか、初めて普通っぽいんじゃない?里沙ちゃんだってことわからないし」
新垣「60番、芥川賞作家・金原ひとみ」
紺野「って、もう一人の方……!」

147 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:53

新垣「61番、『インストール』『蹴りたい背中』でお馴染みの綿谷りさ」
紺野「だから……特定しちゃったらまずいでしょ?」
新垣「62番、ウラジホストク在住・綿谷りさ」
紺野「間違った特定されても……」
新垣「63番、モーニング娘。7期メンバー・綿谷りさ」
紺野「勝手に加入させるのはどうかと。……もしかして娘。に『インストール』とか言いたいとか?」
新垣「64番、……」
紺野「図星っ!」
新垣「65番、そろそろ疲れてきた新垣里沙」
紺野「変な名前ばっかり考えるから……」
新垣「66番、でも頑張る。だってそれが里沙たんなんだも〜ん。by里沙」
紺野「まだやるんだ。てか、それも候補なの?」
新垣「67番、新垣(あらがき)里沙太郎秀吉」
紺野「また秀吉……」
新垣「68番、新秀(あらひで)」
紺野「略した?」
新垣「69番、芥川」
紺野「それは問題だよね?」
新垣「70番、芥川新秀(あらひで)」
紺野「それも問題だけど……でも、もしかして一番まとも?」

148 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:53

新垣「71番、芥川新秀こと新垣里沙」
紺野「せっかくまともだったのに」
新垣「72番、芥川新秀こと新垣里沙改めポポローニャ=ボルタフスキー」
紺野「ねえ、漢字四文字に決めたら?」
新垣「73番、飯田圭織」
紺野「確かに四文字だけど、かなりまずいよね?」
新垣「74番、鈴木秀行」
紺野「どこかで聞いた名前だけど、なんで鈴木?」
新垣「75番、鈴木 Daichi 秀行」
紺野「そいつかよ……」
新垣「76番、新垣 Daichi 里沙」
紺野「鈴木だから“Daichi”なんだと思うんだけど」
新垣「77番、新垣 Hideyoshi 里沙」
紺野「新垣で秀吉ってのがわからないんだけど……」
新垣「78番、新垣 Seizou 里沙」
紺野「誠三でも同じだってば」
新垣「79番、誠三⇔秀吉」
紺野「意味わかんないし」
新垣「80番、L⇔R」
紺野「……」

149 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:53

新垣「81番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「ねえ、その名前一体なんなの?」
新垣「82番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「えっ?」
新垣「83番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「いやっ、だからそれ、全部同じ……だよね?」
新垣「84番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「同じだよね?ね?」
新垣「85番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「ってか、繰り返す意味が……」
新垣「86番から90番、ポポローニャ⇔ボルタフスキー」
紺野「だからってまとめなくても……てか最初からまとめてよ」
新垣「91番、メロン⇔記念日」
紺野「その記号は一体何を……?」
新垣「93番、マロン⇔記念日」
紺野「マロンはいいんだけど、番号飛ばしたよね?」
新垣「95番、新垣 Daichi 里沙⇔誠三@日吉丸 .co.jp」
紺野「い、意味が……しかもまた飛ばしてるし」
新垣「96番、新垣里沙・通称」
紺野「えっ?通称なに?」
新垣「97番、百姓から関白に上りつめた男、豊臣秀吉の生まれ変わり⇔新垣 Daichi 里沙太郎秀吉」
紺野「頭が痛くなってきた……」
新垣「98番、誠三」
紺野「も、もう秀吉でいいから……」
新垣「99番、誠三」
紺野「だからもういいってば……」
新垣「100番、にいがき(←なぜか変換できない)里沙」
紺野「今まで変換できてたよね?ね?」

150 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:53

新垣「……もうペンネームはいいまめ。また今度決めるまめ」

新垣はそう言って紺野の顔を見た。それに対して紺野は少し迷惑そうな顔を浮かべた。
それも当然だろう。ほとんど笑えないネタを延々と聞かされたのだから。

でも紺野は思った。それを聞かされたのが自分一人でよかったのかもしれない、と。
ネット大好き人間の新垣がそのようなことをもし仮にネット上に書き込んだりしていたら、
それはもう非難が殺到するか、あるいは冷笑の嵐が吹き荒れるか……。

紺野が帰った後、新垣は再び自分のパソコンを起動し、その完結した文章を読み返していた。

新垣「ふむふむまめ。やっぱり最後は福田さんで終わらして正解だったまめ」
新垣「精神病の患者の話じゃ今までの読者があまりにも不憫まめ」
新垣「やっぱりこういうのは希望を残しておくべきまめね。さすがは里沙たんまめ」
新垣「しかも保田さんではなく福田さんで終わらせるところが大どんでん返しって感じがするまめ」
新垣「一億二千六百万人の里沙たんファンもこの結末にはきっと驚くはずまめ」

新垣が書いた文章、それは一年以上にもわたって連載していた稚拙な娘。小説の最終話だった。
そしてその締め方、オチとして、新垣は夢オチならぬ精神病オチを使うことにしたのだ。
しかし、それでは読者が不憫だと思った新垣は、急遽それに更に文章を付け加えていた。
読者などほとんどいないにも関わらず、別の意味で自信過剰なところが新垣の悪いところかもしれない。

新垣は再びキーボードの上に両手を伸ばした。
小説の完結を示す“『ほぼ毎日、元娘。たちがとある奴の家に行く・・・!!!』 完”という文字の下に、
黒い棒のようなカーソルがゆっくりと点滅していた。

そして一文字一文字を確認するように、慎重に最後の言葉を入力する。
それが新垣の娘。小説の締めくくりである、作者の後書きだった。

151 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:54

 『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!』

 長い間ご愛読いただきまして、ありがとうございました。
 セブンからの読者の方、それ以降の読者の方、とにかく、ありがとうございました。

 これにてこの話は完結です。

 私としても長い間連載していたということで、かなり淋しいのですが、
 でも、その淋しさもまた、人生を豊かにするものだとそう信じています。

 それでは、またいつか皆さんに会える日が来ることを祈って……。

 by 冬のオペラグラス@作者

















   『新垣里沙の娘。小説生活〜綿谷りさには負けないもん〜』 終わり

152 :◆5/w6WpxJOw :2004/04/19(月) 22:54

「ふーっ……やっと終わったー!」

広いリビングに一人の女性の声が響き渡った。
それは多分、部屋の反対側にいた一人の男性に対して言った言葉だったのだろう。

彼は無意識的にそう感じ、仕方なく彼女の近くに歩み寄ると、おもむろに声をかけた。

「何が終わったんだ?」
「うん。前にも言ったよね。あたしがネットで小説書いてるって話」
「ああ、そう言えばなんか聞いたことがあったような気がしないでもないような……」
「なーによ、それ!人がせっかく終わらせたって言うのに、労(ねぎら)いの言葉くらいあってもいいでしょ?」
「労いって言われてもなあ、大体どんな小説書いてんだ?」
「それは別にいいでしょ!もーちゃんには内緒だよ!」
「内緒はないだろ?こうして二人で暮らしてもう半年だぞ?俺の秘密はすぐ聞きたがるくせに!」

そう言ってもーちゃんと呼ばれた男性は少し怒ったような表情を浮かべた。
ただ、以前ならば――同棲し始めた頃ならば、それは軽い冗談として流れていったことだろう。
しかし、お互いに相手が笑っただけで幸せな気分になれたあの頃はもう遠いどこかへと……。

「いいじゃん!これね、ほんとに長かったんだから。ね?だからさ、労ってほしいんだ。お願い!」
「なんで俺が労わなきゃいけないんだよ。もういいよ。俺疲れたから……部屋で休んでるよ」
「ねえ、ねえってばあ!……バカ!……もーちゃんのケチ!……」

彼女がそれほど労いの言葉に固執したのには理由があった。
彼女が書いていた小説、それは彼女ともーちゃんとの恋愛を描いたものだったのだから。
そして、彼女がそれを書き始めたのが、実はもーちゃんと付き合いだした頃だったのだ。
そう、それはまさに、お互いに相手が笑っただけで幸せな気分になれた頃……だっただろう。

「はあ……せっかく終わらせたのに……やっぱりもーちゃん、私のこと……」

彼女はそう言ってから、何度も何度も、深く溜息を吐いた。

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