■掲示板に戻る■ 全部 1- 101- 最新50
ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!5

1 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:16

【10秒でわかるあらすじ】

とある事情で、とある部屋に、とある奴らが来るようになった。そんな話。


【過去スレ】

ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!! (第一部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1040831621/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1040831621.html
ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!2 (第一部→第二部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1043831353/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1043831353.html
ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!3 (第二部→第三部)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news7/1053111546/
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/1053111546.html
●ショムニ● (第三部→第四部→第五部)
http://www.omosiro.com/~sakuraotome/live/test/read.cgi/bbs/1041444474/22-

2 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:17

何かが違う。それが何なのかはよくわからない。
でも、私の中で、確かに何かが変わろうとしていた。
そして私はそれを、焦りの感情と、そしてその真逆の感情とともに強く感じていた。

冬の弱い陽光が水面に注ぎ、キラキラと瞬きながら目に飛び込んでくる。
風が枯れた木々の間に吹き、川沿いの遊歩道から人の姿を消し去っていた。

川沿いの公園。寒さの中、私はその一番奥まったところにあるベンチに座っていた。
考え事をする時によく座るその定席のベンチ。でも、それがいつもとはどこか違っているように思えた。

それはつい先ほどのことだった……。

私が部屋に帰ってすぐ、まるで私を追いかけてきたかのようにインターホンの音が響き、
そして私の耳に懐かしい声が届いたのだ。

「たっだいま〜!」

玄関に出ずともわかった。それは久しぶりに聞く保田の声……。
ただ、その声が聞こえた時と、私が彼女の姿を目にした時とでは、その心情はかなり違っていた。

「よっ!もーちゃん、久しぶり!」
「えっ?……お前……保田、だよな?」
「なーに言ってんのよ。保田じゃなくて誰なのよ。高樹千佳子?南野陽子?」
「あ、ああ……やっぱ保田だよな……」
「なんか残念そうね。せっかく久しぶりに来たっていうのに」
「いや、そんなことないけど……ただ、なんか雰囲気が変わったっていうか……」

彼女と前に会ったのはもう二ヶ月以上前になるだろう。
それから彼女は舞台の稽古に専念し、そして今年に入ってからは一ヶ月間の連日公演をこなしていた。
一度、彼女の誕生日に――福田と市井にせかされて――私から電話をかけたことはあったものの、
実際にその姿を見るのは二ヶ月ぶりだったのだ。

3 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:17

そして、きっとそのせいなのだろう。
私の目に映った彼女の姿が、以前とは比べものにならないくらい違って見えたのは。
彼女はその舞台で大きく成長したのだろう。女優として……そして人間として……。

それはそれで歓迎すべきことなのだろう。
しかし、私の中には、どこか私一人だけが置いていかれたような……。
そしてまた、彼女が私からどんどん遠ざかっていくようで……。

「ねえ、紗耶香は?荷物あるんだけど……出かけてるの?」
「ああ、昨日帰ってくるはずだったんだけどな、なんか延長するとかで」
「延長って、どっか行ってるの?」
「姉さんと二人で旅行だってさ。よくわかんねーけど、あの二人って結構信頼関係あんだよなあ」
「そうなんだ。じゃあさ、明日香は?」
「今年はまだ来てねーよ。学校とバイトが忙しいんじゃねーか?」
「そっか。こっちで会おうねって言ってたんだけどな。あ、そうそう、明日香ね、舞台来てくれたんだよ」
「へえ」
「彩ぺっとね、二人で来てね。あと裕ちゃんたちも来てくれてね。ごっちんとなっちと真里っぺとね」
「そうなんだ」
「うん。もーちゃんは結局来てくれなかったよね?」
「お前が来るなって言ったんだろ。まあどっちみち行く暇無かったけどな。あと金も……」
「言ってくれたらチケ取ってあげたのに。でもあれか、もーちゃんそういうの嫌いだったよね」

楽しげな保田の表情が、私にとっては逆につまらなく感じられた。
いつも自分の殻に閉じこもってきた私にとって、そんな気持ちになることはよくあることだった。
でも、その時だけはさすがにいつもとは違っていただろう。

私の唯一の支えは、突き詰めれば彼女への思いだけだったのだから……。
その支えが失われた時、私にはどこか行く場所があるのだろうか……。

タバコに火をつけ、ふーっと煙を吐き出す。
健康のことを考えて吸い始めた頃の2mgに戻していたものの、それを物足りなく感じたのは初めてだった。

4 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:17

部屋に戻るとテーブルの上に一枚の書置きが置いてあった。
今夜はこちらの友達と夜まで騒ぐ……というようなことが彼女の字で書かれてあった。
さっき携帯で熱心にメールのやりとりをしていたのはそれだったのだろう。

またも置いていかれたような、そんな気分に陥り、私は再びタバコを取り出した。
部屋の中では禁煙という決まりがあったものの、その時はもうそんなことはどうでもよくなっていた。
自分の部屋から、自分専用のウイスキーを取り出して来て、そして瓶のままそれを一口、口に含む。

ほろ苦く、それでいてどこか甘い液体が喉を刺激する。
つまみはオーザック。スナック菓子をつまみにするなんて、久しぶりのことだった。

そう言えば以前福田と話をしていて、こんな話になったことがあった。

 「もうさくさん、好きな食べ物はなんですか?」
 「好きな食べ物?……どうだろなあ……色々あるけど……」
 「悩んだりして、もう死にたいって思うことありますよね?」
 「は?なんの話だよ、それ」
 「そういう時はですね、好きな食べ物を死ぬほど食べるといいんですよ」
 「なんだそりゃ」
 「せっかく死ぬんだから、その前に食べまくるんです。そうするとね、なぜか死にたくなくなるんですよ」
 「それお前の経験談か?」
 「私は死にたいなんて思いませんよ。ただ、昔そういう友達がいたんです」
 「変な友達ばっかだな。お前って」
 「その一番はもうさくさんですけどね」
 「じゃあ俺の友達も変な奴ばっかな。お前を筆頭に、だけど」

私の好きな食べ物……それは色々ある。
昔ある焼肉屋で食べた生のレバーは一生忘れられない味だっただろう。
ただ、それはたまに食べるから旨いのであって、死ぬほど食べるようなものではないだろう。

私が死ぬほど食べてみたいもの……それはそう、ゆで卵とオーザックだった。

5 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:17

ただし、私は別に死にたいと思っているわけではなかった。私はまだまだ生に対して未練を持っていたし、
未練というか、そもそも死ぬなんてことを自ら意識したこともほとんどなかった。
唯一、心臓の異常で倒れた時はさすがに現実として死を意識したものの、
あれも他動的なものであって、自らが生を望んでいることの裏返しに他ならない。

でも、その時はその福田の言葉をなぜか深く思い出しており、
そしてまた、生きていることを実感するために、私はそれを実行しようとしていた。

一度部屋を出て、買い物に出かける。
スーパーのカゴに、ちょうど割引になっていた大量のオーザックを押し込み、
そして卵を二パックと、あとトマトジュースのペットボトルを二つ突っ込む。
さらに帰り際、酒屋で多少の酒を買い込み、おまけに自販機で久しぶりに赤ラークを買う。

こうして準備を整え、私は部屋へと戻った。自分が生きていることを確かめるために……。
しかし、その計画が予定通りに実行されることはなかった。

「ねえ、部屋でタバコって禁止だったよね?」

リビングに置かれた灰皿を指差しながらそう話し掛けてきたのは市井だった。
いつものことながら、タイミングの悪い奴だ。

「なんだ、帰ってたのかよ……」
「何よその言い方」
「ああ、悪い悪い。ちょっとな、一人で過ごしたかったから……」
「もしかして圭ちゃんのこと?……メモが置いてあったけど」
「違う違う。……てか、まあ関係あるんかな……よくわかんねーよ」
「なんかあったの?久しぶりに会って喧嘩したとか?それとも振られちゃったとか?」
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ。それより旅行はどうだったんだ?」
「楽しかったよ。温泉行ってね、それが裕ちゃんの友達が若女将やってる旅館でね」
「なんか昼ドラみたいな話だな」
「それで料理も美味しかったし、温泉も死ぬほど入ったし、ほら、肌ツヤツヤでしょ?」
「死ぬほど……ねえ……」

6 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:18

「もーちゃんも来れば良かったのに。誘われてたんでしょ?」
「ああ、なんかそういう話もあったな。冗談だと思ってたんだけどな」
「もったいないことしたね。あんな旅館滅多に泊まれないよ」

その冗談の話は去年の年末、姉さんと彩っぺと飲んでいた時の話だ。
市井が気分が悪くなって部屋に戻った後、部屋には三人が残っていた。

 「そうそう、あんたパスポート申請してくれたやろな?」
 「なんの話ですか?……韓国ツアーだったら行きませんよ」
 「なんや冷たいお人やなあ。うちがこんなに頼んでるいうに」
 「いくら定員割れだからってそうやって知り合いに頼むことないっしょ」
 「せやけどガラガラで恥かくんはうちなんやで?うちのためや、行ったってや」
 「大体場所が悪いですよ。韓国なんて今日び誰も行きたがりませんってば」
 「そりゃうちのイメージからしたら南仏とか東欧とかなんやろうけど……予算とか色々あんねん」
 「誰がですか?誰が南仏なんすか?誰が東欧なんすか?」
 「うちに決まってるやろ?エーゲ海はカオリンに譲るとしても、南仏はうちしかおれへんやろ」
 「どう考えても有馬とか城之崎とかじゃないすか」
 「それ、どないな意味や!」
 「いや、別にレベルが低いとかってことじゃないっすよ。イメージの問題ですから」
 「どう違うねんな」
 「例えば、姉さんと城之崎温泉ツアーとかだったらむしろ参加したいくらいですよ。これマジな話」
 「よっしゃ!ほな変更や!今から事務所に電話するで!!!」
 「いやっ……今さら無理でしょ……」
 「いや、電話するで!あんの事務所の言うことなんてもう聞かへんで!うちは!」

それから姉さんは再び愚痴り始めた。特に殺気立っていたのは、
ファンクラブツアーと称しての事務所の金儲けについての不満だった。
このファンクラブを仕切っているのはアップフロントインターナショナルという会社らしいが、
そこも会長の娘だか息子だかが社長をしているらしく、つまりは会長一族の資金稼ぎのために、
そういうえげつないファンクラブツアーが行われている、ということらしく、
姉さんはそれに利用される云々ということが我慢ならなかったらしい。

7 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:18

 「ほんまあの山崎ってのは卑劣で最低な男やで」
 「それは私もわかるわ。あの人、ちょっとねえ……」
 「前なんかな、体で仕事取って来いとか抜かしよったんで?」
 「それはひどいわね……よく聞く話だけど」
 「そやろ?それにあいつ自身から誘われたこともあったんで。もちろん断ったったけどな」
 「……」
 「ほしたらいいとも降板や。あん時はさすがに事務所やめよ思おたで」
 「でも辞めなかったでしょ?」
 「一応それでも仕事貰えてたしな。移籍したらしたで嫌がらせするやろうし」
 「嫌がらせねえ……」
 「彩はよう我慢したなあ。ほんまえらいわ」

結局その時の城之崎温泉ツアーという話が、市井との温泉旅行になったのだろう。
ただ、それは姉さんがその時に思いついたのではなく、
もしかすると市井の引退が決まった時から、姉さんがずっと考えていたものだったのかもしれない。

姉さんと市井という組み合わせは一見すると意外な感じがするが、
しかし、姉さんを一番信頼していたのは市井であって、
そしてそのことを一番認識していたのも中澤だったのだから。

「ねえ、それお酒だよね?それに……オーザック、そんなにどうするの?」
「酒は飲むに決まってるだろ?それにオーザックは食べる。それ以外にどうすんだ?」
「それはわかってるけど」
「なんなら一緒に食うか?言っとくけど、今日晩飯作るつもり無いからな。わりーけど」
「なんかよくわかんないけど、やっぱり振られた?ヤケ食いってやつ?」
「ただのストレス発散ってやつだ。お前も付き合うか?それとも晩飯なら自分で作ってくれよ」
「わかった。私も付き合うよ!でもさ、せっかくだからピザでも頼まない?」
「ピザ?」
「だってさ、オーザックだけじゃ飽きるじゃん」
「オーザックだけじゃねーぞ。ゆで卵も山ほど作るからな。ゆで卵パーティーだ」
「じゃあさ、私ピザ頼むね。もーちゃんはそれでいいから」

8 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:18

結局その夜は、市井が頼んだピザを二人で食べ、
そして山ほど作ったゆで卵を食べ、そしてオーザックを食べ、
そしてウオッカにトマトジュースをぶち込んで作ったブラッディマリーもどきを飲み、
そして……そして……そして……。

「ねえ」
「ん?」
「もーちゃんさ、なんか無理してるよね?」
「そうか?」
「そうだよ。なんかさ、無理に自分を抑えてるよね?」
「それはまあ、あるかも」
「だよね。なんかね、自分で作った決まりに自分で縛られちゃってる感じなんだよね」
「駄目か?」
「駄目じゃないけど。でも、それって疲れるよね?」
「まあ、なあ……」
「あのさ、たまには自分に甘えてみたらどうかなって」
「甘えるって言ってもなあ」
「難しいことじゃないよ。ただ自分のやりたいことをやればいいの。もーちゃんが自分で許す範囲でね?」
「やりたいことって言われてもなあ……」
「あのね……私だって甘えたいって思う時あるんだよ。でもね……でも……」
「でも、なんだ?」
「もーちゃんがそんなんだったら、こっちだって息がつまるんだよ」
「……!」

それは正直、今まで全く考えたことがないことだった。
私は彼女たちに迷惑をかけまいと、必要以上に介入しないように、そう自分を抑えていた。
でも、もしそれが、彼女たちに余計なストレスをかけるだけだったとしたら……。

「もーちゃんが色々あって甘えられないってのは私もよくわかるよ。でもね……」
「……」
「甘えられることに甘えてみるってのも、たまにはいいんじゃないかなって」

9 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:19

アルコールはそこまで入ってなかった。
いくらウオッカとは言え、ほとんどがトマトジュースであって、二人とも意識は正常だっただろう。
だから、それは決して気分が高揚したり、盛り上がったりした結果の言葉ということではなかった。

「だからね、甘えさせてほしいの……もーちゃんのために……」

私のために……市井が私に甘える?
それは不思議な論理だった。でも、それが市井の私に対する思いやりだということは自然と理解できていた。

「キスとかね、エッチとかね、そんなんじゃないの。ただね、もーちゃんに人の温もりを感じてほしいの」
「温もり?」
「うん。あのね……抱きしめてほしいの……それだけでいいから……」
「だ、抱きしめるって……お前……」
「変な意味は無いよ、もちろん。ただね、今のもーちゃんには温もりが必要だと思うの」

そう言った市井の目は真剣だった。以前風呂場に水着で乱入しようとした時とは全く違っていた。
市井はきっと、あれから色々と考えたのだろう。私を励ますにはどうしたらいいのか……。
ある意味、この部屋で一番悲惨だったのは、市井ではなく私だったのだろう。
そして、市井はずっと、それをどこかで感じ続けていたのかもしれない。
ただ、私の性格にそれを当てはめることができなかっただけで……。

「ほら、立って立って!」
「えっ?」
「はい、気をつけー!」
「はあ」
「前に、ならえー!」
「こうか?」
「はい。それじゃ、そのまま抱きしめてー!」

市井の号令通りに伸ばした腕で、私は目の前にいた市井の体を抱きしめていた。
そして、それと同じように市井が両腕を私の背中へと回す。

10 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:19

「えへへ。どう?気分は」
「どうって言われてもな……」
「落ち着く?」
「……ああ……それはまあ……」
「よかった。怒るんじゃないかって思ってたから」
「怒らないよ……」
「ほんと?」
「ああ、これだけなら、な」
「えへへ。それじゃ怒らせちゃおっかな?」
「よせよ。そういうの」
「冗談だよ。でもさ、たまにはいいもんでしょ?」
「まあ、なんつーか……」
「久しぶりでしょ?女の人抱きしめるの?」
「一言余分なんだよな。どうせ俺はモテない一人者ですよ」
「そんなこと言って、この前告白されたくせに」
「はあ?な、何言ってんだよ!」
「知ってるんだよ、この前本屋の店員さんから手紙貰ってたでしょ?ほら、一緒に立ち寄った時」
「な、なんでそんなこと……」
「だってもーちゃんかなり戸惑ってたし。それにあの後態度おかしかったしね」
「バ、バカ……お前には関係ないだろ!」
「あの子、振っちゃったの?黒髪で真面目そうな子だったよね」
「そんなんじゃねーよ。あれはただ、なんつーか、ただの手紙だ」
「ふーん。でも意外だよねえ。もーちゃんがモテるなんてさ」
「だからモテないって言ってるだろ。そりゃ昔は色々あった時代もあったけどさ」
「世の中って不思議だよね」
「なんでそこで世の中がでてくるんだ?なあ?」
「えへへ。でももーちゃんは圭ちゃん一筋なんだよね?」
「……まあ、な……」
「そう言い切れるのに、なんで打ち明けないかな?やっぱり勇気が無い?」
「……ま、それもある……ってか、その話題やめないか?この格好でする話題じゃないだろ?」
「えへへ。それもそうだね」

11 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:19

久しぶりに感じる女性の温もり。いや、それは人の温もりと言った方がいいのかもしれない。
私が心臓で倒れた後、福田や市井に添い寝してもらおうとした時も、
私はきっと、このような温もりを、そしてこの落ち着きを求めていたのだろう。

甘えることはかっこ悪いことだと、私はずっと思い続けてきていた。
でも、甘えたい時に甘えることができるというのは、もっと自然で普通のことだったのかもしれない。
もちろん、自分に、そして相手に甘え続けるというのは、それはそれで一人の男としては問題だろう。
だけど、相手のために甘えるということ、それもある意味必要だったのかもしれないと、
そう私は市井を抱きしめながら感じていた。

「ねえ……もう時間だけど、延長する?」
「……」
「わかった。じゃあ延長ね!」

私の無言の返事を彼女が受け取り、再び長い長い時間が過ぎていく。
彼女の表情は見えないし、彼女からも私の表情は見えない。
でも、お互いに何か心の表情が見えているような、そんな気がしていた。

「あのさ……」
「なに?」
「……ありがとな……」
「うん。こっちも、だよ」
「お前の優しさってさ、いっつも空回りばっかだけどさ……」
「空回りかあ。ほんとそうなんだよね」
「でも、今日はよく伝わったよ……」
「私にも伝わってるよ。もーちゃんの優しさ。いつもは頑固なのにね」
「まあ頑固は元々だしな。福田ほどじゃないけど」
「明日香かあ……そうだ、もーちゃんさ、明日香のことどう思ってる?」
「どうって?」
「たまにはさ、女性として見てあげてね。明日香だって年頃なんだし」
「なんだそりゃ?あいつはそういうタマじゃないだろ?」

12 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:20

「でも最近女らしくなってきたでしょ?そういうのちゃんと感じてあげなきゃ、ね?」
「そう言われてもあいつはあいつだろ?妹っていうか、一応俺の師匠だし」
「ははは。師匠かあ、そう言えばそんなこと言ってたね……」

と、その不思議な部屋に、一つの電子音が鳴り響いた。
一瞬ドキッとする。それは私がそれを彼女の帰宅だと思ったからだ。
慌てて離れようとするも、市井の両腕は私の背中をきっちりと抑えて離さなかった。

「駄目だよ……まだ延長中だから」
「で、でも……ま、まずいだろ?」
「いいじゃん。たまには妬かせてあげようよ。ね?」
「ね、じゃねーよ。お、おい、離せって……」
「だーめ。後3分は駄目だよ。そうじゃなきゃ圭ちゃんに無理やり襲われたって言っちゃうから」
「ほんっと勘弁してくれって。な?な?」
「だーめ!」

と、その言葉と同時に、リビングのドアが開き、そして陽気な声が耳に届いた。

「あ〜れ〜、なんやお楽しみかいな〜。こりゃまったおじゃまっしましった」

酔ってるであろうその声は、その後も独り言を言いながら徐々に小さくなっていった。

「しかしあれやなあ、若いってええなあ……ほんまええなあ……あーうちも若さがほしい……」

その言葉にほっと一安心するも、それで安心していいべきかどうか、それもまた問題だった。

「なーんだ。裕ちゃんだったんだ。ちょっと残念」
「なにが残念なんだよ……こんな格好見られたんだぞ?誤解されたらどうすんだよ」
「大丈夫だよ。だってもーちゃん抱きしめてあげてって言ったの、裕ちゃんだもん」
「えっ?」
「裕ちゃんがね、もーちゃんが辛そうだから、あの人無理してるからって、そうね、心配してたんだよ」

13 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/08(日) 06:20

「……なのか……?」
「うん。ほら、後1分だよ。もう延長は無いからね。もっと温もり感じちゃっていいよ」

時間が過ぎ、お互いの背中に回していた腕をゆっくりと下ろす。
そして少し離れてお互いの顔を見つめる。

そこには笑顔があった。それが甘えたことの笑顔なのか、甘えられたことの笑顔なのかはわからない。
でも、そこにあった笑顔を見た時、私の中に、ある不思議な感情が呼び起こされようとしていた。
ただ、私は慌ててその感情を制止した。もしそこで彼女が、例え冗談でも目を閉じたりしていたら、
私のその感情は、多分現実に浮き出てしまい、最後には後悔という思いに悩まされていたことだろう。

例え一人の女性のことを想い続けていたとしても、ふとしたきっかけで、
それとは別の人を好きになってしまうこともあるだろう。それが人間の弱さなのかもしれない。
その時の私はまさにそうだった。その笑顔を見た瞬間、どこか彼女に対していとおしいという想いが、
自然と湧き出てしまっていたのだから。もちろんそこにそういう特殊な状況があったことが、
それを大きく飛躍させてしまったのだろうが、しかし、そこにたった一つまみとはいえ、
そうした感情が生まれてしまっていたことは、自分でも否定することができなかった。

もちろん、だからと言ってそれが保田への想いを変えてしまうことになる、ということはないだろう。
でも、私はその自分の自然な感情の反応に、少しの不安と、そして多くの苛立ちを覚えていた。
それはもちろん、自分自身に対しての……。

姉さんや市井が私のことを心配してくれていたことは、それは素直に嬉しいことだった。
でも、それは結局――私の悩みは結局――私と保田との関係から生まれるものなのだ。
だから、例え彼女たちが今日のように私に対して落ち着きを与えてくれたとしても、
それも私の悩みを根本的に解決するものにはなりえないし、また、その逆にもなりえてしまうのだ。
私が保田を想い続ける限り、その悩みもまた、続いていくのだろう。ただ、
それも幸せな悩みなのだろうと、そう思えたのも、その時の市井の温もりのおかげだったのかもしれない。

――――――
   つづく
――――――

14 :名無し娘。:2004/02/08(日) 07:34
新スレおめ
ドキドキハラハラ半分半分(;゚∀゚)=3

15 :名無し娘。:2004/02/08(日) 08:15
このタイトルはすごくいいと思う。

16 :名無し娘。:2004/02/10(火) 16:47
イイヨーイイヨー

17 :名無し娘。:2004/02/11(水) 01:15
新スレ乙!
楽しみにしてるぉー

18 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:54

翌朝、私が目を覚ますと、リビングにはすでに姉さんの姿があった。
朝のニュース番組をリレーするも、気に入った番組が見つからずにいたらしい。
水の入ったグラスを置いているところを見ると、まだ酒が残っているのだろう。

「おう、青年!やっと起きたみたいやな」
「珍しいですね、姉さんが早起きなんて」
「ああ、昼までに東京戻らなあかんねん。ほんまは昨日帰るつもりやってん」
「そうなんですか」
「そうや。軽く飲んだ言うてもな、この年になると肌戻すのに時間かかんねんな」
「大変ですね、三十過ぎると」
「あんた結構な毒やなあ。そうやってマジで同情されると余計へこむねんで」
「ははは。そりゃすいません」
「そうそう。うちな、昨日は酔っててなーんも覚えてへんさかいな。せやから安心してや」

やれやれ、一体どっちの方が毒があるんだか……。

「あ、御飯どうしますか?二人が起きてからにします?それとも時間ありませんか?」
「二人?……ああ、圭ちゃんかいな。圭ちゃんなら帰ってへんで」
「そうなんですか」
「なんや心配なんか?」
「そりゃまあ……」
「ええなあ……。そういう一途な恋心って言うん?……ほんま圭ちゃんが羨ましいわ……」

やはり酒が残っているのだろうか。姉さんが私をからかうでもなく、
そうやって溜息まじりに感想を漏らすのはかなり珍しいことだった。
何か深く思い悩んでいるような、そんな感じにも見えた。

昨夜は陽気に酔って帰ってきてはいたが、
もしかすると酒を飲んだことには何らかの理由があったのかもしれない。

市井が起きる前に二人で朝御飯を食べ、姉さんは疲れた笑顔で家を出て行った。

19 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:55

朝のニュース番組がワイドショーに切り替わる頃、ようやく市井が起きてきた。

「おはよう、裕ちゃんは?」
「帰ったよ。東京で仕事だってさ」
「そうなんだ。圭ちゃんは?」
「さあな。まだ帰ってないよ」
「ふーん、それでそんなに暗い顔してんだ。納得」
「なに納得してんだよ。ったく、御飯そこにあるから、味噌汁温めて食えよ。俺今からバイトだから」
「そうなんだ。私、今日帰るんだよね。旅行の最後に戻ってきただけだから」
「そっか。そりゃ残念だな」
「そう?それにあれだよね、私、お邪魔だよね?」

そう言って市井は嫌らしい笑顔を浮かべた。
こういう笑顔をさせたら、多分市井は日本でも上位に食い込むことだろう。

「ま、気をつけて帰れよ。ほんじゃ俺行くから。またな」
「うん、行ってらっしゃい」

夕方になり家に戻ると、テーブルの上にはまたもや書置きがあった。
それも二枚。市井と、そして保田のものだった。

市井のものは、単に次にこの部屋に来るのが楽しみ、というような内容だったが、
ただ、その最後に「寒くなったら私を思い出してね ♥ 」と書いてあったのには、
さすがに愕然としてしまった。保田がその部屋に戻ってくることを知っていながら、
わざとそういうことを書くところが、まあ市井の市井である由縁なのだろうが。

一方の保田のものは、今夜は仕事で何時に帰る、御飯はいらないといった味気ない内容だった。
追記として「紗耶香のメモどういうこと?聞いても教えてくれないんだよね」とあったのは気になったが、
市井が帰る前に保田が帰宅していたということで、それはそれで救いだったかもしれない。

その夜は一人の食事ということで久しぶりにほか弁で済ませることにした。

20 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:55

「ただいまー」
「おかえり。遅かったな」
「うん。出番は少しだったんだけどね、面白そうだったからスタジオで見学してたの」
「そうなんだ」
「うん。ねえ、御飯ある?」
「はあ?だっていらねーって書いてただろ?」
「書いたけど、でも食べてないんだよね」
「しゃーねーな。それじゃ冷蔵庫にあるもんで適当に作ってやっから、それでもいいなら待ってろ」

飯がいるならいるで連絡くらいしてくれてもいいのだが……。

「ほれ、できたぞ。キャベツだけのヤキソバだけどな」
「ありがと。それじゃいただくね」

そう言って私の作ったやきそばを食べる保田。
その素振りは以前の保田とは違ってどこか上品に見えた。

保田が風呂から上がった後、彼女の――彼女たちの――部屋をノックする。

「はーい。どうぞー」

ドアを開けると、ベッドに座ってタオルで頭をふきふきしているパジャマ姿の保田がいた。
保田は普段自宅ではネグリジェで寝るのらしいが、この部屋ではなぜかパジャマだった。
他にパジャマ派なのは彩っぺと後藤と福田で、福田のパジャマは彩っぺのお手製だった。
残りの中澤と市井はトレーナー派だったが、ちなみに市井はなぜか私のトレーナーを勝手に愛用していた。

「これさ、ちょっと遅くなったけど、誕生日プレゼントな。市井と福田とお揃いなんだけど」
「あ、ありがと」

それはかなり素っ気無い反応だった。もっと喜んでくれると思っていたのだが、
やはり野球のグローブというのが駄目だったのだろうか。

21 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:55

「お前たちとさ、キャッチボールでもしようと思って……」
「うん」
「それでさ、この前市井とキャッチボールしたんだけど……」
「うん」
「あいつ結構うまいんだよな」
「そうなんだ」
「ああ」
「うん」

弾まない会話。まるでボーリングの球のようにボトンと落ちるだけのキャッチボール。
思わず私は彼女に尋ねてしまっていた。

「……なあ、あんまり嬉しくなかったか?」
「ううん。そんなんじゃないよ。嬉しいよ。ありがとう」
「……そっか。ならいいんだけど……なんか元気ないよな?」
「そんなことないよ。元気だよ」
「ってか全然元気に見えないんだけど。なんか悩み事でもあるのか?」
「ないよ。そんなの」
「そりゃ変だろ?お前いつも悩みだらけだったじゃん」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「……」

確かにその時の彼女は元気が無かった。いや、元気が無いというか、かなり大人しかった。
もしかすると市井のメモのことを気にしているのかと、ついそんなことを考えてしまう。

「ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「なんかバカにしおらしいからさ……」
「そう?」
「そうだよ。なんかお前らしくないっていうか……」

22 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:55

なんというか、舞台が終わってからの保田は以前とは確かに何かが違っていた。
そして私の目には、それはまるで別人のように映っていた。

そんな彼女を確認するかのように、私は冗談まじりに発破をかけた。しかし……。

「なあ、そんなに大人しいんだったら、元気出ないんだったら、俺が押し倒してやろうか?」
「えっ?」

その瞬間、髪を拭いていた彼女の手が止まる。
しかし、止まったのは私の方だっただろう。

「……いいよ。押し倒しても……」
「……!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……いいよ……」
「あ、俺、もう寝るわ。悪かったな……おやすみ……」

そう言って私は慌てて部屋を後にした。その心はかなり動揺していた。
どう反応していいのか、何がどうなっているのか、よくわからなかった。

ただ、一つだけわかったこと――彼女は以前の彼女とは確かに違っていた。
そしてまた、その彼女の言葉は、私への好意を表しているというよりも、
逆に、その好意が冷めてきていることを表しているように私には思えた。

布団に潜る。泣きたかった。なぜかはわからないが、とにかく泣きたかった。
でも、涙は出てこなかった。それは多分、以前からわかっていたことだったからなのだろう。

私と彼女の間には、もう何も存在しないということ……。

23 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:56

市井が帰り、保田が帰り、また私一人の生活が始まろうとしていた。
が……そんな時、私の前に一人の天使が……。

トゥルルルル。トゥルルルル。
私が帰宅すると同時に部屋の電話が鳴った。

「はい、もしもし」
「あ、もっちー?」
「も、もっちー???」
「あはは。なっちだよ、なっち」
「な、なっち?」
「うん。なっち。あのさ、今部屋に誰かいる?」
「いや、いないけど」
「なーんだ、いないんだ……」
「あ、何か用事とか?」
「ううん。あのね、なっち、今大阪にいるんだ」
「ああ、確かミュージカルだっけ」
「うん。明日からなんだけど、なんだか落ち着かなくてね」
「そうなんだ。そりゃ大変だなあ」
「それで、誰かに会いたかったんだけどな……」
「そりゃタイミング悪かったなあ。数日前なら色々いたんだけどな。直接電話してみたらどうだ?」
「うん、それじゃ電話してみる。ごめんね」
「いや、いいけどさ、ただ、せっかくならこっち来ればよかったのに。誰もいないけどさ」
「うん。でも、さっきまでリハしてたし、ホテルから出ちゃ駄目って言われてるから……」
「そっか。まあ大変だわな」
「うん。それになっち、ホテル出たらそのまま逃げ出しちゃいそうだし……」

安倍が卒業して十日あまり。安倍が不安になるのも無理はないのだろう。
ミュージカルの経験はあるとはいえ、今回は安倍は一人でそれに取り組まないといけないのだから。

仲間がいる……それがどれほど心強いものだったのか、それを改めて痛感していたのかもしれない。

24 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:56

受話器を置いてすかさず、私は中澤姉さんに電話をかけていた。あることをするために……。

そしてその翌日の夜、今度は姉さんから電話がかかってきた。

「ほんでどうやったん?なっちには会えたんか?」
「一応ホテルのフロントには渡したんですけど……」
「名刺は渡したんやろな?」
「ええ。自分の、っていうか『オフィスゆうこ』の名刺ですよね。ちゃんと渡しましたよ」
「そっか。ほな渡ってるはずやで。こっちからそう伝えてたさかい」

実は“その”夜、私は姉さんから安倍が泊まっているホテルを聞き出し、
そしてそこに赴いてフロントにあるものを渡していたのだ。
それは小さな小さな鉢植えと、そしてカイワレ菜の種。

今はそんなことはしていないが、私は以前の部屋に住んでいた頃、色んな植物を栽培していた。
植物と言っても大したものではなく、プランターに種を蒔いたのはパセリとカイワレ菜くらいであって、
他は例えばスーパーで買ってきたネギの下の部分を切り取って土に植えたり、
玉葱や人参を栽培して花を咲かせようとしたり――結局咲かなかったが――と、
まあ結局は食用の植物が中心で、それも実験的な好奇心からのものだったのだが、
しかしそれが意外と面白いもので、それは一人暮らしの淋しさを紛らわす以上の意味を持っていたのだ。

そして、私はそのことを思い出し、安倍が数日間の滞在ということで、
すぐに芽が出るカイワレ菜の種を贈ることにしたのだ。
もちろん、安倍の淋しさを紛らわし、そしてミュージカルを頑張ってほしいという気持ちを込めてだった。

「うちもあんたから電話あった後な、なっちに電話してんで」
「そうなんですか」
「そうや。がんばりーってな。まあプレッシャーにならへん程度やけどな」
「それはかなりプレッシャーになるんじゃ……」
「そうか?まあええんちゃうか?なっちもえらい喜んでたさかい」
「ならいいんですけど」

25 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/11(水) 17:56

「そうそう。明日ラジオでそっち行くんやけどな。でもなっちはやっぱ無理なんかなあ」
「どうなんですかね」
「圭ちゃんとごっちんも一緒なんやけどな。まあその後二人がどうなんかはわからへんし、あれやけども」

それはせっかくだから安倍の歓迎パーティー、もしくはそれに準じることをしようということなのだろうが、
ただ、安倍がミュージカルの最中ということで、それはやはり無理なことなのだろう。

「それからあれや、あんたに頼みがあるんやけど……あー、まあええわ。これは明日直接言うわ」
「なんですか?」
「いや、ええわ。明日言うさかいな。ほな、切るで」

姉さんが私に何の頼みがあるのか、それはかなり気になることだった。
そして、その夜、私は不思議な夢を見た。

場所は地下鉄のホーム、そのホームで私は姉さんの左後ろを歩いていた。
姉さんは私にかまわずにどんどん先へと進み、私は離されないようにその後を追った。
ホームは当初、蛍光灯の白い照明で明るかったものの、進めば進むほどトンネルのように暗くなっていった。
そのホームはかなり長く、進んでも進んでも先が見えなかった。そしていつしか私は遅れ始め、
姉さんとの間にはかなりの距離ができていた。と、その瞬間、けたたましい音が鳴り響いた。
前を見ると、ホームの左側にアルミ色の列車が止まっていた。ドアが閉まることを表す音なのだろう。
姉さんは一両目の二つ目のドアから乗り、そのドアが閉まりかけた瞬間、私は一つ目のドアに飛び込んだ。
挟まれる寸前だったものの私は無事に乗ることができていた。ただ……そこに姉さんの姿はなかった。

トンネルの夢はいつか必ず希望が見つかる――出口がある、という意味があると聞いたことがある。
悩みはいつか解決する、それを暗示していると。でも、その夢がどういう意味を持っていたのかはわからない。
トンネルには出口があるかもしれないが、地下鉄には出口はないのだ。
そしてまた、その夢の中で、姉さんが私にとってどういう存在だったのか、それもよくわからなかった。
ただ私が一番気になったのは、いつも夢の中で私を助けようとしてくれる存在、それが出てこなかったこと……。

――――――
   つづく
――――――

26 :名無し娘。:2004/02/13(金) 17:23
作者さん、以前と比べると無口になられたんですね。
でもそんなことは関係なくほんとおもしろいです。
そしてありがとう

27 :名無し娘。:2004/02/18(水) 00:12
昨日初めて知って、一気に読んだ。
すごい面白い!
いいもの読めたよ。

28 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:44
無口になったというか、精神的に寡黙になっているのかもしれません。
楽しんでもらってこちらとしても何よりですし、こちらも楽しい生活を送っているわけですが、
でも楽しさには(私の性格上)必ず苦悩というものが付きまとうんですよね。

まあその苦悩を楽しむことができるということが、幸せということなのかもしれませんが。

29 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:44

薄暗い部屋にチカチカと目に優しくない、硬い光が点滅し、
ソファに座った黒い影の存在を薄っすらと浮かび上がらせていた。
電気をつける。微動だにしなかったものの、その後姿は姉さんのものだとわかった。

「あれ、どうしたんですか?電気もつけずに」

そう尋ねながら、私は姉さんの代わりにカーテンを閉めた。

「ああ、あんたか。帰ってたんか」
「寝てたんですか?」
「いや、ちょっと考えごとしててな」
「二人はどうしたんですか?後藤と……保田は?」
「帰ったで、直接。明日収録があるんやて。一緒に番組に出るらしくてな。ごっちんはミュージカルもあるし」
「そうなんですか。……姉さんは仕事無いんですか?」
「なんやそれ?うちかて仕事くらいあるで。映画もドラマもあんねん。せやけどあんたに話ある言うたやろ」
「それで残ったんですか、わざわざ」
「また朝一番の新幹線で戻ればええことやしな。まあええわ。とにかく話なんやけどな……」
「何の話なんですか?頼みがあるって言ってましたよね?」

姉さんは迷ったような表情を浮かべていた。
私に頼むべきことなのかどうか、それを自分で確認しているような、そんな苦笑いだった。

「実はな、うちにお見合いの話がきてんねん」
「お見合いですか?」
「ほんでな、断ったんやけど……」
「断っちゃったんですか?」
「ん?ああ、まあ……確かにうちは断ったねん。うちは、な」
「なんでですか?あれほど結婚したいって言ってたのに」
「そりゃな、相手は社長の御曹子やし、京都の人やし、うちも少しは考えたで」
「それ、玉の腰じゃないですか!姉さん、玉の腰狙うって、あんなに言ってましたよね?」
「それはそうやけど、せやけどな、いざそういう話が来ると、それはそれで別やねん」

30 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:45

姉さんが結婚できない理由、それは決して出会いが少ないとか、そういう問題ではなかった。
また、理想と現実のはざまで揺れているとか、姉さんのプライドが邪魔になっているとか、
そういうことに起因するものでもなかった。口や外面とは違い、姉さんの心や内面には、
結婚というものに関して、人一倍の、非常に真面目な思いがあったのだ。

それは直接聞いたわけではなかったが、しかし姉さんとよく飲んで、愚痴を聞いたりしていて、
私は姉さんが結婚できない理由、結婚しない理由というものに心当たっていたのだった。

「うちかて結婚はしたいし、お金持ちやったらそれはそれで文句なしやで。収入かて大切な条件なんやし」
「はあ」
「せやけどな、なんや乗り気にはならへんねん。お金と結婚するみたいな気になってしもうてな」
「それでいいじゃないですか。愛なんて後から育めばいいんですよ。お見合いなんてそんなもんでしょ」
「あんた現金やなあ。そりゃうちかてお金は好きやし、愛してるで。そやけどそれはまた別の話やねん」
「はあ」
「まあええわ。ほんでな、断ったねんけど、相手がなかなか引き下がってくれへんでなあ」
「物好きな人もいるんですね」
「なんやそれ。……でも、そうかもしれへんなあ。その人、うちの大ファンらしいさかい」
「それで、私に何を頼みたいんですか?」
「そうそう、それでな、私、今お付き合いしてる人がいますって、そう断ったんや」
「な、なんか話がきな臭くなってきたんですけど……」
「ほいだら相手がな、その人がうちに相応しいかどうか、自分の目で確認して納得したいって」
「まさかとは思いますけど……」
「それで納得できたら引き下がる言うてな。……まあそういうことやねん」
「って……私にその役をやれってことですか?その……姉さんの……」
「そうや。あんたにお見合いに同席してもらお思ってな。もちろんうちの彼氏として」
「な、なんで自分なんすか?姉さん東京に彼氏いてるじゃないですか!」
「んん?あの人はな、彼氏とかそういうのやないねん……別に付き合ってるいうわけでもあらへんし……」
「でも、姉さんその人といい感じなんですよね?秋くらいから姉さんが幸せそうなのも、だからですよね?」
「うーん、いい感じっちゅうか、お互いにそういう関係を望んでるってのはあるかもしれへんけど」
「ならその人紹介すればいいじゃないですか。なんで自分なんですか?」
「その人のことやから、きっと、きっとな、自分から身を引いたりしよんねん。それがわかるさかい……」

31 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:45

それは大人の愛……というものなのだろうか。姉さんはどことなく悲しそうな目をしていた。

「……姉さん、その人のこと、本当に好きなんですね?」
「……そういうことになるんかもしれへんな。……好きというか……うちにとって大切な人や……」
「……わかりました。それなら……少し考えてみます」
「そうかっ。ほなそのお見合いやけど、来月に京都でやるさかい、日程空けといてや」
「いや、まだ考えるって言っただけでやるとは一言も……」
「まあええやん。それと、その前に一度予行演習やっとこ思うねんけどな。それも空けといてや」
「予行演習、ですか?」
「そうや。一応あんたがうちの彼氏になるんやさかい。うちに相応しい男を演じてもらわんと」
「相応しいって言われても、自分を選んだ時点で無理な話じゃないですか」
「そないなこと言うたって、あんた以外に頼める人おらへんねんで。そやから予行演習しとくねん」
「はあ、まあ姉さんがそれでいいっていうのなら、いいのかもしれませんけど」
「よっしゃ。ほな決定やな」
「なんか無理やりですよね」
「予行演習はいつがええかな。うちが韓国行く前にやっとかなあかんさかい……」

そう言いながら姉さんは自分たちの部屋へと戻り、そして手帳を持って戻ってきた。

「来週の○曜日やな。この日なら次の日名古屋で仕事やさかい。こっちに泊まっても問題ないわ」
「わかりました……って、その日駄目ですよ。予定があるんで」
「なんや?予定あるんかいな。バイトなんか休んだらええやんか」
「いや、バイトじゃなくて、というか来週バイト休み入れてますから。東京行くんですよ、用事で二日間」
「あんたが?東京に?何しに行くんや?」
「それはいいじゃないですか。色々あるんですよ、こっちにも」
「そうか。ほな、ぎりぎりやけど○日の○曜日はどうや?うち昼過ぎにはこっち来れるさかい」
「はあ。まあその日なら大丈夫かと」
「よっしゃ、ほな頼んだで。その日はあんたがうちの彼氏やさかいな。そっちもそのつもりでいるんやで」

ということで、私は強引に姉さんの彼氏役をやらされるはめになってしまったのだった。
その日の私がどうなるのか、そしてお見合いがどういう結末を迎えるのか、それは今はまだ……。

32 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:45

そして数日が過ぎ、私は用事で東京へと出かけた。
東京に行くのは久しぶりで、というかあまり行ったことはなかったのだが、
一応用事自体は無事に済ますことができた。慣れないことでかなり疲れてしまってはいたが。

ただ、空いた時間で東京見物でもしようと思ったものの、地下鉄の路線はさっぱりわからなかった。
どこに行くにはどの路線に乗ればいいのか、路線図を見ても複雑すぎて全く理解できなかったのだ。
それが大阪とか、私が住んだことのある他の都市の地下鉄なら、ほとんど苦労することはなかったのだろうが、
しかし、その網の目状の地下鉄も、乗り換えも、その通路も、私にとっては単なる迷路でしかなかった。

ある路線を降り、そして別の路線のホームへと向かうために通路を歩く。
大阪ですら人込みが嫌いな私だったが、さすがに東京というのはそれ以上に人が無駄に多い。
人を避けながら歩くことは自然と身についてしまっていたが、しかし苦手なのは変わらない。
そもそも私が人込みを、都会を嫌いになったのは、あることが原因だった。

それがいつだったかはよく覚えていない。多分、中学時代か、高校に入ってすぐくらいだったと思う。
とある地下鉄の通路で、私は前から歩いてきたスーツ姿の30代くらいの男性とぶつかりかけた。
それで終わればよかったのだろうが、私はその時、その人物に思いきり罵声を浴びせられたのだ。

確かに避けきれなかった私も悪かったのだろうが、でも、それはお互い様だろう。
その時のことがトラウマとなり、私は人込みが苦手に、そして嫌いになったのだ。単純な話だ。

と、ふと私の肩に何かが触れたように感じた。
この人込みであるから、肩が触れ合うことくらいはあるだろう。
私はそう思って、特に気にすることなくそのまま進んだ。――その迷宮の出口に向かって。

でも、それは気のせいではなかった。
今度はしっかりと、肩を後ろからポンポンと叩かれたのがわかったのだ。

誰かが何かの目的で私を呼び止めようとしていたのだろうが、
しかし、こんな人込みで絡まれるというのも変な話だったし、触らぬ神になんとやら、で、
私はギアをトップに切り替えて、付け込まれないように足早にその場を立ち去ろうとした。

33 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:45

しかし、それは私を追ってきていた。
大阪で鍛えた早足で人込みを避けながら進むも、それもしぶとく私の後を追いかけてくる。
ここまで追いかけるというからには、それはタダでは済まされないものなのだろう。

こちらは意識していなかったとしても、目が合ったとか、ぶつかったとか、
そういう因縁をつけられてはたまらない。些細なことでナイフで刺されることのある時代なのだから。

と、私を追ってきていたそれは、ようやく観念したらしく、その気配が感じられなくなった。
しかし、その時だった。

「もうさくさん、もうさくさんってば」

明らかに女性の声。ということは、因縁をつける若者、ということではないらしい。
と言うよりも、それは私にとってもはっきりと聞き覚えのある声、そして呼びかけ方だった。

振り向くと、そこには不思議そうな顔をした福田が立っていた。

「……ふ、福田?」
「もう、なんで逃げるんですか。さっきからずっと肩叩いてたのに」
「お前……こんなとこで何してんだ?」
「それはこっちのセリフですよ。なんでもうさくさんが東京にいるんですか」
「え?ああ、そっか。ここ東京だったよな。そうだよな、俺の方が場違いなのか」
「そうですよ。びっくりしましたよ。さっき地下鉄から降りてきて。もうさくさんがいるんですもん」
「ははは。てか、そりゃ凄い奇遇だな。ほんとに」

数回しか行ったことの無い東京で、広い東京で、しかも入り組んだ地下街で福田と偶然に出会う。
その確率は多分、天文学的な数字になることだろう。中にはそれを運命と呼ぶ人もいるかもしれない。
でも、その時点では決してありえないことではなかっただろう。縁とはそもそも、そういうものなのだから。

ただ、私はまだ、その時には気づいてはいなかった。
少し前に見た地下鉄の夢、そこに福田が登場しなかったのは、現実にその続きがあったからだと……。

34 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:46

地下街を少し歩き、人の少なそうな喫茶店を見つけて入る。木目調の内装に橙色の照明、
ちょっとシックな感じのする店だったが、メニューにはパフェなんかも載っていて、少しアンバランスに思えた。

「ほんっと、びっくりしましたよ。もうさくさんが東京に来てるなんて、聞いてませんでしたから」
「別に誰かに伝えるようなことじゃないからな」
「何しに来たんですか?用事ですか?それとも圭とデートですか?」
「ったく、なんでそこに保田が出てくんだよ。用事だよ、用事」
「納得できませんよ。羅生門だって見に来なかったほどのもうさくさんが、用事で東京に来るなんて、ね?」
「あれだあれ、出版社って言うか、ほら、前にも雑誌見せたろ?あの関係だ」
「あの、季刊なんたらっていう学術雑誌ですか?」
「そそ。一年ぶりにさ、載せることになって。それで色々郵送とかネットとかでも打ち合わせしてたんだけど」
「そうだったんですか」
「最後はやっぱ直接会って突き詰めないといけないからな。だから出向いたってわけ」
「でも凄いですよね。そういうのって」
「読者数かなり少ない雑誌だけどな。専門的なのに結局はアカデミックじゃないし、俺が載せるくらいだから」
「もうさくさんらしいですよね。マイナー指向で」
「マイナーっつーか在野だからな。まあ学歴とか学会に所属してるかどうかで区別するってのもどうかと……」
「もうさくさん、結構コンプレックスありますよね。前も酔って学歴がどうとか言ってましたよ」
「そうか?まあ学会でも変な奴いるからなあ。それ以上に在野にトンデモないのが多いのは事実だけど」
「もうさくさんみたいに、ですか?」
「そうそう。って、そりゃないだろ。こう見えてもガチガチの無難な論説書いてるんだからさ」

そう言ってからコーヒーを飲む。それは話すうちに今回の用事が無事に済んだということを思い出し、
その安心感を得るためと、せっかく福田と会ったのだから、それに見合った話題にしようと思ったからだった。
それに気づいたのか、福田が話題を変えた。

「でも、言ってくれたら私が東京案内したんですけどね」
「まあすぐ帰るつもりだったし。結果として時間余っちまったけどな」
「今日帰っちゃうんですか?どこか泊まるんですか?」
「いや、昨日来てカプセル泊まったから。それに夕方にまた別んとこで用事があるしな」
「そうですか。うちのレストランで食事でもと思ったんですけどね。うちの親も一度会いたいって言ってますから」

35 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:46

福田は芸能界を辞めてからは当然一般人で、それも未成年で学校に通っているということもあって、
大阪の私の部屋に来るということにも、それ相応の事情説明というものが行われていた。
もちろんそれをしたのは私ではなく姉さんと福田自身なのだが、意外にもそれはあっさりと承諾され、
そうしたこともあって、福田は定期的に私の部屋を訪れることができていたのだった。

男の部屋に泊まるということは、親としては決して安心できるものではないし、むしろ回避すべきことなのだが、
しかし全て本人にまかせる、というのがその答えであって、それは娘を信用しているということなのだろう。

「ははは。そりゃちょっと怖いな。うちの娘に手を出してないだろな!とか凄まれたりしてさ」
「うーん、わかってませんね。そういうことならそれは逆です」
「逆?」
「なんでうちの娘に手を出さないんだ!娘の魅力がわからないのか!ですね。きっとそうなります」
「……なあ、お前の家庭って、みんなお前みたいに変わってるのか?ベクトルの向きが変だぞ」
「私は自分が変わっているとは思いませんよ。そう思う方がおかしいんですよ」
「……まあ、お前にとってはそうなんだよなあ。うんうん、それはよくわかってるよ、俺も」
「なんか言いたげな表情ですね」
「ははは。でもそれがお前の魅力だからな。俺もお前の魅力にはほんっとクラクラしちゃうから」
「それ、どういう意味ですか!」
「まあ、お前にはそのままでいてほしいってこった。そんなお前が好きだからさ」
「えっ……あっ……」
「おいおい、何赤くなってんだ?勘違いすんなよ。好きっつってもゆで卵が好きとか、そういう好きだぞ」
「な、なんですかそれ!私がゆで卵と同列だとでも言うんですか!」
「同列っていうか、どっちかと言うとゆで卵の方が好きかな?あのほくほくしたのをさ、がぶっと……」
「ほんっとデリカシーの欠如した人ですね。もうさくさんは!」
「冗談だよ、冗談。そうやってわかってて怒るところがまたかわいいんだから」
「な、何言ってるんですか!」
「ほらほら、そうやって照れるところもさ、なんかかわいいんだよなあ、お前って」
「い、いい加減にしてください!」
「おいおい、大声出すなってば。痴話喧嘩みたいに見られるだろ、なーんてな」
「もう、コーヒーお代わりしますからね。もちろんもうさくさんのオゴリ、ですよ」
「ほいほい。何杯でもお代わりしてくれ。せっかくお前と会ったんだからさ、なんならパフェでもいいぞ」

36 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:46

「それじゃパフェとプリンも頼みますから。言っときますけど、こういうところって高いんですよ、わかってます?」
「わかってるよ。ガキじゃあるまいし。俺だってそういう経験は色々してるんだから」
「無理しなくてもいいんですよ。喫茶店に女性と入るのだって初めてじゃないんですか?」
「なんだそれ。言っとくけど俺の理想のデートは喫茶店だからな。だからそんなん何度でもあるぞ」
「そうなんですか。まさかもうさくさんがそのようなセオリーを理想としていたとは知りませんでしたから」
「でもまあ、そういうのより、今日が一番楽しかったかもしれないな。女と喫茶店入った中で」
「ま、また私をからかうつもりですね!その手には乗りませんよ!」

思わず苦笑いを浮かべてしまった。
それにしても、福田と一緒に過ごすというのは、私にとって本当に楽しいものだった。
保田と一緒にいると、確かに自分の恋心を満たすものではあるけれど、そこには気まずさも含まれるし、
他のメンバーと過ごしていて楽しいと思うことはあっても、それとはまた違う何かがあるのだ。

だからなのかもしれない。夢の中で私を助けようとしてくれるのが、いつも決まって福田なのは……。

「そう言えば、今年初めてだよな、お前と会うのって」
「そうですね。新年の挨拶しないといけませんね」
「ああ、んじゃ、明けましておめでとう、今年もよろしく、な」
「ええ。今年ももうさくさんの面倒見ないといけないかと思うと気が重くなりますが、こちらこそよろしくですね」
「なんだそりゃ。まあいいけどさ、で、次はいつ来るんだ?もう二ヶ月も来てないだろ」
「今は学校が忙しいですから。春休みになれば時間ができるんですけど」
「そっか。ま、安倍の歓迎パーティーもしなくちゃいけないし、早めに決めといてくれよ。姉さんたちと」

それに対して、福田が少し首を傾げたように見えた。

「なっち、ですか……もう来てるんですか?」
「いや、まだ来てないけど、でもそのうち来るだろうし。ってか彩っぺも今年はまだ来てないしな」
「彩には家庭がありますからね。仕事もですけど」

福田がそう言った時、私のその疑問は確実なものとなっていた。
福田は彼女たちのことを、いつも名前で呼んでいた。年上でも彩っぺは“彩”というように。

37 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:46

ただ、それは逆も同じで、例えば後藤のことを“真希”と呼ぶ代わりに、自分のことは“明日香”と呼ばせていた。
でも、安倍だけが違っていた。福田は安倍のことをなっちと呼んでいたのだから。

それは何を意味しているのだろうか。
福田がお互いを名前で呼び合うのは、対等な関係というものを構築するためだった。
と言うことは、福田と安倍は対等な関係ではないのだろうか。そしてそう思っているということなのだろうか。
私にはわからなかったが、でも、福田と安倍の間に何らかの関係があることだけは確かなのだろう。
それがプラスなものなのか、マイナスなものなのかと言えば、多分後者なのだろうが……。

「でもさ、お前がいないとやっぱ淋しいんだよな。市井もそんなこと言ってたぞ」
「そうなん、ですか?」
「ああ。俺だって毎晩のようにお前の夢見るしなあ」
「な、な、なんです?も、もうさくさん、わ、私の夢って……そ、そんないやらしいこと!!!」
「……いやらしいってお前、なに考えてんだよ。普通の夢だろ、普通の。わかるだろ」
「ふ、普通の夢ですか……そ、それならいいです」
「ったく、おいおい、顔赤くなってんぞ。お前なに想像してんだよ。19にもなって思春期か?」
「違いますよ。ちょっと勘違いしただけです」
「てか、もしかしてお前も俺の夢とか見てたりしてな。それもお前の場合はそういう夢でさ」
「バ、バカなこと言わないでください!わ、私がそのような夢を見たなんて、ど、どうして知ってるんですか!」
「……見たのかよ……」
「……」

気まずそうな表情を浮かべる福田。からかうには絶好の話題だったが、
しかしその表情は本当に申し訳なく思っているような、そして責任を感じているような、
そんな表情でもあって、私は逆にそんな福田を慰めようとしていた。変な話ではあったが。

「ま、まあ、あれだ、夢ってのはさ、自分でもよくわかんねーもん見ることだってあるしさ、気にすんなって」
「……すいません……ごめんなさい……」
「別に夢が全部イコール願望ってわけじゃないんだし。意味の無い夢の方が断然多いわけだしさ」
「……」
「俺なんか姉さんに殺されかけた夢とかさ。まああれだ、夢ってのは不可抗力だから、気にすんなって」

38 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:47

それにしても、福田が私との、そういう夢を見たというのは、こちらとしても気まずいものだっただろう。
そのせいか、福田を慰めようとすればするほど、私の方もどこかドツボにはまっていくように思えていた。

結局、私は慰めるのをやめて、いつも通りに福田をからかっていた。

「でもあれだよな。その夢、俺も見たかったなあ。一体どんなシチュエーションだったんだ?」
「な、何聞いてるんですか!さ、最低です!」
「冗談だって。……でもさ、やっぱ気になるじゃん。どういう男と思われてるのか、とか」
「どういう男って、もうさくさんはもうさくさんです。もうさくさんでしかありえません」
「どういうことしたのか、とかさ。夢の中でも紳士でいたいからさ、なーんてな」
「……紳士ではなかったです。野獣でもなかったですけど」

ちょっとショックな発言。やはり私は例え人の夢の中でさえも、凡人に過ぎないのだろうか。

「じゃあ、どうだったんだ?具体的にさ、俺、お前に何したんだ?」

そう言うと福田は少し戸惑いながらも、思い切って口を開いた。

「それじゃ言いますけど。……その……いきなり……私にキスしたんです……もうさくさん……」
「キスって……。じゃあそのいやらしいってのは……そのことか?」
「そ、そうです。……もうさくさん、いきなりなんですもん。その前に一言くらいほしかったです……」

予想に反してのあっさりした答えに、私は少しの落胆と、そして安心を覚えていた。
ただ、それは福田にとっては、確かにいやらしいことの範疇に含まれるものだったのだろう。

少しうつむき加減に頬を赤く染める福田。
私に対しておやすみのキスを求めて困らせたことがあったことなど忘れているかのように、
その時はウブで純朴な本来の姿を見せていた。

「ははは。それじゃ覚えとかないとな。福田とキスする時は事前に言ってからって」
「や、やっぱり最低です!信じられません!」

39 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:47

「すまんすまん。ってかそんなに本気で怒るなよ。たかがキスぐらいで」
「たかがキスでも、私にとっては大切なキスなんです。例え夢の中でも……」
「よくわかんねーけど、お前ってさ、結構純粋だよなあ。まあ、俺も純粋では負けないけどさ」
「何言ってるんですか!私の方が純粋に決まってるじゃないですか!もうさくさんは恋に臆病なだけです!」
「んなこと言って、お前だって似たようなもんなんじゃねーのか?よく知らねーけどさ」
「だ、誰が誰に似てるって言うんですか!そんなの私は絶対に認めません!」
「いや、別に認めるとか認めないとか、そういうことじゃなくて……」
「もういいです。私が悪いんですから。変な夢を見てしまったんですから」

変な夢……まあ確かに変な夢ではある。
ただ、私にとっては、その夢よりも、その福田の一連の反応の方がそれ以上に変に思えるものだった。

「そう言えば、もうさくさん、髪伸ばしてるんですか?」

パフェを美味しそうに頬張りながら福田が尋ねた。すでに先ほどの話題は終わっていた。

「ああ、久しぶりに伸ばそうと思ってさ」
「なんか変ですよ。似合わないとかじゃなくて、バランスが悪いです。特に後ろ髪ですけど」
「まあそうだろな。前は角刈りだったろ。あれ夏休み前だったし、それからずっと伸ばしてるからな」
「むさくるしくはないですけど、でもたまには床屋に行ってくださいよ。身だしなみは大切ですよ」
「あ、でも一度切ったぞ。後藤がさ、切ってくれるって言うから。軽くだけど」
「美容師に憧れてますからね、真希は。……でも言ってくれたら私も切ってあげたんですけどね」
「お前は勘弁だけど、でもあれだな。バランスが悪いのはそのせいかもしんないな。これ内緒だけど」
「今の言葉、真希に伝えておくことにします。真希、きっとショック受けるでしょうね」
「おいおい、内緒だって言ったろ?ま、お前はそういう奴じゃないから、別に止めたりしないけどさ」
「そうやって引き下がられるとこっちが困っちゃうじゃないですか。私が単に嫌な奴みたいで」
「はいはい。ほんじゃ、おいおいそれだけは勘弁してくれー。ほい、これでいいか?」
「結構です」
「さてと、それじゃそろそろ東京から発つとすっか。結局東京ってのはどうもね、苦手でさ」
「もうさくさん、大阪だって苦手じゃないですか」
「まあそうだけどさ、これから行くとこあるし、そっちでブラブラした方がいいかなって」

40 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:47

「そうですか。それなら止めませんけど。……次来る時は言ってくださいよ。私が案内しますから」

福田と別れ、私は新幹線に乗って次の目的地へと向かった。
東京に行くついでに、また別の街で古くからの知り合いと会うことになっていたのだ。

新幹線に揺られた後、久しぶりに立ち寄ったあるホーム。
時刻はすでに二時半を過ぎていたが、それでも約束の時間にはかなり時間が余っていた。
ホームにあるお店で食券を買ってきしめんを食べる。時間が時間だけあって、他に客は一人。
と、私のすぐ後に二人の客が入ってきた。私からかなり間を置いて立ち、そして食券を差し出す。
立ち食いの店に相応しくない女性客……と思ったのも束の間、またもや私は驚きの声を上げていた。

「ね、姉さん!」
「あっ……あんた!こんなとこで何してんねん!」

それは中澤姉さん、そして隣にいたのは、以前見たことがあったから、多分マネージャーだろう。
姉さんは鳩が豆鉄砲食らったような表情を浮かべていた。しかし私はそれ以上だっただろう。
東京で福田と遭遇し、そして今度は名古屋で姉さんと遭遇したのだから。
一日に二度までも奇跡が起きたというか、それはもう彼女たちがドッキリを仕掛けたと思えるほどだった。

「いや、あんた、なんでここにおんねん?東京行くんやなかったんか?」
「今東京から戻ってきたんすよ。ついでにこっちで友達と会う約束になってたんで。姉さんはどうしたんすか?」
「ん?ちょいと仕事でな。さっきまでテレビ出てたんやで。まさかここであんたに会うなんてなあ」
「実はさっき、東京でも偶然福田と遭ったんすよ。こんな風にばったり」
「ほんまかいな。あんた、全ての運使い果たしたんやないか?」
「ははは。本当にそうかもしれませんね。なんか、自分でも凄い驚いてますから」
「でもあれやで。そういうのってなんかあるんやで。交通事故に遭うとか、な」
「交通事故って……なんかもっとマシな例えとか無いんですか?宝くじに当たる、とか」
「おっ、あんたにしては珍しくプラス思考やんか。こりゃおかしいで。やっぱなんかあるんちゃうか?」

姉さんの隣にいたマネージャーがその会話を不思議そうに聞いていた。
私の存在自体は当然知っているのだろうが、その関係について実際に目撃するのは初めてだっただろう。

41 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:47

「しかしあれですね。姉さんもこういう所で食べるんですね。ちょっと意外でした」
「ここはよく立ち寄るんで。あと新大阪の16番ホームやっけ?あそこのうどん屋とかな」
「テレビのイメージとは大違いですよね。テレビでもそうやって庶民的なら、もっと人気出るんじゃないですか?」

それを聞いたマネージャーが苦笑いを浮かべた。
プライドが変に高い姉さんに付いているのだから、色々苦労もしているのだろう。
それを平気な顔で突っ込める私を羨ましく思っているのかもしれない。

「ええんや。うちはエレガントでセレブなイメージで売っていくんやさかい」
「誰がエレガントで誰がセレブなんすか?ジャイアントでアネゴの間違いですよね?」
「ジャイアントはええけど、セレブでアネゴはちょっと苦しいんとちゃうか?」

その瞬間、きしめんをすすっていたマネージャーがむせて咳をした。
姉さんのその素の反応が、いつもの態度とあまりにギャップがあったからなのだろうか。
でも姉さんの話によると、かなり仲が良くて仕事以外の相談なんかもしているということだったから、
単にそのやりとりがツボにはまっただけなのかもしれない。

「そうそう、紹介しとくわ。うちのマネージャーさん。前に会ったことあったやろ?」
「あ、どうも。いつもお世話になってます。一度部屋に来てましたよね、かなり前ですけど」
「そそ。うちの頼れるマネージャーさんやで。ほんま頼りになんねん」
「大変ですよねえ、姉さんのマネージャーしてるんですから。ご苦労、お察しします」
「ちょ、ちょい待たんかい!なんやそのいかにもうちが迷惑かけてますって言い方は」
「違いました?」

と、ようやくマネージャーさんが口を開いた。

「合ってます」
「ほら、ね?」
「こ、こらこら、なんや二人して!」

店内にはすでに他の客は消え、私たち三人と、そして店員だけが残っていた。

42 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:48

「さてと、食べ終えたんで、外出てますね。せっかくなんで、お見送りしますよ」

しかしこんなところで姉さんと遭遇するとは、福田とも合わせて、全く想像だにできなかったことだろう。
偶然と言うにはあまりにも運命的であって、まるで狭い東京で十年間一度も会わなかったのに、
旅行で行ったエジプトで、しかもクフ王のピラミッドの内部の石室で、別れた女房とばったり会うような、
そんなイッセー尾形のネタのような非現実的な現実を体感したような気分だった。

まさかとは思うが、この後も他のメンバーと遭遇してしまうのではないか、と、
そんなおかしな期待を抱いてしまうほど、それは偶然と呼ぶには不思議すぎるものだった。

「そうそう、あんた、あれ覚えてるやろな?」
「予行演習、ですか?」
「それやけどな、うち予定入ってしもたさかい。まだわからへんけどな、韓国から帰ってからにするわ」
「はあ。こっちは別にいいですけど」
「なんや残念そうやなあ。もしかして期待しとったんか?」
「するわけないじゃないですか、ったく」

姉さんを見送った後、街中を散策する。その日は夜に大阪に戻るつもりだったのだが、
久しぶりに会った友人と意気投合し、結局酒を飲んでその友人の部屋に泊まることになった。

そして翌日の昼、特に急ぐこともないので近鉄に乗ってのんびりと大阪へと戻ると、
部屋には市井の姿があった。先月末以来だから、二週間ぶりになるだろう。

「おかえりー」
「おっ、なんだ来てたのか。部屋とか荒らしてないだろな?」
「何よそれ。せっかく留守番してあげてたのに」
「すまんすまん。ってかお前だけか?」
「そうだよ。圭ちゃんでも来てると思った?」
「思わねーよ。ったく、ほんっとお前らってからかうの好きだよな」
「からかってるんじゃないよ。応援してるんだから。ね?」
「何が、ね?なんだよ。ったく……」

43 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:48

玄関からリビングへと移動すると、市井が机の上にあったあるものを手に取った。

「そうそう。ごっちんからね、もーちゃん宛てに宅急便が届いたんだよ。はい、これ」
「ん?なんだこれ?」
「にぶいねえ。バレンタインのチョコに決まってるじゃん。多分手作りだよ、ごっちんの」
「ああ、そう言えばそんな日が世の中にはあったっけ。俺ブッディストだからさ、それも原始仏教の」
「あははは。淋しい青春送ってきたってのはわかるけどさ、そういう逃避は見苦しいと思うよ」
「はいはい。そりゃどうも。ってかお前からは無いのか?」

そう言って机の上に視線を移すと、そこにはもう一つ、いかにもチョコらしきものが置いてあった。

「あ、これね……これ私じゃなくてさ、例の本屋の店員さんから、もーちゃんにって」
「えっ?」
「もーちゃんってモテるんだねえ。あんな真面目そうな子、好きにさせちゃってさ」
「……」
「いっそのこと圭ちゃん捨ててあの子と付き合ったら?なーんてね。そんなの私は許さないからね!」
「なんだそれ、ってか、ってことは……ここに来たのか???」
「そうだよ。私が出たら戸惑ってたけどね。あははは。誤解させちゃったかもね」
「いや、そういうことじゃなくて。そりゃちょっとまずいだろ。お前らのことばれたりしたら……」
「大丈夫だよ。ちゃんと『オフィスゆうこ』って表札かかってるし。何かの事務所だって思うだけだよ、きっと」
「それならいいんだけどな。ってか、どうやってこの部屋調べたんだ?お前わかるか?」
「きっともーちゃんの後でもつけたんじゃない?いいよねえ、そういうのって。なんかかわいらしくて」
「てか、それストーカーだろ」
「わかってないなあ。そういうのをほのかな恋心って言うんだよ」

ほのかな恋心……それはまあ、それでいいのかもしれない。
今までモテたことが一度も無かったわけではないが、それはそれで嬉しいものだったのだから。
でもやはり、この部屋の存在を外部に知られる危険性というものが頭をよぎってしまう。
この前の手紙も、それは別に告白されたというわけではなかったが、
しかしうまく対応しないと、とんでもないことが起きてしまいそうに思えて……。
今の私には、保田への想いとは関係なく、この彼女たちとの生活が何よりも大切だったのだから。

44 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/18(水) 18:48

しばらくして、テレビを見ていた市井が思い出したように私に声をかけた。

「そうだっ!ビデオ録画しといてあげたんだった」
「ビデオ?」
「昨日ね、圭ちゃんが出てたの。明石屋なんとかって番組に。知ってる?」
「ああ、この前収録したってやつか。すっかり忘れてたわ」
「私は見たけど、もーちゃんも見たいでしょ?いいよ、私部屋戻ってるから」

そう言って市井はリビングから去っていった。
気が利くというか何というか、まあ余計なお世話というやつだろう。
そのおせっかいを素直に受け入れてビデオを再生する。
実物のかわいさには叶わなかったものの、ブラウン管の中でも彼女はとびきりかわいかった。
でも……そのトークを聞いて、私は考えさせられてしまっていた。彼女の最近の心境について……。

 「しばらく人を好きになっていなかったから、どこからが好きなのかがわからない……」

彼女はそう言っていた。それはやはり……私のことなのだろうか。
彼女が最近、私に対してどこか冷めていたのも、そうした心境があったからなのだろうか。
私のことを好きなのかどうか、それがはっきりとわからない、それがそういう態度の理由だったのだろうか。

でも、それはもしかすると、私の方にも当てはまっていたのかもしれない。
私は保田が好きだし、今でも毎日のように彼女に会いたいと思っている。その日をいつも待ち望んでいる。
でも、会えない時間が多くなるほど、私はそうした自分の気持ちに疑問を持つようになっていたのだ。

だからなのかもしれない。私がその保田の言葉を、その好きなのかどうかわからないその相手を、
私ではない他の誰かであってほしいと願っていたのは……。
彼女が別の人を好きになるよりも、お互いにそのような気持ちのままでいる方が、きっと辛いのだから……。

――――――
   つづく
――――――

45 :名無し娘。:2004/02/19(木) 04:20
(*´Д`)ポワワ

46 :名無し娘。:2004/02/19(木) 05:01
なんつーかここに出てくるメンバーみんな好感抱いてくるんだが(・´ω`・)

47 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/23(月) 21:02

私の元に彼女たちが来るようになってちょうど一年。
あのドラマが終わり、深夜に姉さんと保田の二人がやって来たのがその最初だった。
当時はそれが現実ではない、夢か幻のように思えて……。
でも、その思いは今も変わっていない。

確かに彼女たちとの生活は私にとっては否定しようのない現実だった。
でも、あの夜のことを思い出すと、それが現実であったかどうか、自信を持って答えることができないのだ。
まるで夢から現実が染み込んできたような、あの夢が今でも続いているような、そんな錯覚を覚えてしまう。

目の前にいた市井が私の顔を覗き込んで尋ねた。

「どうかした?考えごと?」
「あ、いや、なんでもない……」
「そう、ならいいけど」
「たださ、お前らが来てもう一年なんだなって思うとさ……」
「そっか。もう一年なんだよね。そうだよね」
「ああ、なんか色々あったなってさ、感慨深くなっちゃって」
「ねえ、一番覚えてるのって何?もーちゃんがさ、一番印象深かったこととか」
「そうだな。……やっぱあいつの歓迎パーティーかな?」

私にとって、やはりこの部屋は、この生活には、保田の存在が大きな意味を持っていたのだろう。
だから私は真っ先にあの時のことを思い出したのだと思う。一番楽しかったあの日のことを……。
でも、一番印象深かったことと言えば、それはやはりあの姉さんとのキスということになるのかもしれない。

「そっか。そうだよね。ちょっと安心したかも」
「なんでお前が安心すんだよ」
「えへへ。別にいいじゃん。ただね、やっぱもーちゃんはもーちゃんなんだなあって」
「意味わかんねーよ、ったく。そう言うお前はどうなんだ?」
「私?私はねえ……夕陽、かな?もーちゃんに連れて行ってもらった夕陽」
「それが一番かよ。保田と喧嘩したとか、彩っぺと口論したとか、姉さんに怒られたとか、もっと他にあるだろ」
「何よそれ、まるで私が喧嘩ばっかしてるみたいじゃん」

48 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/23(月) 21:03

前の部屋も含めて、この部屋では色々なことがあった。
私にも色々なことがあったし、彼女たちにもそれぞれ色々なことがあったことだろう。
でも、それは決して過去のことではなかった。それは今も続いているのだから。

そして、今の私の前には、ある二つのことが待ち構えていた。
一つは保田とのこと。私が彼女とどう接し、その気持ちにどうけじめをつけるべきかということだ。
そしてもう一つは姉さんとの――私が姉さんの彼氏になるという――約束のことだった。

しかし、その二つのことを片付ける前に、私の前に新たな問題が立ちふさがってしまったわけで……。
その日の夜、突然の雨でずぶ濡れになって帰ってきた私の元に、一本の電話がかかってきたのだ。

「あ、はいはい。姉さんの……。先週お会いしましたよね。はい」

それは一週間前にも会った、姉さんのマネージャーさんだった。

「あ、でも今韓国にいるんじゃないんですか?」

話によると、彼女はまだ見習いのマネージャーで、別に姉さんの専属ということではなかったらしい。
それで姉さんが韓国に行っている間も、国内に残って色々と調整――雑用だろう――をしていたらしい。

「えっ?……はい……はい……そうなんですか?……ええ、はあ……」

しかし彼女がわざわざ電話してきたということは、それは何らかの問題が生じていたということだった。
それも、この部屋は姉さんのプライベートな場所であって、事務所とは何の関係も無いのであるから、
そこに事務所側から連絡があったということは、少し複雑な問題ということになるだろう。

案の定、その予想は当たっていた。それは辻と加護の話だった。
彼女たち二人がこの部屋に来たいと言ったことが、事務所側で問題となっていたらしいのだ。
この部屋には後藤や保田も来ていたし、安倍も泊まってはいないものの来たことがあったので、
こちらとしては別に問題は無いと思うのだが、
しかし事務所にとっては、この部屋の存在自体が目障りなものだったらしい。

49 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/23(月) 21:03

東京にも以前、現役メンバーのための部屋があった。
でもそれはプロデューサーのつんくが個人的に用意したものであって、
事務所はそれを黙認するという形を取っていたらしい。

しかし、あるトラブルが起きて、その部屋は消滅してしまったらしい。
多分、メンバーと恋仲になるとか、そういうことが起きてしまったのだろう。

そこで辻と加護の話になるのだが、二人は卒業を期に、この部屋に来るのを楽しみにしていたらしいのだ。
個人的には、姉さんが二人をこの部屋に迎えることは無いように思えていたのだが、
しかしまあ、二人にとっては当然この部屋に来る権利を得たという思いがあったのだろう。

ところが、それが事務所上層部の耳に入ってしまったことから、話がややこしくなってしまったのだ。
まあ事務所にとっては、二人は大切な金になる駒であるのだから、
そういう話も当然すぐに伝わるだろうし、そうしたことに過敏になっていても当然のことなのだろう。
もしかすると、この前つんくがやって来たのも、そのことが関係していたのかもしれない。

彼女の話によると、事務所側は二人に対してかなりガードを固くしていたらしい。
ただ、そのことで二人は事務所側に更なる不信感を抱いてしまったらしく、
仕事に支障をきたす前に何とかしたいというのが事務所側の懸念であったらしい。

そこで事務所側としては、この部屋における明確な責任というものを確認したいということだった。
しかし、この部屋は事務所とは関係のないただの部屋であるから、
責任なんてそもそも必要ないだろうし、あってもそれは姉さんに付随すると考えるべきであって、
わざわざ私に話を持ちかけるというのは、筋が間違っていると思うのだが、
ただ、この時期にそうした問題を投げかけたということ自体が、事務所側の狙いだったのだろう。

そう、姉さんが留守の間に、自分たちに都合のいいように問題を解決したかったのだ。

「ねえ、電話なんだって?」
「ああ、なんつーか、責任がどうとかって話だったけど、ちょっとした圧力ってやつかもな」
「圧力?」

50 :◆5/w6WpxJOw :2004/02/23(月) 21:03

「そそ。でもあのマネージャーさんも大変だよなあ。見習いらしいけどさ。こんな雑用に使われちゃって」

その電話はこの部屋にとって将来を左右するかもしれないものだった。
でも、市井はまるで他人事のような、そんな表情を浮かべていた。
まあ実際、市井にとっては他人事だし、私にとっても事務所側の言いがかりとしか思えなかったのだが。

「そうそう、それで明日誰かが部屋の様子見に来るんだとさ。よくわかんねーけど」
「誰が来るの?マネージャーさん?」
「誰かは言わなかったけど。事務所のおっさんとかじゃねーの?」
「この前の……つんくさんもそうだったのかな?」
「どうだろなあ。でも時期的には関係あるのかもしんないな」

そして翌日、ちょうど晩御飯の準備を始めようとした時だった。インターホンの音が部屋に響く。
リビングのソファに座ってテレビを見ていた市井が、その音に慌てて隣の和室へと逃げた。
六畳間の和室で、その部屋には私が以前の部屋で使っていたこたつと小さなテレビが置かれていた。
一応そこは私の部屋でも彼女たちの部屋でもなく、物置的な部屋として使われていた場所だ。

壁にかけられた受話器を取る。予想とは違い、聞こえてきたのは若い女性の声だった。
一瞬マネージャーさんかとも思ったが、しかしそれよりも若く、どこか聞き覚えのある声だった。
ボタンを押してオートロックを解除し、その人物の訪問を待つ。

もう一度ピンポーンという音が鳴り、玄関のドアを開けると、そこには予想もしなかった人物が立っていた。

「こんばんは。お久しぶり……ですよね?」

少し目じりを下げて口元をキリッとさせるような感じで、彼女は笑みを浮かべた。
それはテレビでも見たことのあった、一瞬ドキッとさせられるような、そんな素敵な微笑みだった。

――――――
   つづく
――――――

51 :名無し娘。:2004/02/28(土) 19:52
むぅー・・・誰か気になる
ついに川‘〜‘)||?

52 :名無し娘。:2004/02/29(日) 16:01
羊でやってくれ
保全が面倒だ

53 :52:2004/02/29(日) 16:06
ごめん、狼にいるのと間違えた…_| ̄|○

54 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:16

飯田圭織。――モーニング娘。のオリジナルメンバーで現リーダーでもある。
その飯田がオーラを漂わせながら私の目の前に立っていた。

「驚きました?」
「え?いやっ、まあ驚いたというか……事務所の人間が来ると思ってたから。てっきり怖い人かと……」
「ですよね。でも私も一応、事務所の人間なんですよ」

そう言って彼女は再び笑みを浮かべた。ただ、その笑みは私を試しているような、そんな感じにも見えた。

驚きながらも彼女をリビングに通し、ソファに座るように勧めると、
その彼女の話し声が気になったのか、市井がリビングに顔を見せた。
予期せぬ再会……というやつだろう。この前のつんくの時もそうだったが。

「カオリン……?」
「かーさん!……ここにいたんだ……」

この部屋にどういうメンバーがやって来るのか、それは当然、飯田も知っているはずなのだが、
しかし、まさかその日その部屋で、それも市井と会うことになるとは予想していなかったのだろう。

「まあね。ちょっと用事があったから……」
「元気……なの?」
「どうだろ……色々あったからね……」
「そう……」
「あっ、話あって来たんだよね。私部屋戻ってるから……」
「そう……それじゃまた後でね」

二人の関係を表しているかのようなぎこちない会話の後、市井が部屋を後にした。

飯田はテレビで見るよりも断然綺麗で美人だった。それにその名前の通り、いい香りがしていた。
以前見かけた時はそんなことは全く思わなかったのだが、それもやはり、私の中で、
保田への想いが徐々に薄れていっている証拠なのだろうか。――ついついそんなことを思ってしまう。

55 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

と、そう考えた時に、私の脳裏にふと、ある疑問が浮かんでいた。

彼女は先ほど、私に対して「お久しぶり」と言った。
でも、前に会った時はただ廊下ですれ違っただけで、一言も会話を交わさなかったはずなのだ。
そんなことをわざわざ覚えているとは思えないし、それだけで私のことを認識したとも思えない。
私でさえ、ほとんど興味もなく――その時のことを詳しくは覚えていないのだから。

「あ、あのさ、さっき『久しぶり』って言ってたけど、それって……あの時の?」
「やっぱり……覚えてませんか?」
「えっ、いや、俺は覚えてるけどさ、でも話すのも今日が初めてだし……」
「ほら、やっぱり、覚えてませんよね」

そう言って彼女は再び笑みを浮かべた。そしてその笑みを見て私は確信していた。
何かは知らないが、彼女は私を試していた。その笑みは確かにそうした意味を含んでいたのだ。

「これ、見覚えありませんか?」

そう言って彼女は黒く小さなカバンの中から一枚の写真を取り出した。
真ん中に二人の人物が写っており、その背景はどこかの遊園地、多分ディズニーランドだろう。
人物のうちの右側の女の子は飯田だった。様子からして中学生くらいだろうか。
まだ美人という感じは全然せず、ただの芋臭い女の子だったが、どことなく面影は見て取れた。

しかし問題は左側だった。そこに写っている人物を見て、私はかなりの衝撃を受けていた。
それは私が、私がこの世で一番よく知っている人物だったからだ。

「これ……ディズニーランドだよな?」
「ええ。ここには思い出があるんです。○○さんも、行ったことありますよね?」
「……そう言えば……俺にもなんとなく思い出っぽいもんがあるかもな……」

それは私が高校二年生の時、修学旅行でディズニーランドに行った時のことだった。
そこで私は多分、ある女の子と出会っている。それはほとんど記憶から消えかけていたことだったが。

56 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「アトラクションの前に並んでたんです、わたし。中二の時に修学旅行で行ったんですけど」
「……」
「そしたら突然倒れちゃって。でも貧血とかってわけじゃなくて、多分疲れてたんだと思うの」
「……」
「それで、後ろに並んでた人に助けられちゃって。おんぶして医務室まで運んでもらったんです」
「まあ、よくある話だよな……」

私がそう返すと、それに対して飯田がクスッと笑いをこぼした。
ただ、その言葉は、決して私が笑いを取ろうとしたとか、彼女を和ませようとしたというものではなかった。
私はまだ、それがそうだという確信を持てずにいただけなのだ。

「その人は高校生で、あまりパッとしないようなタイプで、どっちかっていうと暗い人だったんですけど」
「そりゃ随分な言い方だな。……まあ俺が否定するようなことじゃないんだろうけどな」

再び飯田が笑う。もういいでしょ、と言わんばかりの笑顔だ。
それはやはりそういうことなのだろうか――。
目の前には証拠の写真もあり、それはおぼろげながら私の記憶とも合致するものだった。
でも、なぜかはわからないが、私はそれを認めていいものかどうか迷っていた。

「でもね、その人、ベッドで休んでる私の横にずっといてくれて。友達はみんないなくなっちゃったのに」
「そりゃまあ、せっかくのディズニーランドだからな。ずっと面倒見てるわけにはいかないだろ」
「でもその人はずっといてくれて。ちょっとね、心強かったの。わざわざわたしのためにって」
「それは、あれだな。多分他にやることなかったんだろ。修学旅行自体あんまり楽しんでなかったとかさ」
「そうなんですか?」
「さあな。……で、そいつはどうなったんだ?その後」
「わたし、一時間くらい横になってて、それで気分が戻って友達と合流しようと思って……」
「で、一緒に探したってわけか。その暗い男と」

その『暗い』という言葉に苦笑し、一瞬躊躇しながら飯田が返事をする。

「ええ……。それで見つかったんですけど。お世話になったんで、その人の名前と住所を聞いて……」

57 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「記念に一緒に写真撮ってそれを送ったんだろ?」
「一度返事が来たんですけどね。もう一度手紙出したらそれっきりで……」
「そりゃ冷たい奴だな。それかかなりの照れ屋か、あるいは人間不信だったとか」

正直、それはほとんど覚えていないことだった。そして、かなり信じられないようなことでもあった。
あの時の子がまさか、今目の前にいるような美人に成長し、しかもそれが飯田圭織だったとは……。
なんとか記憶を蘇らせようとするも、当時の彼女の顔や名前をはっきりと思い出すことはできなかった。
ただ、その写真を見る限り、それは確かに飯田だった。そして左側にいるのは……。

「いつわかったんだ?それが……そいつが俺だって」
「すっかり忘れてたんですけどね。その人のこと。でも、ある時突然思い出しちゃって」
「ある時?廊下ですれ違った時か?」
「ううん。そのことは覚えてないんです。ごめんなさい」
「まあ、当然だろうな。俺も覚えてないし」

飯田が再び苦笑し、目の前にあったお茶請けに手を出した。
この前つんくに出したものと同じ、後藤から貰った老舗の煎餅だ。

「みんなからね。圭ちゃんの噂を聞いててね。色々」

突然飯田の口から出てきた『圭ちゃん』という言葉に、無意識的に一瞬ドキッとしてしまう。
何か悪いことをしているというわけでもないのに、なぜか後ろめたいような……。

「……どんな、噂だ?」
「えっと、ドラマが流れちゃったって話とか。それが最初で、その後は裕ちゃんたちとよく会ってるって話」
「ここのことか」
「ええ。圭ちゃんとか裕ちゃんとか、後ごっちんもだけど、今も一緒の番組出てるんですよ。その時とかに」
「ハロモニ。だろ?毎週見てるよ、ビデオ録ってさ」

それが予想外だったのか、飯田は少し困ったような表情を浮かべていた。
キモヲタと思われたのだろうか。まあ、ある意味では今の私はその範疇に含まれるのかもしれない。

58 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

「それで、ごっちんと話してた時に、『もうさくさん』って名前聞いて……聞き覚えがあるなって」
「まあ確かに珍しい名前だわな。生まれてから一度も同じ名前の奴と会ったことないし」
「私もそれが気にかかって、それで実家に帰った時に、昔の手紙探してみたら……」
「名前が同じだったってわけか」
「ええ。でもその時はまだ信じられなくて……それで一度確認したいなって思ってて」
「なるほどな。それで来たってわけか」
「一目でわかりました。この人だって」
「それはあれか?俺がパッとしないタイプで暗かったからか?」

もう何度目かわからない飯田の苦笑い……。
ただ、その苦笑いは、私のその自虐的な思考がその時の人物と重なったからなのかもしれない。
あの頃は自分の性格が嫌いで、何度も性格を変えようとしていた頃だっただろうか。
その時の少女と私がどのような会話を交わしたのかは全く覚えていないが、
しかし飯田はその数時間にも満たない時間の中で触れた私の性格というものを覚えていたのかもしれない。
私と違い、飯田にとってはそれは確かに一つの思い出だったのだから……。

「でも、安心しました。○○さんなら、わたし、信用します」
「それは……あれだよな。事務所の人間としてってことだよな?」
「わたし志願したんですよ。のんちゃんたちが心配だったし、それにわたしも来たかったですし」
「ああ、辻と加護が来たがってるんだってな。昨日初めて聞いたけどさ」
「でも断られちゃって。それでつんくさんが俺が行くって言って事務所に交渉したんですけど、それも駄目で」
「つんくが?」
「でもつんくさん、勝手に来ちゃったみたいで。俺が責任取るとかって言ってたんですけどね」
「責任を?」
「ええ。でも事務所も焦ってたみたいで。その辺の理由はよくわからないんですけどね」
「俺はもっとわかんないけどな。突然辻とか加護のこと聞かされたし……何がなんだか……」
「ですよね」
「後藤はどうなんだ?後藤だってこの部屋来てるだろ?何か言われたりしてないのか?事務所に」

飯田の言葉に、私は反射的に後藤の名前を出していた。
それは多分、『ですよね』という言葉が以前後藤のマイブームだったからなのだろう。

59 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:17

随分長い間話した気がしたが、飯田が来てからまだ十五分くらいしか経っていなかった。
その短い時間の中で、思い出話をし、そして事務所の話をし、そしてそれをまとめ終え……。

「とにかくわたしにまかせといてください。わたしとつんくさんで、なんとかやってみます」
「ああ、頼むよ。っていうか、どうしてそんな話になったのかまだわかんないんだけどな」
「この世界って、そういうところありますからね」
「あ、一つ聞くけど、飯田さんはさ、この部屋に来たりとかは……まだだよな?」

その質問に戸惑ったのか、それとも『飯田さん』という言い方が気になったのか。
彼女は少し考えてから、また元の微笑みを浮かべて言葉を返した。

「どうでしょうね。でも、今のところそういう話はありませんから。ちょっと残念ですけどね」

残念なのかよ……と私が思ったのと同時に部屋に市井が戻ってきた。
飯田が来たのが六時半だったから、そろそろお腹が減ったということなのだろう。
そう言えば晩御飯の準備をしたままだっただろう。

「あ、飯田さんはこの後仕事とか?」
「飯田でいいですよ。普段みんなを呼んでるみたいに呼んでください」
「あ、ああ、やっぱそうだよな。それじゃさ、飯田は……ってのもなんか変だよな?」
「それじゃカオリンでいいです」
「カオリンか……それもなんか照れくさいんだけどな」

その様子を市井が不思議そうな様子で見守っていた。
彼女は私と飯田との関係については知らないのだから、それも当然なのだろう。
ただ、その表情には、飯田がこの部屋にとって敵なのか味方なのか、
それを考えあぐねているような、そんな思いも含まれているように見えた。

「まあいいや。で、仕事とかあるのか?無かったらさ、飯食ってかないか?」
「いいんですか?」
「ああ。最近ずっと市井と二人だったからさ。それにせっかく美人がやって来たわけだし」

60 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

それは市井をからかった言葉だったのだが、当の市井はそれをなぜか嬉しそうに聞いていた。
まるでそうしたやり取りを楽しんでいるような、そこに懐かしいものを感じているような……。

と、その時だった。

部屋にインターホンの音が鳴り響き、またもや私を驚かせるような事件が起こったのだ。
いや、それは飯田と出会っていたことが霞んでしまうような、そんなとてつもない迫力を持っていた。

部屋にやって来たのは石黒だった。もちろん事前に連絡は受けていない。
飯田が来ることを知ってやって来たのかとも思ったが、そうではないらしい。

彼女は飯田が部屋にいるのを見て、少し驚いていた。
でも、石黒の目当ては飯田ではなく……市井だったのだ。

「紗耶香、もう決めたの?」

石黒はそう言った。それはとても真剣な表情だった。
それに対して市井は笑顔で答えた。

「うん……」

何をどう決めたのか、私にはさっぱりわからなかった。
当然飯田も私と同じような気持ちだったことだろう。

「そう……じゃあ、東京戻ろうか……一緒に」
「え、でも……後少しだけ……」
「三日で戻ってくるって言ってたでしょ」
「そうだけど、でもまだ……」
「今が一番大事な時期なんだから……ちゃんと安静にしてないと」
「うん……わかってる……」
「もーちゃんからも言ってあげてよ。紗耶香から聞いてるんでしょ?」

61 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

聞いてる……というのは何のことなのだろうか。

市井が来たのは五日前のことだった。しかし、それから彼女から何かを聞いたということは無かった。
それともそれ以前のことなのだろうか、と思ったのも束の間だった。
私は――そして飯田もだが――石黒の口からとんでもない事実を知らされてしまったのだ。

「紗耶香ね、妊娠してるのよ」
「えっ……はあ?…………ああああああああああ???」
「……」
「やっぱり言ってなかったんだ。そんなことだろうと思ってたのよねえ」
「ごめん……言いそびれちゃって……」
「って、ちょっと待てよ。なあ、それって……冗談だろ?おい」
「ごめんね、もーちゃん……ずっと言いたかったんだけど……言えなくて」
「マジかよ!ってか誰の子だよ!あの漫才師か?それともルービックキューブの方か?」
「ちょっと違うけど後者ね。ギタリストさんの方」
「なんだよお前、あいつとは別れたんじゃなかったのか?そう言ってただろ?」
「その時はそうだったんだけど……」
「妊娠しちゃってたのよ。ほら、お腹見てわからない?ってかもーちゃんじゃ気づかないか」

そう言って石黒が私の顔を見た。いや、見たというより睨みつけたというべきだろうか。
確かに市井のお腹は少し膨らんでいるように見えた。それはかなりショックなことだったが。

話を聞く。
市井が妊娠したのはちょうど引退した頃だったらしい。
そして今年に入る前にはすでに薄々妊娠に気づいていたらしい。

市井はかなり悩んだらしい。
引退した後、市井が私を挑発したり、どこか様子がおかしかったのはそのせいだったのかもしれない。
そして、市井が妊娠を確信したのは今年の一月。
去年の年末に石黒がやって来た時に、すでに生理が来ないという相談をしていたらしいが、
それが確定したのが今年に入ってからということらしい。

62 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

相手の男とももちろん相談したらしい。それが今年の正月休み。
当然、相手も戸惑っていたらしいが、それでも相手は前向きにそれを捉えてくれたらしい。
ただ、むしろ市井の方がそれを迷っていたということで……。

それで東京で石黒に相談し、それを聞いた中澤が気分転換に旅行に誘った……と。
その前に芸人をぶっ叩きに行ったのも、もしかするとそれが関係していたのかもしれない。
――話を聞く限りでは、どうもそういう流れだったらしい。

「だったらさ、なんで教えてくれなかったんだ?それに、キャッチボールなんてやってる場合じゃ……」
「ごめんね……」
「紗耶香がね、もーちゃんには自分から話したいって、それで三日で戻るからって」
「それで来たのか……」
「でもずっと言えなくてさ、だってもーちゃんこれ以上悩ませたくなかったし……」
「俺のことはどうでもいいだろ。こんな大事なこと、なんで話してくれなかったんだよ」
「……」

そこでようやく飯田が口を開いた。私以上に戸惑っていたかもしれない。

「ね、ねえ、かーさんさ、結婚するの?」
「うん。多分そうなると思う」
「そっか。でもさ、良かったじゃん。おめでとう」
「うん!ありがとう」

その時に初めて気づいた。驚いても戸惑っても、市井が妊娠しているという事実は変わらない。
とすれば、私も飯田のように、素直にそれを祝うべきなのだと……。

「まあ……なんにせよ、良かったじゃねーか。自分の人生見つけたみたいでさ」
「うん……」
「それにごめんな。何にも知らずにさ、ほんっと俺って駄目な男だよなあ」
「えへへ。でもそこがいいんじゃん。この前気づいてくれるかなって思ってたんだけどね」
「この前って……」

63 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

その言葉を聞いて少しドキッとする。そして石黒と飯田の顔をそっと窺う。
この前というのは、多分私が彼女を抱きしめた時のことなのだろう。
その時の私は、女性の温もりを久しぶりに感じるだけで精一杯だったのだが、
そこにはその膨らみかけたお腹に気づいてほしいという思いがあったのかもしれない。

それなのに私は何も気づいてやることができなかった。
こんなに一緒に過ごしていたのに……私は、彼女たちの何を見ていたのだろうか……。

もしかすると、私はこの部屋で、自分のことしか見ていなかったのかもしれない……。
彼女たちを全て自分の生活の中だけで捉え、彼女たち自身のことなど全く見ていなかったのかもしれない。

そうだとすれば、この部屋に私がいる理由……それはもう……。

いや、それは以前からわかっていたことだった。でも、気づかない振りをしていただけだったのだ。
ただこの生活を失いたくないという理由で……。

「さ、帰るよ。もーちゃんもいいでしょ?帰るの、許してくれるよね?」
「ああ……もっと早く教えてくれても良かったんだけどな。でも、まあこれで良かったんじゃねーの?」
「ごめんね……ほんと……」
「いやいや、今大事な時だろ?東京帰ってゆっくりしろって。相手とも色々相談とかあんだろうし、な」
「うん」

話がまとまり、市井は部屋に戻って東京に帰る支度をすることになった。
もちろん全ての荷物をまとめるというわけではなく、またこの部屋に来ることにはなるのだろうが。

石黒が飯田に対し、彼女たちの部屋に行って帰り支度の手伝いをするようにと頼んだ。
それは多分、私と二人きりで話がしたいということなのだろう。飯田もそれを察してか部屋を出た。
ただ、石黒はどこか冷たい目をしていた。まるで私に全ての問題の責任があるかのように……。

「もーちゃんなら、大丈夫だって思ってたんだよ。だからここ来るの許したんだから」
「すまん……全く気づかんかった……」

64 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:18

「まあいいけど。ねえ、紗耶香どうだった?様子とか、見てて」
「普通だったけどな。あ、でもなんかいつもより笑顔が多かったかな、最近」
「そう……ならいいんだけど」
「しかし驚いたな。あいつ、本当に俺に何にも言わなかったかんな」
「本当は私から言うつもりだったんだけどね。紗耶香から止められたのよ。自分の口から伝えるって」
「俺にか?」
「そうよ。それなのにもーちゃん、何してたのよ。話も聞いてあげてないなんて」
「何してたって言われてもなあ。でもま、あいつらしいんじゃねーの?そういうのって」

石黒は何度も私に何かを言いたそうな表情を浮かべていた。
でも、それは私には不要だと、そんな思いを抱いているようにも見えた。

石黒と市井、そして飯田の三人が部屋を後にした。新大阪まで下の人たちに車で送ってもらうらしい。

一人残された私は、ただただそれを無言で見送るだけだった。
そして私の心には、ただただ不思議な淋しさだけが残るだけだった。

もう限界かもしれない……。
いつもそうだった。私にとってこの部屋は……。

そう、いつもそうだ。いつも私は『私にとってこの部屋は』と言うばかりだった。
私は自分自身のことしか考えていなかった。そして見ていなかった。
もちろん彼女たちのことを色々と考えることもあった。
でもそれは、私を中心とした彼女たち、私に接する彼女たちでしか無かったのだ。
私は彼女たち自身を、本当の彼女たちを、何も見ていなかったのだから……。

辻と加護がこの部屋に来たがっているという話があった。
それは昨日初めて聞き、今日飯田と話したばかりのことだ。

でも、もし彼女たちがこの部屋に来ることになったとしても、
多分、その時にはもう、この部屋には私はいない……。

65 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/02(火) 14:19

以前から考えていたことだった。私がこの部屋を卒業するタイミング……。
その日のことで、私はそれを確信していた。それがそう遠くない日だということを……。

結局飯を食いそびれ、私は近所の居酒屋に向かった。
『座布団』――いつもの居酒屋の名だ――ではなく、初めて行く店だった。

しかし、酒を一口飲んだだけで、気分が悪くなり、吐き気を催す。
まるで胃に穴が開いたかのような、そんな感じですぐに店を出た。

三十分もしないうちに部屋に戻ったものの、頭の中はぐちゃぐちゃなままだった。
今すぐにでもこの部屋から出たいような、そんな罪悪感が頭をよぎっていた。

でも、今ここを離れるわけにはいかない。
姉さんとの約束もある。それに保田のことも、まだ何もけじめをつけていない。
それに何より、今私がいなくなれば、市井はそれに責任を感じることだろう。
だから、今はまだ、このままでいるしかないのだ。
それがどんなに辛く、自分というものを嫌いに感じる時間だとしても……。

私はただ、その決意だけを胸に秘め、またその生活を続けるしかなかったのだ。

でも、それも後少しの辛抱だった。
姉さんとの約束さえ済めば、私を拘束するものは何も無くなるのだ。

ただ一つあるとすれば、それは私の中の気持ち……。
彼女たちへの想い……そして保田への想い……。

それを断ち切ることができるかどうか、それは今の私にはまだ……。

――――――
   つづく
――――――

66 :名無し娘。:2004/03/02(火) 18:32
更新乙!市井の妊娠でどうなることかと思えば、
うまいねぇ。軽くかわしちゃった

67 :名無し娘。:2004/03/03(水) 06:55
リアルで動きがあるほどこっちの深みが出てくる感じがする
しかしうまいなぁ、まいったw

68 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

市井の妊娠が写真誌によって報じられた翌日か翌々日、その日は姉さんとの予行演習の日だった。
その間、彼女たちは誰もこの部屋へ立ち寄らなかった。皆、反応の仕方に困っていたのかもしれない。
ミュージカルで大阪に来ていた後藤も、結局この部屋へ来ることはなかった。

「よっしゃ、ほなら行くで!準備はええやろな?」

開口一番、姉さんがそう言った。部屋に上がらずに玄関に立ったままでの発言だ。

「って、どこ行くんですか?」
「まずはスーツや。スーツ買いに行ってびしっとキメるで」
「スーツなら持ってますよ」
「アホやなあ。持ってる言うてもその辺の青山とかの安もんやろ」
「まあそうですけど」
「そんなんやのうて、もっとちゃんとしたスーツや、それがスーツってもんやろ」
「はあ……」
「よっしゃ、ほな行くで!」

姉さんに腕を引っ張られながら、マンションの下に待機していたベンツの後部座席に乗り込む。
下の人たち――組員のことだ――の普通車には乗ったことがあったが、このベンツに乗るのは初めてだった。

車の中で姉さんは一言も喋らなかった。韓国の土産話も、そして市井の話も何も無く……。

しばらくして車が止まり、姉さんに連れられてある店の中へと入った。
私が聞いたことのないような店名だったが、多分かなりのブランドなのだろう。

「えーと、こんな感じがええかな?それともこっちがええか?」
「あの、これ値札ついてませんけど……」
「ああ。お金のことは気にせんでええで。全部うちにまかせてや」
「でも、困りますよ、そんなの」
「大丈夫やって。これはうちが買うんやさかい。あんたにはただ貸してあげるだけや」
「はあ……」

69 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

姉さんの見立てでスーツを購入。そしてその仕立てが出来るまで、次の場所へと向かった。
予行演習というよりもまだその下準備という感じだっただろう。

次は美容院だった。どうやら姉さんの知り合いが経営している店らしい。
男なら床屋というのが私のポリシーだったのだが、姉さんの迫力に負けてしぶしぶ店に入る。
ただ、顎鬚にあった感じで爽やかな好青年に、というのが姉さんの注文だった。

髪を切り終え、自分としてはかなり違和感のあるものだったが、姉さんはかなり上機嫌だった。

「うん。ええなあ。やっぱあんた、ちゃんとすればそこそこイケるんやんか」
「何がイケるんですか、何が」
「ははは。さてと、ほなスーツの方も終わっとるやろうし、そろそろ予行演習始めるとするで」
「はあ……」

先ほどの店に戻り、スーツを貰い受け、そして店内で着替える。
シャツもネクタイも革靴もベルトも、おまけにハンカチまでもが全部姉さんが見立てたものだった。
鏡の前にはまるで別人のような私が立っていた。別人というか、私が忘れていた自分と言うべきかもしれない。

「ほんじゃ、こっからは予行演習やからな。うちの彼氏として振るまうんやで」
「はあ」
「はあや無いやろ。ほんま、しっかりしてや」

姉さんが私の腕に寄り添いながら、その辺を適当にぶらぶらと回り、店に入ったり出たり……。

「ねえねえ、次はこの店入ろ?ね、もうさくさん?」

姉さんは完全になりきっていた。さすがは昼ドラの主演が決まっただけのことはあるだろう。
しかし、私にはそれになりきれるだけの余裕は無かった。……心の中は悩みでいっぱいだったのだから。

「もうさくさん、どうしたの?あんまり楽しくないの?」
「いや、そんなことないですよ。姉さんとデートですから、そりゃ楽しいですよ。ある意味……」

70 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

「もう、もうさくさんったら。姉さんじゃなくて裕子って呼んで!」
「はあ。じゃあ裕子さんでいいですか?一応姉さん年上ですし……」
「せやから姉さんはやめって言うてるやん。裕子でも裕子さんでもええさかいに!」

突然演技が中断し、素の姉さんに戻る。なんともよくわからない会話だ。

「じゃあ裕子さんって呼びますから。それでいいですよね?」
「それからもうさくさん、その話し方も直してくださいね?彼氏なんですから」

姉さんの話によると、夜にレストランを予約しているらしい。
それまでは私に全てを任せるということだったが、しかし特にやることも思いつかず……。

「ねえ、もうさくさん、映画でも見ませんか?」
「映画かあ。あんま好きじゃないんだよな。嫌な思い出とかありまくるし……」
「じゃあ、どこか行きましょうよ。もうさくさんの好きなところでいいから。ね?」

それにしても、こんな会話に一体何の意味があるというのだろうか。
確かにお見合いでは私は姉さんの彼氏として振る舞わなくてはいけないのだろうが、しかし、
こんな見せかけよりも、いつもの姉さんと私との関係の方がよっぽど自然で親しいように思えて……。

「姉さん、こういうの、変じゃないですか?」
「変?」
「なんか、いつもよりよそよそしいですよ。ドラマならそれでいいんでしょうけど」
「……」
「いつも通りにしませんか?呼び方だって、別に姉さん⇔あんたってカップルがいてもおかしくないですよ」
「そっか。……そうやな。その方がええか」
「そうですよ。大体なんで標準語だったんですか?滅茶苦茶違和感ありましたよ」
「ははは。そうやなあ。なんでやろ」
「それに姉さん年上なんですから、もうさくさんなんて言われても困りますよ」
「よっしゃ。ほなもうさく、どっか連れて行ってや!」
「はいはい。それじゃ適当にどっか行きますか!あくまでも適当っすけど」

71 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:40

結局、私が姉さんを連れて行ったのはお決まりのコースだった。
大阪城公園の梅園。去年保田と紺野と三人で来たところだ。

「こういうの、あんた好きやなあ」
「別に好きってわけじゃないんですけどね。ただ落ち着くというか」
「悩みとかあるんやろ?そうやないとこんなの見ようとは思わへんで」
「……かもしれませんね。ある意味、現実逃避なのかもしれませんね……」
「……あんたには色々迷惑かけたなあ。……ほんま、悪いと思ってるで」
「なに謝ってるんですか。こっちだっていっぱい迷惑かけてるじゃないですか」
「なあ……限界やったら……ちゃんと言うてや。うちが何とかするさかい、な」
「ええ。……わかってますよ。その時はちゃんと言いますから」
「ほうか。でもあれやなあ。梅なんて久しぶりに見たわ。あんたのおかげやな……」

そう言った姉さんの後ろに温かい陽光が射し込み、爽やかな風が吹いていた。
特に会話は無かった。ただ、二人で梅を眺めただけだった。

その日は色々なことがあった。
ベンツを運転したり、ビルの最上階の夜景の見えるレストランでフランス料理を食べたり。
それはいつもとは違う自分……でも、中身はいつもの自分だった。

ただ、それは自分の本当の姿を隠しているという点において……。

「姉さん、これ、どれ使えばいいんですか?ナイフとフォーク、内側からですかね?」
「なんや、それはボケか?それともマジか?」
「マジに決まってるじゃないですか。こんなとこ来るの初めてですもん」
「なあ……今日くらいええんちゃうか?ええ機会やと思うで……」
「何がですか?」
「あんたのことや」
「自分……ですか?」
「せや。自分を飾るの、もうやめたらどうや?いくらなんでもわざとらしいやろ」
「……」

72 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

姉さんは気づいていたのだろう。本当の私というものに……。

「飾ってるように……見えます、か?」
「全然見えへんで。せやけどそれが逆に飾ってるいうことやんか。見えへんように飾る言うか……」
「……」
「まあええわ。あんたがその気無いんやったら、うちも別に無理強いはせえへんけどな」
「すいません……」
「あんたにも色々あるんやろ。過去を捨て去ったくらいやねんから……」

姉さんは私の過去を知っていた……。姉さんたちがこの部屋に来始めた頃に、
私について色々と調べ上げたらしいので、それも当然と言えば当然なのかもしれない。

でも、それまで姉さんは一度もそのことを尋ねたりしてこなかった。
ただのうだつの上がらないボサッとした冴えないフリーターの男として接してくれていた。
だから、それだけで姉さんには感謝すべきなのかもしれない……。

食事の後、再びベンツに乗ってドライブに行くことになった。
再びと言うのは、さきほど大阪城公園に行く時にも私がそれを運転していたからだ。

姉さんが音楽が聴きたいというので、一度部屋まで戻り、数枚のCDをチョイスする。
姉さんに頼まれたのは『銀蝿』で、私が持ってきたのは二枚のCDだった。

再び車に乗り込むと、後部座席に座っていたはずの組の人の姿は消えていた。

「あれ、○○さん、帰しちゃったんですか?」
「せっかくのドライブに邪魔はいらへんやろ?デートなんやし」
「邪魔はないでしょ。それに自分運転自信無いですよ。代わりの人がいないと安心できないですし」
「大丈夫やて。もう一台で後ろ付いてくるさかい。事故っても安心やで」

安心というか、それは怖いお兄さんが出てきて恫喝する……ということなのだろう。
そういうことを聞くと、安心するどころか逆に運転に慎重になってしまうと思うのだが。

73 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

「どこ行きますか?やっぱ夜景ですよね?神戸にします?それとも生駒?」
「あんたの好きな方でいいで」
「それじゃ生駒でいいですか?そっちならそれなりに道わかりますから」
「もうさくさんにぜーんぶまかせます。ね、もうさくさん?」
「もう、かわかわないでくださいよ。裕子さんったら」

笑いながらCDをセットし、スピーカーから『銀蝿』の曲が流れ始めた。
二人には全くミスマッチの選曲だったが、姉さんはそれが気に入っているらしい。
そう言えば初めてのドライブで『銀蝿』を聴いたというような話を聞いたことがあったような気がする。
世代の差というか、まあそれは人によりけりなのだろう。

会話を交わす。正直、夜の運転というのは免許を取って六年目で始めての経験だった。
まあ車を運転すること自体、年に数回あるかないかというようなペーパーだったのだから当然だろう。

それでいきなりベンツなのだから、会話を交わす余裕などほとんど無かった。
ただ、逆に会話でもしてないと不安で仕方がないという心境でもあった。

「韓国、どうでしたか?」
「ん?ああ、それなりに楽しかったで」
「ヲタと腕組んだりしたんですよね?写真見ましたよ」
「あははは。なんやそんなの出回ってるんかいな。ほんま怖い時代やなあ」
「ええ。ネットで実況もしてたみたいですね。それは後で知ったんですけど」
「ああ。そう言えばそんなこと言うてる奴おったわ。ネットラジオで実況するとか言うてな」
「姉さんサービスし過ぎじゃないですか?ちょっと妬いちゃいましたよ」
「はははは。それほんまか?そんなん聞くとなんや逆にこっちが困るやんか」
「じゃあ困ってくださいよ。今日は一応自分が姉さんの彼氏なんすから」
「あんた、もしかしてうちに気ーあるんとちゃうんか?」
「何言ってんすか。そんなことあるわけないじゃないですか。……まあ、憧れってのは少しありますけどね」
「憧れかいな。せやけどまあ、それでも正直嬉しいわ。この年になると、な」
「その年だから憧れるんですよ。大人の女性って言うか、自分はまだ子供ですからね」
「そうか?うちもまだまだ子供やと思うで。最近つくづくそう思うねんさかい……」

74 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

大通りから少し脇道に逸れ、車は山道へと入り始めた。
姉さんが『銀蝿』のCDを取り出し、私が用意した『JOURNEY』の曲をかける。


  When the lights go down in the city
  And the sun shines on the bay
  I want to be there in my city
  Ooh, ooh

  So you think you're lonely 
  Well my friend I'm lonely too
  I want to get back to mycity by tha bay
  Ooh, ooh

  It's sad,
  oh there's been mornings out on the road without you,
  Without your chams,
  Ooh, my my my


  〜 JOURNEY 『LIGHTS』 〜


歌詞には何の意味も無い。ただ、このメロディが好きだった。
楽しい時間が終わった後に訪れる、少し淋しいながらも落ち着くような雰囲気。そして、
どこか帰る場所を求めているような、懐かしい場所に行ってみたくなるような、そんなメロディ……。
最近ではほとんど聞く機会は無くなっていたけれども、でも、私は無意識的にそのCDを選んでいた。

もしかすると、それが昼の姉さんの言葉に対する返事だったのかもしれない。
何を表しているわけでもないけれど、彼女たちとの別れ、そして自分の旅立ち“JOURNEY”……。
そんなことを表わしているような、そんな曲に私には聞こえていた。

75 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:41

車が右に左に向きを変え、生駒の稜線を進む。
木々の間から時より大阪の市街地の夜景が視界に映った。

「あんた、ようこんなとこ知ってたなあ。来たことあるんか?」
「まあ、こっちにも色々ありますからね。というか、まあその時は男集団で来たんですけどね」
「そりゃ淋しいなあ。あんた、ほんま女には奥手やさかいなあ」
「ただ求めてなかっただけですよ。今はまあ……確かに奥手かもしれませんけど」
「なあ、自分が一番わかってる思うけどな、あんた、いなくなるんなら……圭ちゃんのこと」
「……その話はよしましょうよ。今日は姉さんの彼氏なんすから」
「……そうやったな。わりいわりい。ほなもうさくさん、一番夜景の綺麗なところで停めてくださいね?」
「わかってますって。裕子さん」

少し進み、見晴らしのいい高台で車を停める。目の前には市街地の夜景が広がっていた。
白いネオンにオレンジのネオン、赤いネオンに青いネオン……。
それらが混ざり合って、七色に輝く雪がうっすらと積もったような、そんな感じにも見えた。

車から降り、夜景を眺める。姉さんも私の後に続く。
車の後ろには組の人の車がエンジンをつけたまま停まっていた。

「綺麗ですね……」
「ああ、ほんま綺麗やな」
「でもちょっと冷えますね。山の上ですから」
「そうやなあ。って、あかんあかん。これはあかんわ。なんで気ー効かせへんのかいなあ」

そう言って姉さんは私から離れ、後ろに停まっていた車に近付いた。そして窓越しに何かを話す。
その直後、車はバックして視界から離れ、姉さんがそれを確認して満足そうな表情で戻ってきた。

「ほんま気ー効かへん人やろ?せっかくのデートやのになあ」
「追い出しちゃったんですか?」
「ここが一番ええとこやろ。そこは二人きりにしてくれへんと。なあ?そう思うやろ?」
「ははは。○○さんには後で何かお礼しときますね。今日は一日お世話になりましたから」

76 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

「ええねん、ええねん。ああいう人は何か命令されてる方が幸せなんやさかい。なんもせえへんよりも」
「そんなもんなんですかね?」

二人きりになったせいか、妙に緊張してしまう。
姉さんはそんなことは無いと思うのだが、やがて二人の間に会話は無くなっていた。

「寒いですね。車に戻りますか」
「そうやな。山ん上やからな」

車の中に戻る。エンジンを停めたため、ルームランプも消え、車の中には音も無かった。
ただ、フロントガラス越しに夜景を眺めていた。姉さんと、そして私とで……。

「なあ、今日はあんた、うちの彼氏なんやで。わかってるやろな?」
「わかってますよ。だからここまで来たんじゃないですか」

と、姉さんが再び標準語に戻った。でもそれは冗談ではなく……。

「それじゃ、この後のこともわかってますよね?もうさくさん?」
「何がですか?」
「せっかく夜景の綺麗なところに来たんですよ?ね?」
「……それは何すか?もしかしてキスってことですか?」
「もうさくさんにお任せしまーす」
「ちょ、ちょっと、からかわないでくださいってば。困りますよ」

困る私とは裏腹に、姉さんは助手席から少しずつ運転席へと体を寄せ始めた。
そして私の腕にそっと寄り添うと、顔を私の方へと近づけ……そして目を閉じた。

「よ、よしましょうよ。ね、姉さん。予行演習なんすから。ね?ねえ?」
「今日はあんたがうちの彼氏なんやで。せやから、無理せんでもええんやで?」
「ちょ、困りますって。そんなのいけませんって」
「ええやん……もうさく……。うちら、前にもしてるやん……なあ?」

77 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

確かに、私は以前に一度だけ、姉さんとキスをしたことがあった。
いや、キスだけではなく、その時は姉さんの胸にまで手を伸ばしていただろう。
でも、今はあの時とは違う。あの時は二人とも酒に酔って理性を失っていたし、
それに私自身、あれから自分の存在や役割というものを深く考えるようになったのだから。
だから、姉さんとキスすることはできなかった。例え姉さんに大人の魅力を感じていたとしても。

もし、それをするとすれば、それは……私が全てを終えた時なのだから……。

「だ、だから困りますってば。ほんっと、勘弁してくださいって」
「……駄目……なんか?」
「駄目ですよ……自分には……好きな人がいますから……」

と、そこまで言った時だった。姉さんの表情が一変し、口元から笑いがこぼれたのだ。

「ははは。やっと白状したやん。その言葉をずっと待ってたんで!」
「……もしかして……罠にかけたんですか?」
「まああれや。あんたのな、最近の気持ちがどうなんかなって、ちょいと気になってたさかいな」

姉さんはそう言っていた。でも、その時の姉さんが本当はどう思っていたのか、それはわからない。
私に気があるというようなことは多分無いのだろうが、ただ、その日の私は姉さんの彼氏だった。
だから、もしかすると、姉さんはそれを求めていたのかもしれない……。

しかし……しかし、それから一週間が過ぎた日のこと。
その日の私は、その時の言葉とは全く違った行動に出てしまっていた。

私がどうしてそんな行動に出てしまったのかはわからない。
悔しさからだったのかもしれないし、意地だったのかもしれない。
でも、心のどこかに、姉さんを含めて、彼女たちを失いたくないという気持ちがあったことは確かだった。

その気持ちは日に日に強くなっていた。
市井の妊娠を知り、自分自身の愚かさを痛感し、そして部屋を去ることを考え始めた瞬間から……。

78 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

エンジンをかけ、来た道をゆっくりと降りていく。
CDは『銀蝿』でも『JOURNEY』でもなく、私が用意したもう一枚のCD……。

それは私が編集した、姉さんのシングル曲を順番に集めたものだった。

「なんやこれ。なんでこんなん持ってきたんや?」
「姉さんの歌好きですから。もちろん知ってますよね?」
「そりゃ何度も聞いてるけどもやなあ」
「だから生歌聴かせてもらおうかなあ、なんて。今日は自分が彼氏ですからね」
「歌うんか?うちが歌うんか?」
「ええ。いいじゃないっすか。彼氏なんすから、聴かせてあげても」
「それやったら歌うけどもやなあ、でも『カラスの女房』はパスしてええか?」
「ははは。まあいいっすよ。でも『お台場』はパスなしですよ。自分も歌いますから」

そう言って、二人で『お台場ムーンライトセレナーデ』を歌う。
ただ、姉さんは歌いながらかなり驚いていた様子だった。

「なあ、あんた、なんで完璧なん?歌詞かてそうやし、巌(げん)さんのパートかて完璧やん!」
「いつか姉さんとデュエットしようと思って、練習してたんすよ。カラオケで福田相手に歌ったりとか」
「あんた、ほんまわけわからん人やなあ。でもあれか、あんた巌さんのファンやったな」
「ははは。ファンというか、心凍らせてって感じですけどね」
「まあええわ。あんたがあまりに上手かったさかい、今日はサービスしてぎょうさん歌ったるで!」
「それじゃ『二人暮し』と『GET ALONG』リクしていいすか?」
「オッケーオッケー!全然かまへんで!」
「その代わりねんねんころりは駄目っすよ。眠っちゃうといけませんからね」

長く続く赤いテールランプに囲まれながら、姉さんの歌声だけが私の耳に響いていた……。

そして……その歌声の余韻がまだ冷めやらぬ一週間後……。
私は京都のとある高級料亭にいた。姉さんのお見合いが行われる場所……。
ただし、その時の私は予行演習など無かったかのように、その場には全く相応しくない格好をしていた。

79 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:42

「あ、姉さん遅くなってすいません。ちょっと道込んでたもんで」

いきなりの『姉さん』という呼びかけは私から姉さん、そしてお見合い相手への先制パンチだった。
ただ、姉さんはそのパンチよりも、私のその格好に驚いていた様子だった。

「ちょ、ちょっと、も、もうさくさん?その格好は?」
「駄目でした?なんかこんな高級そうなとこだとは知らなかったんで」

ユニクロのフリースにユニクロのジーンズ。それはまさにいつも通りの格好だったが、
ただ、さすがに姉さんもそこまで鈍感ではなかった。私の意図をすぐに察し、軌道を修正する。
予行演習が無ければ、まさかこんな展開にはなっていなかったことだろう。

「も、もうさく!こらっ!スーツ着てきてって頼んだやろ?うちの大事な席やて言うたやんか!」
「ああ、そう言えばそんなこと言ってましたっけ?でもあれっすよ。スーツ埃かぶってたから」

と、さすがにこのやり取りに面食らったのか、座っていた男性が声をかけた。

「あの……あなたは???」
「あっ、○○さん、こちら私が今お付き合いしている、○○もうさくさん」
「どうも。姉さんの彼氏っす」
「ほ、本当にこの方……ですか???」
「あれ?見えませんか?結構お似合いだって言われるんですけどね。まあ年の差はありますけど」
「はあ……」

さすがにこの態度には相手も面食らった様子だった。それはかなりの賭けではあったが。

相手は社長の御曹子で京大卒のエリート……それに勝つのは容易なことではないだろう。
いくら私がスーツを着ておしゃれをして堂々と振る舞ったとしても、それで相手が納得するとは思えなかった。
もちろん、私が過去の自分というものを全て出し切って勝負すれば、相手を超えることはできただろう。

でも、私はその武器を使うつもりは無かった。例え姉さんがそれを目当てにしていたとしても……。

80 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

ようはお見合いを破談させればいいのだ。だったら、堂々と勝負をする必要はない。
むしろ相手が真似できないようなことをすればいいのだ。
姉さんがそういう人を選んだのならば、相手にそれをどうこう言う権利はないのだから。
そして、それこそがまさに、いつもの、普段の私の姿だったのだ。

広く綺麗な和室に光沢のある黒く四角い机が置かれていた。
その床の間側に相手の男性が座り、そして向かい側に姉さんが座っていた。
相手に軽く頭を下げた後、私はその姉さんの隣にどかっと座り込んだ。

「しかし凄いっすね。さっき店の人に案内されたんすけど、なんか美食倶楽部みたいっすね」
「美食倶楽部て……もうさく、もっとマシな例えはできへんのか?」
「姉さんだってこういうとこ珍しいんじゃないですか?姉さん、場末の居酒屋が好きじゃないですか」
「も、もうさくっ!」

と、さすがに疑問を覚え始めたのか、相手の男性が声をかけた。

「あの、この方が本当に中澤さんの彼……いえ、お付き合いしている男性なんですか?」
「ええ。まあ。そういうことになっちゃうんですよねえ……」

相手の疑問を更に膨らますような姉さんの答えだったが、それも当然演技だった。

「もうさく!こらっ、あんたのせいで恥かいたやんか。なんでもっとちゃんとせえへんのや!」

姉さんが小声でそっと私に呟き、そして私の足をつねった。
もちろん相手に見られることを承知の上での演技だ。

「本当……なんですか?……姉さんって呼んでますよね?」
「まああれっすよ。普段は姉さんっすけど。そりゃまあ特別な時はあれっすよ、あれ。たははははっ」
「もうさく!もうええ加減にしてや!うち、どうしようもない女やて思われるやんか!」
「あははは。そのまんまじゃないですか」
「もうええさかい、そこでじっとしとき!これ以上恥かかさんといてや!」

81 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

私が来る前にすでに色々と話をしていたらしく、二人の会話はスムーズに進んでいた。
ただ、学歴だとか年収だとか家柄だとか、まあそういう話は聞いてて気分が悪くなってくる。
相手の言動にはそういうものを鼻に掛けるというような感じはあまり無かったが、
それでもそういうことを話すということ自体、私の嫌いな人種には違いなかった。

まあ見た感じ、それを除くと、顔もそこそこで人柄もそこそこというところだろうか。
この人と結婚すれば確かに姉さんは幸せになれるのかもしれない。
でも、姉さんがそれを望んでいない以上、私にはそれを阻止する責務があった。

姉さんへの質問が尽きたのか、相手は私に対して質問してくるようになった。

「自分っすか?そうっすね。地方の四流大学卒のフリーターっすけど」
「も、もうさく!あんた一応雑誌に文章載せてるやんか。なんでそれ言わんのや」
「仕方ないっすねえ。じゃああれです。一応文筆業ってやつです。本職はフリーターですけどね」
「もうええわ。帰ったら説教やからな!」
「たはははは」

相手の話が再び年収に触れる。
私に対して、本当に姉さんを幸せにできるのかどうか……。そういうことが言いたいのだろう。
お金では幸せは買えないというが、しかし現実面においてお金がないと辛いのは確かだ。

「まああれっすよ。一応姉さんがっぽり稼いでますからね。いいんじゃないですか?専業主夫ってやつでも」
「専業主婦?」
「あ、主な夫って書いて専業主夫ってやつですよ。まあまだ結婚とか本気で考えたりしてませんけどね」
「も、もうさく!」
「ははは。姉さんからはせがまれてるんすけどね。今はまだこんな感じでいいかなあ、なんて」
「すいません。ほんと。こんな頼りない彼氏で……でもこの人がうちの好きになった人なんです……」
「……」

相手はかなり困った顔をしていた。多分そこそこの彼氏が登場することを予想していたのだろう。
それなら勝てると。でも実際に現われたのは、勝負するにもタイプが違いすぎる男だったのだ。

82 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

会話の合間に料理が運ばれてきて、それをゆっくりと時間をかけて食す。

「なんか凄いっすねえ。なんでいっぺんに持って来ないんですかね?」
「も、もうさく!もう頼むさかい変なこと言わんといてって言うたやろ?」
「でもやっぱ美食倶楽部みたいっすよ。後でぼったくられるんじゃないですか?頑固な親父とかに」
「ぼったくるとか親父とかそんな、あんたなあ、ここどこや思うてんねん!」
「でもなんか味付けおかしくないっすか?いかにも京都って感じですよね。なんつーか……まずい?」
「まずいて、もうさくっ!ファミレスとかほか弁とは違うんやで!これが京料理言うもんやんか!」
「でもあれですよ。これ、季節外れのもの結構ありますし。この魚なんて養殖ですよ、これ」
「……そうなんか?」
「ええ。大体この吸い物、何なんすか?出汁と湯葉が喧嘩してるじゃないっすか。これじゃ台無しっすよ」

姉さんもそうだが、相手もかなり面食らっていた様子だった。
何の取り得も無いと思っていた男が、突然料理を指摘し始めたのだから。
ただ、それは決して『美味しんぼ』で覚えた知識というものではなく、私が自然と身につけたことであって……。
ある意味、それは武器を使ってしまっていたのかもしれない。

「でもまあ、白身魚は養殖の方が味が淡白で好きって人も最近は多いですからね」
「そうなんか」
「自分はほか弁の白身魚で満足っすけどね。でもここよりは旨いっすよ」

完全に相手の面子を潰したという感じだっただろう。
最初は面食らっていた相手も、徐々に眉間に皺を寄せ始めていた。

そして料理が机の上から姿を消し、再びの会話の後、相手は最後の賭けに出た。

「どうも私にはわかりません。本当にお二人はお付き合いされているんですか?」
「それ、どないな意味ですか?○○さん」
「ですから、お二人は本当にお付き合いされているんですか?演技で私を翻弄しているんじゃないですか?」
「はははは。姉さん一応女優っすからねえ。そりゃそうだ」
「一応って何やねんな!うちはちゃんとした女優やで!昼ドラかて主演するんやで!」

83 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:43

その会話に気を取られないように、流すように相手が言葉を発する。

「証拠を見せてもらえませんか?」
「証拠、ですか?」
「ええ。本当に付き合ってるのなら、キスくらいできますよね?」
「キスて、○○さん、何言ってるんですか!」
「お二人が本当に付き合ってるのなら、できますよね?それとも、やっぱりできませんか?」

まるで逆切れのような強い口調だった。さすがに笑ってばかりはいられなかったかもしれない。

「あれっすよ。人前でキスとか、そんなはしたないことできませんよ。そんな趣味ありませんしね」
「わかりました。じゃあ私は部屋を出てますから。その間にキスしてください」
「ちょ、ちょっと○○さん?それじゃあ本当にキスしたかどうかわからないじゃないですか」
「それくらいわかりますよ。私だってそこまで鈍感じゃありませんからね」

そして立ち上がりながら付け加える。

「その時は中澤さんのこと、諦めることにします。私の、負けですからね……」

部屋からは外の庭園が見えていた。その前には来た時に通った板張りの廊下があり、
彼はその廊下を通って私たちの視界から消えていった。

部屋に残されたのは、もちろん姉さんと私……。

「なあ、どないすんのや?キスしろやて」
「さあ、どうしますかね。別にしなくてもばれないと思いますけどね」
「そうやなあ。ほな、キスしたいうことにし……ムグッ」

その瞬間、私は姉さんの唇を塞いでいた。もちろん、その自分の唇で……。

でもそれは姉さんのためではなく……自分の……。

84 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/11(木) 22:44

家に戻り、リビングのソファにぐったりと座り込む。

終わった。

これで全てが終わったのだ。私の役割も、そして私の存在も……。
ただ、一つだけ済ませていないことがあるとすれば、それは保田への想い……。

そのけじめをつけないことには、私はまだ……。

それがいつになるかはまだわからない。
彼女は最近はこの部屋に立ち寄ることはほとんど無くなっていた。
特に仕事があるというわけでもないのに、やはり私とのことが理由なのだろう。

でも、彼女はそのうち必ずこの部屋に来ることだろう。
そして、その時が私にとって、本当の終わりということになるのかもしれない。

だから、今はそれを待たなくてはならない。

もちろん、その間に彼女たちとの最後の思い出を作るということもあるだろう。
市井とはもう会うことは無いだろうが、他のメンバーはまだまだこの部屋に来るはずなのだから。

そう言えば紺野とも秋以来一度も会っていなかっただろう。
事務所の問題というのもあるのだろうが、やはり最後に一度会っておくべきだろう。
紺野はこの部屋の住人ではなくても、私の友達なのだから……。

それは消化試合に過ぎないのかもしれない。でも、それでも私にとってはそれが最後の時間だった。
彼女たちと過ごし、そして彼女たちと別れるために必要な……時間……。

――――――
   つづく
――――――

85 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:00

目を覚ますと、いつもとは違う部屋にいた。そして何より頭が痛い。
久しぶりに感じるこの感覚、それはもちろんアルコールのせいだった。

「お、もうさく、起きたか……」
「あ、ああ……そっか、昨日飲んで騒いだんだったか……」
「ちゃんと覚えてるか?」
「……店で飲んで、それでこの部屋に来たってとこは覚えてるけど、その後は……」
「やっぱりかいな。まあ、あんだけ飲めば当然やな」
「もしかしてなんかやらかした、とか?」
「いや、特にないで。ただな、なんや色々変なこと口走っとったわ」

ちょっとまずい展開になりそうな予感がしていた。
昨日は知り合い四人で酒を飲んで騒ぐということになっていたのだが、
記憶を失っている間に、私がもし彼女たちのことを話していたとしたら……。

「た、例えばどんな?」
「そうやなあ。最初は笑うたで。俺、好きな人がいるんだとかなんとか、な。真面目な顔して」
「それはなんとなく覚えてるような……」
「でもなんや、事情があって告白でけへんとかなんとか言うとったわ。これも真面目な顔して」
「ほ、他には?」
「そうやなあ。どうして好きになっちまったんだ、みたいなこと言うとったかな?」
「……」
「まあおもろかったし、別にええんちゃうか?結局“安田”って子のことは教えてくれへんかったしな」
「……!」
「その子なんやろ?もうさくが好き言うんは」
「名前……出したのか?」
「ああ。なんや“安田”に俺は釣り合わないとか、俺が告白しても迷惑なだけとか、色々言うとったで」
「それ、だけ?」
「まあそんなもんやったかな。でもあれやで、うちらかてもういい年やさかい、そろそろ相手見つけんとな」

結局、私が口走ったのは彼女の名前だけだったらしい。それは少し安心できることではあったが……。

86 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:00

部屋に戻り、ソファにもたれながら水を飲む。それでも気分の悪さは変わらなかった。
台所に行き、棚から青汁の粉末――保田が舞台のためにずっと愛飲していたものだ――を取り出す。
それを水に溶かし、そして飲み込む。以前に酔い覚ましに効くというのを聞いたことがあったのだが、
当然すぐには効果は表れなかった。ただ痛む頭のまま、色々なことを考えていた。しかし……。

自分でもよくわからなかった。自分がどうすればいいのか……。
自分の気持ちはもう十分過ぎるほどわかっている。そして、それを伝えるべきだということも。

でも、部屋を去る前にそんなことをして、本当に意味があるのだろうか、とも思う。
これまで彼女を待たせた責任として、最後にそれを告げるべきだと、そういう気持ちももちろんあるし、
それが一番大きなウェイトを占めているのも確かだ。でも、その後の彼女の気持ちはどうなのかとも思う。

しかし、何も言わないまま立ち去るのは、何より自分自身に対して納得がいかないし、
それに彼女だって、それまで待っていた時間は何だったのかということになるだろう。
むしろ彼女にとっては、私が気持ちを伝え、そしていなくなった方が、そのままいなくなるよりも、
気持ちを切り替えることができてすっきりするのではないかと、勝手ながらそう思うのだ。

もちろん、それは彼女自身にしかわからないことだし、それにどちらにせよ、
その選択が彼女を傷つけることになることに変わりはないのだろうが……。

唯一救われるとすれば、それは彼女が私を振るということなのだろうが、
でも、それはそれで私にとっては辛いものであるし、それに、
それで私がいなくなれば、彼女は更に責任を感じてしまうことだろう……。

そもそも私が彼女を好きになったこと自体がいけないことだったのかもしれない。
いつか離れなくてはならないことは最初からわかっていたことだったのだから。
でも、私はずるずるとその環境に甘んじていた。その選択が辛くなるまでに……。
そして、いっそのこと、今すぐにでも消えてしまいたいと思うほどに……。

福田から電話があった。数日後にこちらに来るということと一週間と数日滞在するということ、
そしてその間に後藤が来るらしく、一緒に渓流釣りに行こうという話になっているということ。

87 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/15(月) 20:01

どうやら福田はいつの間にか後藤と仲良しになっていたらしく、
東京でもたまに会ったりして遊んでいるということだった。まあ、特にありえないことではないだろう。

でも驚いたのは、福田が後藤のことを『真希ちゃん』と“ちゃん付け”で呼んでいたことだった。
対等な関係を構築したいから名前で呼び合うと言っていた福田だったが、
その形式的な約束事が、決して対等でも、そして親しくもないということにようやく気づいたのだろう。
頑固で自分の意見を決して変えない福田だったが、この部屋に来て少しは変わったのかもしれない。

「でもどうして釣りなんだ?お前釣りなんか興味なかっただろ?」
「真希ちゃんの話を聞いてて興味を持ったんですよ。いけませんか?」

後藤とは三度ほど釣りをしたことがあった。一、二度目は夏前だっただろうか、場所は近くの川だった。
私が知り合いに誘われて釣りに初挑戦したという話を聞いて、後藤が私もやりたいと言い出したのだ。
もっとも、後藤が釣りに興味を持ったのは、送り迎えをしてくれる下の部屋に住む○○さんが、
釣りが趣味だということをその送迎の時に何度か聞いていたからだったらしいが。

そこで○○さんと一緒に、三人で近くの川に釣りに出かけたのだ。
それが最初で、二度目もほぼ同じ頃。三度目は秋頃で、その時の場所は大阪湾だった。

そう言えば、第三部において、私が遠い将来に後藤と川で釣りをしていたのも、
そうしたことがあったせいで、私がそれを夢に見てしまったということだっただろう。

とにかく、福田と後藤との最後の思い出は、多分その渓流釣りになることだろう。
それで大体のメンバーとの思い出は終わり……ということになるかもしれない。
市井とはもう会うことも無いだろうし、彩っぺは先月来たばかりで多分しばらくは来ないだろう。
姉さんとはデートもして、お見合いもしたのでもう十分だし、あと残っているとすれば……。
それはもちろん……。

――――――
   つづく
――――――

88 :名無し娘。:2004/03/15(月) 22:13
もうすぐ終わっちゃうのか・・?いやだぁ

89 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

それから数日後、福田が姿を見せたのは、私が押し入れの整理をしている時だった。

「何してるんですか?」
「ああ、ちょっとな。たまには整理しようかな、なんてさ」
「もうさくさん、整理整頓とか好きですよね。男の人なのに」
「まあな」

確かに福田の言う通りだったが、ただ、その時はいつもとは目的が違っていた。
もちろん福田はそんなことには気づいてはいないのだろう。

「あ、なんですか?このケース?」
「あっ、勝手に触んなって!」
「……これ、笛ですか?……なんだか、かなり煤けてますけど」
「あーあ、触んなって言ったろーが……」
「もしかしてもうさくさんが吹くんですか?これ?」
「あれだあれ。昔な。ちょっとかじっててな」
「へえ、それは意外ですね。もうさくさんが笛なんて……。しかもこれ、普通の笛じゃないですよね?」
「龍笛(りゅうてき)ってやつだ……まあ知らんだろうけど」
「それって、もしかして雅楽とかで使うやつですよね?」
「よく知ってんな」
「へえ。もうさくさんにそんな雅な趣味があったなんて、全然知りませんでしたよ。人は見かけに……」
「ほら、もういいだろ?……しまうぞ。それ結構高いんだからさ……」
「えっ?もうしまっちゃうんですか?聴かせてくれないんですか?」
「もう何年も吹いてないからな……。それに人に聴かせるようなもんでもないし……」
「……そうですか。……それは残念です……」

福田はそれ以上せがんだりはしなかった。
それは多分、私のその顔色を見て、それが無駄だとわかったからなのだろう。
なんだかんだ言っても、福田と私とはもう一年の付き合いになるのだから。

ただ、その残念そうな表情は、私の中にもどこか淋しげな感情を植え付けるものでもあり……。

90 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

翌日、バイトを終えて帰宅する途中、片側一車線の道路を歩いていると、
後ろから来た一台のタクシーが私の横に止まり、そしてウイーンという音がして窓が開いた。

「おう!青年!」
「……姉さん、ですか?」
「もうさくさん!私もいますよ!」
「後藤もか……」
「おう、ちょいと待っててや!今降りるさかいな!」

そう言って姉さんと後藤がタクシーから降りてきた。

「さっきラジオ終わったとこやねん。あ、先言うとくけど、今日は圭ちゃんおらへんで」
「わかってますよ。そんな連絡聞いてませんもん」

私がそう返したものの、姉さんはそれには背を向け、タクシーの助手席の方を向いていた。
多分姉さんのマネージャーなのだろう。この前会った見習いの女性の人ではなく、その時は男性だった。

「大丈夫やて。絶対寝坊なんてせえへんさかい。ほんま大丈夫やから。ほな運転手はん、進めたってや」

半ば強引というか、しぶしぶという感じで、タクシーが再び走り出す。
助手席の男性に対して軽く会釈をすると、意外にも向こうも笑顔で会釈を返してきた。
私が問題の部屋の住人だということはタクシーを止めた時点でわかっていただろうから、
まあ事務所の人間であっても、私のことを敵視している部類の人ではないのだろう。

「ふう。やっと邪魔者がいいひんくなったわ」
「いいんですか?」
「ああ。大丈夫や。いつものことやから」
「ならいいんですけど……」
「私は明日オフだからいいけど、裕ちゃんは、ね?」
「ええんやて。どうせ名古屋のイベントとそのついでの仕事やさかい。朝出れば全然余裕やで」
「でも忙しいんじゃないんですか?昼ドラの収録とか、もう始まってるんですよね?」

91 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

「今はまだゆったりやけどな。でもあれ、後の方になるとかなり大変らしいなあ」
「期待してますよ。最近昼ドラとか見ないですけど、学生時代は欠かさず見てましたからね」
「ほんまかいな。ああいうのは普通主婦が見るもんやろ?」
「そんなことないですよ。昼ドラのためにわざわざ三限空けたりとかしてましたし」
「勉強しないで?」
「あははは。まあ単位はちゃんと取ってたからね。それに三限ってそもそも講義とか少ないし」
「そうなんだぁ」
「そそ。まあ今思うともっと勉強しとけばよかったなあとか思うけどさ……」
「あんたそうやって後悔ばっかの人生やなあ。もっとしっかりせえへんと駄目やで」
「ですよねえ……」
「あ、違いますよ。ですよね!ってやる時はこうやって親指を立てて、外にえぐるように……」
「こうか?」
「そうそう。それで、ですよね!って」
「でもそれはいいわ。なんか恥ずかしい……」

姉さんと後藤と三人で歩く道……でもその道はもう後わずかしか残されていないのだろう。

部屋に戻ると、福田が何やら忙しそうに部屋の中を行ったり来たりしていた。

「あ、一緒だったんですか?」
「さっきばったり会ってな。てかお前何やってんだ?その手に持ってるの……」
「これですか?さっき荷物が届いたんですよ。それで準備をしてたんです」
「準備?」
「後でわかりますよ、ね?」

そう言って福田が後藤に微笑みかけると、後藤は親指を立て、外にえぐるように突き出した。
どうやら後藤もその福田の行動が何なのか、すでに知っていたらしい。

「さて、それじゃ始めるとします」

福田がそう宣言し、わけもわからず和室に招き入れられる。

92 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:48

こたつは綺麗にしまわれ、その机は脚を折って部屋の隅に立てかけられていた。
座布団が四枚敷いてあり、その周りには見たことのあるような道具が並んでいた。

「これ、もしかして茶道ってやつか?」
「そうです。実は最近習い始めたんですよ。それでここで練習しようと思って」
「あ、うちにある道具を送ったんです。私も昔かじってましたから」

少し照れながら後藤がそう告げる。
ということは、どうやら福田が後藤に触発されたということなのだろう。

「おっと、ちょっと待ってろ。それなら……せっかくだからさ、BGMあった方がいいだろ?」
「もしかして昨日の笛、吹いてくれるんですか?」

福田がちょっと嬉しそうに尋ねた。
ただ、いくらなんでもこの席で龍笛というのはあまりにも場違いだろう。
私が用意したのはCDラジカセと、そして和楽――琴と尺八だ――のCDだった。そしてもう一つ……。

押し入れの中から取り出してきたものを見て、福田が目を丸くした。

「な、なんでもうさくさんがそんなもの持ってるんですか?」
「まあいいじゃねーか。たまには使ってあげないともったいないしな……」
「それなら笛も吹いてくださいよ。もったいないですよ?」
「ははは……」

それは桐の箱に入った茶器だった。由緒書きもついているが、達筆すぎて字は読めない。
姉さんはもちろん、すぐにそれがかなりの値打ちモノだということに気づいた様子だったが、
ただ、それが骨董品の美術館に展示されたことがあるということまでは予想できなかっただろう。

それは私がまだ幼い頃、骨董品収集を道楽にしていた祖父にせがんで貰い受けたものだったが、
私自身、その時のことはあまり覚えていない。ただ、その黒と緑の中間くらいの釉薬の光沢に惹かれ、
それを毎日眺めてうっとりしていたことだけははっきりと覚えていた。我ながら変な子供だ。

93 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:49

四人の座る狭い和室に琴と尺八の音色が流れる。
それはそれで場違いだったか、福田と後藤はかなりご満悦な様子だった。

「そんな道具持ってるんですから、もうさくさんはもちろん作法心得てますよね?」
「ああ?俺が作法知ってるように見えるか?クルクル回して飲めばいいんだろ?」
「回すと言っても絶対に縦には回さないでくださいよ。こぼれますから……」

福田の冗談に後藤がクスッと笑う。……そして不思議な時間が流れた。

「どうでしたか?たまにはこういうのも趣があっていいですよね?」
「そうやなあ。せっかくこの部屋来るんやさかい、こういうのがあってもええわな。気分転換にもなるやろし」

姉さんがそう言い、後藤も面白かったというようなことを口にした。

福田は道具を片付け、そして後藤と二人でスーパーへ買い物に出かけた。
その間に姉さんが複雑そうな表情で私に声をかけてきた。

「なんや、あんたほんまに作法知らへんかったんやなあ。てっきりそれくらい知ってるんかと……」
「茶道は苦手なんすよ。形式ばってるというか、本来はもっと自由なものだと思うんで……」
「自由なあ……」
「ワビサビなんてものは拘束されて感じるものじゃないですからね。自然に感じるものですから」
「あんたほんま難しいことばっかり考えてるんやなあ。そりゃ人生疲れるで……」
「ですよねえ……」

一度部屋に戻った姉さんが再びリビングに姿を見せる。今度はさらに真剣な表情だった。

「なあ、あんたもう決めたんか?……いつにするんか……」
「来月、ですかね……今月一杯はバイトありますから……」

94 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:49

「そうか。ほなその前に圭ちゃんに来てもらわんとあかんな」
「……」
「まあそれはうちにまかしとき。それまでにこっち来るように仕向けるさかいな」
「でも自分のことは言わないでくださいよ?」
「了解了解、バッチグーや!」

そして翌日。――その日は約束していた渓流釣りの日だった。
後藤と福田の二人がお弁当を作り、そして下の人の車で目的地へと向かう。

「それじゃ師匠、お願いします。帰りは私が運転しますから……」

“師匠”というのはもちろん○○さんのことだ。いつもは姉さんに忠誠を尽くす組員として、
私たちにも特別な接し方をしていたのだが、釣りの時だけは別だった。
釣りの時は私と後藤――それにその日は福田もだ――は○○さんの弟子なのだ。

途中、新大阪で姉さんを降ろし、そのまま北上して山道を走る。
詳しくはわからなかったが、車は兵庫県と京都府の県境付近を目指していた。
ちょうど鳥インフルエンザが話題になっていた地域のちょっと手前ということになるだろう。

渓流釣りというのはよく知らなかったが、ちょうど3月上旬あたりから随時解禁になるらしい。
場所によっては入場料みたいなものを払うところもあるらしいが、
そういうところは大体は養殖の魚を放流するため、解禁直後はかなり釣れるらしい。
ただ、師匠はそういうのは好きではないらしく、その日目指したのは放流魚のいない自然な渓流だった。

川のせせらぎの音を聞きながら師匠からやり方を教わり、後藤がまず棹を投げる。
師匠が用意していた棹は三本。師匠と後藤が一本。そして私と福田が二人で一本だった。

しばらく成り行きを見守るも、当たりは全くこなかった。
痺れを切らしたのか、福田が川に向かって石を投げて遊び、そして師匠から怒鳴られる。
“声は出しても小石は落とすな”――それが釣りの基本であるらしい。
まあ福田の場合は小石を落としたのではなく、思い切り投げたわけだが……。

95 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

「全然釣れませんね。こんな退屈だとは思いませんでした」
「まだ始めたばっかだからな。そのうち釣れるだろ」
「本当に魚いるんですか?川の中覗いても一匹も見つかりませんよ。冬眠してるんじゃないですか?」
「やれやれ。ちっとは後藤を見習えよ。ほら、後藤なんてさっきからじっと棹見つめてるぞ」

福田と後藤は好対照な存在だった。
どちらがどうというわけではなかったが、とにかくいい意味でコントラストを描いていた。
二人がもし同時期にモーニング娘。として活躍していたらどうなっていたのだろうか、と、
ついついそんなことを考えてしまう。まあもし福田が辞めていなかったとしたら、
こうして彼女たちと釣りをすることもなく、私もモーニング娘。自体に興味を持つこともなかったのだろう。
福田が抜け、後藤が抜け、そして保田が抜けたからこそ、“今”というものがあるのだから……。

と、師匠がようやく一匹目を釣り上げる。確かヤマメだったはずだ。
体長はかなり小さかったものの、とにかく、それでその川に魚がいるということが証明されたわけだ。

「ほれ、やっぱり魚いるみたいだぞ?」
「隠れてるなんて卑怯ですよ。いるならいるで姿を見せてくれないと困ります」
「なんだそりゃ……」

午前中の釣果は師匠が二匹、後藤が一匹、そして私と福田が零匹だった。
せっかくなのでその場で焼いて食べるということで、もう一匹釣れるのを待つ間、私が火を起こして準備する。

それから二十分して、福田の棹にようやく当たりが来た。

「な、なんか引いてるんですけど!こ、これどうすればいいんですか?巻くんですか?引っ張るんですか?」

福田はかなりテンパッていた。それも師匠の声が聞こえないほどに……。
そして案の定、私が駆け寄るよりも早く、魚はどこかへと逃げてしまった。

「あーあ、逃げちゃったなあ。まあ逃げた魚はでかいって言うから、もしかしたら鯨だったんじゃねーか?」
「……」

96 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

いじける福田をよそに、師匠があっさりもう一匹を釣り上げ、めでたく昼食となった。
後藤と福田が早起きしてこしらえたお弁当はサンドイッチだった。
それに昨夜の残りのからあげなんかも入っていて、まあいかにもピクニックという感じのものだった。
もちろん四人分で、それにアンバランスながらも釣り上げた魚も加わる。

「いっただっきまーす!」

後藤と福田が声を揃えてサンドイッチをパクつき、自画自賛の言葉を連発する。

「そりゃ後藤が作ったんだから旨いに決まってるだろ。うん、旨い!」
「あのお、私も一緒に作ったんですけど。もうさくさんも見てましたよね?」
「それが不安材料なんだよなあ……どれどれ……うん、まあ足は引っ張ってないみたいだな」
「なんですかそれ!なんで素直に美味しいって言えないんですか!それも私の時だけ!」
「そりゃ決まってるだろ。後藤は料理旨いし、それになんてったってかわいいからな」
「差別です!断固抗議します!」
「なんだそりゃ、差別じゃなくて区別だろ。だって後藤がお前よりかわいいのは歴然とした事実なんだから」
「今日という今日は許しませんよ!裁判所に訴えます!」
「お前が勝てる見込みはゼロだけどな。まあ東京地裁で藤山雅行裁判長なら奇跡が起こるかもしれんが」
「誰ですか……それ?」

釣ったばかりの魚のハラワタを取りのぞき、串に刺して塩を振って焼いただけの魚を食べる。
やはりこういう場所で食べるというのは雰囲気的にもかなり格別な味だった。
後藤はこういう時は本当に幸せそうな表情を浮かべる。
それに比べて福田は、さっきから私を睨んでばかりだった。やはり少し言い過ぎたのかもしれない。

昼食を食べ終え、再び釣りに戻る。師匠はポイントを変えるとかで、かなり川下の方に移動していた。
後藤もその半分くらいの距離を移動し、午前中に師匠がいたポイントを福田が掠め取る。

「さっきは場所が悪かったんです。ここなら絶対釣れますよ」
「そんなもんか?」

福田がキッと睨む。一人だけ釣れなかったことがかなり悔しいらしい。まあ私も福田とペアなわけだが……。

97 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

釣りは福田にまかせ、後藤の場所へと移動する。

「よっ、楽しんでるか?」
「えへへ、とっても楽しいですよ。今日は福ちゃんも一緒だし」
「福ちゃんか……お互いに呼び方変えたんだな」
「そうなんですよ。福ちゃんが一番呼びやすいのでいいって。その方が自然だからって」
「あいつも丸くなったんだなあ……」
「もうさくさんも丸くならないと駄目ですよ?」
「えっ?」
「圭ちゃんのこと、よろしくお願いしますね?」
「ははは……あはははは……」

まさかこんなところで彼女の名前を聞かされるとは思ってもおらず、私はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
そこから更に下り、師匠の場所へと向かう。

「師匠、話があるんですけど……今いいですかね?あ、釣りのことじゃなくて部屋のことで……」

そう言ってからしばらく師匠と話し込む。もちろん私が部屋を離れることについてだった。
そして更に、私がいなくなった後、彼女たちの相談に乗ってあげてほしいということなど……。

師匠と二人きりでこうして話をするのは久しぶりだった。
と言うのも、実は以前、私は師匠からあることを相談されたことがあったのだ。
それはまあ、人間として自然に湧き出てくる感情に関するもので、そして部屋に関することでもあった。
はっきり言うと、師匠は後藤に恋していたのだ。もちろん、それが叶わない恋であることも、
叶えられない恋であることも知っていた。それも痛いほど……。だからこそ私に相談してきたのだ。

ただ、その時の私はその相談に応えることはできず、それは今も変わらないままだった。
それはどの恋についても言えることだろう。今の状態のままを続けた方が幸せな時もある。
逆にその状態を壊してまで自分の気持ちを伝えた方が幸せな時もある。例え玉砕するとわかっていても……。
でも一つだけ思うことがある。それは――どちらを選んだとしても、
それが悩みぬいた末の決断であれば、それがいつかきっと、いい思い出になる日が来るということ……。

98 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

もちろん、そんなことを私が年上の師匠に言うことはなかった。
でも、師匠のように男気のある人間には、私としても幸せになってほしいと、そう思うのだ。

と、遠くから悲鳴にも似たような声がマイナスイオンを伝って周囲に響き、
振り向くと福田が棹を振り回して喜んでいた。その手には魚が握られていた。

福田はかなり嬉しそうだった。いや、嬉しそうというレベルではなかった。
駆け寄った私に対し、釣れた時の状況を延々と繰り返し語るのだ。

「はいはい。それはわかったからさ。ほら、釣れたって言ってもまだ一匹だろ?後藤は二匹目釣ってたぞ」
「わかりました。真希には絶対に負けませんよ!私の方がかわいいってこと、証明してみせます!」
「なんだそりゃ……」

福田らしいというか、まあそれこそが福田なのだろう。
そんな福田の姿を見て、私の心の中もどこか晴れやかな気分になっていた。

リューーーーールーーーーー。

緑の木々と川のせせらぎの間を龍笛の音色が響いた。
三人が不思議そうな表情でこちらを振り向く。ただ、その中では福田の笑顔が確実に一番だった。

「もうさくさん!聴かせてくれるんですね!」
「ああ。一度こういうとこで吹いてみたかったからな」

リューーールルルルールルーーーーーリューーーールルルルールルーーー。

「それ、もしかして……『愛の種』ですか?」
「よくわかったな。でもなんか変だよな。やっぱこの笛の曲じゃないよな」
「そんなことないですよ。とっても素敵です!」

それからしばらくの間、その渓流には不思議なメロディが流れ続けた……。

99 :◆5/w6WpxJOw :2004/03/27(土) 19:50

そして翌朝。
後藤は前日の中澤同様、名古屋のイベントに出演するらしく、朝早くに部屋を出ることになった。

「それじゃ行ってきますね。ハワイのお土産、期待しててくださいね!」
「いいよいいよ。気ー使わなくてもさ。その気持ちだけで嬉しいって」
「でも、せっかくですから。ね?」
「……それじゃさ、俺宛てじゃなくてさ、この部屋へのお土産ってことでいいか?」
「わかりました。それじゃそうしますね」
「あ、でもあれだぞ。紺野みたいに変な民族のお面とか買ってくるなよ。これ不気味なんだよな……」

玄関の壁に飾られた民族のお面を見ながらそう言うと、後藤は親指を突き立て、外にえぐるように……。

正直なところ、次に後藤が来た時、この部屋に私がいるかどうかはわからなかった。
だから、私宛てのお土産を買ってこられると困るというのがあったのだ。
そしてドアが閉まり、私の視界から彼女の姿は消えていった……。

「どうかしたんですか?なんだか淋しそうですけど……」
「えっ?いやっ、別になんもないけど……」
「怪しいですね」
「ああ、あれだあれ。やっぱかわいい子がいなくなるってのは淋しいからな」
「なら私が帰る時はきっともっともっと淋しくなりますよ。保証します!」
「ああ、別の意味でなら淋しくなるかもな」
「なんですか、それ!」

それから三日後、去年の夏に続いて私たちは甲子園にいた。春の高校野球。
しかし、そこに紺野の姿は無かった。仕事が忙しく、またフットサルの試合が近いということらしい。
ただし、そこには福田と、そしてもう一人の姿があった。それは……。

――――――
   つづく
――――――

100 :名無し娘。:2004/03/27(土) 20:36
ゆったりとおしまいにちかづいているのが
たのしみやらさみしいやら。

263KB
続きを読む

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail(省略可)

0ch BBS 2006-02-27