---

■掲示板に戻る■ 全部 1- 101- 201- 301- 最新50

●ショムニ●

1 ：名無し娘。：2003/01/02 03:07:54

坪井千夏　（　｀.∀´）　　　　　　杉田美園　川�Vv�V从
丸橋梅　川ｏ・-・）　　　 　　 　　神谷慎太郎　川 ’ー’川
徳永あずさ　（〜＾◇＾）　　　　　寺崎部長　（●´ー｀）
日向リエ　（　‘д‘）　　　 　　 　岡野（人事部）　（　´�D｀）
塚原佐和子　（　＾▽＾）　　　　　右京友宏　（　´ Д ｀）
宮下佳奈　从‘ 。‘从 　　　　　 三田村英ニ（海外事業部）　∬∬´▽｀）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　井上課長　（０＾〜＾）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　前川社長　从#~∀~#从
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　前社長　（　｀◇´）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ネコ　　（　・e・）

101 ：173 ◆w6WpxJOw ：2003/07/21 12:23:41

もちろんそこには彼女の存在があるのも確か。私は彼女のことが好きだし、
彼女も私のことを――どの程度かはわからないが――好きでいてくれている。
決して付き合っているわけじゃないし、何があるわけでもない。
ただ、私にとってはそれだけで十分だった。

それに、私にとって大切なのは今や彼女だけではない。
この部屋に来る全員が私にとっては大切な存在なのだ。

しばらくして、今度は携帯にメールが送られてくる。
それは紺野からのメールだった。

　　　もーちゃんさん！今日不思議な夢を見ちゃいました！
　　　未来の夢なんですけど、私、何をやってたと思いますか？
　　　自分でもびっくりしちゃいました！映画女優ですよ！映画女優！
　　　それにね、とってもおもしろかったんですよ！
　　　保田さんは二時間ドラマの女王で、中澤さんは人気の司会者になってました！
　　　それに福田さんは歌手で、市井さんはなんと売れっ子のプロデューサーですよ！
　　　とってもおもしろい夢だったんで、私、さっきから文章にまとめてるんですけど…
　　　なんだかとっても長くなっちゃって。気づいたら小説みたいになっちゃいました！
　　　今度、もーちゃんさんにも見せてあげますね！
　　　それから、もーちゃんさん、この前の約束覚えてますか？
　　　ミュージカルに来てくれるって言いましたよね？
　　　とっても楽しいですから、絶対に来てくださいよ！
　　　それじゃ約束ですからね！　　　あさ美より

　　　P.S　明治座で待ってま〜す！


　　　『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!』

　　　第三部　「あさ美の夢日記〜結局夢オチかよ〜」　完

102 ： ◆w6WpxJOw ：2003/07/21 12:34:37

さて、セブンから移転して一ヶ月、
ようやく第三部を終わらすことができました。
狩板の優れた小説の中にこの稚拙な小説（日記）を並べることには
抵抗もあったのですが、どうしても未完で終わらせたくないという思いがあり、
こうして未熟ながら狩板を利用させてもらった次第です。どうかご容赦くださいませ。

さすがに狩板の住人の中に新規の読者はいないと思いますし、
セブンから追ってきてくれる読者もあまりいないとは思いますが、
最後まで読んでいただいた方には厚く御礼申し上げます。

103 ：名無し娘。：2003/07/21 23:03:39

てか今日見つけたんだけど上のリンクが見れないんですけど・・・
概要書いててくれてるんだけど、やはり小説なんで通して読みたいんで
過去ログ見れるようにしてもらえませんか？

104 ：名無し娘。：2003/07/21 23:04:42

ageちゃった・・・ｽﾝﾏｾﾝ・・・・

105 ： ◆w6WpxJOw ：2003/07/22 02:28:20

○html化したものは消さずにずっと残しておく予定です。
○2chlog.homeftp.orgは自宅サーバです。諸事情によりつながらないことがあります。
　つながらないときはしばらく待ってから再度試してみてください。

……とありましたので、多分時間帯によっては繋がらないこともあるかと。。。

106 ：名無し娘。：2003/07/22 23:23:34

セブンからきたよ
ちなみに第四部は書くの？

107 ：名無し娘。：2003/07/26 02:18:15

追ってきた。
続きが読めてホッとした。
日記すごく良いね。
外伝的エピソードでイイから、もうちょっと読めると良いなぁ。

108 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:49:21

ｶﾀｶﾀｶﾀ……と、キーボードを叩く音が部屋に響く。しかし部屋には明かりはついておらず、
パソコンのディスプレイのちらちらした明かりだけが部屋の壁に不気味に反射している。
夜ということもあってカーテンは閉まったままだが、そのカーテンは昼も開くことはない。

私は今、こうしてインターネットに接続して文章を書き込んでいる。
ただし……それは今に始まったことではない。
最初は去年の年末だった。そして今年の７月までそれは続いた……。

しかし、今はその時とは事情が違う……。
あの頃私を動かしていたのは、単なる圧力、それも脅迫にも似た圧力だったのだ。
しかし今は違う。今は自分の意志でパソコンに向かっている。
それは私がその圧力から解放されたことを意味しているが、
しかし、それでもその圧力が完全に消え去ったわけではなかった。

私は今もその圧力を恐れ、そして怯えているのだ。
そのため、昼と言えども部屋のカーテンを開けることすらできないのだ。
そして、部屋を出る時も、周りを何度も確認しながら、ひっそりと出かけるのだ。
もちろん、それもバイトに行く時だけで、不必要な外出は避けることにしている。

なぜそのようなことになったのか。その圧力とは何なのか……。
それを話すと長くなってしまうのだが、しかし、私が今日こうしてインターネットに接続し、
拙い文章を書き込んでいるのは、そのことを皆さんにお知らせしたかったからなのだ。

それは去年の秋に遡る……。

109 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:49:33

バイト先の先輩にAさんという人がいた。もちろんイニシャルは適当だ。
そのAさんが私にある頼み事をしてきたのが、そもそもの始まりだったのだ。

Aさんはそのバイトとともに、テレビ局関連の雑用のバイトもしていた。
そしてある時、Aさんは私にそのバイトを代わってもらうように言ってきたのだ。

テレビ局の仕事と言っても本当に雑用らしく、番組が終わった後の掃除や後片付け、
あるいはスタッフにおつかいを頼まれたりと、まあ知識が無くてもできる仕事だった。
ある意味スタッフの更にスタッフといったところだろうか。

もちろん、テレビ局の仕事ということで、私もそれなりに興味を持った。
しかし、それがいけなかったのだ……。
テレビの中の出来事は現実ではない。その当然のことがその時の私にはわかっていなかったのだ。

私は興味本位でそのバイトを引き受け、そしてその日がやって来たのだ。
それは私がその仕事を始めて三週間くらいが経った時だろうか。
ようやく仕事も覚え、周りの人たちとも少しずつ打ち解けてきた頃だった。

私はあるドラマ制作の手伝いをすることになった。
そのドラマはあるアイドルが主演するドラマで、まあ以前私が書いていた小説もどきの第一部に似たものだろう。
なぜなら、私がそれを書いたのは、このドラマを美化したものだったからだ。
もちろん美化したのには意味があるのだが、それが皆さんに知らせたいことでもあるのだ。

110 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:49:45

その主演は保田圭。私は詳しくなかったものの、あの有名なモーニング娘。のメンバーだった。
そして共演者には、あのにっくき中澤裕子も含まれている。

彼女達を見た最初の印象はなかなか好印象だった。
中澤は少し態度がでかかったものの、それでも上のスタッフ達とはきちんと挨拶などをしていた。
そして保田も、現場ではいつも笑顔で、周りのスタッフ達を笑わせていた。
その姿を見て、私はそれまで抱いていた芸能人の印象が間違っていたと思った。
しかし……それは単なる思い違いだったのだ。

彼女達は上の者にはやたらと礼儀正しく、そして時より、色っぽい表情を見せることがある。
それは仕事を取るための芸能人としての常識的な行為なのかもしれない。
しかし、下の者に対しては、まるでゴミのような扱いをするのだ。

彼女達はまず下っ端のスタッフをいじめる。喉が渇いたと言い、水を要求する。
しかしスタッフが持って行くと、「あたしはエビアンしか飲まない」と言ってそれを拒否する。
しかもそのペットボトルを投げつけたり、あるいは中の水を床に全部ぶちまけたりするのだ。

その頃の私は、彼女達と直接会話を交わしたり、何かを頼まれたりするような立場にはいなかったが、
それでも怒りが爆発寸前の下っ端のスタッフの更に餌食になるなど、間接的な害を被っていた。
ただ、それでもまだその頃は良かったのかもしれない。これは今だからこそ言えることなのだが……。

一応言っておくが、スタッフの人達はほとんどが優しい人達ばかりである。
仕事に関してはかなり厳しいが、それも仕事の時だけである。普段は優しい普通の人達なのだ。
そして、更に下っ端に八つ当たりする人などもいることはいるが、ほとんどの人はじっと耐えているのだ。

111 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:49:58

そんなスタッフの中に、私のことを気に入ってくれている人がいた。仮にBさんとしておく。
Bさんはある時、私にエキストラの役でドラマに出るように言ってきたのだ。
Bさんはスタッフの中でもそこそこ上の地位にいる人で、エキストラの選抜くらいなら多少融通が利くのだ。

エキストラと言うのは、それまではその辺を歩いていた人達を適当に集めているものと思っていたのだが、
実際はかなり違っていた。エキストラ専門の芸能事務所があるのだ。それも数え切れないくらい……。
そこにはたくさんの人がエキストラとして登録している。主婦もいれば学生もおり、お年寄りも結構多い。
そこから実際に使うエキストラを選ぶのがBさんの役割なのだが、
Bさんはエキストラとして気に入ったスタッフや新人のバイトなどを出演させることが多かったらしい。
私もそうやって慣例として選ばれたのだ。……つまり特に気に入られたわけではなかったのだろう。

私の役は単に通行人だった。もちろんセリフなどあるはずがない。
しかし、テレビ局のセットから出て住宅街で撮影することになった時に、ファーストコンタクトは起きたのである。

彼女……保田圭が私に声を掛けてきたのだ。彼女ははっきり言ってブサイクだった。
テレビではブサイクでも実際はかわいいという話は良く聞くが、彼女にはそれは当てはまらない。
しかも言葉遣いはかなり悪く、私は彼女の言葉にかなりの衝撃を受けたのを覚えている。
ただし、その時彼女が何を話したのかは全く覚えていない。ある意味脳が自然に封印したのだろう。

そして、そのドラマの収録が続く間、彼女は私を格好のいじめの標的としたのだ。
私が離れた場所で雑用の仕事をしている時でさえ、彼女はわざわざ私を呼び出し、そして雑用を押し付けるのだ。
そのため、私は自分がやるべき仕事をすることができず、毎回のようにスタッフに怒られるようになった。
もちろん、それを理解してくれる人達もいたのだが……。

112 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:50:11

そうこうしてドラマの収録は終わった。終わったと言うより、打ち切られたと言った方がいいかもしれない。
その事情はわからないが、どうも色々と事件があったらしくて、ドラマも放送しないことになったらしい。
ちなみに、それらの事件は一切マスコミ等では発表されていない。つまり消されたのだろう。

ドラマの仕事が無くなると、私は再び最初の仕事に戻ることになった。スタジオの掃除や雑用などである。
そして数週間して、私はそのバイトを辞めた。私としては続けても良かったのだが、
Aさんがそのバイトに復帰することになり、人手が余ることになったのだ。

それはほんのちょっとした社会勉強だった。
芸能人がどういう人種なのか、そしてその芸能人を持てはやす世界がどういう世界なのか、
ブラウン管と現実の世界とのギャップを知っただけでも、それは有意義なものだったのかもしれない。
もしそのまま終わることになれば、の話だが……。

しかし、終わらなかったのである。だからこそ、私はこうして文章を書いているのだ。

113 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:50:24

それは突然のことだった。
どこで調べたのか、私の部屋に突然ある人物が訪れてきたのだ。
その人物の名は保田圭……そして中澤裕子である。

彼女達はそれから、たまにふらっとやって来ては酒を飲んで騒ぎ、
カラオケの機材を持ち込んでは朝まで歌い、そして部屋をタバコ臭くして帰っていくのだ。
ちなみに私のことは「ダニ」と呼び、もちろん彼女達が何らかの感謝の意を示すことはない。

壁の薄いアパートに住んでいたため、彼女達が来て３回目には私は部屋を追い出されることになっていた。

その後、こっそりと引越しをしたものの、彼女達はどうやってかしらないが、
その都度私の居場所を突き止めてはやって来るのだ。これがイタチゴッコというやつなのだろう。

三番目の部屋に引っ越した時、私はなるべく壁の厚い部屋を選んだ。
それは彼女達を認めたからではないものの、なるべく引越しをしたくなかったからである。
こう頻繁に引越しをしていては、敷金と礼金だけでも馬鹿にならないのだ。

それに彼女達が勝手に出前を取ったり、酒屋から勝手にビールケースを注文するなど、
私の貯金はかなりのスピードで減り続けていたのだ。そのままではすぐに破産していただろう。
もっとも、引越しが無くても破産寸前の状態なのは変わらないのだが……。

彼女達は私の部屋で様々なことをした。
前にも書いたように、酒を飲んだりカラオケをするのはまだ序の口。
ある時など、二人の男を連れ込んで、乱交まがいのことをやったこともあった。
もちろん私はすぐに部屋を追い出され、その部屋で起こったことは実際には知らないのだが。
ただ、翌朝帰ると、部屋のゴミ箱にティッシュと使用済みのゴムが捨ててあったのを覚えている。
もっとも、今となってはゴムを使っただけマトモだと思えてしまうのだが……。

114 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:50:39

そんな彼女達の横暴はまだまだ続き、そして最初に書いた圧力が遂に登場するのである。
当時、私はパソコンで日記を書くのが日課だった。寝る前にその日あったことを書き並べるのだ。
しかし、彼女達がそれを発見してしまったのだ。

そこには様々なことが書いてあった。もちろん彼女達の悪事も全て……。
最初はそれを見て怒られるものと思っていたのだが、彼女達は意外にもただ笑うだけだった。
それはいじめる立場として、私の怯える様を面白く感じたからなのだろう。

とにかく、彼女達は私に日記を止めるようには言わなかった。
それどころか、毎日日記を書くように命令するようになったのだ。
しかし、もちろんそこにはある圧力が加わることになる。
それは戦前の大本営発表のようなものと例えればいいのだろうか。

彼女達の悪事は全て消され、それらは全て彼女達の美事に置き換えられるのだ。
もっとも、置き換えられると言っても、それは彼女達が書き換えるのではなく、
私が最初からそのように書かなければいけなかったのだが……。

そして彼女達は私にあることを命令したのだ。
それが、その美化された文章を小説風にまとめ、インターネットで発表するということだった。
こうして私の強制的なインターネット生活が始まったのである。

最初は彼女達の希望で、例のドラマをモチーフにした展開にすることになった。
もちろんそこには彼女達のファンを増やそうという思惑もあったのだろうが、
私には単に、実際の悲劇と180度違う美事を書かせて私を苦しめようとしただけのようにも思えた。
そして実際、私にはそれはかなりの苦痛だったのだ。

例えば、保田が私が吸うタバコに水をかけて消すというシーンがある。
それは小説の中では私の健康のことを考えての行為ということになっている。
しかし現実は違う。彼女達のタバコを注意したのは私の方なのである。
元々タバコの煙が苦手な私に対して、彼女達はわざとその息を私に吹きかけるのだ。
そこでやめてほしいと言ったところ、彼女達はとんでもない行動に出たのだ。
火のついたタバコを私の腕に押し当てて消したのだ。いわゆる根性焼きというやつである。

保田はさすがに最初の一度で止めたものの、中澤はタバコを吸うたびに私の腕にそれを当ててくるようになった。
そして嫌がる私の顔を見て悪魔のような笑みを浮かべるのだ。私にとって中澤は現実での悪魔である。

ちなみに、彼女達の影響か、それともストレスのせいか、私もいつしかタバコを吸うようになった。
これも彼女達と出会ったがゆえの人生の弊害であろう。

115 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:50:53

そのような紆余曲折を経て第一部・ドラマ編が完成したのだ。
ただし、それを書いている間にも私の部屋では更なる悲劇が始まっていた。

それは、その部屋を訪れる新たなメンバーの存在だった。
最初にやって来たのは石黒彩……私と同い年でありながら結婚して子供までいる気の強い女である。
彼女ははっきり言って中澤や保田以上の極悪な存在だった。

彼女はかなりSの気が強いらしく、私をMの相手として利用したのだ。
ムチで叩かれるなど当たり前、無理やり裸にされてロウソクを垂らされる――それも陰部に――など、
それは肉体的、そして精神的にかなりの苦痛であった。

後でわかったことなのだが、彼女は夫婦生活に満足しておらず、
また芸能界を引退したことに強い未練を覚え、かなりのストレスがたまっていたらしい。
その不満を全て私にぶつけていたのだ。ぶつけられる方はたまったものではない。

その次にやって来たのは市井紗耶香だった。
彼女はモーニング娘。の中で私が唯一そこそこ好きだったメンバーだった。
しかし、そんなのはブラウン管の中だけの存在で、彼女もまた保田達と同類だったのだ。

彼女は何より口が悪い。次から次へと私を罵倒し、それが朝まで続くのだ。
彼女もまた、石黒同様、今の生活に不満があるらしかった。それを私にぶつけていたのだ。

ただし、彼女の罵倒だけは私は嫌ではなかった。
と言うのも、それは彼女が私の好みであり、そして以前そこそこ好きだったからだった。
彼女の罵倒は時に卑猥な言葉をも含んでいる。それは私にとってある種の性的な興奮を伴うものだった。
そしてまた、彼女は私を罵倒するとともに、私を踏みつけ、そして私に唾を吐き、唾を垂らすのだ。
最初は嫌だったものの、それも慣れるとそう嫌なものとは感じなくなるものなのである。
それからの私は唾フェチとして、彼女を救いの存在と思うようになった。
もちろんそれは彼女達には内緒で、他と同様、嫌な素振りをしているのだが……。

116 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:51:06

その次にやって来たのは福田明日香。金髪で歯が真っ黒の女の子である。
歯が黒いのはタバコを吸っているからだけではなく、シンナーのせいもあるらしい。
ところどころ歯が欠けており、その欠けた部分が黒く見えるのだ。

ただし、彼女は最初はストレスを発散しに私の部屋に来たのでは無かった。
彼女は、その時の私同様、彼女達のいじめの対象だったのだ。

モーニング娘。だった頃も、毎日のように殴られ、罵倒され、いじめられていたらしい。
だとすると、すぐにモーニング娘。を脱退したのも頷けるだろう。

しかし、彼女達は決して彼女を痛みつけるだけではなかった。
必ず私の目の前で彼女を痛みつけるのだ。それも彼女が気絶するまで。
そうすることで間接的に、それも自分がやられること以上の、精神的なダメージを与えたかったのだろう。

さすがにそれだけは私も我慢ができなかった。
そこですぐに止めに入ろうとしたのだが、彼女達はいつもスタンガンで私を押さえつけているのだ。
私が黒帯所有者というのは事実――彼女たちは単なる美化・妄想だと思っているらしい――だが、
さすがにスタンガンには勝てるはずもなく、私もいつの間にか気絶するはめになるのだ。

福田は私と同じ立場の人間だった。
しかし、そこから友情や何らかの関係が芽生えることなどは全く無かった。
それどころか、彼女は保田達にやられた腹いせに、私に立ち向かうようになったのだ。

もちろん相手が一人であれば、例えスタンガンがあっても私にはかわすことはできる。
しかし、私はあえて彼女の攻撃を受け入れるようにしていた。
それは、彼女の腕にある多数のためらい傷を見てしまったからだった。

自ら死を選ぼうとするほどいじめられ弱っていた福田。
そんな彼女にとって、私という存在は生と死を繋ぐ最後の頼みの綱だったのだ。
私を痛めつけることによって彼女が生の世界に居続けられるのであれば、私はそれを受け入れるべきなのだろう。
少なくとも、私は彼女と同じ保田達の熾烈ないじめを受けた人間として、彼女の気持ちは痛いほど理解できたのだ。

117 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/17 04:51:20

このような日々がつい先月まで続いていたのだ。
もっと他に話すこともあるのだが、今日はこの辺にしておきたいと思う。

この文章が彼女達に発見されないことを祈って……。

118 ：名無し娘。：2003/08/18 01:35:14

彼女たちに見つからないように報告を続けてください。
少なくとも秘密の共有くらいならさせていただけると思います。

119 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/21 05:39:55

前回は私がどうしてこのような文章を書き、そして公表するかについて大まかに説明した。
しかし、私の部屋に来るメンバーは、実は前回登場したメンバーだけではない。
これまで挙げたメンバーは、ドラマに出演していた保田圭と中澤裕子、
そして石黒彩、市井紗耶香、福田明日香の五人、どれもすでに卒業したメンバーである。

しかし、その他にも二人、私の部屋を訪れるメンバーがいるのだ。
第一部・第二部にも登場しているために覚えている人もいるかもしれないが、
ただし、そのうちの一人は彼女達とは全く異なり、優しく思いやりのある天使のような存在である。

その二人の名前は後藤真希と紺野あさ美……。
そして、そのうちの一人が天使であり、もう一人は悪魔、それも最強クラスの悪魔なのである。

二人の第一印象はかなり異なる。
紺野あさ美は現役ながら例の保田主演ドラマに出演していたメンバーである。
現場では緊張のせいか、いつもおどおどした感じだったが、
たまにニコッと微笑む表情が印象的であり、それは私をときめかせてくれるほどだった。
スタッフに怒鳴り散らす中澤や保田とはまさに大違いである。

一方の後藤は、最初に会った時は中澤と保田と一緒だった。もちろん私の部屋である。
彼女は私に直接手を下すことはなかったものの、中澤や保田の行動を見て薄ら笑いを浮かべ、
無言のまま冷たい視線を浴びせるなど、ある意味中澤達よりも怖かったかもしれない。

しかし、私のその印象は完全に間違っていたのだ。
それがわかったのは、後藤が私の部屋を訪れた二回目のことであった。

120 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/21 05:40:53

その日も後藤は中澤と保田と一緒にやって来た。
いつも通りの酒宴が始まり、アルコールの入った中澤と保田が大騒ぎを始める。
後藤は――未成年ということもあるのだろうが――あまり酒が好きではないらしく、
中澤のようにビールを飲んだり、保田のように焼酎を飲むことはなく、酎ハイを軽く飲む程度だった。
ちなみに、そのビールも焼酎も酎ハイも、もちろん私のお金で買わされたものである。

その後、彼女達は――これもいつも通り――カラオケ大会へと移行する。
その時はすでに二度ほど引越しをして壁の厚い部屋に移ってはいたが、
さすがに深夜にカラオケを熱唱されるとなると、近所から苦情が来るのも当たり前のことである。

中澤と保田はカラオケがかなり好きらしく、私の知らないような曲を延々と歌いまくる。
もちろん私はただ聞いているだけではなく、タンバリンを叩かされたり、掛け声を掛けさせられたりするのだ。
一方の後藤も嬉しそうにマイクを握るものの、彼女はいつもバラード系の大人しい曲を選んでいた。

そうしてカラオケが進むと同時に、酒を飲むスピードも徐々に速くなっていく。
最初に私が準備していたつまみが切れると、もちろん補充させられるのは私である。
通常は私―― 一人暮らしが長いため、そこそこの料理は作れる――に作らさせるのだが、
少しでも味が気に食わないと、それはそのままゴミ箱へと入れられることになる。
ある時などはベランダから下に投げ落とされたこともあった。もちろん皿も一緒にだ。

その日も色々とつまみは作ったのだが、案の定気に入られることもなく、そのままゴミ箱行きとなった。
しかし、それだけで済むはずもなく、彼女達はその罰として私に様々な体罰を科すのだ。
一番強烈なのがスタンガンだが、私としてはいっそ気絶させてくれた方がどれほどマシなことか……。
しかし一番多いのはタバコの火であり、そして一度などは髪の毛を燃やされかけたこともあった。

その日の罰は彼女達の目の前でうんこをして、それを食べろという卑劣なものであった。
さすがにそれだけは出来ないと言うと、それからは殴る蹴るの暴行――スタンガンで脅しながら――が始まる。
もちろん外からわからないように殴るのはいつも腹部と決まっていた。

その後、気が晴れた彼女達は私に対してコンビニにつまみを買いに行かせた。
この辺のことは第二部にその描写を見ることができるが、実際にはこういうことが平然と行われていたのである。

121 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/21 05:42:17

部屋を出てコンビニに向かう。その時間は私にとってある意味地獄からの一時的解放を意味する。
どれほど嬉しい時間か、それは多分、自分以外の世界中の誰にもわからないことであろう。
そのため、私はコンビニにはそのまま向かわず、近くの公園のベンチで束の間の休息を取るのである。
しかし、その日だけは事情が違っていた……。

私の帰りがあまりに遅かったせいか、その公園に彼女達の一人が姿を現したのである。
その人物が、後藤真希であった。

ゆっくりと無言で近づいて来る彼女に対し、私が取った行動は土下座だった。
小走りで彼女の前に向かうと、そのまま膝を付き、頭を地面につけて謝ったのだ。
中澤達には報告しないようにと何度も懇願したのを覚えている。
しかし、彼女が発した言葉は全く意外なものであった。

「ごめんなさい……」

それが彼女の言葉……そして気持ちだった。

それを聞いて、私は一瞬何のことだかわからなかった。私を欺き、そして嘲笑うための演技かと思ったほどである。
しかし、それは演技でも何でもなかったのだ。それよりも、それまでの彼女こそが演技をしていたのであった。

彼女は私に色々な話をしてくれた。モーニング娘。に入った時の強烈ないじめのこと。
芸能界がどんなに汚く、そして驕り高ぶった世界であるか。そして自分自身のこと。

彼女は福田のようにいじめの対象として見られることはなかった。
それは彼女のその外見的な印象に守られたとも言えるかもしれない。
入った最初にいじめはあったものの、それもすぐに無くなったらしい。ただし、それには理由があったのだ。
彼女は自分の良心をごまかし、そして彼女達に迎合する演技をすることでそれを回避したのだ。
それはつまり、彼女がいじめられる立場からいじめる立場へと変わったことを意味していた。
彼女にとっては苦渋の決断と言えるだろうが、ただ、その気持ちは私にも痛いほど理解できるものであった。

ただし、いくら自分が被害にあわないからと言っても、その立場も精神的には苦痛を伴うものである。
そのため、彼女は活躍を期待されながらもモーニング娘。を辞めることを決意したのだ。
しかし、辞めた後もこうしてメンバーから誘われることがあり、彼女の苦悩は変わらずに続いていたのだが。

122 ： ◆w6WpxJOw ：2003/08/21 05:51:06

そんな彼女の苦悩を知り、私は初めて味方を見つけた気分になった。
彼女もまた、中澤や保田、あるいはそうした存在を生んだ芸能界の被害者なのだ。私と同じ立場なのだ。
そして、彼女もまた、私を同じ立場の人間として仲間意識を抱き、そして本当の気持ちを話してくれたのだ。
これほど心強いことは他には無いだろう……。

しかし、その時はそれ以上ゆっくりと話し合う余裕は無かった。
そもそも彼女は私の帰りが遅いがために――中澤達の命令によって――私を連れ戻しに来たのである。
これ以上遅くなると私どころか、彼女の身にも危険が及ぶかもしれないのだ。

私は彼女と急いでコンビニへ向かうと、頼まれていたつまみを買い揃え、そして急いで部屋へと戻った。
ただし、その直前で彼女と示し合わせ、買出しに手間取っていた私に対して、
彼女がその代償として殴る蹴るの暴行を加えていたために更に遅れたということで口裏を合わせた。

中澤達は最初は怒っていたものの、後藤の話を聞き、
そしてまた、後藤が不敵な笑みを浮かべているのを見て、その話を信じたのだった。
まさかそれが演技だとは露にも思わず……。

こうして私は後藤という一人の仲間を見つけたのだ。
しかし、それはつまり、私にとっての天使は後藤真希ということである。
と言うことは、残った悪魔、それも最強クラスの悪魔は……紺野あさ美ということになる。

意外かもしれないが、これは事実である。
ただ、これについてはまた後日、お教えしたいと思う。

この文章が彼女達に発見されないことを再び祈って……。

123 ：名無し娘。：2003/08/22 23:52:39

第四部ｷﾀﾍﾞｻ━━━━━━(●´ー｀)━━━━━━ !!!!!

124 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/09/05(金) 02:57

さて、今日は前回書けなかった紺野あさ美の悪行について書くつもりであったが、
その前に一つ言わなければならないことがある。それは移転のことである。

このスレが狩板から狩狩板に移転したのには、大きな理由がある。
それはもちろん彼女達に関することである。

私が前回の更新をした翌日くらいのことだっただろうか。
私の携帯にある女性から電話がかかってきた。それは後藤からの電話だった。

後藤は最近、地方を回ってコンサや握手会などのイベントをこなしているらしく、
中澤や保田と一緒になる機会もあまり無いとのことだった。
そのため、彼女達と一緒に私の部屋へ来る時に比べると幾分落ち着いた声であったが、
ただ、一つだけ気になることがあるらしく、そのために私に電話をかけてきたのだ。

強制的に書かされていた第三部が終わった後、私は彼女達の元から逃げ出すことに成功し、
それ以降は大阪から遠く離れた全く新しい町で暮らしている。もちろん携帯も新しいものに変えたが、
ただ後藤にだけは緊急の時のために新しい携帯の番号を教えてあったのだ。
（一応、架空の名前で登録するようにとだけはお願いしてある。）

後藤の話では、私がいなくなった後、彼女達は組織を使って色々と私の所在を探させたらしい。
（この組織と言うのは話すと長くなるので、また別の機会に話すことにしたい。）
しかし、どうも私の他に新しい獲物が見つかったらしく、今はもう捜索は行っていないとのことだった。
それを聞いてかなり安心したものの、ただ、彼女達に油断は禁物である。
極悪非道の様々な手を使って人をいたぶる彼女達のことである。
一度逃れられたとしても、また再びその魔の手が押し寄せるかもしれないのだ。

そしてここで肝心なのは、なぜ後藤が私にわざわざ電話をしてきたか、ということである。

125 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/09/05(金) 02:58

第三部が終わって私が逃げ出した後、あのスレッドには一ヶ月以上空白が続いていた。
そこで私は、彼女達がもうそのスレッドの存在を忘れているものだと思ったのだ。
と言うのも、すでに第三部の途中、狩板に移転した頃から、
彼女達の興味はかなり薄まっており、チェックもほとんど行われなくなっていたのだ。
（狩板に移転した経緯についても、また別の機会で述べたいと思う。）

そこで私は、再びそのスレッドに書き込むことにしたのだ。
そう、それまでとは全く逆の、『真実』の話を……。

そこには、彼女達に見つかってしまうという危険性もあった。
しかし、それ以上に、今までの嘘で固められた話を信じている人達に対して、
本当のことを教えないといけない、という責任を私は感じていたのだ。

だから私は、あえて今までと同じスレッドにこの暴露話を書き込むことにしたのだ。
それは私にとって、最後の冒険と言えるかもしれない。それも命を懸けた冒険……。

しかし、それは安易な考えだったのかもしれない。
なぜなら、この後藤が電話をかけてきた理由は、彼女がこの暴露話を見てしまったからなのだ。

彼女は私がいなくなった後、私が彼女達（または組織）に消されたものと思っていたらしい。
と言うのも、彼女達も、最初のうちは組織を使って私の所在を探させたり、
私が逃げたことに対して痛烈な文句を言っていたらしいが、それが急にピタリと止んだらしいのだ。
しかも、すでに新しいターゲットも見つかり、彼女達の興味もそちらに移っていたとのことだった。

そこで後藤は私がもう生きていないと思ったらしいのだ。
ただし、それを確認するのが怖かったのか、私の携帯に電話をかけることはできなかったらしい。
しかし、彼女はやがて私の生存を知ることになる。それがこの暴露話の発見だったのだ。

126 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/09/05(金) 02:59

彼女はあまりパソコンやインターネットには興味が無いらしい。
そのため、私が書かされていた一連の小説もあまり進んで読んではいなかった。
しかし、地方遠征での暇な時間を潰すためにノートパソコンを買い、それで音楽を聴いたり、
ゲームをしたり、はたまた軽くネットに接続したりするようになったらしい。そして、
そこでふと例の小説を思い出し、そして私の書いたこの暴露話を発見したというわけである。

彼女は私に、そこで続きを書くのはリスクが多すぎると言った。
それは私も十分承知していることだったが、ただし、私は自分のことしか考えていなかったのだ。

私が書いた暴露話には、後藤が中澤達に表面を偽っていると書いてある。
それは事実なのだが、しかし、その事実がばれてしまったら後藤は……。
つまり、私一人ならまだしも、後藤を危険に晒すことになる可能性もあったのだ。
そして愚かにも、私はその事を全く考えてもいなかったのだ……。

後藤は私にそのことは言わなかったものの、多分そのことが一番大きかったのかもしれない。
私にそのことを気づいて欲しかったのだろう……。だから私に電話してきたのだ。

私は彼女としばらく話し、そして狩板で続きを書くのを止めることに決めた。
ただし、続きは別の場所で書けばいいとしても、問題はすでに書いた部分である。
これが見つかってしまえば、私も彼女もただでは済まないだろう。
ただ、後藤は極めて冷静だった。

「私が何とかするから……」

彼女はそう言い残してから電話を切った。
その言葉が何を意味しているかはその時はわからなかったのだが。

127 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/09/05(金) 02:59

彼女がその後、どのような行動に出たのかは私は知らない。
しかし、同じ頃に噂レベルであった狩板消滅の話が本格化したことを考えると、
彼女が何らかの方法を用いて狩板消滅に関与したと考えるのが妥当かもしれない。

スレッドだけを消すことは彼女達に疑問を抱かせることになる。
そうなると、板ごと全部のスレッドを消す……それが一番の良策ということになる。
もちろん、それが実際に彼女の仕業かどうかは私にはわからないのだが……。

こうして9月10日前後に狩板は消滅の時を迎える。
第三部も暴露話もともに消えるのだ。彼女達の目の前から……。

しかし、暴露話はそれで終わったわけではない。
そう、こうして新しい場所で暴露話は続くのである。彼女達の悪行を全て暴露するまで……。

次回は今回書けなかった紺野あさ美の悪行について書きたいと思う。
狩板が跡形も無く消えて、私達が無事でいられたら……の話だが……。

追記

キーボードに向かう指先から腕へと視線を移すと、腕に幾つかの火傷の痕が見える。
以前彼女達（特に中澤）にやられた根性焼きの痕であるが、今では痛みも完全に消え、
見た目も普通の肌に戻りつつある。しかし、だからと言ってそれで終わったわけではない。
私の心の傷はまだまだ深い。そして恨みも……憎しみも……。

128 ：名無し娘。：2003/09/05(金) 12:41

更新お疲れ様です。
最初から読みたいのですが、>>24の２と３のリンクが見れないんです。
誰か教えていただけ無いでしょうか？

129 ：名無し娘。：2003/09/05(金) 18:41

>>128　ミラー作ってみた。うまく見れるかはわからん。
http://yumeiro23.at.infoseek.co.jp/musume/

130 ：128：2003/09/06(土) 02:28

>>129
（　‘д‘）しく感謝。ありがとうでし。

131 ：名無し娘。：2003/10/01(水) 01:48

ここで復活したんだ
前のとこで中途半端なまま終わっちゃって、気になってたんだよね
更新乙です。これから読ませてもらいます

132 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:08

狩板は大幅の予想通り、無事に消滅したように見えた。しかし、それはそう安心できるものでもなかった。
消えたのは従来のドメインだけであり、予備のドメインは来春まで消えることは無いらしいのだ。

しかし、そこまで不安がることも無いのかもしれない。
彼女たちはもうすでに私への興味を失っている。それに彼女たちは最近ネットには熱中していないらしいのだ。
久しぶりに読もうと思って狩板へ行っても、従来の行き方ではスレッドを読むことはできない。
それに面倒くさがりで人まかせな彼女たちが、わざわざ狩板を探そうとするとも思えない。
もちろん、私に対しての興味が少しでも残っていればその可能性もあるのかもしれないが。

この結果を見ると、後藤の狩板消滅作戦は見事に成功したと言えるだろう。
本来の入口を消すことで彼女たちに消えたと思わせる。その上、住人に迷惑をかけることもない。
思いやり、優しい心を持つ後藤らしい作戦だと感心せざるを得ない。

そしてまた、後藤という少女は私のことをいつまでも心配してくれている、天使のような存在でもある。
その証拠が先日送られてきたコンサートのチケットである。もちろん直接の住所は危険なため、
後藤にはあえて隣町の郵便局の私書箱宛てに送ってもらったのだが、最初にコンサートに来てほしいと
言われた時にはさすがの私も驚いたものだ。私の精神状態を心配して、少しでも元気になるようにとの
思いが込められていたのだろう。それは私にとって痛いほど嬉しいものだった。

そしてコンサートの日がやってきた。私が住んでいる某地方都市から一時間くらいの場所である。
彼女は中澤や保田たちのその日のスケジュールまで調べ、そして安全だということまで教えてくれた。
しかもチケットを事務所を通じて手に入れると足がつく怖れがあるため、わざわざ自分で入手して、
それを送ってきてくれたのだ。そのため、席は真中あたりのあまりいい席とは言えなかったものの、
そのコンサートは私にとって久しぶりの息抜きの時間となった。

そしてまた、舞台の上で歌い、踊る、彼女の姿は普段よりも輝いて、そして幸せそうに見えた。

後藤はまさに私にとっての天使だった。しかし・・・。
私はまだ、彼女の正反対に位置する悪魔については何も書いていない。

これから書くことは、その悪魔についてのことである。

133 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:09

悪魔の名前は紺野あさ美。モーニング娘。第五期メンバーの一人である。

彼女が初めて私の部屋にやって来たのがいつだったかはすでに忘れてしまっている。
誰と来たかも忘れている。中澤だったか、それとも保田だったか。とにかく、紺野はその二人と仲がいいのだ。

最初の彼女はその部屋を訪れる悪魔たちとは全く違った、普通の女の子だった。
顔はちょっとロリっぽくてかわいく、こんな妹がいたらいいなというのが私の第一印象だった。
ただし、それはあくまでも最初だけ。特にドラマの撮影時のおどおどした印象が強かったのだろう。

しかし今となっては、あんな妹がいればそれはまさに地獄である、と断言できるほど印象が変わっている。

彼女が初めて私に仕掛けた罠が何だったのかも忘れてしまった。しかし幾つかの内容ははっきりと覚えている。

例えば虫。彼女はある時、私の部屋へとやって来た。それも一人で。
「ねえ、もーちゃんさんは虫とか好きですか？」と、彼女は尋ねてきた。
私は虫は嫌いな方だからそう答えると、彼女の顔つきは一変する。

そして薄ら笑いを浮かべながら、カバンの中から出したあるケースを取り出すと、
そのフタを取って中にあったものを部屋中にばらまいたのだ。そして彼女は行動を終えると
すぐに玄関から出て、そして玄関のドアノブをチェーンによってぐるぐる巻きにして開かないようにしたのだ。

彼女がばらまいたもの、それはどこで手に入れたのか、大量のノミとダニだった。

私がそれに気づくより早く、虫はあっという間に行動を開始する。ベランダへ逃げようとするも、
なぜかベランダのドアの鍵は壊れていて全く開こうとしない。後で知ったのだが、
私がその直前にトイレに行っている間に金槌で鍵を叩いて凹ませ、鍵がうまく外せないようにしていたらしい。
そして、それはつまり私の逃げ場を奪ったということになる。

私は大きいゴミ袋を頭からかぶって身を守ろうとするも、袋の中にすでにノミが入っており、意味は無かった。
結局しばらく悪戦苦闘した後、私は風呂場に逃げ込むことに成功した。
ちなみにトイレは、ドアの下に二センチほどの隙間があるため、風呂場が一番の逃げ場だったのだ。

しかし逃げ遅れたため、私は全身をダニとノミに噛まれて痒い思いをしたのである。

134 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:09

その後、玄関がガチャリと開く音が聞こえたかと思うと、またすぐに閉まった音が聞こえてきた。
そして間もなく、プシューという小さな音とともに部屋中を煙が覆い尽くした。彼女がバルサンを投げ入れたのだ。
それも当然。そのままの状態では彼女たちもその部屋には入れないのだから。

その後、数時間して部屋に入ってきた彼女は笑顔でこう言った。
「私も虫が嫌いだから、バルサンしてあげました♥」

それはかわいらしい悪戯と言うにはあまりにも酷いものであった。
そしてまた、それが彼女の悪魔の手始めに過ぎないものであったことは言うまでも無い。
一々挙げるのは長くなるし、私もあまり思い出したくは無いため、全部は書かないことにする。
ここで取り上げるのはほんの一部だということを覚えておいて欲しい。それほど彼女は残酷なのだ。

彼女はある時、私の顔色を見て体調を心配するような言葉を発した。
また何か来るなという私の予想はもちろん当たる。彼女は血液検査をすると言い出し、
どこから手に入れたのかカバンの中から本物の注射針を取り出した。
まだ白い粉が無かっただけマシなのかもしれないが、ただ、その後の彼女の行動はまさに・・・。

彼女は私の腕にいきなりその注射針を刺したのだ。「痛っ！」と叫んで腕を振り払うと、
その注射針は私の腕に突き刺さったまま垂れ下がっていた。つまり、角度がかなり深かったのだ。
その時、確か部屋には別に誰かがいたと思うが、それが誰だったかはわからない。
石黒だっただろうか。あの女は人を痛めつけるのが快感だから、その可能性が高いかもしれない。

紺野が石黒とアイコンタクトをすると、石黒はいつものスタンガンを片手に持ち、私に迫ってくる。
そしてその隙に紺野が私の身体をロープ――正式には荷造り用のナイロン紐――で縛り、
そして腕をしばり、足をしばり、そしてそれを机の柱にしばり、私の動きを封じたのだ。

そして紺野のお医者さんごっこが始まる・・・。

135 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:09

紺野は先ほど思い切り刺したときとは違い、今度は慎重だった。
ゆっくりと針を近づけると、腕に浅い角度で針を入れる。しかし全く知識の無い素人がやるのだ。
滅茶苦茶なやり方でやるものだから、私の腕は血まみれになり、そして肉や骨や神経にまで
刺さったのではないかと思えるほどの激痛を伴い、私はもちろん反射的に暴れることになる。
さすがに大の大人が暴れるのだから、縛られているとは言え、机を大きく揺り動かすくらいの力は
十分に出すことができる。そして石黒――だと思うが別人かもしれない――のスタンガンが炸裂する。

私は気絶し、そして気づいた時には部屋には血が流れていた。

「どうして部屋に血が流れるんだっ！！！」

私の叫びもむなしく、部屋はすでに私一人を残して誰の姿も無かった。
血を抜かれたためか、それとも注射針が深く刺さったためか、それともスタンガンの余韻なのか、
私の全身はかなりしびれていた。さすがにヤバイと思った私は病院へ行こうと思ったのだが、
その傷の理由を説明することができないために断念し、その場で再び眠りについてしまった。

しかし目覚めると私は病院のベッドにいた。それも個室。目の前には看護婦さんが一人。
声をかけるとすぐに教えてくれた。茶髪でロングヘアーのかわいい子が救急車を呼んでくれて、
そしてまた、この傷のことを口外しないようにと、医者と看護婦に謝礼金――つまり賄賂だ――を
渡してくれたらしいのだ。もちろん個室の料金もだ。もちろんそれが後藤なのは言うまでも無い。

看護婦さんは私の傷について質問はしなかった。シャブの使用などを疑って検査でもするのだろうと
思っていたのだが、それも無かった。それは傷口があまりにもひどく、シャブなどとはとても
考えられなかったからなのだろう。
そして看護婦さんは私に向かって一つだけ注意をした。ただし、それが私に向けられたものかはわからないが。

「注射はね、簡単に見えるけど素人には難しいのよ。ちゃんと計算されてるんだから・・・角度とか」

136 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:09

私の部屋に来る彼女たちはほとんどがタバコを吸う。後藤は体質的に受け付けないらしく、
また喉を守るためにもあまり吸わなかったが、しかしその他のメンバーはほとんどがヘビースモーカーだった。
福田なんかはシンナもやっているらしいから――この部屋ではやってないが――まだマシかもしれないが、
しかし、そのスモーカーの中にはもちろん紺野も入っている。

私の腕にタバコの火を押し付けるのは主に中澤だと以前に書いた。保田は一度だけだったとも。
しかし、紺野もその押し付けて楽しむ一人である。いや、その筆頭と言えるかもしれない。

彼女はドラゴンボールが好きらしい。マンガを読んでいるときは至って大人しいのだ。
部屋にドラゴンボールを全巻揃えていたことをこれほど喜んだことは無いだろう。
しかし、その時はそれがアダになってしまったのだ。

彼女はスタンガンで私を気絶させる。まるでいつものことのように慣れた手つきで。
そして私が気がつくと、私のオデコには六つの焼印が押されていたのだ。そう、それはクリリン・・・。

ちょうど髪を短くしたばかりであったので、そのクリリンの紋章はかなり目立つものだった。
おかげで私はバイトに出かける時も、絵の具――化粧道具などあるはず無いので――でその部分を塗りつぶし、
そして帽子を深くかぶって出かけるしか無かったのだ。ちなみに、今でもその焼印はうっすらと残っている。

と書いていてまた思い出したことがあった。私が髪を短くした理由。
それは紺野ではなく、保田と市井の話になるが・・・。

二人は美容師というものに憧れているらしい。まあ若い女性なら皆そうなのかもしれないが。
ただ、だからと言って人の頭を練習台にするのは間違いだろう。
しかも、普通にカットすればどんな素人でもそこまで醜くはならないだろう。
しかし二人は違う。二人は交代々々に私の髪をカットするも、しかしそのカットの方向性が全く逆だったのだ。
そのため、出来上がった髪はかなり芸術的なものになってしまっていたのだ。

おかげで私はその後、自分で鏡を見ながらその髪型を芸術から普通に荒れている程度の髪型にして、
そして床屋に行かなくてはならなかった。ちなみに床屋では、バツゲームをして・・・と笑って話したが。

137 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:10

次の話。

ある時、なぜか部屋に福田が一人でやって来た。いつも他のメンバーに無理やり連れられてくるのだが、
その日は別だった。そこで私は、彼女に対して、自分は味方であり、彼女の力になりたいと申し出た。
後藤とは友情を芽生えさせることができ、そして同じ味方としての意識を持つにまで至ったのだ。
そうであれば同じ被害者である福田と打ち解けることも十分に可能だと思ったのだ。

しかし、彼女はその申し出に全く反応しなかった。しかもそれだけではない。それは罠だったのだ。

福田は手に録音機材を隠し持っていた。会議などをMDに録音する小型のやつだ。
そして、しばらくして紺野が部屋にやってくる。紺野は嬉しそうにそのMDを受け取ると、
そのまま外に出て行った。多分散歩でもしながら聞いていたのだろう。

しかし帰ってきた紺野の顔はかなり怒りに燃えていた。そしてものすごい行動に出たのだ。

座っていた福田の頭を思いっきり廻し蹴りで蹴飛ばしたのだ！
福田はその場に倒れこみ、動物のようにウーウーと低い唸り声を出していた。
なぜ紺野が福田に対して怒ったのか、その理由はその時は全くわからなかった。
ただ、予想としては、私の申し出をわざと受け入れ、その後の反応が知りたかったのかもしれない。
だから申し出自体を無視した福田に対して、面白くなかったために腹を立てたのだろう。
しかしながら、だとしてもいきなり人の頭を、それも先輩の頭を蹴るとは、悪魔以外の何者でもないだろう。

それにしても、福田が一人で来た場合に私が声をかけるということをよく予想していたものだ。
まあ被害者同士が手を結ぶということは、よくあるパターンであるが、こうまで見透かされると、
私としても恐怖を覚えずに入られない。噂では紺野は頭がいいらしいが、
私にはそれは悪魔との契約によって手に入れたものとすら思えてしまうのである。

このように紺野という人間は悪魔である。それも血に飢えた悪魔である。

しかし、そんな彼女が唯一、私に対して卑怯な手を使わない時があった。

138 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:10

それは紺野が押入れから私の黒帯と道着を見つけたことから始まった。
私が黒帯持ちということは誰も知らないことだったし、誰も信じないことだっただろう。
しかしついに見つかってしまった。・・・ただし、それが他のメンバーに漏れることは無かったが。

なぜなら、紺野は武道の勝負に対しては全くまともなのだ。
紺野は空手の茶帯を持っているらしい。そして私はインチキ拳法の黒帯を持っている。
そしてそれを知った紺野は私に勝負を挑んできたのだ。それも正々堂々とした勝負を。

最初、それは何らかの罠だと思っていた。しかしそれは違っていたのだ。

紺野は珍しく部屋の中を掃除すると、机などの邪魔なものを全て壁側に寄せてスペースを作った。
机をどけると意外にもそこは広い空間だった。普段の部屋とは全く違った部屋になっていたのだ。
そして紺野は勝負を挑んできた・・・。

と言っても、身体も違うし、男と女とでは力も全然違う。紺野が私に叶うはずがない。

最初に紺野の突き。空手の突きは思いっきり大きく一歩を踏み込んで、その勢いで
そのまま腕を前に突き出すといった感じだろうか。もちろん紺野のくせかもしれないが。
その突きはなんなく半歩下がることでかわす。

次は廻し蹴り。それも一度蹴った後でさらに半歩近づいてまた同じ足で廻し蹴りを出す。
しかし、私の左手がその足をさらりとすくいあげると、彼女はバランスを崩して床に尻を打ち付ける。

ちょっとまずいことをしたかなと反省するも、紺野の目はいつもとは違っていた。
紺野は私にかかってこいと催促する。軽く蹴りや突きを出すと、紺野はそれをよける。
しかし、私が本気じゃないことを知ったせいか、彼女は怒り出す。そして本気で来いと叫ぶ。
しかし後が怖いので私も本気は出せない。当然だ。また注射でもされたらたまったもんじゃない。

しかし、彼女の攻撃をかわしつづけるうちに、彼女はやがて涙目を浮かべ始めたのだ。
そして、本気で来いと絶叫する。それは私に対して、これだけは真剣勝負だと訴えているように思えた。

139 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:10

私は思い切って彼女を攻撃した。瞬間的な蹴り込みをただ一発。

彼女は後ろに吹っ飛んだ。ベランダのガラスのドアにぶつかるも、ガラスは無事だった。

彼女は再び立ち上がって叫ぶ。それで本気か、と。

彼女が攻撃してくる。顔を殴らないように頭の上をさわる。
これは練習などの時に間合いが近すぎることを教えるしぐさであり、実戦であれば倒されていることを意味する。
しかし、彼女はさらに本気で来いと催促する。どうやら遊ばれていると思ったのだろう。
私としてはあまり傷つけたくなかったのだが。

仕方なく私は別の手段に出た。元々相手を突いたり蹴ったりするのが好きな私ではない。
そしてまた、私の黒帯は空手ではなく、インチキ拳法なのだ。

私は彼女の攻撃を受けながら間合いに入り、そして腕を掴むと瞬時に逆を取って関節を極める。
そしてその腕を使って彼女の体のバランスを崩して、そのまま床へと崩し落とす。
さらに逆を取ったままの腕はそのままにして、彼女の顔色をうかがう。

悔しさのためか、それとも痛さのためか、涙目だった彼女の目からはすでに涙が床へとこぼれていた。
その涙に一瞬ドキッとする。それがあの悪魔のような紺野あさ美と同一人物とは到底思えなかったのだ。

そして、私はその後のことを書くかどうか迷っている。
このスレッドに書くことは事実だということは何度も書いている。
しかし、例え事実であっても書かない方がいいことも中にはあるのだ。

と言いながらも、私の頭の中にあったのは、このスレッドを読んでいる後藤の姿だった。
彼女に対して嘘はつきたくない。しかし、これだけは知られたくないというのもあるのだ。

140 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:10

散々迷った挙句、私はそれを書くことにした。
後藤もまた、私の正直な行動に理解を示してくれると思ったのだ。
それに、以前にも私は市井のことについて書いてしまっている。市井の唾を喜んでいたという話だ。
もちろんあれは後藤が読むことになるとは全く知らない時に書いたものなのだが、今ではもう遅い。

しかし、やはり後藤に対して嘘はつきたくない。それが私の後藤への気持ちだと受け取ってくれることを祈って。

倒された後の紺野は泣きながらしばらく動かなかった。
ただ、その時の私の頭の中には、後で紺野に仕返しをされるなどという考えは微塵も無かった。
ただただ、倒れた紺野が、そして泣いている紺野が心配だったのだ。

そして私は彼女の手を拾い上げると、その手を引き上げ、そしてすっくと立ち上がらせた。
そして事件は起こった。
その瞬間、紺野は大声で泣きながら、私の胸に抱きついてきたのだ。

思いもしなかった展開だった。あの悪魔のような紺野が・・・私の胸に飛び込んできたのだ。

私はどうしていいかわからなかった。しかし紺野は両腕で私をしっかりと抱きしめる。
もちろん涙をポロポロと流しながら、そして泣き声を上げながら・・・。

そして私はいつの間にか、自分の両腕で彼女の体をしっかりと抱きしめていた。
そうするうちに、彼女の泣き声はやがてすすり泣きへと小さくなり、そして・・・。

「もーちゃんさん・・・」

彼女は確かにそう言った。私の名前を呼んだことは何度かあったが、
そんなに優しく、そしてか細い声で呼ばれたのは初めてのことだった。
普段は悪魔なのだから当然のことなのだが・・・。

141 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:11

彼女は両腕の力を緩め、そして私も腕を離した。
二人の体の間に隙間が生じる。そして私の肩でうずめていた顔も私の目の前へと表れる。

そして彼女はもう一度言った。

「もーちゃんさん・・・」

その言葉が何を意味するものかはすぐにわかった。

彼女は顔を上げ、そして静かに目をつむる・・・。

これまで残酷な行為を何度もしてきた紺野だが、その時目の前にいた少女は別人だった。
ある意味、芸能界に入る前の、まだ純粋な頃の紺野がそこにいたのかもしれない。

私は急に彼女のことが愛しく思えるようになった。
いや、もしかするとそれ以前から、彼女が涙目になった時からすでに気づいていたのかもしれないが。
しかし、その時はまだ、私は紺野に対する警戒を解いていなかったのだろう。
だから、この時初めて、目の前にいる少女に対してそうした気持ちを持ったことを自覚したのだ。

そして気づいた時には、私は紺野の唇に自分の唇をそっと当てていた。

そう、私は紺野にキスしたのだ・・・。

そして、その後、彼女は再び私の背中に腕を回し、その私の胸にしがみついてしばらく離れなかった。

142 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:11

これが私と紺野とのもう一つの、そして一度だけの関係だった。

ただし、勘違いしないでほしいのは、私は決して彼女と打ち解けたわけではないということ。
なぜなら、その後の彼女は、その時のことなど嘘のようにいつもの悪魔に戻っていたのだから。

次に来た時にはすでに紺野は元通りだった。悪魔のような残酷さを持ち、私を痛めつけて喜ぶ。
その姿を見ると、あの時の紺野が何だったのか、今でも不思議に思う。
以前の純粋な頃の心が真剣勝負によって一瞬目覚めたのか、それとも別の人格だったのか、
あるいは演技で私をからかっていたのか、それは私にはわからない。

ただ、私にはあの時の紺野こそが本当の紺野あさ美であると、そう納得するしかなかったのである。

そしてまた、例え普段がどんなに残酷な悪魔であったとしても、
私はあの時の彼女を忘れることはできないだろう・・・永遠に・・・。



これで今回の紺野あさ美についての説明は終わりである。
結論を言えば、彼女は悪魔である。例え一瞬、純粋な心を取り戻したとしても、後は全て悪魔なのだ。
そして、だからこそ、そう、だからこそ私はあの時の彼女を忘れることができないのだ。
そのあまりにも激しいギャップのために、私はこうして今も悩まされているのだ。
そして、今となっては後悔している。それは彼女とのキス。
あのまま放っておけば、私はこうして悩むことなく、彼女を100%の悪魔として納得していたことだろう。
それなのに、今では、彼女が本当の悪魔なのかどうか、そこに1%の疑問を抱いてしまっているのだ。
そう、ほとんど大部分は悪魔なのだ。しかし、悪魔が全てかというと、そうとも言い切れないのが実情なのだ。

唯一納得できる答えは、あの時の紺野もいつもの悪魔であるということかもしれない。
なぜなら、普段の悪魔の時よりも、あの時の紺野の方が私を真剣に悩ませ続けているのだから・・・。

その答えを知ることは多分無いだろう。そしてまた、それは知らないほうがいいのかもしれない・・・。

143 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/01(水) 05:11

前回の更新から三週間が経過してしまっていた。これは狩板消滅後の彼女たちの動向を見るために
期間を空ける必要があったためである。少なくとも私はその必要があったと思っている。
この真実の話をずっと待っていた人には申し訳ないことをしたと思うが、是非了解してもらいたい。

なお、現在の私は、ようやく以前のような落ち着きを取り戻し、また普通の生活に戻ろうとしている。
この新しい町でバイトも始め、普通とまではいかないものの外出もそれなりに出来るようになった。
それは私にとってまさに幸せな生活である。普通の生活がこれほどまで幸せなことだとは、
これまで一度も感じたことは無かった。

ただし、私の心の中には、そうした幸せな気持ちの他に、もう一つだけ、別の感情も存在していた。
しかし、それは皆さんにお知らせすることは多分無いだろう。紺野とのことは書けても、
さすがにそれだけは書くことはできない。それはまた自分のためでもあるのだ・・・。

・・・そう、それは・・・私としても絶対に認めたくない感情なのだから・・・。

144 ：名無し娘。：2003/10/01(水) 15:03

このスレだけだけど一気に読ませてもらった
おもしろいってかかなりツボです

145 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:07

今から書くことは、私と市井との不思議な関係についてである。
と言っても、残念ながら唾フェチの話は今日は出てこない。
市井が私という人間について初めて理解し、そしてある言葉を口にした時のことだ。

詳しい日時は忘れたものの、あれは確か今年の５月・・・ゴールデンウィークのことだったと思う。
京都のとある田舎町……そこに私はいた。いや、本来なら無理やり来させられたということなのだろうが、
しかし実情はちょっとだけ異なっていた。

始まりはその一週間ほど前のこと。私の部屋には保田・市井・後藤の三人が揃っていた。
ファンなら当たり前なのだろうが、その三人はプッチモニ。というユニットのメンバーであったらしい。
そしてまた、その時期にその三人が集まったと言うのも、ある意味偶然と言えるのかもしれない。

保田は５月５日にモーニング娘。を卒業することが決まっていた。
そしてその時はラストコンサートツアーの最中でもあった。

保田はどの会場でも保田コールが鳴り響いていたことを自慢気に語り、
そしてファンが騙されていることに気づいていないことを嘲笑い、そして優越感に浸る。

ブサイクで人気は無いくせにやたら一般の知名度だけはあるのが保田だ。
そのため、こういう珍しい現象に対してかなりはしゃいでいたといった印象だろうか。
歌手であり、喉を大切にしないといけないのにタバコをやたら旨そうに吸っていたことを覚えている。
もちろん、それはいつものこととも言えるのだが。

一方、後藤もその時期は地方を回ってイベントをこなしていた。
保田に様子を聞かれ、あまり席が埋まっていないことを正直に語っていた。

ただ、モーニング娘。のコンサートもあまり人数的には潤っているわけではないらしく、
一人で歌えるだけ感謝しろというのが保田の言葉だった。

そうした会話の中、市井一人だけがただ黙っていた・・・。

146 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:07

市井は普段は口が悪く、私を罵倒し、言葉で侮蔑し続ける存在だった。
いや、それだけならもちろん肉体的な苦痛を味あわせて快感を得る奴らよりはマシだろう。
しかし、それが永遠に続くとさすがに精神的にも辛いものになるのだ。
「馬鹿」と一度言われるくらいなら平気だが、それが一時間も続くとさすがに堪えるのだ。

そんな市井がその日は黙っていた。ちょっと不思議だったが、それもわからないことでもなかった。

最後のモーニング娘。のツアーをこなす保田に、一人で地方を回る後藤・・・。
例え人気が減っていて、人数が少なかったとしても、市井よりは全然マシなのだ。

当時の市井は全くいいところなしだった。シングルの売上げはよくて一万枚・・・。
そして５月に発売されるシングルも、売れる見込みはほとんど無かった・・・。
結果は三千枚だったと言うから、まあ市井が落ち込むのもわかる気がするが。

そんな市井にようやく保田が気づく。そしてあることを尋ねる。

「そう言えば紗耶香、あんたもイベントやるんでしょ？」

「・・・うん・・・」とだけ答える市井。

どうやら市井も珍しくイベントを行うらしい。
しかし、話を聞くにつれてその市井の悲惨さがこちらにもありありと伝わってくるのだ。
ある田舎町の町を上げてのイベント。そこにゲストとして呼ばれているらしいのだ。

モーニング娘。として武道館でコンサートをしたこともある市井。
そんな市井が、今は小さな田舎町の町民のお祭りに顔を出さないといけないほどの状況だったのだ。
それは保田や後藤には理解できないことであっただろう。
後で知ったことだが、市井は人の少ないフリーマーケットで、
裏返した木製のミカン箱の上に立って歌わされたこともあったらしいのだ。
そんな市井にとって、保田や後藤の話は殺したくなるほどの屈辱だったに違いない。

147 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:08

保田が言う。悪意があるのか無いのかはわからない。
もしかしたら真剣に市井のことを考えていたのかもしれないし、
逆に市井をからかっているだけだったのかもしれない。
彼女たちの関係は私もいまいち理解できないでいたのだ。仲がいいのか、悪いのか・・・。

「じゃあさ、あんた行ってやりなよ。どうせ暇なんだからさ」

それは私に対しての言葉だった。保田は私にそのイベントに行くようにと言ったのだ。
それに対して市井が答える。

「いいよ・・・こいつなんかが来たらやる気失せるからさ」

そう言った市井の目はどこか淋しげだった。

その後どのような会話が交わされ、そして私に対してどのような仕打ちが行われたかは覚えていない。
しかし、保田が勧めたタバコを市井が断ったことだけは覚えている。

「最近喉の調子が悪いからさ・・・」

148 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:08

こうして私は一週間後、そのイベントへと出向いたのだ。
もちろん保田と市井の会話から、それが強制のように思えたからなのだが、他にも二つ理由があった。
一つは市井の落ち目を見てみたいという普段の復讐のような理由から。これは私としては当然だろう。
そしてもう一つは、落ち目の市井に対してどこかで同情していたからだった。

小さな町の小さな会場。盆地にある町らしく、周りは山に囲まれている。
時代から少し取り残されたような素朴な町と、そして素朴な町民の姿がそこにはあった。

私が到着した時は、メインステージでは大道芸ショーが行われていた。
小さな舞台でバルンアートやジャグリングなどの芸が披露され、ピエロが滑稽な動きを見せる。
そしてその横ではチビッコによる腕相撲大会が行われていた。

何のことは無い。ただの田舎町のお祭りだった。それもほとんど町民だけの・・・。

市井の出番が来るまで色んな催しを眺めて回る。
あまり覚えてはいないが、ショベルカーの体験操縦コーナーはそこそこ面白かったかもしれない。

そうこうするうちにようやく市井の出番となった。
司会進行役が市井――正式には『市井紗耶香 in CUBIC-CROSS』と言うらしい――を紹介する。

ステージの前には幾つかの座椅子が並べられているが、そこそこ埋まっていただろうか。
その中には市井を追っかけてきたファンと思しき人間たちもいた。カメラを構え、そして市井の名前を叫ぶ。

そうした熱心なファンとは違い、町民はあまりステージには注目していなかった。
同時に進行している様々な企画を見て回り、そして時よりメインステージに顔を向けるといった感じだ。
そのため、どうしても違和感を感じざるを得ない状況であっただろう。

149 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:08

市井が一言二言、観衆に声をかけ、そしてイベントが始まる。
正直、市井が何を歌ったかは覚えていないし、当然市井の曲というものも知らなかった。

熱狂的なファンと冷めた町民のギャップ・・・。
そんな温度差のある観客を目の前に、市井は淡々と自分の仕事をこなしていた。

歌はあまり上手いとは言えなかった。しかし、決して手を抜いている印象は無かった。
それが演技なのかどうかはわからないが、彼女は歌える幸せを実感しているように見えた。

そうした彼女の表情に、やがて冷めていた町民も次第にステージに惹き込まれていった。もちろん私もだ。
パラパラといった感じの拍手だったものが、やがて普通の拍手へと変わっていった。
あくまでも普通の拍手ではあるが・・・。

途中、歌が終わったところで市井がマイクを持って話し出した。
何を話したのかは覚えていないが、その時、市井の表情が少し驚きに変わった。
そう、彼女は私の姿を発見したのだ。

そして一瞬言葉がつまり・・・そして再び元のように話し出す。

彼女がどういう気持ちであったかはまた後日知ることになるのだが、
その時の私は、「やる気が失せる」という彼女の言葉を思い出し、少し怖れを抱いていた。

彼女の出番は結局一時間も無かっただろう。その中でどれだけ町民にアピールできたかはわからない。
そして、その仕事がどれほど彼女に役立ったのかも。単に失敗だったと言えるかもしれない。

しかし、私は違っていた。彼女が歌っている真剣な姿を初めて目撃したのだ。
そしてまた、彼女が歌った新曲は、帰りの電車の中の私の脳裏に『ずっとずっと』流れていた。

150 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:09

それから一週間後くらいだろうか。部屋に市井が来た。
保田はすでに卒業したらしいが、まだその部屋には来ていなかった。

市井は部屋に上がると、いつも通り、私の存在を無視して一人CDを聞きながら雑誌を読む。

夜になって中澤が来る。本当は保田も来る予定だったらしいが、
どうやら東京で様々な仲間たちと毎晩飲み明かしているらしい。卒業パーティーなのだろう。

その日の彼女たちは私に危害を加えることは無かった。
酒を飲みながら保田の卒業を色々と語り、そして思い出話に花を咲かせていた。

中澤は朝まで飲んでいたが、市井は途中でダウンし、寝転がっていた。
私は中澤の酒を作る――正確には作らされる――ために寝ずに起きていたが、結局寝てしまっていた。

朝になり、中澤に髪の毛を掴んで起こされる。ひどい起こし方だがまだマシな方だろう。
朝食を用意していなかったことに腹を立てているらしかったが、
さすがに中澤も朝まで飲んでいたということで、そこまで朝食を望んでいたわけではなかったようだ。

二人はそろそろ出かけるらしく、乱れた髪の毛を整え、化粧をして部屋を出て行く。

と、その直前に市井が私に対して言葉をかける。

「あんた・・・来てたでしょ・・・」

その言葉にドキッとする。ついつい怒られるものとばかり思っていた。
彼女のことだから、落ちぶれた姿を私に目撃されたことが屈辱だったとばかり・・・。
でもそれは違っていた。

「新曲・・・買っといてよ・・・・・・サインしてあげるからさ・・・」

151 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/05(日) 15:09

振り返らずにそう言い残して市井は部屋を出て行った。

それが彼女にとってどういう意味だったのかはわからない。
しかし、私はそれを感謝・・・そう、彼女の感謝の言葉だったと思っている。



前回、紺野の悪魔とは別の一面を紹介したが、もしかするとそれは全員に言えることだったのかもしれない。
彼女たちは確かに悪魔だった。しかし・・・その悪魔の心の裏には・・・どこかに人間の心が隠れているのだ。
この市井の言葉ももちろんそうなのだろう。私はそう信じている・・・。

とは言っても、市井もその次に来た時には、当然いつもの罵倒し続ける市井に戻っていたわけで。
結局、彼女たちは悪魔なのだ。そしてまた、時よりそうした人間の心を見せるからこそ、
その悪魔の残酷性が増しているのかもしれない・・・。

今、私は久しぶりに市井の歌を聞いている。
それが悪魔の歌声なのか、それとも天使の歌声なのかはわからない。
しかし、そのケースに書かれたサインを見ると、それはどうも天使に思えてならないのだ。
悪魔のふりをした・・・天使に・・・。

「ダニへ　市井SAYAKA ♥ 」

152 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/13(月) 06:18

福田のことについてはあまり書きたくないのだが、しかし一人だけ書かないというわけにもいくまい。
そこで今日は、福田についての比較的軽い話をしたいと思う。

福田はモーニング娘。時代からメンバーにいじめられていたと以前に書いた。
しかし、実情は少し異なっている。と言うのも、福田は加入当時最年少でありながら、
最初の頃は逆にメンバーをいじめる方だったのだ。

音楽番組の中で飯田を泣かせかけたことはよく知られているが、あれなどは序の口であったらしい。
元々外見とは裏腹にませた性格であった福田は、芸能界に入ると更にその度合を強めていった。
タバコを吸い、合法ドラッグを試し、そして男を漁る日々・・・。

そんな福田にとって、飯田や安倍などの田舎臭さの抜けないメンバーは、格好の獲物であったのだろう。
考えてみれば当然だろう。中澤はリーダーであるとともに、元水商売を経験したこともある強者であり、
さすがの福田もタイマンで勝負を挑むことは避けたはずだ。石黒もまた、高校時代に喧嘩で鳴らした
という実績もあって、小さな福田では相手にならなかっただろう。
となると、残されたのは当然、飯田と安倍の田舎者コンビということになる。

福田が二人をどのようにいじめていたのかはわからないが、そうした過去があったのは事実である。
しかし、それも長くは続かなかったようだ・・・。

福田がいつ頃から逆の立場になったのか、どういうきっかけがあったのかは私は知らない。
しかし、そこから福田の苦悩の日々は始まっている。
そして私の部屋に来た時には、すでに福田は完全に壊れていたのだ。

ただし、私には一つだけ疑問があった。
福田はなぜ、彼女たちの呼び出しに応え、そしてわざわざ遠くにある私の部屋まで来たのだろうか。
芸能界という世界に束縛されていない福田にとって、逃げることは簡単にできたはずだ。
高校も中退し、縛られるものは何も無かったのだから。それなのになぜ、逃げずに私の部屋に来たのだろうか。

結論を言えば、彼女には逃げる意思が無かったということになるだろう。
その理由はわからない。それがすでに彼女の生活の一部になってしまっていたのかもしれないし、
いじめられながらもどこかでずっと仲間意識を持ち続けていたのかもしれない。
あるいは私が引っ越しても彼女たちに見つかったように、逃げても無駄だと悟っていたのかもしれない。

153 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/13(月) 06:18

しかし、それらは決して、彼女が好き好んで自主的にやって来ていたということではない。
メンバーに押さえつけられ、暴力を受け、罵倒され、そして人体実験をされる・・・。
そんなことを望む人間は世の中広しと言えども、私はいないと思っている。
もちろん中にはマゾという人種もいるが、これは決して性的なプレイではなく、本気、まさに命がけなのだ。
石黒が私をヒールで踏みつけ、ムチで叩き、ロウソクを垂らすのとは全く次元が違うのだ。

だからこそ、私には彼女が不思議でならなかったのだ。彼女は決して喜んでいるわけではないのだ。
いじめを受けた後、泣き叫び、喚き、必ず私に八つ当たりするのがその証拠と言えるかもしれない。

そんな彼女の行動を私はいつも素直に受け入れていた。さすがにスタンガンだけはかなり堪えたが。
しかし・・・一度だけ、そうたった一度だけ、私はそれを拒否し、彼女を取り押さえたことがあった。

それは以前書いた、紺野が福田に罠をしかけた出来事の少し後のこと・・・。
いつものように中澤たちにいじめられた福田は、私に反撃を開始する。
最初はそれを受け入れたものの、私の中にはやはりどこかに福田を信じたい気持ちがあった。
もちろん信じているというのは、彼女の普通の人間としての感情と、そして本能である。

そして私は、一心不乱に私の体を叩き続ける彼女の手を掴み、壁際へと追い込んだのだ。
彼女は複雑な表情を浮かべていた。驚いたような、観念したような・・・。

そこで私は思い切って福田に告げた。・・・一人で逃げられないのならば、一緒に二人で逃げよう、と。
そしてまた、例え紺野の命令によって福田がこの会話を前回のように録音していたとしても、
それでもかまわないいから、今すぐここから逃げ出そう、と。私が必ず守ってやる、と。
もちろん私自身も逃げたかったということもある。しかし、その時はそれ以上に福田のことが心配だったのだ。

ちなみに、この言葉を聞いて第三部における市井との駆け落ちを思い出した人もいるかもしれないが、
これは実際は私が福田にかけた言葉であった。それが市井との出来事として語られることになったのは、
現実の福田があまりにも悲惨であり、小説と言えども本人を登場させたくなかったからである。
そしてまた、第三部における福田が、最初は現実同様伸び悩んでいたとは言え、やがて才能を認められ、
紅白出場歌手にまで上りつめるというシナリオは、私の福田への希望、願いを託したものでもあった。

少し横道に逸れたが話を戻そう。

154 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/13(月) 06:18

私は熱心に福田を説得した。しかし、残念ながら彼女に反応は無かった。
ただ黙って、抑えられている腕を見つめていただけだった。
そして手を離すと、彼女は再び私を叩きまくり、そしていつも通り、疲れて眠ってしまった。

ただし、それだけであるならば、私もわざわざここに書いたりはしないだろう。
私がその出来事を書いた理由・・・それは、彼女が眠りながら涙を流していたからである。

それが何の涙なのかはわからない。私の言葉が本心では嬉しかったのかもしれないし、
そうではなく、単に中澤たちから受けた苦痛に対する涙だったのかもしれない。
今となっては確認する術も無いが、それが今も私の胸に深く残っているのだ。そして・・・。

悔やまれるのは、私がそれ以上、福田に対して積極的な行動に出なかったことである。
もしあの時、私が嫌がる福田を無理やりにでも連れ出し、そして彼女たちの目の届かない場所へと
逃げていたとしたら、彼女もまた違った人生を送ることができたはずなのだ。

それができなかったのは、単に私が弱かったからである。それは否定できない。

今、福田がどのような生活をし、どのような状況にいるのかはわからない。
後藤とはたまに電話で会話をするが、福田の話は全く出てこない。
そしてまた、私は自分の口から福田のことを聞き出そうともしていない。

それは怖くて聞き出せないということもある。
しかし、もう過ぎ去ったこと、自分は逃げきれたのだからもう自分は関係ない・・・そういう
汚い気持ちが私の中にあるからなのかもしれない・・・。

私は卑怯な人間だろう。福田を見捨てたのだから・・・一人で逃げたのだから・・・。
あの部屋のことを思い出すたびに私は悔やんでも悔やみきれない思いに苛まれているのだ。

155 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/13(月) 06:18

そして、今回の話は、実は私から後藤へのメッセージでもある。
私は卑怯な、自分勝手な人間である。自分が見捨てた福田がどうなっているかが怖いのだ。
そしてまた、自分からはそのことを聞き出せない、臆病な人間でもあるのだ。

まず、そのことを後藤に知ってもらいたかった――すでに知っているかもしれないが――ということ。
そして次に、福田の現状について、私が心から気にしているということを知ってほしかったということ。

自分から聞けばいいと思うかもしれないが、やはり私にはそれは無理なのだ。
ただし、それは決して、そんな自分の苦悩を理解してほしいということではない。

理解はしてくれなくていいのだ。ただ、知ってほしかったのだ。
教えてくれなくてもいい。ただ、知ってほしかっただけなのだ。

だからこそ、私は恥を忍んでこのような文章を書いたのである。
自分の臆病さを忘れないためにも・・・。


追記

昨夜、適当につけたテレビに後藤が映っていた。私の好きな吉田拓郎やムッシュかまやつも出演していた。
ツイストの世良公則もいた。ELTもいた。工藤静香もいた。杏里もいた。そして後藤真希もいた。

正直、このメンバーの中で後藤は辛いだろうと思った。しかし、それは私の思い過ごしに過ぎなかった。
彼女は自信を持って歌っていた。そして楽しそうに、幸せそうに・・・。

彼女は誰よりも強い人間だと思った。深く辛い悩みがありながらも、人生の目標に向かって進んでいる。
尊敬する人物は誰かと尋ねられたら、今の私は多分、後藤真希と答えるだろう・・・。

私にとって、後藤の笑顔はやはり・・・天使なのだ・・・。

156 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/19(日) 11:15

小さな川が流れている。私が今住んでいる部屋のすぐ近くの川だ。
川自体の幅は狭いのだが、堤防と堤防の間には散策路も整備されており、それなりに広い。
のんびりとした雰囲気が好きで、私もよくその散策路を利用している。もちろん単なる散歩だが。

夕焼けは特に見事で、赤く、そして美しく染められたその光景は、まるで芸術作品を見ているかのようだ。
鬱な日々を過ごしていたあの頃とは全く違った、心の平穏を実感する瞬間であるかもしれない。
のどかな風情が残る田舎と言ってしまえばそれまでだが、私にとっては久しぶりの落ち着ける場所なのだ。

昨年の今頃だっただろうか、私が初めて彼女たち――保田と中澤――に出会ったのは。
社会の暗部、危険な闇の世界だと知らずに芸能界などに興味を持ったのがきっかけだった。そう、
はじまりは私なのだ。私が自ら選んでしまったことなのだ。いや、招き入れた災難と言うべきだろうか。

私がその道を選ばなければ、軽い気持ちで選びさえしなければ、私は普通の生活を続けていたはずなのだ。
でも、当然のことながら、当時の私にその後の悲惨な生活、展開を予想できたはずは無い。
すでにそうした経験をし、そしてそれを終えているからこそ、こうして過去を回想することができるのだから。

もしもあの頃に別の道を選んでいれば、などと考えてしまうのも、全ては経験した後だからこそなのだ。
血まみれになり、生活を乱され、人間の尊厳をも奪われるなど、あの頃には考えつかないことなのだ。
論証が無いのだから当然だろう。それは経験してはじめてわかることなのだから。

日が沈み、すっかり辺りが暗くなる頃まで、私は散策路の脇にあるベンチに座っていた。
見上げると空にはすでに星が瞬いていた。少し肌寒い風も吹いてきていた。
ついつい余分なことを考えてしまっていたようだ。これも今の生活が平穏だからこそなのだろうが。

157 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/19(日) 11:15

出会いがあれば別れがあり、始まりがあれば終わりがある。第一部に登場した言葉である。
好きな言葉の一つではあるものの、その時は私が意図して使ったというわけではない。
けれども、その言葉には私の無意識の思いが込められていたのかもしれないと今になって思ったりする。
どういう思いかは説明するまでもないだろう。私は終わりを待ち望んでいたのだ。地獄の終わりを・・・。

もちろん、無意識の思いであるから、例え当時であってもそれを確認することはできない。
しかも、その地獄の終わりは、もしかすると私の人生の終わり、死を意味していたのかもしれない。
両者のどちらであったとしても、私が逃げ出したくても逃げ出せない状況にいたということは確かなのだ。

方法は限られていた。彼女たちがいなくなるか、私がいなくなるか・・・。
とにかく、大まかにはその二つしか方法は無かったのだ。そして後者には究極的な選択も含まれていた。
もちろん、私も自ら死を選ぶようなことはしたくなかった。だからこそ何度も逃げ出そうとしたのだ。
四度の引越しをしたのがその証拠だ。もっとも、その中には彼女たち主導の引越しもあったのだが。
でも、私が死を選ぶことは無かった。私は逃げることを決して諦めなかったのだ。そして幾度も幾度も
ループを繰り返しつつ、ようやく今、こうして平穏な生活を取り戻すことができたのだ。

人は、人生を諦めた時点で終わりである。それが一連の出来事を経験して私が得た結論であり、
概括であると言える。当たり前の、ありきたりな言葉であるが、結局最後にはそこに行き着くのだ。
ただし、それは私が逃げ延びることができたからこそ言える言葉でもあるのだろう。私は単に、
ラッキーだっただけなのかもしれない。彼女たちが私に飽きたからこそ助かったのかもしれない。

嬉しいのは確かだが、そう考えると少し複雑な心境になってくる。
しかし、それもやはり、諦めなかったからこそチャンスが芽生えたと考えるべきなのかもしれない。
いずれにせよ、私は逃げ延び、彼女たちは追って来なかった。それは確たる事実だ。

であるとすれば、私はなぜ、今もこうして彼女たちのことを書いているのだろうか。
すでに終わったことを、なぜ書いているのだろうか。彼女たちへの復讐なのか・・・それとも・・・。

158 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/19(日) 11:15

今回の話には、いつものような彼女たちの話は出てこない。書いてあるのは全て私のことである。
そのため、皆さんにはあまり興味の無い事柄かもしれない。私がどのように悩み、葛藤したとしても、
それを理解しようとしてくれる人はいないだろうし、信じている人などほとんどいないことだろう。
むしろ、お前の気持ちなんかどうでもいいから彼女たちの話をさっさと書け、というのが本音かと思う。
それは私もわかっているし、それが当然だとも思う。ここはそうした板なのだから。

しかし、今回だけは勘弁していただきたい。今回の文章は私から皆さんへのメッセージでもあるのだ。
私がなぜ、終わったことをいつまでも引きずっているのか、それは本当に復讐のためなのか・・・。
もしそこに答えがあるとするのならば、私はその答えに一抹の不安を感じているのかもしれない。

159 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/23(木) 23:06

早いものでもう一年である。私が彼女たちと出会ったのが去年の秋。それは前回も書いた。
苦難と惨めさだけの一年間であった。逃げることも、抵抗することもできず、自らの怒りに
引火させ爆発させることもできず、ただただ無法者の餌食にされる毎日。迷える子羊として
導きを求めるも、叶わず、神はただ迷える子羊が弱っていくのを黙って見守るのみであった。
渡る世間は鬼ばかりであり、救いの神など存在しないのだ。神の存在は御伽話に過ぎない。

しかし、私がここで言いたいことは、決して神の存在を否定するというようなことではない。
手短に言えば、神の存在などは関係ないのだ。この世にいるのは全て人間なのだから。
下らない彼女たちのような人間もいれば、優しく、そして思いやりのある人間も存在する。
最近私が思うのは、全ては人間なのだということ。悪魔も、そして救いの天使も、皆・・・。

百年経とうがそれは変わらない。この世にいるのは全て人間なのだ。
二百年経とうがそれは変わらない。苦しみを生み出すのも、そして苦しみから救うのも・・・。

十人十色、全ては人間なのだ。神などは関係ない。全ては人間の仕業なのだ。
六道なんてものも存在しない。地獄も餓鬼も畜生も修羅も天上も人間界の中にあるのだ。

山窟で修行する僧のように、私はふと、この街でそんなことを考えていたりするのである。

160 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/23(木) 23:06

今回も前回同様、彼女たちの話は出てこない。
しかし問題は、なぜ「書かないのか」ではなく、なぜ「書けないのか」ということである。
以前のように圧力があるわけでもないのだが、私はなぜか、それを「書けない」でいる。

そして書いているのは、これも前回同様、自分のことである。
私がどのような境地に達していようと、それは皆さんには全く関係ないことかもしれない。
皆さんが期待しているのは彼女たちの横暴ぶりなのだから、それも至極当然であろう。

しかし、ありとあらゆる皆さんの中には、これに共感を覚えてくれる人もいるかもしれない。
そう思って前回、そして今回と、立て続けに自分のことを書いてしまったわけで。

期待していた皆さんには悪いとは思いますが、気分転換だと思って読んでいただければ幸いです。
もちろん上から下まで一気に読み飛ばしてもらってもかまいませんが。

161 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/28(火) 16:42

それにつけても、麦味噌をつけた胡瓜をつまみつつ、生ビールを飲むのは乙なものである。
場所は演歌が流れる田舎の小料理屋。私が最近よく訪れる店だ。

こういう店で一人酒を飲むというのは、普通の人ならば少しも羨ましくないことだろう。
同じ年頃の人間ならば、おしゃれな都会のおしゃれなバーでおしゃれなカクテルを、
おしゃれな女性と一緒に味わう方がいいに決まっている。それは確かだ。

そして、そういう世界を念頭に入れると、今の私はどこか人生の道を誤っているように見えるかもしれない。
でも私は今の生活に満足している。例え田舎であっても、のんびり暮らせることこそが幸せなのだから。

しかし、そうは言っても、私の中にはどこか物足りない気持ちがあるのは確かだ。
ただし、それは決して私がおしゃれなカクテルを望んでいるということではない。
それでは何なのか・・・というと、それは私が前回、前々回に書いたこととも関連してくる。

そう、私の中には「とある」気持ちがあるのだ。それは確かに私の中に存在している。
そして私も今ではそれを認めている。決して認めたくはなかったが、やはり認めざるを得なかったのだ。

前回、前々回は少し回りくどい表現をしてしまったと思う。多分私の意図は誰にも伝わらなかったことだろう。
そこで今回は意を決し、私の素直な気持ちをストレートに表現したいと思う。

・・・と言いながらも、結局は一行目からまた不必要なことを書いてしまっている。
しかしながら、私が決意を固めたのは、ある意味この麦味噌と生ビールの影響だとも言えるのだ。
小料理屋で一人で過ごし、そしてぼんやりと考えているうちに、私は決意を固めたのだから。

それではいよいよ、私の本当の気持ちを書こうと思う。
それを食い止めようとする自分のもう一つの気持ちと闘いながら・・・。

162 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/28(火) 16:42

端的に言う。私は心のどこかで、あの頃を懐かしいと思っているのだ。
あの彼女たちの傍若無人な数々の行為を受けながらも・・・そしてその極悪非道な彼女たちに対しても・・・。

それがなぜなのかは最初ははっきりとはわからなかった。もちろん今もはっきりとはわかっていないが。
もしかすると私は彼女たちに同情したのかもしれない。

彼女たちが悪魔のような人間であったとしても、最初からそんな人間であったはずはないのだ。
芸能界に入り、そして彼女たちはいつしか本当の素顔を忘れ去ってしまったのかもしれない。
むしろ適応せざるを得なかったのかもしれない。それを望む、望まないに関わらず・・・。
だからこそ、彼女たちは時より、悪魔ではない普通の人間の表情を見せることがあったのだろう。
それもどこか淋しげな表情を・・・。

そして、もしそうだとすると、それは私こそが力になってあげるべきだったのだ。
そう、私が彼女たちを普通の人間に戻してあげるべきだったのだ。
そして、そう考えて初めて私は理解したのだ。彼女たちが私の部屋へやってきた理由を・・・。

それはきっと、彼女たちも昔の、そして本当の自分たちに戻りたかったからに違いない、と。
自分からは言い出せないものの、私にその気持ちに気づいてほしかったのだろう、と。

だからこそ彼女たちは私の部屋を選んだのだ。
彼女たちの周りにいる人間は、どれも芸能界の闇に染まった人間ばかりなのだから。
それはタレントの仲間も、友達も、そしてスタッフも・・・。

でも私は違っていた。ちょっとしたバイトを始めたばかりだった。芸能界の闇も何も知らなかった。
ただ多少の興味があっただけだった。そして何も知らずに中澤と保田と紺野に出会ったのだ。

だからこそ、彼女たちは私に目をつけたのかもしれない。
私が闇に染まっていないことを見て、そして自分たちの現状に私が気づいてくれることを信じて・・・。

もちろん、それは私の単なる推測に過ぎないかもしれない。
しかし、今ではもう、それは確信に変わっている。彼女たちがどうであれ、私はそう思っているのだ。

それなのに、なぜ私は一人で逃げ出したのか・・・。

163 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/28(火) 16:42

そう、私と一緒に逃げ出したかったのは、決して福田だけでは無かったはずだ。
後藤だってそうだろう。本当の気持ちを隠して彼女たちに合わせる毎日は苦痛だったはずだ。
そして、それは私に対して傍若無人な行為を働いた悪魔たちにも言えることだ。

中澤だってそうだ。笑いながら私にスタンガンを向けつつも、その目はどこか淋しげだった。
毎晩のように飲んで愚痴っていたのも、私を愚痴の相手として必要としていたからだろう。

石黒もそう。同い年として私と話したいことがいっぱいあったに違いない。
早く結婚したのだから、ストレスくらい溜まるのが普通だろう。しかし、自分からは何もできなかったのだ。
だからこそ、SMプレイで私にロウソクを垂らしながらも、コミュニケーションを取ろうとしていたのだろう。

市井もそうだ。私に罵詈雑言の限りをぶつけたのも、私の顔に唾を吐きかけ続けたのも、
それも全て、どうしてそんなことをしているのか、その理由に気づいてほしかったからなのだ。

現役メンバーの紺野も同じだ。彼女が私に対して一番の極悪ぶりを発揮したことはすでに書いている。
しかし、それも彼女が最も若く、そして最も悪魔と人間のギャップで苦しんでいたからなのだろう。
だからこそ、彼女は執拗に私を攻撃してきたのだ。自分が苦しんでいる分だけ、私を・・・。

そして保田も・・・。彼女のことはあまり書いていないが、実は書けなかったこともある・・・。
彼女はどうやら、私のことが好きだったらしい。いや、単に私の勘違いかもしれないが。
ただ、彼女は確かに、私に何かを求めていた。それが好意でなかったとしても、私に何かを・・・。

それはある晩のこと。部屋には私と彼女の二人だけがいた。
彼女は部屋のカラオケで数時間歌いまくり、私は無理やりそれを盛り上げさせられていた。
ただ、疲れが溜まっていたせいもあって、曲がバラードになった途端に私は寝てしまった。

164 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/28(火) 16:42

しばらくして私は目を覚ました。すると、私の体の上には毛布がかけてあった。
後藤ではなく、あの悪魔のような保田が、である。全く信じられない気持ちだった。
しかも、うっすらを目を開けるとそこには保田の顔があった。それも私の寝顔を見つめている顔が・・・。
私は気づかれないようにすぐに目を閉じたが・・・。

いや、やっぱりそれは好意というものではなかったのかもしれない。と言うか多分違うだろう。
しかし、それは私に対して、やはり何かに気づいてもらいたかったということなのかもしれない。

そして、私はそんな自分の寝顔を見つめる保田に対して、少しばかりの好意を持ってしまったのだ。
ただし、それは単に毛布をかけてくれたことに対してでも、寝顔を見つめられたことが原因でもない。

私が朝になって目を覚ますと、私の上にあったはずの毛布はどこにも無かったのだ。
毛布はまるで何事も無かったかのように普通にクローゼットの中に入っていた。
つまり、彼女は私に毛布をかけたものの、それを気づかれないうちにこっそりと戻したことになる。

そんな彼女の行為の理由はうまくは説明できない。照れくさかったのか、恥ずかしかったのか。
しかしそれは、彼女が悪魔のふりをしつつも、どこかで普通の人間らしさを忘れていなかったという
ことでもあるかもしれない。もしかするとそれは人間らしさではなく、乙女らしさだったのかもしれないが・・・。

だからこそ、私は彼女についてはあまり触れなかったし、触れられなかったのだ。
彼女のことを詳しく書くと、どこかにそういう彼女の人間らしさが滲み出てしまいそうで・・・。

もっとも、それも今となってはどうでもいいことなのかもしれない。
彼女が私に好意を持っていようといまいと、私が彼女に好意を持っていようといまいと、
今はもう二人には接点はないのだ。そして、今の私にとって大事なのは、彼女たちの悪魔のカバーを剥がし、
普通の人間の気持ちを取り戻してあげるにはどうすればいいか、ということだった。

165 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/10/28(火) 16:43

そして私は決意を固めた。



彼女たちを元に戻そうと・・・。

彼女たちを元に戻せるのは私しかいないのだ・・・。

そう、私しか・・・。



そして私は旅立つことにした。



あの部屋へ・・・。



彼女たちに滅茶苦茶にされ、私が逃げ出した、あの部屋へ・・・。

そこにどんな結末が待ち受けているとも知らずに、あの部屋へ・・・。



彼女たちを信じ、そして自分を信じて・・・。





『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!』　第四部　−完−

―――――――――――――――――――――――――――――
　短い間でしたが、第四部を読んでいただき、ありがとうございました。
　私の命に別状が無ければ、第五部へ移行しようと思いますので、
　引き続きご愛読の程、宜しくお願いします。
―――――――――――――――――――――――――――――

166 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:32

ウイーンという低い機械音とともにエレベーターの表示が階を上っていく。
そして表示はある階で止まる。ドアが開き、そこからある人物が降りてきた。
その人物はカツン・・・カツン・・・と小さな足音を立てながら、ある部屋へと向かう。
そして部屋のドアの前で立ち止まると、カバンの中に手を入れてそこから一つの鍵を取り出した。
その鍵を鍵穴に差し込む。ガチャリという音が響く。そして部屋の中に外の光りが射し込む。
部屋の中からは小さな話し声が聞こえていた。中に誰かがいるのだろう。

しかし、その人物は私ではなかった。

なぜなら、私はその時、その部屋の中にいたのだから・・・。


――――――――――――――――――――――――――――――――
　――――――――――――――――――――――――――――――
　　　　　『ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!』　第五部
　――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――

167 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:33

カタカタカタ・・・とキーボードを叩く音が部屋に響く。
しかし、その音の出所は私ではなかった。パソコンの前に座っていたのは一人の少女。

「うーん、なんでだろ？」

少女はそう言うと、後ろを振り返って私の顔を窺う。
私はぼんやりとテレビを眺めているところだった。

「ん？どうかしたのか？」

そう言うと彼女はつまらなそうな顔を浮かべる。

「おもしろいと思うんだけどな〜。なんでレスつかないんだろ」

どうやらレスがつかないことが面白くないらしい。これだから素人は・・・。

「内容が内容だけにレスしずらいんだろ。それに元々レスなんてあんまりつかなかったしな」
「企画はおもしろいと思うんだけどなー。せっかく私が考えたのにー」
「やっぱり無理があったんじゃねーか？第三部の時もかなり叩かれたしな」

そう言うと少女は少し頬を膨らませた。どうやら少し機嫌を損ねたらしい。

「あれはもーちゃんさんが悪いんですよ。私は悪くないです！」

悪いとか悪くないとか、そういうことじゃないと思うんだが・・・。

「まあ最終的にまとめたのは俺だからな。そりゃ俺が悪いんだろうけど・・・」

しかし、少女はどうやらそれを皮肉だと受け取ったらしい。
頬を更に膨らませたその顔はまるでフグ人間のようにも見えた。

168 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:33

「私の企画は完璧です！問題があるとすればそれはもーちゃんさんの・・・」

少女はそこまで言うと、再びパソコンのディスプレイに顔を戻した。
どうやら私を批難しておきながら、その自分の行為が自分で許せなかったらしい。
自分でもわかっているのだろう。私の文章だけが問題ではないということに。声が途端に小さくなる。

「ごめんなさい・・・私が変なこと考えたばっかりに・・・」

そう言うと少女は顔を向こうに向けたまま頭を垂れた。
部屋の中にどんよりとした空気が広がり、それがテレビのCMの音を更に際立たせた。

「何言ってんだよ。全然問題ないってば。俺と違ってお前は初めてだったんだし・・・」

慌ててフォローする。こいつに泣かれては後が大変だ。
それは何度も経験して身に染みている。絶対に泣かせてはいけない。

「レスなんて気にすんなって。どうせ人いないんだし、レスできる雰囲気でも無いし」
「大体レスのためにやってるわけじゃないんだからさ。あれはおまけなんだから」

しかしその言葉は気休めになるどころか、少女にとってはプレッシャーだったらしい。
少女はそういう性格なのだ。ただ優しい言葉をかければいいというものではないのだ。
その証拠に、つい最近にもその少女が些細なことで泣いているのをテレビで見たばかりだった。
少女の後姿が小刻みに震え出す。そして・・・。

「だ、だって、だって、もーちゃんさんが楽しいって言うから！だから私、私・・・」

結局少女は泣いてしまった。いつも通り、よくわからないところで泣く奴だ。

「わりーわりー。謝るよ。俺が悪かった。ほら、だから泣くなって」

しかし少女は泣き止まない。それどころか言葉をかける毎に泣き声は大きくなっていった。

169 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:33

「あー、わかったわかった。晩飯はお前の好きなお芋にしてやるから、だから泣くなって」

そう言った途端に少女の震えが止まる。ちょっと怪しい気もするが、今はそれどころではない。

「ほんと？」
「ああ、本当だって。なんならおかずだけじゃなくて芋御飯も作ってやろうか？」

それに対して少女が尋ねる。

「フライドポテトも食べたいな・・・あと焼き芋とお芋のスナック菓子も・・・」

と、少女がそこまで言ったところで、廊下からガチャリという音が響いた。
そして玄関のドアが開く音がして、すぐに一人の女性がリビングに入ってきた。

「あれ？もしかしてまた泣かしたの？」

そう言うとその女性は訝しげに私の顔を眺めた。

「あー、なんでもない、なんでもないって。ちょっとコミュニケーションに失敗しただけだって」
「・・・って言うか、なんでお前がいるんだよ。今日来るなんて聞いてねーぞ」
「そりゃそうだ。だって言ってないもん」
「言ってないもんじゃねーだろ！来る時はちゃんと連絡しろって言っただろーが！」
「まーまー、いいじゃん。ほら、新曲にサインしてやっから。なんならたいせーのサイン貰ってやろうか？」
「そんなのいらねーよ！・・・って、ちょっと欲しい気もするかも・・・」
「ははは、あんな宇宙人の曲が好きだなんて、多分あんたぐらいだよ。ほんと変わってるよね・・・」

そんな会話に、忘れられかけていた少女が振り返る。

「もーちゃんさん、結局フライドポテトは？あと焼き芋とお芋スナックは？」

やれやれ・・・。

170 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:33

「わあったわあった。全部食べさせてやっから、だから泣き止めって・・・」

しかし、少女はすでに泣き止んでいた。・・・その言葉をかける前に。
ニコリと笑い、思わずガッツポーズをする少女。そしてそれを楽しそうに眺める女性。

もしかして・・・私ははめられたのだろうか？あれはまさか・・・演技？

「なあ・・・まさかとは思うけど・・・さっきのは泣き真似か？」
「えへへっ、どう？上手くなったでしょ？」

やれやれ・・・その可能性も無きにしも非ずとは思っていたが・・・。
しかし、そのままで終わらせることはできない。こちらにも意地がある。騙されたままでは・・・。

「その演技が仕事でもできればいいんだけどなあ」
「仕事でもやってますよーだ！」
「じゃあこの前のハンバーグも泣き真似だったのか？あれはどう見てもマジ泣きだっただろ？」
「あれは・・・そうですけど・・・でも仕事でだって演技くらいできますよ！ドラマだって出たもん！」
「あー、あの加護のおまけで出たやつか」
「おまけじゃないもん！」

そんな二人のやりとりをよそに、もう一人の女性はソファに座り、ゲームの用意を始めていた。
私がテレビなど見ていたことなどおかまいなしに、リモコンを操作してゲームの画面を表示させる。
どうやら私たちの口論にはあまり興味が無いらしい。まあいつものことだが・・・。
しばらく言い争いをするも、結局二人とも最後には無言になってしまった。これもいつものことだが。

「まあいいや。とりあえず、買い物だな。お芋買わなくちゃいけないしな・・・」
「あ、じゃあ私も一緒に行く！」
「そか。おーい、市井はどうするよ？紺野は一緒に行くってよ」
「あー、あたしはいいや。ゲームやりたいし・・・」
「ゲームなんて自分の家でもできるだろ？」
「だってここにあるゲーム珍しいじゃん。レトロなゲーム好きなんだよね、あたしって」

171 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:34

やれやれ・・・一体ここに何しに来てるんだか・・・。
まあ尋ねてもどうせ「ゲーム」と言うに決まってるんだろうけど・・・。

紺野がパソコンの電源を切り、買い物に行く準備をする。紺野と一緒に買い物に行くのも久しぶりのことだ。
それと言うのも、紺野は最近忙しくてあまりこの部屋には来ていなかったのだ。
ただし、たまに部屋に来ては、私と一緒にあることをして楽しんでいたのだが・・・。
そう、それこそが実は、この小説の第三部、そして第四部とも関係してくるのである。

あれは私がこの部屋――中澤姉さんが契約した部屋――に引っ越してきて一ヶ月くらい後のこと。
今から計算するともう半年も前ということになるかもしれない。時間の流れとは早いものだ。

その頃、紺野は確かミュージカルの仕事でこの部屋には全く来ていなかった。
ところがある日、突然紺野からメールが届いたのだ。それが第三部の最後に出てきたあのメール。

紺野はまた、電話でも色々な話を聞かせてくれた。紺野が見た不思議な夢の話を・・・。
その夢の中では紺野は映画女優になっていたらしい。銀幕のヒロインとはまた似合わない話だったが。
しかしまあ、それが実際に見た夢なのだから、私が文句を言えることではないだろう。

そして後日、紺野は私に対して驚くべきことを言ってきたのだ。

「もーちゃんさん、ネットで小説書いてるでしょ、私たちの。・・・私知ってるんだよ！」
「・・・・・・！！！」

そう、私は自分の身のまわりで起きた出来事を文章にまとめ、そしてネットで公開していたのだ。
そして、なんと、紺野はその事実を知っていたのだ。誰から聞いたのでもなく、自分で見つけたのらしいが。

紺野の提案は、その番外編として紺野の夢を載せるというものだった。
ちょうど第二部が終わった頃だっただろうか。それは気分転換としてもちょうど手頃なものだったし、
下手に機嫌を損ねてその小説の存在を保田あたりにばらされたらたまったものではない。

私はそれを承諾した。しかし・・・紺野の企画は私の想像以上に膨らんでいたのだ。

172 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:34

それは、私も含めたメンバー全員の夢の話を集めて、それを一つにまとめるというもの。
それを聞いたときは、まとまるはずが無いと思ったものだ。実際まとめるのには苦労したのだが。

しかし、意外にも夢の収集はすんなりと進んだ。皆それぞれ、自分の将来への不安があるからか、
そうした夢をよく見るということだった。そして紺野が少しずつ収集した皆の夢を、私が文章にまとめていった。

それがあの第三部だったのだ。煽りにあったり、スレストされて移転せざるを得ない状況に追い込まれたり、
苦難続きではあったが、数ヶ月かかってそれはようやく完成した。

しかし紺野は何か物足りなかったらしい。私のまとめ方が悪かったのだろうか。
もっと壮絶な展開を期待していたらしい。しかし、私には夢を繋げるだけで精一杯だったのだ。

そこで紺野は次の企画を考えたのだ。それが第四部。
今までとは打って変わった展開で、読者を混乱させようというのが紺野の狙いだった。
元々紺野には企画力・発想力がある。それは私も認めるところである。
ただ、それに行動がついていないのが問題とも言えるが・・・まあ、それはここでは良しとしよう。

とにかく、紺野が考えたのは、ブラウン管に映るアイドルの化けの皮を剥がすということだった。
もちろんテレビに映る彼女たちも、普段の彼女たちも、実際はあまり変わらないのだが、
もしその二つが大幅に違っていたらどうなるか、というのが紺野の発想だった。

そして紺野は、年頃のせいか、ちょっとエロチックな展開をも入れるようにと私に言ってきたのだ。
だからと言って、そう簡単に書けるわけが無い。紺野が見ているのだからなおさらである。

しかし、紺野はすでに知っていたのだ。私が中澤姉さんと熱烈なキスをしたことがあるということを。
それまでの第一部、第二部を読んでいるのだから、ばれているのも当たり前だろう。
そしてどうやら紺野は、そうした内容をも期待していたらしい。それで色々と構想を練ってきたのだ。

173 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:34

「もーちゃんさんはSMってしたことあります？」
「な、何聞いてんだよ！そんなのあるわけないだろ！」
「なんだ。無いんだ。じゃあ、誰とならやってみたいですか？」
「誰とって、そういう問題じゃないだろ！大体なんでSMなんて言葉を知ってんだよ！」
「それくらい誰でも知ってますって。それじゃ、誰が一番似合うと思いますか？」
「・・・・・・SMだったら・・・やっぱりあやっぺかな？」
「じゃあSMネタは石黒さんに決定。後は・・・」
「お、おい、それマジで言ってんのか？なあ？」

まあ高校一年だからSMという言葉を知っていても不思議ではないとしても、しかし、戸惑ったのは確かだ。
一体どこでそういった知識を仕入れてくるのか・・・。しかし、それは考えればすぐにわかることだった。
紺野の周りにいるのは大人たちなのだ。それもセックス話が大好きな二十歳前後のメンバーたち。
それでは自然とエッチな知識を覚えるのも当然だろう。
そういうところはある意味で第四部にシンクロする部分なのかもしれないが。

とにかく、第四部も第三部と同様に、紺野が考えたアイデアを私が文章にまとめるという方式になった。
そしてもう一人、この第四部にはもう一人の共同参加者がいた。それが福田明日香だった。
紺野がうっかりそのままにしていたパソコンの画面を見て、福田もこの小説の存在を知ってしまったのだ。

福田は私のそれまでの文章に文句をつけた。しかし、それは決してその小説の存在に対してでは無い。

「普通につまらない」

それが福田が漏らした言葉だった。至極単純ながら強烈な一言である。
そしてそれは第三部に関わった紺野にとってはかなりショックな言葉であったらしい。

「文章力が無いんですから、綺麗事なんて書いてたら駄目です。読者は壮絶な展開を期待してるんですから」

それはまるで評論家のような口ぶりだった。そして福田も紺野同様に色々と注文をつけるようになったのだ。
こうして私たちの三人四脚による第四部の制作が始まったのだ。

174 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:35

しかし、その制作は困難を極めた。第二部までは私が適当に日常のことを書くだけでよかった。
それが第三部になると、紺野がメンバーの夢を集めてきて、それをまとめるという作業が加わった。
そして第四部では、それに紺野と福田の直接の意見と注文が入るのだ。

しかし、紺野がこの部屋に来ることはほとんど無かった。あっても月に一度くらいだろうか。
一方の福田も、回数的にはそう頻繁に来ていたわけでは無かった。
ただし、福田の場合は一度に一週間続けて滞在するなど、日数的には一番多かったのだが。

とにかく、二人がこの部屋で会うということはまれで、三人で直接話し合う機会はほとんど無かった。
そのため、三人による話し合いは、そのほとんどがメールやメッセを使ったものだった。

そうやって構想を練り、そして私の書いた文章に対して二人が注文をつける。
そんな感じで制作は進んでいった。それまでに比べると非常にゆっくりとしたものだろう。

ただ、二人の意見が割れることはあまり無かった。
特に悪魔の紺野といたぶられる福田という設定には、なぜか二人とも大満足のようだった。

「それでは、あさ美にはそこで私の顔を回し蹴りしてもらいます」
「でも明日香を蹴るよりもーちゃんさんを蹴った方が良くないですか？」
「いえ、ここは私の顔を回し蹴りです。その方がインパクトがありますから」
「そっか。そうだよね。それじゃ、もーちゃんさんもその方向でお願いします」

そんなメールのやりとりが私のメールにも送られてくる。
それは不思議なやりとりではあったが、二人の中にはすでにそうした世界観が構築されていたらしい。
ちなみに、二人が名前を呼び捨てしているのは、福田が自分のことをそう呼ばせているためである。

こうして第四部の制作は進み、それは二人にとってそこそこ満足のいく出来であったらしい。
しかし、読者の反応はいまいちだった。レスがつかなかったのがその証拠である。

そして先ほど、紺野はそのレスのつかない理由を私の文章のせいにしたのである。
それほど自信があったのだろうが、まあもっと大人になれ、と言いたい気分ではある。

175 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:35

買い物を終えて帰ってくると、市井はまだゲームを続けていた。
いつものことだが、いい加減、飽きないものかと思ってしまう。

「おーい、たまには料理作ってみないか？お前だけだぞ、何にもしないのって」

そう言ってみる。しかし返ってくる言葉は決まっている。

「ゲームしてるじゃん・・・」

そりゃゲームはしてるけど・・・でもそういう意味じゃなくて・・・。
などと言っても仕方が無いのでとりあえずは無視するべきだろう。
まあ、市井にも市井の良さってものがあるのだから、無理に家事などさせなくてもよいのだが。

「それじゃ、紺野一緒に作るか？」
「はい。もちろんです！」

うんうん。この子はやはりいい子だ。ちょっと頑固でへそ曲がりだが、とりあえずはいい子だ。
まあ、ジュニアとの合コンに出席できなかったといって残念がっていたりする時があるのはあれだが・・・。

晩御飯が出来上がる。約束通りのお芋のフルコース。
煮物、焼物、揚物、そして御飯や味噌汁にもお芋が入っている。
さすがにこれだけ揃うとちょっと戸惑ってしまうが、当の紺野は大喜びである。

「いただきまーす」

三人で声を揃えて御飯を食べ始める。

そう言えば最初の頃は、市井は「いただきます」もろくに言わなかったものだ。
会話も無く、ほとんど会話の無い時間を一緒に過ごしたこともあった。
いつから変わったのだろうか。よく覚えていないが、いつの間にか溶け込んでいた。
何事も時間がかかるというのが私の市井の印象だ。それは仕事の方にも当てはまるのかもしれない。

176 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:35

最近一番部屋に来るのがこの市井である。まあ昔から頻度は一番多かったのだが、
それもあまり仕事が無くて毎日を暇に過ごしているからなのだろう。
来てもゲームをするぐらいで何の役にも立っていないが、市井にとっては来ることに意義があるのだろう。

それでは他のメンバーはどうだろうか。

以前は毎週のように来ていたはずの中澤姉さんは、最近はあまり来なくなっていた。
別に仕事が忙しいわけでもないのだろうが、なぜか来ない。
そんな姉さんに対して、みんなは男ができたんじゃないか、という噂をしている。
まあそれならそれで歓迎すべきことだろう。もう三十路を超えてしまっているんだから。
ただ、個人的には、飲み仲間がいないというのはどこか淋しいものでもあった。

飲み仲間といえば保田であるが、彼女は夏にはかなりの頻度でこの部屋に来ていた。
ただ、福田や市井など、部屋に誰かがいる時を狙って来るという傾向があったが、
それはまあ、私と二人きりになるというのを避けていたのだろう。わからないことでもない。

しかし、そんな保田も、最近は舞台の稽古があるとかで、これも全く来なくなっていた。
どうやら女優になるというのは本当だったらしい。ちょっと信じられないが、本人はやる気まんまんらしい。
そのせいか、彼女は舞台の仕事が決まってからは酒も飲まなくなり、タバコも吸わなくなっていた。
そして何より、部屋にある大量の青汁の粉末や健康食品の山も、彼女のやる気を物語るものなのだろう。
個人的にはあまり無理をしないようにと思うのだが、まあやる気があるのはいいことなのだろう。

そして次はあやっぺである。あやっぺは最近タレント復帰を果たしたらしい。
雑誌に手記を載せたり、テレビに出演したり、あるいは料理の似合うタレントに選ばれたり・・・。
そしてもちろん、この部屋に来る機会はあまり無い。こっちのワイドショーに出演した日が最後だろうか。
まあ、あやっぺには家庭もあり、育児もしなくてはならないのだから、それが当然かもしれない。

福田はたまにしか来ないが、さっきも書いたように、来る時は一週間まとめて滞在するのが習慣になっていた。
私にとっては妹的な存在であり、福田とは一緒に近場の観光などをすることが多い。
その性格に慣れるまでは時間がかかったが、一度慣れたらかなり面白い存在である。
ある意味紺野よりもいじりがいがある、と言えるかもしれない。ちょっと不思議な女性である。

177 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:35

そして後藤であるが、彼女は最近ほとんど来なくなっていた。あやっぺの次くらいだろうか。
別に仕事が忙しいというわけではないのだろうが、なぜか来ない。以前はツアーの合間に
大阪に立ち寄っていたのだろうが、そのコンサートが一段落したせいだろうか。
毎週メールは来るのだが、どうもあまり歯切れが良くないという印象がある。

紺野によれば、どうやらネットで怪しいファンと親しく付き合っていることを批難されているらしい。
もちろんそのファンは私ではないが、チケットの横流しなど、様々な疑惑が出ているとのことだった。
まあ理由はどうであれ、後藤の居酒屋仕込みの料理が食べられないというのは少し淋しいものである。

そしてその紺野であるが、現役のメンバーであるため、ほとんど来ることは無かった。
こうして今日来ているのもかなり珍しいことである。そして、市井と出会うのも久しぶりなのだが、
二人にはあまり接点が無いためか、あまり会話は弾んでいなかった。

そんなメンバーたちが代わる代わるこの部屋を訪れる。それがこの部屋の日常だった。
今年の春前からそれは始まり、そして頻度は多少少なくなったものの、今も変わらずに続いている。

もちろん、私が彼女たちにいじめられるということは無い。
私が紺野をからかって泣かせてしまったり、メンバー同士が喧嘩をするといったことはあるのだが。
兎にも角にも、平和な部屋である。

しかし・・・。

そんな部屋に今、新たな存在が加わろうとしている。

それはモーニング娘。の絶対的なエースであった、あの安倍なつみである。

安倍の卒業の話を聞いた時は正直驚いたものだ。と言っても安倍の卒業自体は問題ではない。
問題は、なっちがこの部屋に、この私の部屋にやって来るということなのだ。

安倍がこの部屋を訪れるのがいつになるかはまだわからないが、それは近いうちに必ずやってくるのだ。
その後、この部屋がどうなるかは私にはわからない。ただただ、期待と不安とが入り混じるだけである。

178 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/02(日) 03:36

しばらく遠ざかっていた家に帰ってきたような、そんな感じがする。
それはいつも通りの光景であり、そして変わらず続いていた光景である。
しかし、今日の部屋はなぜかいつもとは違う感じがしていた。

それは私が久しぶりに、こうして日常のことを書き進めているからなのだろう。
第三部、第四部と架空の世界が続き、そしてふと日常の世界に戻った時、
そこには不思議と新鮮な空気が広がる。少なくとも私はそのように感じた。

紺野の夢の話も、紺野と福田の闇の話も、まあそれなりに楽しんではいたが、
やはり日常生活を書くというのは落ち着くものである。

もちろん、紺野も福田も、これから私が書く文章を今度は読者の視点から読むことになるだろう。
そのことは少しネックになっているが、まあそんなに気にすることではないのかもしれない。

私の気持ちや私の想いは、すでに二人にはばれているのだから。
そしてまた、二人は私のこれらの文章を読む以前から、すでにそうした気持ちに気づいていたのだから。

私の表情や態度がよっぽどわかりやすいのか、それとも二人の勘が鋭いのか。
とにかく、私にとっては恋はいつでも初心者マークといったところである。

今後とも、この私の平和な日常が続くことを祈って・・・。

――――――
　　 つづく
――――――

179 ：名無し募集中。。。：2003/11/02(日) 20:44

セブンからの読者です
新展開期待してますです

180 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:57

その日、その部屋には三人がいた。私と福田と、そして市井・・・。今から少し前の出来事である。

「ただいまー」

そう挨拶する。でも返事をするのはいつも一人だけ・・・。

「おかえりなさい。御飯は私が責任持って作ってますから、期待してください」

もう一人は相変わらず、何もしない。いつも通りゲームをしているだけだった。
すでに慣れているせいか、私もそれを咎めようとも思わない。

「そうかそうか。そりゃ感謝だな。で、メニューは？」
「今夜は福田スペシャルβver1.05です」
「βってことは・・・まさか今夜もカレーか？一昨日もだったろ？」
「今度のは自信作ですよ。なんせver1.05ですからね。全然ノープロブレムです」
「ははは。まあ作ってくれるだけ感謝しないとな・・・でもたまには市井スペシャルも食べてみたいかな？」
「・・・」

さりげなく市井を煽ってみるも、それも彼女の耳に届いているのかどうか・・・。
「おかえり」という言葉を期待しているわけでもない。でも、何か淋しい気がする。
市井はなぜ、私に対してそんなに距離を置くのだろうか・・・それは彼女の本心からなのだろうか。
それとも、そこには何か、何かわだかまりがあるのだろうか・・・。

ゲームをする市井の後姿からは、ただただ淋しさだけが伝わってきていた。
彼女はなぜこの部屋に来続けるのか・・・そして私に何を求めているのか・・・。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　永遠に続いてくこの道を　　一歩ずつ踏みしめて歩いて行く

　　　　　　苦しい心がもがいている　　頬つたう涙になり流れていく
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

181 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:57

「どうですか？なかなかいけてると思いませんか？」
「ああ・・・以前よりはまあ、旨くなったかな？」
「その語尾は何ですか！もっと自信持って答えてください！」
「まあカレーは誰が作ってもカレーの味がするしな」
「なるほど。やはりもう少し独自色を強くした方が良かったみたいですね」
「いや、別にそういう意味で言ったわけじゃ・・・」
「わかりました。次回はもう少し福田テイストを強調してみます。アドバイス感謝します！」

そんな会話が流れる部屋・・・しかし、そこにはもう一つ、何か別のものも流れていた。
二人の会話には加わらず、ただただ福田スペシャルβを食べながらテレビを見つめる女性。

彼女にとって、この瞬間、そしてこの部屋は、彼女が望む現実とは違うのかもしれない。
もしかすると、我々が架空の世界だと思うそのテレビの中にこそ、彼女が望む現実があるのかもしれない。
しかし、それを彼女に尋ねることはしない。それが私にとっての彼女との一番の接し方なのだから・・・。

翌日は私のバイトの休みの日だった。
そして休みの日には、福田と一緒に色んなところへと出かけるのが慣例になっていた。
しかし、そこには市井の姿は無かった。

「なあ、たまには市井も一緒に来ないか？一人で部屋でゲームなんて・・・」
「いいじゃん・・・あたし、ゲーム好きなんだから・・・」
「そっか・・・でもさ、たまには気分転換もいいと思うぞ？」
「ほっといてよ！あたしにとってはこれが気分転換なんだから！」

その言葉が本心ではないことはすぐにわかった。無理に強がっているのがその証拠・・・。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　愛した人たちに背を向けられて
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　去っていく姿を　　ただ見つめていたよ　　ずっと
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

182 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:57

福田と一緒に電車に乗る。その日の目的地は奈良だった。もちろん観光だ。

福田は他のメンバーとは違って、唯一変装しなくても素性がばれない存在だった。
モーニング娘。を脱退――福田の時は卒業ではなく脱退と呼んでいたらしい――してから、
もう何年も経っている。人々の記憶の中からも、もはや福田の存在は消えかけていた。
そしてまた、福田自身も当時の福田では無かった。今はもう18歳の普通の女性に成長しているのだ。

そんな福田と一緒に座席に座り、ぼんやりと外の景色を眺める。
しかし・・・頭の中に浮かぶのは、なぜか市井のことばかりだった。

市井が仕事的にうまくいっていないことは私も知っている。
CDを出しても全く売れていないことも、人気も知名度もほとんど無いということも。
でも、それだけが原因だろうか・・・市井の淋しそうな理由・・・。

私の部屋に来る卒業メンバーたちと、うまくいっていないことも私は気づいている。
特に最初はそうだった。中澤とも、石黒とも、保田とも、後藤ともどこか距離があった。
福田だけは相変わらず冷静な対応をしていたが、でも市井一人だけが冷めていたのは事実だ。

でも、それも変わったはずだった。中澤と言い争いをしながらもどこか楽しんでいたり、
保田と後藤と三人で夜遅くまで話をしていたり、そんな市井の姿を見かけたことだってある。
それなのになぜ・・・市井はまた・・・再び・・・殻に篭ってしまったのか・・・。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　信じる事も傷つくことも　　不器用にしか出来ない
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　　　　　　それでも愛を求めてく

　　　　　　幸せいつかつかめる時が　　訪れる事願って

　　　　　　そう変らぬ愛情探すよ
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

183 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:58

「なあ・・・市井ってさ・・・」

そう言おうとして寸前で止める。いや、止めなくてもそれは声にならなかっただろう。
それは私が福田に尋ねることではないのだ。尋ねるのなら、直接本人にするべきなのだから。
そんな私の隣で、福田が真面目な表情でガイドブックを読んでいた。

いつものことだが、福田は何事にも予習を欠かさない。それが冷静かつ迅速な行動に繋がるのだろう。
駅からどの方向に、どれくらい進めば目的地に到着するかとか、交差点は幾つあるかとか、
そんな細かいところまで全て脳内にインプットする。福田はそういうタイプだった。

まるで以前の自分を見ているような感じだった。何事にも生真面目で、頑固で意固地・・・。
そんな自分がいつしか嫌いになっていた。気楽に遊ぶということを知らない自分が・・・。
以前の自分はそんな感じだった。何のために生きているのか・・・真面目に生きるために？

でも違っていた。福田を見ていると、それはそれでいいと思えるのだ。そのままの自分で・・・。

確かに福田は生真面目だが、そんな福田と接するのも、こちらにとっては楽しいことなのだから。
だから無理に自分を変える必要は無かったのだと、今さらながら思えてくる。

似たもの同士・・・というやつだろうか。福田と、そして昔の自分と・・・。
でも今の自分はどうだろうか。今の自分を冷静に見てみると、それは福田よりもむしろ・・・。
どこかに共通点を感じるのは、自分と同じ臭いを感じるのは・・・そう、むしろ・・・。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　弱い自分隠して守ってる　　正直な想いを偽っても

　　　　　　悲しみの数だけ　　全てを受けとめて

　　　　　　ありのままの姿　　愛していけるならきっと・・・
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

184 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:58

鹿煎餅を見せびらかし、鹿を呼び集めて遊ぶ福田。
すでに周りには十頭以上の鹿が集まり、周りの人たちの注目をも集めていた。
個人的にはかなりびびっていたのだが、福田は全く動じていなかった。
鹿煎餅を取られないようにと、腕を上に伸ばす。そしてなぜか鹿に「お手」を強要する福田。

福田も福田なりに楽しんでいるのだ。論理的に「お手」など不可能なのだが。
もしかすると、福田は不可能という概念に対して挑戦して楽しんでいたのかもしれない。

こんな時、他のメンバーだったらどうだろうか。保田なら、こういう時は怖がって私の後ろに寄り添うはずだ。
あいつは度胸がありそうでいて全く無いような奴だから。そうした部分がある意味かわいらしいのだが。
中澤姉さんなら鹿を蹴散らすだろうし、後藤は無関心を装うか、あるいは鹿煎餅を離して逃げるだろう。
あやっぺの反応は多分普通で常識的。紺野は囲まれた時点でアウトだろう。
いくら鹿がかわいいといっても、これだけ囲まれたら、普通の女の子は当然驚き怯えるはずだ。

それでは市井は・・・市井はどうだろうか。市井なら、どういう反応を見せるだろうか。

それが私にはわからなかった。他のメンバーはわかる。でも市井だけはわからない。
はしゃぐのか、怯えるのか、強がるのか、平気な顔をしているのか、それとも泣いてしまうのか。
それがわからない。いつもは強がっていても、こういう時は別なはずだ。でもそれがわからない。

思えば私は市井についてほとんど知らない。これだけ一緒にいるのに、まだ何も・・・。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　いつかはたどり着けるのだろう　　長い旅路の終わりに

　　　　　　まわり道でもかまわない

　　　　　　私は愛を信じるものを　さまよいながら求めて

　　　　　　ただ自分の居場所を探すよ
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

185 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/07(金) 04:58

奈良の観光を存分に楽しんで、帰路に着く。
ただし、福田はガイドブックを読みながら、すでに次回の予定を計画していた。

「次は明日香村ですね。私のためにあるような場所ですから」

真剣な表情でそう言うも、それが冗談だということは今ではすぐに理解できる。
これまで福田と接してきた時間で、私も福田のことはおおよそ把握しているのだから。
しかし、同じくらいの時間を一緒に過ごしているはずの市井は・・・。

部屋に戻る。しかし市井は相変わらずゲームをしていた。ずっとやり続けていたのだろうか？
こちらを振り返ろうともしない。まるで私たちの存在など必要ないかのように。
でもそれは違うはずだ。市井がこの部屋に来るのは、そこに何かを求めているはずなのだから。
だとすると、彼女は何を求めているのか。そして私に何を期待しているのか。

一緒に行きたかったのなら、そう言ってほしい。態度で、表情で示してほしい。
でも、それを待っていていいのだろうか。待っているだけで何かが変わるだろうか。
そう思った時、私は無意識のうちに座っていた市井の肩を後ろからポンと叩いていた。

「次はお前も一緒だからな・・・」

市井は返事をしなかった。でも、その夜の市井は、いつもより少しだけ笑顔が多かったような気がする。

　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
　　　　　　信じる事も傷つくことも　　不器用にしか出来ない

　　　　　　それでも愛を求めてく

　　　　　　幸せいつかつかめる時が　訪れる事願って

　　　　　　そう変らぬ愛情探すよ
　━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

186 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:33

そしてその時は訪れた・・・。

と言っても、それはあまり驚くべきことではなかったのかもしれない。
本人から直接聞いたことは無かったが、私はその時が来ることを予期していたのだから。

今年の春、市井が初めてこの部屋を訪れた頃、市井は暗くて扱いにくい存在だった。
でも、保田が卒業した前後になって市井は変わった。前向きになったと言うか、明るくなったと言うか。
まあ、それは仕事が・・・ではなく、男と上手くいっていたということだったのかもしれないが。

しかし、それも長くは続かなかった。夏になり、市井はまた、再び殻に篭ってしまった。
自分からはあまり話さなくなった・・・。部屋に来てもゲームばかりするようになった・・・。
料理も作らなくなった・・・。挨拶もしなくなった・・・。他のメンバーと騒ぐこともなくなった・・・。

多分悩んでいたのだろう。でも覚悟が決められなかったのだと思う。
そんな市井を私はずっと見守ってきた。いや、見守ることしかできなかったと言うべきだろうか。

市井がいつ、それを決意したかはわからない。
しかし、９月に新曲を発売した頃には、すでにその兆候は如実に現われていた。

私と福田と三人で明日香村を訪れた時がそのいい例だったかもしれない・・・。

のどかな風景が広がる。まるで時間が止まったかのような世界がそこにはあった。
平地には田園風景が広がり、遠くには緑の山々がまるで自分たちを囲んでいるように聳えていた。
田園の中にポツンポツンと見える緑の小山は古墳だろうか。確かにそれはのどかな風景だった。

時より通り過ぎる観光バスや史跡に群がる観光客がその風景の余韻を消し去っていたものの、
しかし、それものどかな風景を、そして時間を逆に際立たせる役割を果たしているようにも思えた。

「のどかですね」と福田。
「ああ。でもいいとこだろ？」と私。
何も言わない市井・・・。

187 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:33

おかしな光景だった。そう言えば、それまで市井と一緒にこうして外に出ることはほとんど無かった。
市井と一緒に過ごすのはいつも部屋の中だった。まるでその部屋が市井の殻であるかのように・・・。

のんびりと観光コースを進む。もちろんそのコースは福田の頭の中にインプットされている。
ただ、その福田の脳内コンピューターよりも、その村については私の方が詳しかった。
学生時代、歴史民俗を専攻していた私にとって、そこは初めての土地ではなかったのだ。

もっとも、そうした歴史的なことについては当然、二人はあまり興味が無いらしい。
「歴史の息吹を肌で感じます」と言う福田も、歴史的な事実や経緯についてはあまり興味をそそられないらしい。
一方の市井は歴史など何も知らないといった感じだった。まあそれが普通の反応なのかもしれないが。

その日はとにかくよく歩いた。どこをどう回ったかはもう忘れてしまっているが、
とにかく三人とも家に帰り着いた時には疲労困憊していたのは確かだ。

しかし、そんな中、市井だけはどこかすっきりした表情をしていたのが印象的だった。

「ねえ・・・明日香はさ・・・」
俯きながらそう言って、言葉を濁す市井。

それに対して福田が冷静に尋ね返す。
「はい、なんですか？」

市井は少し困ったような表情を浮かべると、チラッと私の方を確認するような動作をした。
どうやら私には聞かれたくないらしい。福田だけに対して、聞きたいことがあったのだろう。

あまり興味が無い振りをして、私は二人から少し距離を置いた。
あくまでも二人の会話が辛うじて聞こえる程度の距離ではあったが、
結局、その次の言葉ははっきりとは聞こえなかった。

今の生活に満足しているか、芸能界から引退したことを後悔していないか・・・。
多分、そんなことを尋ねたんだろうと思う。もちろん福田に対しての質問だった。

188 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:33

それに対して福田が何と答えたのかもわからない。

福田自身、芸能界に、いや、歌に対して未練を抱いているのは確かだ。
私がいない時に限って部屋で歌を口ずさんでいたりするのがその証拠だった。
私に聞かれるのが恥ずかしかったのか、それとも歌への未練を気づかれたくなかったのか、
とにかく、冷静な福田と言えどもそういうところは普通の女の子なのだ。

それに、これは冗談かもしれないが、いつか紅白に出演してみせると熱く語っていたこともあった。
そして、その時の市井もその話に乗り気だったことも覚えている。

ただ、その二人の時間的な感覚がかなりずれていたのも事実だ。
福田は５年、１０年という将来的なプランを立てている。人生に対して冷静なのが福田の性格だ。
それに比べ、市井は今のことしか考えていない。いや、考えられないと言った方がいいだろうか。
だから今の状態で全てを決めてしまうのだ。市井にとっては今という瞬間しか存在しないのだ。

幾つかの観光スポットを周る。福田は私と一緒によく出歩いていることもあって、
平気な顔でそそくさと歩き進む。もちろん帰宅した時にはかなり疲れてはいたが。
しかし、普段あまり出歩かない市井は、最初からどことなく疲れている様子だった。

周りの風景を楽しむ余裕など無いといった感じだった。
むしろ平気な顔で歩き回り、そして風景や雰囲気を楽しんでいる私たちを変だと思ったかもしれない。
どうしてこんなに歩き回るのか・・・。そしてこんなことをして何が楽しいのか・・・。

具体的な言葉としては出て来なかったものの、市井の表情からは、そんな疑問が見て取れた。
ただ、それが単なる価値観の相違に過ぎないということに市井が気づいている様子は無かった。
簡単に言えば、市井がゲームをするように、私と福田はこうして観光をしているのだ。

見た目は違っても、その方向性は同じなのだ。人生に無駄なことなど無い。全てに何か意味があるのだ。
そして例え無意味だと思うことであっても、そう思うこと自体、すでにそこに意味を成しているのだ。

少なくとも私はそう思っている。

189 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:33

観光を満喫し、帰路に着く。帰りの電車の中では、いつも通り福田が次回の計画を練っていた。
まるで受験勉強でもしているかのように、近畿一円の観光マップを熱心に熟読する福田。
その隣では市井がぼんやりと外の景色を眺めていた。

「もうさくさん、京都に行くなら紅葉の季節を待つべきですよね？」と福田。
「ああ、まあそれはそうだな。でも秋の京都は人多いからなあ・・・」

そう答えて、ふと思い出したことがあった。それはもちろん、あのドラマのこと・・・。
あれからもう一年・・・早いような遅いような、どちらとも言えないような奇妙な感覚を覚える。
あのドラマがあったおかげで、私は保田と中澤と出会い、そして部屋に彼女たちが来るようになったのだ。
こうして今、福田と市井と三人で電車に乗っているのも、あのドラマがあってこそのことなのだろう。

そんなことを考えていると、福田にもそれが伝わったのだろうか、突然福田が不敵な笑みを浮かべた。

「でも、やっぱり京都は遠慮しておきます」

その言葉だけでは何を意味しているのかはわからないかもしれない。
しかし、その福田の表情を見れば、それが私をからかった言葉だということはすぐに理解できた。
福田は多分、私に対して、保田と二人で行くべきだと、そう言いたかったのだろう。
二人の思い出を邪魔しませんよ、という意思表示だったのかもしれない。

電車を乗り換え、そして最寄の駅に着く。すでに日は暮れ、辺りは人工的な明るさに包まれていた。
福田が先頭を歩き、私がそれに続く。市井は少し離れていた。やはり疲れたのだろうか。
距離が離れないようにと少し歩を緩める。と、珍しく市井が私の横に並びかけてきた。

「ねえ・・・あんたさ・・・今の生活・・・どう？」

それは唐突な、それでいて少し曖昧な質問だった。しかし、彼女が言いたいことはわかった。
多分、福田にも同じような質問をしたのだろう。彼女は迷っていたのだ。そして自分では決められなかったのだ。
だからこそ、自分を納得させるために、私や福田に尋ねたのだろう。いや、すでに決めていたのかもしれない。
しかし、それを後押ししてほしいという思いがどこかにあったのかもしれない。

190 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:34

「どうって言われてもな・・・。まあ楽しいよ・・・お前たちがいるし・・・」

私の答えは曖昧だった。フリーターとして今の生活に満足しているかと言えば答えはノーだ。
将来に不安を感じていないと言えばこれもノーだ。でも、今の生活が楽しいのは確かだった。

私にとって、今の生活はそのまま彼女たちとの生活を意味していた。
だからこそ、今の生活がどうかと聞かれれば、それは楽しいというのが答えだったのだ。

それがいつまで続くのか、これからどうなるか、そういった不安はもちろん抱えているし、
それにもし彼女たちがいなければ、その答えは全てノーになってしまうかもしれないが、
しかし今の生活は、私にとって楽しいものだった。だから楽しいという以外に答えは無かったのだ。

「そう・・・」

市井はただそう呟いた。その返事にかなり戸惑ったことを覚えている。
もっと気の利いた答えを言った方が良かっただろうか、と。
もしその質問に重大な意味が込められていたとするならば、の話ではあるが。

その答えのせいなのか、それとも全く関係ないのかはわからないが、
部屋に帰り着いた時には、市井はなぜかすっきりとした表情を浮かべていた。

多分、その時にはすでに覚悟を決めていたのだろう。
芸能界を引退し、一人の、市井紗耶香という人間として再出発するということを・・・。

そして今になって思うことがある。中澤がなぜ卒業メンバーを対象にした部屋を作ったのか。
中澤は予期していたのだろう。自分たち卒業メンバーの一年後、そして二年後のことを・・・。
仕事が激減した中澤、復帰した石黒、クビになった保田、ろくな仕事を与えられない後藤、
未練を抱える福田、そして・・・一人悩み、彷徨い続けていた市井・・・。
そんな彼女たちにとって、どこかに落ち着ける場所、安らげる場所が必要だったのだ。
全員が全員、将来的には決して明るくないということを、そのことをわかっていたのだ。
だからこそ、少しでもその悩みを解消しようと思ったのだろう。ここはそのための部屋なのだ。

191 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/11(火) 18:34

ソファに倒れこんでいた福田が振り返らずに私に尋ねる。よほど疲れていたのだろう。

「御飯どうしますか？ほか弁でも買ってきますか？」
「珍しいな。お前、いつもは手抜きとか言って批難するくせに・・・」
「時と場合によります。一応冷蔵庫に材料はありますけど、今から作りますか？」
「いや、いいや。じゃあ俺が買ってくるよ。何がいい？」
「そうですね。私は鳥南蛮にします。紗耶香はどうしますか？」

と、それに対して市井は意外な言葉を返した。
「あ、あたしも一緒に買いに行くよ・・・そこで決めるから・・・」

それはかなり珍しいことだった。市井が私の買出しに着いてくるなんて、多分初めてだろう。
ただ、それは市井の中で何かが変わったことを意味していた。
ふっきれたというか、わだかまりが解けたというか、素直になれたということなのかもしれない。
もちろん完全に、というわけではないのだろうが、しかし、それは確かにその第一歩だった。

「そっか。じゃあ一緒に行くか！・・・それじゃ留守番よろしくな！」

福田に対してそう言うと、私は市井と二人で部屋を出た。それは珍しい組合せだった。
しかし、それ以上に珍しいこともあった。市井が自発的に私に話し掛けてきたのだ。
もちろんそれまでにも話し掛けられたことはあるが、会話として長く続いたことは一度も無かったのだ。

何を話したのかは覚えていない。たわいのない話だったのかもしれない。
しかし、市井とようやく普通の関係になれたと、私はそう感じていた。

「たまには一緒にビールでも飲むか？」
「あたしまだ未成年だよ・・・いつも怒るじゃん」
「今日は特別だって。お前がゲームより俺たちを選んでくれたんだからさ・・・」

その言葉に対して、市井が少し微笑んだように見えた。
風が二人の横を通り過ぎる。秋はもう始まっていた。

192 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/13(木) 20:00

＃４

あれから市井は変わった。確かに変わったと、私はそう感じている。
部屋に来てゲームをするのは相変わらずだったが、それも以前とはどこか違っていた。
以前はまるで強迫観念にでも取り付かれたかのように、ゲームの中の世界に逃避していたが、
それからはただ普通にゲームを楽しんでいるといった印象を受ける。

最初の頃のように料理を自主的に作ったりすることは相変わらず無かったが、
でも会話は以前よりも断然増えていた。そして会話とともに笑顔も自然と目に留まるようになっていた。

そして最も変わったのが、それまでは全く話をしなかった、自分の歌や仕事のことを話すようになったことだ。
それまでは私が市井の歌が好きだなどと言っても、あまりいい顔をすることはなかったのだから。

「あんたさ、絶対やばいよ。絶対感性ずれてるって」

笑いながらそう言う市井・・・。その表情はどこか嬉しそうでもあった。
しかしまた、それはもうその時には引退を決意していたということだったのかもしれない。

現実の悩みが、ようやく過去の思い出に変わったのだろう。市井の心の中で・・・。
新曲は発売したばかりでそれは現在進行形ではあったが、もう市井は決めていたのだろう・・・その時には。

それからの数週間、市井は頻繁にこの部屋を訪れていた。
しかし、ある日を境にして市井は部屋に来なくなった。引退前に色々とやることがあったのかもしれない。
次に来たのはこの前、紺野が来ていた時のことだ。それはもうすでに書いている。

その市井が来るまでの間、部屋を訪れたのは中澤と保田の二人だけ。
もちろん市井が来た日には紺野も部屋を訪れているが、それまで部屋が淋しかったのは事実だ。

その中澤と保田は、珍しく一緒にやって来た。まるで最初に私の部屋へやって来た日のようだったが、
事前に連絡を受けていたこともあって、二人が久しぶりに朝まで飲み明かすということはわかっていた。
保田が忙しくなる前に二人で大騒ぎをしたかったのだろう。

193 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/13(木) 20:00

ピンポーンという音が響くと同時に、ドアを開ける音がして二人が部屋に入ってくる。
中澤は相変わらず、若いのか老けているのかがわからないといった感じだった。
しかし、保田は違っていた。最近はあまり頻繁に立ち寄ることも無かったせいか、
会うたびにどこか大人びて見える。はっきり言えば、会うたびに更にかわいくなっているのだ。

ただ、それはどこか淋しいものでもあった。もしかしたら他に男でもできたのかもしれない。
いや、『他に』という言い方は間違っているのかもしれない。私と保田の間には何の関係も無いのだから。
それに、優柔不断で何もできない男よりも、世の中にはもっといい男がたくさんいるのだから・・・。

「よ、もーちゃん、元気してた？」
「ああ、まあな。お前はどうよ？」
「あたし？うん、まあまあかな・・・」
「そっか・・・」

保田と初めて出会ってからもう一年が過ぎていた。
しかし、その一年の間に、私は彼女に何を伝えられただろうか・・・。

『そろそろ素直になろう』と言われたあの保田の卒業歓迎パーティー・・・。
でも、何が素直で、何が素直じゃないのか、私にはそれがわからなかった。
だから何の進展も無いまま、こうしてただ『時』だけが無常に過ぎているのだ。
そしてその『時』は、ゆっくりとではあるが、しかし確実に二人の隙間を広げているようにも感じられた。

「舞台の稽古とかどうなん？もう始まってんだろ？」
「うん・・・。凄いよ・・・周りもさ、みんなプロだし・・・」
「そっか・・・」

会話はあまり続かない。そんな二人を中澤が遠くから眺めている。
しかし、それは以前のようにニヤニヤしながら傍観するといった感じではなかった。
からかわれることも無かった。ただ、中澤はただ、二人を眺めているだけだった。

そして、その姉さんの態度から、私はその理由を・・・その答えを見つけていた。
保田がもう、私に興味を、そして以前のような好意を抱いていないということに・・・。

194 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/13(木) 20:00

中澤が冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを二つ持って戻ってくる。
グラスは姉さんと、そして私の分。保田は台所で青汁の粉末を水に溶かしていた。
舞台の出演が決まってから、保田は健康志向に目覚めたらしい。
それは舞台への意気込みということなのだろうが、裏を返せば後が無いということでもあった。
この部屋に来るメンバーは全員、どこかにそうしたものを抱えているのだ。

テーブルの上に私が用意しておいたつまみを置き、今年最後の宴――その三人では――が始まる。

「乾杯ベイベー！」

そう言ってグラスを合わせると、ガヂャッと鈍い音がして、テーブルの上に緑の液体が飛び散った。
保田のグラスと、そして私のグラスが割れてしまったのだ。

私のビールが入ったグラスはひびが入っただけだったが、保田のグラスは完全に割れていた。
慌てる三人。保田が「あーあー」と言って割れたグラスを置き、私が布巾でこぼれた緑の液体を拭き取る。
出だしを挫かれたといった感じだろうか。もしかすると二人の未来を暗示していたのかもしれない。

どこかぎこちない宴だった。三人の会話も微妙にずれていた。
保田は酒を飲んでいないせいか、最初から最後まで変わることが無かった。
姉さんが愚痴ることも無かった。大好きなビールを飲んでいるのに、「旨い！」という一言も無かった。
私も翌日早番ということで、ビールを軽く飲んだだけだった。

もうこの三人の時代は終わったのかもしれない。そうした感じを受け取らざるを得なかった。
私にとって、それまではこの三人こそがこの部屋の始まりであり、そして中心的な存在だった。
でも、もうそれも終わりなのだろう。中澤のこの部屋への興味が薄れているのは一目瞭然・・・。
男ができたというのは本当なのだろう。それは歓迎すべきことではあるが、しかし、やはりそれは・・・。

そして保田も、もうこの部屋の世話になることは無くなるのかもしれない。
だからこそ、その日その三人で最後の宴を開こうとしたのかもしれない。それが最後だと悟って・・・。

それならば、これからこの部屋は、この部屋は一体、誰が動かしていくのだろう・・・。

195 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/13(木) 20:01

朝までという話ではあったが、深夜の一時にはすでに保田が脱落して自分たちの部屋に戻っていた。
リビングには私と姉さんの二人だけ。私もそろそろ寝る時間を迎えていた。

「あの・・・姉さん・・・やっぱり男でもできたんですか？」

中澤は答えなかった。そして表情を変えることも無かった。
さすが年の功だけあって、姉さんは私のような未熟で年下の男には全く感情を読み取らせなかった。

「できたとしたらどないなんや？」

姉さんは淡々とした口調で質問を返した。話をすりかえるのではなく、ただ返したといった感じだった。
私と姉さんとでは、その経験値には天と地ほどの差があるのだ。

「いやっ、別にどうもないんですけど・・・」
「なんや？あんた、もしかしてうちに惚れてるんか？」

そう言って中澤が微笑む。それは珍しく、いつも通りの姉さんの表情だった。
やっぱり姉さんは変わっていないのかもしれない。例え男ができても姉さんは姉さんのまま・・・。
むしろ変わっていたのは私の方だったのかもしれない。

なぜなら、私はそこで、姉さんが保田のことで私をからかってくることを期待していたのだから。
以前の私ならば、からかわれてどぎまぎしていただろう。しかし今は全く違う・・・。
他人まかせになったと言うか、いい気になっていたのかもしれない。
保田が好意を寄せていたことに酔いしれていたのかもしれない。少し傲慢になっていたのだろう。

私はようやくそのことに気づかされた。しかし、もしかすると、姉さんも保田も、
すでにそのことに気づいていたのかもしれない・・・それもずっと以前から・・・。

自分がそんな男になっていたことを知り、私は愕然となった。しかし・・・。
そのことを気づかせてくれたことに対して感謝する余裕などは無かった。
目の前には闇が広がっていた・・・。

196 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/13(木) 20:01

早朝、二人が目を覚ます前に起き、私はバイトへと向かった。
バイト中もずっと昨夜のことが気にかかっていた。自分というものがわからなくなっていた。

もしかすると、彼女たちがあまり部屋に寄り付かなくなったのも、それが関係していたのだろうか。
確かに市井は――その前後を除いて――よく来ていたし、福田も定期的にやって来る。でも・・・。

私のことを一番理解してくれていたのは、中澤と保田だった。私はそう思っている。
その二人が、私に対してどこか距離を置いていた。それは多分、事実だろう。
だとすると、私はこれから、それをどうやって修復すればいいのだろうか。
以前の自分に戻るには、一体どうすればいいのだろうか。

考えても答えは出ない。いや、むしろ答えを出すということ自体が間違っているのかもしれない。
人生には答えなど無いのだから。人間が答えだと思うものは、単に主観的な言い訳に過ぎないのだ。
それが例え論理的な、納得のいく答えであったとしても、それを真理と呼ぶことはできない。

バイトを終え、帰宅した時にはすでに夜は更けていた。かなり疲れていた。
しかし、その疲れは１２時間以上働いたことよりも、精神的なものに起因するのだろう。ただ・・・。
テーブルの上に一枚の書置きがあった。

『行ってきます。　裕子＆圭』

その文字を見て、私は少し、ほんの少し、救われたようが気がしていた。
それは、その『行ってきます。』という文字は、彼女たちがまたこの部屋に戻ってくるということなのだから。
例え二人がこの部屋を必要としなくなり、それぞれの道に巣立っていったとしても、
この部屋はいつまでも、そう、いつまでも彼女たちの部屋のままなのだ・・・。

私と彼女との間にどれだけ隙間が空こうが、隙間が埋まろうが、そう、彼女は再びこの部屋へと・・・。

――――――
　　 つづく
――――――

197 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:13

＃５

しばらく憂鬱な話が続く。それは、最近この部屋に明るい話題がほとんど無いからなのだろう。
少し前までは明るく楽しい話題もあったはずなのだが、いつから狂いが生じてしまったのだろうか。
そう思い、私は彼女たちと過ごした数々の楽しかった日々を思い出していた。

眩しいほどの灼熱の陽射し・・・肌が焼けるほどの暑さ・・・そして響き渡る大歓声・・・。
あれは確か・・・そう、今年の夏の出来事だ。隣からは大はしゃぎする声が聞こえてくる・・・。
夏の甲子園――それは紺野と福田と三人で甲子園に行った時の思い出だった。

紺野は野球の知識をほとんど持っていなかった。ルールもほとんど把握していなかったし、
プロ野球のチーム名も全く言えなかった。阪神とタイガースを別の球団だと思っていたほどだ。
一方の福田は、私がテレビでナイター中継を見ることが多かったせいか、
はたまた市井と一緒に野球ゲームをしていたせいかはわからないが、とにかく野球というものを知っていた。

そんな三人で甲子園へと出かけたのが今年の夏休みの一つの思い出だった。
本当は保田と後藤から高校野球を見に行きたいと言われていたのだが、
スケジュールの都合上、一緒に行けたのは残念ながらその三人だった。

「あの・・・もうさくさん、あそこで話している人たちの会話、意味わかりますか？」

福田がそう尋ねてくる。福田の視線の先には、２０代後半らしき女性たちが世間話をしていた。
場所は電車の中。どうやら、関西弁が強烈で何を言っているのか全く聞き取れなかったらしい。

「私も大阪に来るようになって関西弁というものを大体理解できるようになってきたんですけど・・・」
「さすがに今の会話は皆目検討もつきません。これも方言の地域差の一つなのでしょうか？」

なるほどと思う。私は特に意識したことは無かったのだが、確かに方言というものは地域によって違ってくる。
大阪の街中の場合、都会ということで通常の店などでは標準語が使用されており、
また人々の会話も――これは私が慣れているせいもあるのだろうが――そこまで強烈とは言えない。
しかし、この阪神沿線は下町界隈であることもあって、そこで聞こえてくる会話は確かに少し濃いかもしれない。

198 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:13

「まあ大体はわかるけどさ、ただ、ああいう年頃の話ってのは元々こっちには理解不能だからな・・・」

そう言うと、福田は納得したような表情を浮かべる。ただし、やはり福田はどこか普通とは違っていた。
カバンからメモ帳を取り出すと、その会話を熱心に書き起こし始めたのだ。

そんなのメモってどうすんだよ・・・と思うも、隣の紺野もそのメモを面白そうに眺めていた。

「あ、今のは違うんじゃないですか？私には『いぬ』って聞こえましたよ」
「今のは『行く』です。間違いありません。『犬』の話題はしていませんでしたから『犬』はおかしいです」
「でも、確かに『いぬ』って聞こえましたよ。もーちゃんさん、『いぬ』でしたよね？」
「ああ・・・今のは『いぬ』でいいと思うぞ。『帰る』とか『消え去る』って意味だな」
「なるほど。今のも方言だったんですね。勉強になります」

いったい何の勉強になるのだか。しかしまあ、そうした積み重ねこそが福田が福田である由縁なのだろう。
人が単に「へ〜」と思うようなことであっても、それを「なるほど」と思って更に突き詰めるのが福田なのだ。

電車を降りて少し歩くと、緑色の蔓草が覆う球場の外観が見えてくる。
子供の頃、それを初めて見た時には、古臭く、どこか不気味な感じがしたものだが、
今では、そのような印象は全く受けない。情緒的で、そして威厳のある外観だ。

「これは興味深いですね。十分研究の対象になります」

そう言う福田の隣では、紺野が早速持ってきた使い捨てカメラで写真を撮っていた。
一方の福田は決して写真を撮ることはしない。思い出は記憶に焼き付けるものというのが信念らしい。
もっとも、私も写真は苦手な部類の人間なので、ある意味では福田と同類と言うことになるかもしれない。

「もーちゃんさん！一緒に写真撮りましょうよ！明日香も一緒に！ね？」
「あー、俺そういうの苦手だからさ・・・」
「私もですよ。魂を抜かれたらどうするんですか？あさ美が責任を取ってくれるんですか？」

福田も芸能界にいた頃には山ほど写真を撮られていたと思うんだが・・・。

199 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:13

結局多数決により三人の記念撮影は否決されることになった。
人がうじゃうじゃいる球場の周りを進み、球場の中へと入る。
場所はどこでも良かったのだが、とりあえずその時はライトスタンドに入ることにした。

「もうさくさん、お金は払わなくていいんですか？」
「ああ、いいんだよ。ビップ待遇だからフリーパスで・・・」

冗談でそう言ったのだが、どうやら福田は真に受けていた様子だった。

「冗談だって・・・外野はタダだからさ、なんなら内野席にするか？」
「なるほど。元々無料だったんですね。それは知りませんでした」

小汚い通路を通って球場内へ入る。無機質な照明から一転して再び眩しい太陽の陽射しを浴びる。
そして、大歓声と器楽の演奏が響き渡る。それらは球場の外でも大きく聞こえてはいたのだが、
球場内に入るとさすがに、それらの震動が、空気の震えが、直接的に身体へと伝わってくるのだ。

平日と言うこともあって、外野席はガラガラだった。あまり人がいない場所を選んで座る。
本来ならラジオを聞いている人のそばに座るのがお得なのだが、このメンバーでは仕方が無いだろう。
何と言ってもモーニング娘。の紺野あさ美がいるのだから。人目についてはやっかいなことになってしまう。

その日の紺野は変装らしい変装はしていなかったと思う。福田は当然、いつものままの姿だ。
ある意味、サングラスをかけていた私が一番、変装っぽかったかもしれない。

「なんか凄い迫力ですね！応援する方も一生懸命ですよ！」
「そうですか？臨場感という意味でなら同意しますが、ですがテレビの方がわかりやすいと思いますよ」

紺野の最初に漏らした感想に福田が噛み付く。確かにそれも一理はあるだろうか。
ピッチャーとバッターとの真剣勝負を見るには、この外野席からでは遠いのは確かだ。
しかしながら、テレビではこの臨場感、そしてこの沸き立つような興奮を体感することはできない。

その証拠に、そう言った福田でさえ、いつしかグランドの上の展開に夢中になっていたのだから。

200 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:14

「よっしゃ！回れ回れっ！行け！三塁まで突っ走れ！」
「それは駄目です！ここは二塁で止まるべきです！」

センターオーバーの長打コース。バッターは一塁を蹴り、二塁を蹴り、そして三塁に向かう。
自分の頭上を越されたセンターは必死で白球を追いかけ、そして中継なしでサードに遠投。
結果はアウト。その審判の動作を見て、福田がいかにもと言うような自慢気な表情を浮かべる。

「どうです？私の言った通りになりましたよね？」
「ああ・・・あと少しだったんだけどな・・・もしかして事前に調べたのか？」
「さっきのホームへの返球を見てなかったんですか？」
「いや、見てたけどさ、あれ結局セーフだったし」
「結果はセーフでしたけど、でもあの返球は見事でしたよ。あれで強肩だというのはわかりましたから」

私の場合、自分が選手になったつもりで試合を楽しむといった、言ってみれば普通のタイプなのだが、
福田の場合はそうではなく、どちらかと言うと監督タイプの人間だった。
自らが試合に参加するのではなく、次の展開を予想し、そして実際の結果との違いを楽しんでいるのだ。

一方の紺野の場合は、二人とはまた違っていた。ルールを把握していないこともあるのかもしれないが、
とにかくその場の雰囲気を楽しんでいるような感じだった。

「もーちゃんさん、今のタッチですよね？そうですよね？」
「ああ、まあ定番だからな。タッチとか紅とか、あとルパンとかさ」

どうやらアニメ好きの紺野にとっては、アルプススタンドの器楽の演奏の方が気になるらしい。

「モーニング娘。の曲とか演奏してくれないんですかね？」
「そう言えば一度だけ聞いたことあるぞ。ラブマシーンだったかな？別の曲だったかな？」

記憶がはっきりしないのは、その頃はまだ、私がモーニング娘。に何の興味も持っていなかったからだろう。
それなのに、まさかそれから数年後にこうして紺野と福田と甲子園に来ることになろうとは・・・。
グランドを眺める福田とアルプススタンドを眺める紺野の姿を見ながら、私は少し微笑みを浮かべていた。

201 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:14

「なんか喉かわいたな・・・ちょっと飲み物買ってくるわ。何か欲しいものあるか？」

二人に希望を訊く。わざわざ外に買いに行かなくても売り子さんから買えばいいのだが、
ちょっと外で一服したいという気分だったのだ。甲子園のスタンドも今では全面禁煙、
一応内部にテレビモニターつきの喫煙所はあるものの、そういう場所は何か惨めな感じがするのだ。
席を立つ前に軽く周りを見渡し、サングラスを外して紺野に手渡す。

「ナンパとかされるとやっかいだからな、ほら、これかけとけ」

その言葉にすぐに福田が突っかかってくる。

「どうしてあさ美なんですか？もしかして私がナンパされる危険性は無いという認識ですか？」
「いや、そういうことじゃなくてさ・・・もちろん明日香もかわいいんだけど・・・一つしか無いからさ」

もちろん、福田の言葉は冗談であり、私もそれを理解した上で答えたものだった。
ただし、その私の言葉は福田にとってはかなり重要な意味を持っていたらしい。それも別の意味で。

それは福田本人からではなく、後にあやっぺから聞かされた話だったのだが、
どうやら私はその時に初めて、福田のことを『明日香』と呼んだらしいのだ。
福田はそのことが嬉しかったらしく、珍しくあやっぺにはしゃぎながら語っていたということだった。
もちろん、その時の私はそのことを意識していたわけでもなく、ほとんど覚えてもいなかったのだが。

球場を出て近くのコンビニに向かう。球場の外には未だ大勢の人たちがうじゃうじゃと集まっており、
そのコンビニもかなりの客でごった返していた。
飲み物を買って球場に戻ると、紺野ではなく、なぜか福田がサングラスをかけていた。

「どうですか？なかなか似合うと思いませんか？」
「なんつーか、似合うとか似合わないとかいう次元を超えてるよな」
「それは誉め言葉と受け取ってもいいんですよね？」

そう言って微笑む福田。福田も紺野も、私にとってはかわいい妹だった。

202 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:14

袋から飲み物を取り出す。お茶と……そしてビールとおつまみ……。

「もーちゃんさん、まさかお酒飲むんですか？」
「やっぱ野球と言えばビールだろ。一応お前たちの分も買っといたぞ」
「それでは私もつき合わせていただきます。せっかくですから」

そう言って自然体でビールの缶を手にする福田。それを見て驚く紺野。それが意外だったのだろう。
福田も１８歳、別にビールくらい飲んでいてもおかしくはない年頃である。
他のメンバーは知らないだろうが、実は中澤姉さんと一緒にお酒を飲んだことも何度かあったのだ。

「本当に飲むんですか？」

不安げにそう問い掛ける紺野に対して、福田がしてやったりといった表情を浮かべる。
しかし、それは決して冗談ではなく、紺野を本気で驚かせたということに対する表情だった。

「あさ美も飲んだことくらいはありますよね？」
「・・・それは・・・少しくらいなら・・・」
「隠れて先輩の悪口を言いながら飲むお酒は格別ですからね。私も当時はそうでしたよ」

それがどこまで本気かはわからなかったが、まあ大人の世界で過ごしているのだから、
そういうことがあっても別におかしくはないのだろう。えなりかずきが喫煙するような世界なのだから。

「ま、紺野も一口くらいならいいんじゃねーか？」
「そうですよ。最初の一口目は最高ですからね。これも大人への階段です」

燦燦と照りつける太陽の陽射しを浴びながら、ビールを煽る。
グランドから聞こえるバットの金属音。スタンドの声援に器楽の演奏。そして冷たいビール。
３０度を越えた気温の中で体内に流し込むビールは、格別としか言いようの無いものだった。

もちろん、たった一人であれば、そんな気分にはなれるはずも無かっただろう。
それは、かわいい妹二人と一緒に楽しい時間を過ごしているからこその味なのだ。

203 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:14

福田は酔うとほっぺが赤くなる。そして目がキョトンとなり、まるでお人形さんのようになる。
ただし、その時はビール一缶を紺野と分け合ったせいか、ほとんど変わることは無かった。
そして紺野も、笑顔で「にがいです」と言っただけで、あまり普段とは変わらなかった。

二人が二十歳を過ぎれば、部屋でも堂々と三人で飲むこともできるようになるだろう。
しかし、それまでその部屋がその状態のまま続くとは限らない。
モーニング娘。自体が存在しているかどうかもわからない。紺野だって在籍しているかどうか。

紺野が二十歳になるまであと四年。でも、四年もあればその部屋はまた違ったものになっているはずだ。
新たに卒業するメンバーも出てくるだろうし、その部屋もすでにその役割を終えているかもしれない。
それは誰にもわからないことだった。三人で甲子園へ来ることを全く予想できなかったように。

たった一つの白球に全てを懸ける高校球児。それはたった三年の間のほんの一瞬の出来事。
春が来て、夏が来て、そして三年が過ぎ、全ては思い出へと変わる。そして新たなる出発・・・。

私の部屋も、いつかは全て思い出に変わるのだろう。そして新しい人生を歩き出すのだろう。
それは決して悲しいことではないはずだ。でも、今の私にはそれを考えることはできなかった・・・。

帰りの電車の中、珍しく福田は饒舌――饒舌と言うか、年相応と言うべきだろうか――だった。
普段はあまり無駄話を好まない福田であったが、今日の野球観戦が楽しかったのだろう。
紺野も私の存在を忘れて話に夢中になっていた。二人が意気投合した日と言えるかもしれない。
後に二人で第四部を一緒に書くことになったのも、その日があったおかげなのだろう。

梅田で電車を降りた後、家には戻らず、紺野を新大阪まで送りに行く。
現役のモーニング娘。にとっては、まとまった夏休みというものは存在しないのだ。
翌日からは再び忙しい毎日を送ることになるのだろう。その日は束の間の安息の日だったのだ。
ただし、今年の夏休みには――仕事ではあるが、一つだけ紺野が楽しみにしていることがあったらしい。

「ハワイのお土産、期待しててくださいね！」

その時はまさか、民族の変なお面が部屋に飾られることになるとは思いもよらなかったのだが。

204 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/20(木) 18:19

福田と二人で部屋へと戻る。一人減っただけだと言うのに、どことなく淋しい感じを受ける。
ただ、その日の福田は本当にご機嫌だった。普段は私とどこかへ出かけても、
冷静な感想を述べる福田だったが、その時だけは、「楽しかったです」と感情的な言葉を使ったのだ。

「なあ、お前と紺野って、本当に姉妹みたいだよな・・・」
「なんかさ、性格が似てるのか正反対なのかわかんなくてさ、うまく説明できないけど・・・」
「もちろんかわいいのは私の方ですよね？」
「ははははっ。お前も紺野もかわいいよ。俺は二人とも好きだぞ。冗談抜きで・・・」

そう言うと、福田はまるで酔った時のように頬を赤く染める。
こういう時、照れ隠しに冷静な意見を返すのが普段の福田なのだが、
その時は本気で恥ずかしそうにもじもじしていたのを強く覚えている。よっぽどその言葉が意外だったのだろう。
もっとも、私自身もそんな言葉が口から出てくるとは全く思いもしなかったのだが。

とにかく、それが私の今年の夏一番の思い出だった。
この部屋がいつか無くなってしまっても、その思い出だけは一生消え去ることは無いだろう。
ただし、その思い出を懐かしく回想する時、私がどこで、どんな生活を過ごしているかはわからない。
そして、その時の私が、彼女たちとどのような関係であるかもまた・・・。

永遠というものは存在しない。だからこそ、人は思い出というものを大切にするのだろう。
しかし、決して思い出の中に生きてはいけない。思い出は過去のものに過ぎないのだから。

そしてまた、今を生きるからこそ、思い出というものが生まれるのだから・・・。

部屋の写真立てに飾られた写真を見ながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
私と福田が隣同士で座っている写真・・・それは紺野があの日、こっそりと撮っていた写真だった。

――――――
　　 つづく
――――――

205 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/11/30(日) 23:59

＃６

市井が引退をした日のこと。それから市井は一度も部屋に来ていない。そして連絡も無かった。
他のメンバーからの連絡はあるにはあったが、ただ、誰もそのことを聞かされていなかったらしい。
もちろん、私のように薄々気づいていたということはあるのかもしれなかったが。

最初の電話はあやっぺからだった。

「あ、もーちゃん？ねえ・・・紗耶香いる？」
「いないけど、どうかしたのか？」
「紗耶香引退したって・・・」
「・・・」
「何か聞いてなかった？」
「いや・・・何も・・・」

どこか慌てたようなあやっぺの声。かなり動揺していたらしい。
それに比べ、初めてそのことを聞いた私自身は、なぜか驚くほどに落ち着いていた。

「・・・ねえ、私、しばらくそっち行かない方がいいよね？」
「うん？どうして？」
「だって・・・私ほら、一応復帰したばかりだし・・・」
「変に意識しない方がいいんじゃね？あいつ、そういうの嫌がるからさ・・・」
「・・・そっか・・・そうだよね・・・わかった・・・」

そこまで言って、あやっぺは唐突に電話を切った。慌てていたと言うか、気が動転していた、
あるいは混乱していたと言った方がよいのかもしれない。あやっぺはその部屋の保護者的存在だった。
言ってみれば母親代わりのような存在だろう――部屋に来る機会は一番少なかったものの。
まあ実際唯一の母親なのだが、ただ、そのことを本人が自覚していたのは確かだった。
だからこそ、市井の引退を知って、その対処と責任というものを感じ、慌てていたのだろう。

自分に何の相談も無かったことへの苛立ちと、そして何の役にも立てなかった悔やみとを混じらせつつ・・・。

206 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:00

それから少ししてかかってきた電話は、今度は保田からのものだった。

「あ、もーちゃん？・・・紗耶香のこと・・・」

保田が最後まで言い終わるより早く、私はそれに答えていた。

「ああ・・・さっき知った・・・」

それに対して保田は「そっか・・・」と呟いた。そして数秒間の沈黙が流れた。
どうやら彼女は私が事前に知っていたと思っていたらしい。知っていて教えなかったと。
もちろん、薄々気づいてはいたが、本人から直接聞いたことは無かったし、
それに例え教えられていても、多分誰にも教えなかったことだろう。
市井が仕事を辞めても辞めなくても、市井であることに変わりは無いのだから。
しかし、その沈黙はまるで私を責めるような、そんな不思議な圧迫感をも含んでいるように感じられた。

「ねえ、紗耶香次はいつって？」

カレンダーを見る。所々に丸印やアルファベットの記号などが書かれている。
しかし、そこに『S』の文字は無かった。もちろん『K』の文字も見当たらない。

「カレンダーには何もついてないけどな・・・電話もないし」
「そっか・・・」
「あのさ・・・会いたいのなら、本人に直接言えばいいんじゃねーか？」
「・・・」
「あいつ・・・そういう距離が嫌だったんじゃねーのか？なあ？」
「・・・」

保田は黙ってしまった。私の言葉がショックだったのか、それとも自分でもわかっていたのか。
もしかすると、それをわかりながら、何らかのリアクションとして私に電話してきたのかもしれない。

自分ではどうすることもできず、だからこそ私に助け舟を・・・。

207 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:00

再びの沈黙の後、保田が再び言葉を発した。

「ねえ・・・あたしさ・・・紗耶香に・・・なんて声をかければ・・・」

その言葉に私はなぜか苛立ちを覚えていた。自然と語気が強くなっていた。

「そんなこと自分で考えろよ・・・俺なんかよりお前の方がわかってるだろ？」
「でも・・・」

保田はそう言いかけて言葉を止めた。そして私とは対照的に声のトーンを落とした。

「わかった・・・ごめんね・・・もーちゃんもショックだったのに・・・ごめん・・・」

少し後悔した。私は保田に個人的な感情をぶつけてしまったのかもしれない。
私の中で何らかのフラストレーションが溜まっていたのは確かだ。
しかし、それは決して自分と保田との関係についてのものだけではなかった。

私はいつの間にか、部屋に来るメンバーの悩みをも自分の悩みとして抱えてしまっていたのかもしれない。
だからこそ、彼女の言葉に感情的に反応してしまったのだろう。

市井の悩みに正面から向き合ったメンバーは、私が知る限り、それまで誰もいなかったのだから。
もちろん、私も彼女たちと同じで、何の力にも、何の支えにもなってあげられなかったのだが。

保田は静かに電話を切った。その静けさが、二人の隙間を更に際立たせるものとなっていた。
そして私はよくわからなくなっていた。自分が何に悩み、何に苦しんでいるのか・・・。
ひどく気分が落ち込み、そして精神的にもかなり鬱になっていた。

もう何をどうしていいのかわからなくなっていた。
市井の引退は特に気にする必要は無いと思っていた。無理にそのことを気遣う必要は無いと。
でももしかすると、そう思うこと自体、私が市井の引退を重度に心配していたということだったのかもしれない。
むしろ、私が一番、そのことを意識し、そして悩み苦しんでいたのかもしれない・・・。

208 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:00

市井の引退発表があってから、ある事件が起こるまでにこの部屋を訪れたメンバーは二人だけ・・・。
一人は後藤、そしてもう一人は・・・。

後藤が来るのは久しぶりだった。一応、月初めに少しだけ顔を覗かせたことはあったのだが、
それを除くと一ヶ月ぶり、もしくはそれ以上になるだろう。

「ただいま〜！」
「よっ、おかえり！」

それは普段通り・・・と言うよりも、むしろいつもよりも元気だったと言えるかもしれない。
意識するしないに関わらず、やはり市井の引退の影響というものがどこかにあったのだろう。
もちろん、それは私にも当てはまるものであった。

とにかく、後藤の笑顔は眩しいくらいに輝いていた。まるで女神のように。
そして私は、そんな透き通るような笑顔をずっと楽しみに待っていたことに気づかされていた。
しばらく憂鬱な気分だったのも、後藤の存在が無かったからなのかもしれない。
人をふんわりとした気持ちにさせてくれる、それがこの部屋での後藤の雰囲気、そして私の期待だったのだ。

「もうさくさん、今月はこっちで仕事が多いんで、よろしくお願いしますね！」
「なーに言ってんだよ。そんなの全然大歓迎だってば！」

そう言うと後藤は口に手を当ててほんのりと微笑んだ。

「『全然』は否定の意味で使わないと駄目って、もうさくさんの口癖ですよ？」

その言葉に私は少し安心していた。市井のことで部屋が暗くなってしまうことを危惧していたのだが、
そんな心配は無用だったらしい。ただし・・・私はその時はまだ気づいていなかった。
その元気が――自分も含めて、いや自分にとって、一番危険だと言うことに。

私がそれに気づいた時には、すでに大きな異変が起きた後だったのだから。
そしてその異変は、彼女たちに関することではなく、私自身に関するものであった。

209 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:01

「もうさくさん、日曜日のスポフェス、やっぱり来てくれませんよね？」
「バイト入ってるからなあ。・・・それに運動会だろ？あ、フットサルもあるんだっけか」

ハロープロジェクトのスポーツフェスティバル。それは市井の引退発表から一週間後に予定されていた。
現役メンバーである紺野の他に、この部屋からも中澤姉さんと保田、後藤が出場するらしかった。
ただ、保田との関係が終焉に向かいつつあったせいか、私にはあまり興味が無いものだった。

「ですよねっ！・・・ごめんなさい、無理言ったりして・・・」
「いや、いいって。でもなんつーか、行ってもついていけるかどうかわからないしな・・・」
「ですよねっ！・・・もうさくさんの知らない子もいっぱい出ますからね」
「まあ大体は覚えたけどさ、えーと、メロン記念日とかカントリー娘。とか・・・」
「顔と名前、ちゃんと一致しますか？」
「それは無理だな」
「ですよねっ！」

そう言ってなぜか笑顔で納得する後藤。

「そうだ。今から一緒に『ハロモニ。』見ませんか？しばらくこっち来れなかったから・・・」

『ハロモニ。』というのは日曜日の昼にやっているモーニング娘。の番組である。
中澤と後藤も出演しており、少し前までは保田が司会を担当していた。
そして、私はその番組を毎週録画していたのだ。もちろん彼女たちのために――である。

この部屋にメンバーが来る時、私が必ず部屋にいるとは限らない。
そんな時、彼女たちは――当然ながら、それぞれの時間を自由気ままに過ごしていた。
外出する者もいれば、部屋でゲームをしたり音楽を聴いたり読書をしたりテレビを見たり・・・。
中には後藤のようにお菓子を作って、帰ってきた私を楽しませてくれたり、というのもあった。

そんな中の一つに、ビデオを見るという選択肢があった。
最初は中澤姉さんから、姉さんが出演する番組を録画しておくように言われていたのだが、
最近では自分でテレビ欄をチェックして、彼女たちの番組を録画するようになっていたのだ。

210 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:01

「この番組ってさ、最初寒かったけど、慣れると結構おもしろいよな」
「本当にそう思ってますか？」
「・・・正直、まだちょっと寒いとは思うけど・・・」
「ですよねっ！」

どうやらそのセリフは後藤のマイブームらしかった。さっきの笑顔もそのせいだったのだろう。

「なあ、それ流行ってるのか？・・・そのセリフ？」
「なかなかかわいいでしょ？」
「かわいいって言うか、まあかわいいか・・・」

ちょっと照れながら答えると、後藤が「えへへっ」と笑う。
それはかわいいを通り越して、言葉では表現できないようなかわいさだった。

「ん？そこは言わないのか？ですよねって？」
「あ、忘れてました！・・・ですよねっ！」

その時、画面にはちょうどお姫様の格好をした後藤が映っていた。『笑わん姫』というコーナーだ。
その姿を見て、私はふと以前のことを思い出していた。

以前の私は、彼女たちがテレビに出ているのを見るのがあまり好きではなかった。
彼女たちが芸能人――私とは違う世界に住んでいる人間、であることを意識させられてしまうからだった。
そしてまた、私が相手にしているのはこの部屋に来る生身の彼女たちという認識があったのも確かだ。
でも、いつしかそんな考え方もすっかり忘れてしまっていた。

「これってさ・・・ネタはあんま関係ないよな・・・なんか別のところで笑ってるし」
「でもこれでもかなりカットしてるんですよ！」
「そうなんだ」
「もうさくさんもどうですか？ネタ送ってみませんか？スタッフに頼んであげますよ！」
「いや、遠慮しとくよ。いい年こいて恥ずかしいし・・・」
「ですよねっ！」

211 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:01

そしてスポーツフェスティバルの当日。しかし部屋を訪れたのは後藤だけだった。
中澤と保田――それに紺野もだ――も来ればいいのに、と思ってしまうのだが、
二人にとってはまだ市井のことが頭の中で整理できていなかったのだろう。

フットサルの試合には負けたものの、後藤はMVPを獲得したとかで、かなりはしゃいでいた。
出来レースだとは思うのだが、まあ本人が喜んでいるのだから、それは歓迎すべきだろう。

「大丈夫だとは思うけどさ、あんまり無理すんなよ。・・・もう一度あるんだろ？」
「大丈夫ですって！こう見えても体は丈夫なんですよ！」
「それならいいけどさ、でもお前痩せすぎだからなあ。本当に大丈夫か？」
「もしかして、心配してくれてるんですか？」
「そりゃ・・・まあな・・・」

後藤の真っ直ぐな瞳に見つめられ、私はかなり動揺していた。
いや、正直な気持ちを言えば、それはドキドキしていたと言うべきなのかもしれない。

ただし、それは決して恋愛感情とか、そうした感情に基づくものではなかった。
私はただ、その真っ直ぐな瞳に、その瞳の美しさに素直に惹き込まれていたのだ。

「えへへ。でも心配いりませんよ！こう見えても鍛えてますから！」

そう言って腕に力を入れて力こぶを見せる後藤。
テレビで見たソニンの力こぶには遠く及ばないものの、それは確かに鍛えられた腕だった。

しかし・・・その後藤の腕も、私の胸のドキドキも、それは全く重要なことではなかった。
その時の私はすでに、その胸のドキドキとは別の、そう、全く別の違和感を感じ始めていたのだ。

やはり市井のことが気になっていたのだろう。そして無理に元気を出していたのかもしれない。
それにもちろん保田のこともあるだろう。そして保田だけではなく、それぞれの人間関係のこともあった。
そんな様々な悩みを私は無意識的に抱えてしまっていたのだ。
しかし、それは単なる精神的なストレスという言葉で片付けられるものでは無かった・・・。

212 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:01

それから後藤は関西で仕事――ラジオの収録が多かったらしい――があるたびに私の部屋を訪れた。
福田が来るのは予定では月末、そして市井は引退発表のせいか、訪れる気配は全く無かった。
つまり、その一ヶ月は後藤のための部屋といった感じだった。
もちろん、実際は私一人で過ごす日が多かったのだが、定期的に後藤が来てくれていたのだ。
それはもしかすると、私のことを心配してくれていたのかもしれない。

・・・ちょうどスポーツフェスティバルが終わった後くらいからだろうか。
最初は全く意識しない程度だったのだが、私は自分の心臓に違和感を覚えるようになっていた。

心臓が痛いのでも苦しいのでも、動悸が激しいというのでもなく、何かいつもと様子がおかしいのだ。
普通に生活している分には全く影響は無いし、試しにジョギングしてみても特に異常が増長することは無かった。
しかし、どこか言葉では表現できないような違和感があることだけは確かだった。

そしてしばらくして・・・。

私はバイトの途中で心臓にいつも以上の違和感を感じていた。
痛みも無く、苦しいわけでも無い――いつも通りの違和感だったが、私はそれが気になっていた。
そしてバイトを途中で抜けさせてもらい、部屋へと帰った。もちろん部屋には誰もいない。

私は自分の部屋で布団を敷いて横になった。四畳半の落ち着く部屋だ。
昼間に寝るというのは久しぶりのことだった。以前深夜のバイトをしていた頃以来だろうか。
私は目をつむり、何も考えないようにと意識しながら眠りについた。右手を心臓の上に添えて。

そして眠りにつくかつかないかという時だった。もしかすると浅い眠りについていたのかもしれないが、
私は突然の痛みによって目を覚ました。いや、目を覚ました直接の原因は、心臓の鼓動・・・。

それは寝ている耳をつんざくような物凄い鼓動音だった。
心臓がバクバクと音を立てているという、そんなマンガのような表現が現実に起きたような感じだった。
そしてそのあまりの異常に私が目を覚ました瞬間、次の感覚が私を襲った。それは激痛だった。
バクバクという音が耳に聞こえるほどなのだ。その鼓動の凄まじさは私が初めて経験するものだった。
まるで心臓という機能のストッパーが一気に外れてしまったような、そんな感じだった。

213 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:02

普通ならば、当然そんなことを考える余裕などは無かっただろう。
しかし、私はその激痛を、その異常を感じながらも、頭の中ではかなり冷静な分析をしていた。
いや、それは分析というものではない。ただ、今まで意識していなかったことを考えていたのだ。

例えば心臓がポンプの機能を果たしていること。それは生物的な知識として知ってはいたものの、
その状況になって初めて、私はそれが自分の肉体にも当てはまるということを意識したのだ。
そして痛みや苦しさのことも。これが痛いということなのか、これが苦しいということなのか、と、
まるでそれまで一度も体験したことが無い感覚を味わうように、私はそれらを感じていた。

そうした分析が人間の極限的な事態に対する本能的なものなのか、あるいは別のものなのかはわからない。
ただ、今思うと、私はその激痛をなぜか客観的に傍観していたような、そんな気がするのだ。
そして、それは、死の恐怖を感じないための、そして逃避するための自己防衛だったように思えた。

私は布団の中で動かずに、ただ両手で心臓を抑えていた。呼吸はかなり乱れていた。
しかしそれは少し弱くなったものの、決して止まる気配は感じられなかった。
心臓の鼓動は相変わらず肉体を伝わって直接耳の鼓膜へと伝わっていた。

私は「ヤバイ」と思った。かなり「ヤバイ」と思った。そう、とにかく「ヤバイ」と思ったのだ。
そんなこと、生まれてから一度も経験したことが無かったからだ。

私はゆっくりと体を横に倒し、そして床を這うようにして布団から出た。
そして這うのか立ち上がるのかの中間くらいの体勢で部屋を出てリビングへと向かった。
リビングには電話がある。もちろん、救急車を呼ぶためだった。

しかし、その鼓動の異常が収まることはなかった。
それどころか、呼吸が苦しくなり、目の前が次第に歪み、全身が熱くなり、そして言うことをきかなくなった。
目を開ける気力も無くなっていた。痛みを我慢することもできなくなっていた。
そして私の脳はその激痛と異常から逃れるために一つの手段を講じていた。

私は意識を失っていた。ただ、その意識を失う寸前に、一つの音が聞こえたような気がした。
心臓の鼓動音の向こう側で、一つの聞き慣れた音がしたように・・・。

214 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:02

どれくらいの時間が流れたのか・・・。私はふと目を覚ました。心臓は正常に機能しているようだった。
目の前には白い天井が見えた。と言うことは、私は仰向けに寝ているということになるだろう。

ただ、それは見慣れた天井ではなかった。そして私はすぐにその理由に気づいていた。
そこは病院だった。病室というやつだ。私はその病室のベッドの上で寝ていたのだ。
そこまでわかっていながら、私はポツリと呟いた。

「ここはどこだ？」

それはただの独り言だった。多分、自分を納得させるための・・・。
しかし、その私の声には反応があった。私の隣――そこに一人の女性が座っていたのだ。

「病院ですよ・・・もうさくさん・・・」

優しい声――それは後藤だった。横を向くと、そこに後藤の顔が見えた。
笑顔だったが、どこか涙ぐんでいる様子だった。後藤は私の右手をそっと握り締めて、そして言葉を続けた。

「よかったぁ・・・ほんとによかったぁ・・・」

かなり心配してくれていたらしい。と言うより、心配させてしまったと言うべきかもしれなかったが。

「そっか・・・お前が・・・連れて来てくれたのか・・・」

そう言うと後藤はゆっくりと首を横に振って、「違いますよ」と答えた。
どこか淋しげな、それでいて何か楽しみを隠しているような、そんな複雑な表情だった。

「じゃあ・・・誰だ？」

私がそう尋ねたのと同時に、病室のスライド式のドアがガラガラと音を立てて開いた。
私を助けてくれた人物――それはその日私の部屋を訪れることができた人物のはずだった。
スケジュール的にそれが可能だったのは、後藤と保田、紺野・・・そして市井・・・。

215 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:02

その人物はまるで何か楽しい出来事でもあったかのような笑顔を浮かべていた。

「気がついたんだあ・・・よかったあ・・・心配したんだべ！」

部屋に入ってきたのは、私が全く予想していなかった人物――安倍なつみだった。

「なっち？」

それは反射的に出てしまった言葉だった。まるで現実を疑っているような、そんな言葉だったろう。

「そうだべ。なっちだべさ！」

そう答えてから、安倍は後藤の隣の椅子にゆっくりと腰を下ろした。

「じゃあ、なっち・・・なっちが俺を？」
「うん。部屋に入ったら倒れてたんだよー。それで慌てて救急車呼んだんだよ」
「そっか・・・じゃああの時聞いた音はインターホンか・・・」

その会話の間に後藤は私の手から自分の手を離していた。安倍の視線が気になったのだろう。

「でもさ・・・鍵は？」
「裕ちゃんに貰ったんだよ。いつでもいいから一度行っておいたらって言われてたから」
「そっか・・・そう言えばそうだったな・・・」

それは確か二ヶ月半ほど前。紺野がハワイの民芸品を持って来てくれた時のことだった。
紺野と一緒に来たのは中澤姉さん。そしてその時に姉さんが私に提案したのだ。
安倍の卒業が決まり、そろそろこの部屋に来させてもいいんじゃないかと。保田のときのように。
私もそれを承諾し、そして後日、姉さんは合鍵を作って安倍に渡したと言っていた。
それから時間は過ぎたものの、その日、安倍はようやく私の部屋を訪れたのだ。
そして、それは私にとって、まさに奇跡的なタイミングでもあったのだ。

216 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:03

「ねえ、もうさくさん、なっちに会うの初めてでしょ？」

後藤がそう尋ねた。

「あ・・・以前に一度会ってるよな？」
「そうそう。なんかどっかで会ったよね。顔とかすっかり忘れてたけど」
「そうなんだ。それは知らなかったな、私・・・」

後藤はどこかつまらなさそうにそう答えた。

一応、私は以前に一度だけ、現役のメンバーたちと会ったことがあった。
会ったと言っても簡単に顔を合わせたくらいだし、それもまだ保田が現役だった頃のことだ。
紺野はもちろん、辻と加護はそれ以前から知っていたのだが、安倍とはその時が初対面だった。
何を話したのかは覚えていないが、なっちはなっちのままだったという印象を受けたことを覚えていた。

それから安倍が話を始めた。倒れている私を見た後、慌てまくって救急車の番号を掛け間違えたことや、
病院で間柄を説明するのに苦労したこと、後藤に連絡したことなどなど・・・。
そんな話を隣で聞きながら、後藤は少し時計を気にしている様子だった。

「ってか、そう言えばお前たちって、これから仕事じゃなかったか？確か城ホールだったろ？」

そう、その日は彼女たちは生の歌番組に出演することになっていたのだ。
すでに私は朝にビデオの予約を済ませてあった。しかし問題はビデオではなく・・・。

「大丈夫ですよ。まだ少しだけ余裕がありますから」
「打ち合わせとかあるんじゃないのか？本当にいいのか？」
「あ、なっち、看護婦さん呼んでくるね。すっかり忘れてた」

安倍が病室を出て、部屋には私と後藤の二人だけになった。しかし・・・。

「本当に心配したんだから・・・本当に・・・本当に・・・」

217 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:03

後藤は再び目を潤ませていた。話をしているうちに安堵の感情が込み上げてきたのだろう。

「ごめんな・・・心配かけて・・・ってか、結局なんだったんだ？」

それは私のその異常に対する質問だったが、後藤は最初、その言葉の意味がわからなかったらしい。
少しキョトンとした表情を浮かべた後、ようやく理解したらしく、その質問に答えた。

「深刻な病気じゃないみたいですよ。動悸がどうこうって言ってましたから」
「動悸・・・かあ。そんなもんなのか？」

それはかなり拍子抜けしたような感じだった。あれほどの痛みと苦しさを感じたのだ。
重度の心臓の病気だとか、危険な発作だとか、てっきりそういうものだと思っていた。
しかし、それが単なる動悸だと説明されると、それは自分でもあきれるしかないものだった。

やがて安倍が看護婦さんを連れて来てくれて、そして色々な質問をされた。
以前に同じようなことが無かったかとか、いつ頃から違和感を感じていたかとか、
ストレスは溜まっていないかとか、まあそんなことを色々と聞かれたわけだ。

安倍と後藤はその途中で仕事に向かい、そこには私一人が残されることになった。
医者の話によると、精神的なストレスによって心臓の血液循環と呼吸とのバランスが少し狂い、
それが動悸――自分ではそれ以上のものだと思うのだが――という形で表れたということだった。
少し狂い、という表現もどうかと思うのだが、結局命に別状は無いという程度のものだったらしい。

一応精密検査をするということだったが、それも特に時間のかかるものではなかった。
そして結果は異常なし。結局心臓の鼓動が突発的に乱れてしまったということらしい。
まあ突発的で無ければ困るのだが、ただ、問題が心臓のわりには医者の対応は楽天的だった。

これが命に別状は無いというものであるならば、命の危険を伴うというものはどういうものなのだろうか。
そんな疑問を抱いてしまう。あれほどの苦痛で意識を失い、救急車で運ばれたのに、である。

まあ命に別状が無いということは、それはそれで歓迎すべきことなのだろう。

218 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:03

その夜は念のためにその病室に泊まることになった。二人部屋だが、いるのは私一人だけだった。
後藤も安倍も仕事のために、歌番組の後は東京に戻ると言っていた。だから当然一人のままだ。

それに、本当ならば、後藤も今日は私の部屋に来る予定は無かったのだ。
こちらで仕事があっても、部屋に立ち寄ったり泊まったりすることができるとは限らないのだ。
そしてまた、安倍が部屋に立ち寄ったのも、そこまで余裕があったわけではなかったのだ。

それなのに、二人は仕事のぎりぎりの時間まで私のそばにいてくれたのだ。
それは私にとって、申し訳ないという気持ちとともに、素直に嬉しいものだった。
そして、私はどこか楽しみでもあった。安倍が正式に私の部屋の一員となることを・・・。

自分の心臓のことは医者が言うように特に気にする必要は無いのだから、悩んでいても無駄だろう。
むしろ悩むことが今回の事態を引き起こしてしまったのだから、それは絶対にしてはならないことだった。
それならば、悩むことよりももっと楽しいことを考えるべきなのだ。安倍の訪問はその絶好のものだったのだ。

ただ、そうは言っても、やはり色々と考えてしまう。それは自分の性格的なものなのだから。
私が彼女たちに迷惑をかけた・・・それがその時の私にとって一番大きなことだった。
そして考えてしまうのだ。私と彼女たちの関係・・・そして私の部屋の存在・・・。

その一週間くらい前だろうか。私は後藤が主演したドラマを見た。
ドラマ自体はもう随分前に放送されたものだったが、それが地上波で放送されるということだった。
内容は擬似家族を描いたミステリー。さすがNHKだけあって作りは丁寧で構成も綺麗だった。

「絶対おもしろいですから、見て下さいね！・・・演技は下手ですけど！」

後藤はそう言っていたが、後藤の演技はなかなかだった。役がピタリと合っていた感じだった。
ただ、私は後藤のその好演以上に、その内容に惹きこまれていた。その理由はもちろん・・・。

私の部屋もある意味、擬似家族なのかもしれない。家族だと思ったことは一度も無かったが、
ただ、ある意味同じような感覚を持っていたのは確かだろう。私も、そして彼女たちも。
家族ではないにしろ、私たちは現実とは違う、もう一つのコミュニティを形成していたのだから。

219 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:03

それは現実から逃避したものなのだろうか。現実とは隔絶された別の現実を作り出しているのだろうか。
それとも、この部屋は彼女たちにとって単なる休憩所に過ぎないのだろうか。
彼女たちはこの部屋に、そして私に何を求めているのだろうか。あるいは求めていないのだろうか。

そんなことを、私は病室のベッドの上で一人考えていた。
結局答えは出なかったし、答えがあるとも思えなかったのだが・・・。

翌朝、再び検査をし、薬を処方された後、私は家へと帰った。
薬と言っても、安定剤みたいなものだろうか。心臓に違和感を感じたら飲む、という程度のものだった。

バイト先に電話を入れ、事情を説明して一週間ほど安静にするように言われたことを告げた。
そしてその後、中澤姉さんに電話をかけた。部屋に置いてあった携帯に姉さんの着信があったのだ。
多分後藤か安倍が連絡していたのだろう。この部屋の代表は姉さんなのだから。

「迷惑かけてすいませんでした。もう何ともないですから。はい、本当ですって」

電話口の姉さんはかなり優しかった。いつもとは口調も違っていた。
私を心配していると言うか、今回の事態を自分の責任と捉えているような感じも受けた。
あやっぺを行かせようか、という話も出た。でもそれは一応断っておいた。
あやっぺには自分の家庭もあり、そして最近は少ないながらも仕事があるのだ。
私がその邪魔をすることはできない。もとより一人暮らしには慣れている身なのだし、
それにこれ以上、私が彼女たちに迷惑をかけることはできなかった。

「本当、もう心配ないですって。今日は福田も来ますし、大丈夫ですってば」

姉さんは私にとって、本当に頼りになる存在だった。
私の期待に応えてくれるだけではなく、それ以上に安心できる存在だった。
それは姉さんがこの部屋の責任者であるということもあるのだろう。
私一人ではなく、姉さんが――部屋にいてもいなくても――いてくれるということ自体が安心できたのだ。
それにある種、大人の女性への憧れ的なものを感じていたのも確かだ。
まあ姉さんは、そんな子供の私をいつも軽くあしらっていたのだが――あの時を除いて。

220 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:04

その日の昼過ぎ、福田が部屋にやって来た。小雨が降ったり止んだりの憂鬱な天気だった。
どこかいつもとは様子がおかしかったのは、私が倒れたことを聞いていたからなのだろう。

「大丈夫ですか？もう年なんですから、あまり無理しないでくださいよ」
「おいおい、それはないだろ。顔は老けてるけど、あやっぺよりも年下なんだからさ。一応同級だけど」

人間というのは不思議なもので、なぜか年齢よりも学年にこだわってしまったりする。
それも学校生活などとうの昔に過ぎ去ったような大人の年齢になっても、である。
年は同じだけど学年は一つ下だとか、同級生だけど向こうが年上だとか・・・。
ある意味小さい頃に決められた枠組みというものが頭の中に固定化されているのかもしれない。

「それはいいですけど、どうしますか？京都に行く予定はキャンセルですよね？」
「ああ、一応安静にするように言われてるからなあ。悪いな」
「それは仕方ありませんね。諦めるとします」

そうは言うものの、福田はどこかつまらなそうな表情を浮かべていた。
いつもはそういう感情を決して表に見せないのだが、何か心変わりでもあったのだろうか。

「あ、でもさ、近場くらいなら平気だって。どっか行きたいとこない？」

そう言うと福田は少し嬉しそうに微笑んだ。やはり何かが違っていた。

「そうですね。イチョウ並木なんてどうですか？大阪城公園の」
「もう終わりかけだと思うけどな、まあ、でもお前が行きたいんなら話は別だけど」
「決まりですね。それじゃ行きましょうか。準備してください！」
「ってか、今から行くのか？一応安静にって・・・」
「そうですよ。葉が全部落ちてからじゃ意味ありませんから。それに気分転換も必要ですよ」

日が暮れるまでにはまだまだ時間の余裕があった。雨も上がって温かさも少し戻っていた。
私は福田とバスに乗り、目的地へと向かった――大阪城公園のイチョウ並木。
そこは今年の春に、保田と紺野と三人で歩いた、私の思い出の場所でもあった。

221 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:04

「私はイチョウとは親戚みたいなものですから」

福田は唐突にそう言った。言葉の意味はよくわからないが、とにかく凄い自信だった。
数日間の雨のせいで、もう半分以上葉は落ちてしまっていたが、黄色い並木道は健在だった。
道の両側に黄色いガードレールが囲っているような、そんな光景だった。
ただ、見頃の時期の一面の黄色い絨毯の光景を知っていると、それはどこか淋しいものでもあった。

「ここさ、今年の春に歩いたんだよね。保田と紺野と三人でさ・・・梅の季節だったなあ」
「あさ美から聞いてますよ。もうさくさん、圭と喧嘩したんですよね」
「はは・・・喧嘩っつーか、なんつーか、もう忘れちゃったけどな・・・」

少しおちゃらけた感じで答えたのは、私が保田のことに触れたくなかったからなのだろう。
しかし、観察眼の鋭い福田にはそれは通用しなかった。そしてまたもや唐突に――そしてきつい質問を。

「もうさくさん、圭に振られたんですか？それとも振ったんですか？」

まさか福田からそんな質問をされるとは思いもよらず――私はかなり慌てていた。

「最近二人の間に隙間風が吹いているというもっぱらの評判ですからね・・・」

誰の評判だよ・・・と思ったものの、それを突っ込むような余裕は無かった。

「元々そういう関係じゃないしさ・・・大体性格的に合わないだろ？」

それは単なるごまかしだった。私は多分、今でもどこかで保田のことが気になっていたのだろう。
福田に尋ねるような口調になったのも、自分ではそのことを認めたくなかったからなのだろう。
だからこそ、そうやって周りからの反応によって、自分を納得させようとしていたのだ。

しかし、その後の福田の言葉は、私が全く予想していなかったものだった。

「それじゃ、私ともうさくさんとではどうですか？性格的にどうですか？」

222 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:04

それがどういう意味を含んでいるのか、私には知る由も無かった。
しかし、私はどこかで、もしかしたら――ということを考えてしまっていた。
そんなことは全くありえないことなのに――である。

「大阪城ホールですね。もうさくさん、昨日見ましたか？」

しかし、福田は私の答えを待つことなく、次の話題へと話をそらしていた。
まるで、私の答えなど最初から必要なかったのか――あるいは聞きたくなかったのか。

「ああ、見たよ。ってか、そうそう、昨日安倍が来たんだよ。言い忘れてたけど」
「・・・らしいですね・・・」

福田は不機嫌そうにそう答えた。それはかなり珍しい反応だった。そして何か不穏な予感がしていた。
もしかすると、福田と安倍は・・・仲があまり良くなかったのだろうか・・・。
私は慌てて話題をそらした。まるでさきほどの福田のように・・・。

「そうそう。後藤、昨日あれ歌ってたよな。あの早口のサビの部分が言えてない曲」
「『噂のSEXY 巽 GUY』ですね。紅白でもあれ歌うんでしょうかね。もうさくさんは何歌ってほしいですか？」
「そうだなあ。『スクランブル』なんか好きだけどなあ。でも売れてないんだよなあ」
「私は『抱いてよ！PLEASE GO ON』がいいですね。あれが一番真希の持ち味が出せてますから」

そこまで会話を続けて、私はあることを忘れていたことに気づいた。

「あ、そう言えば、後藤に紅白出場のこと言うの忘れてたな・・・」
「やれやれ、本当に駄目な人ですねえ。『おめでとう』の一言がどれほど大切か・・・」

語尾のトーンが弱くなったのは、その言葉が私を非難する言葉だったからなのだろう。
福田が私を責めるというのも、かなり珍しいことだった。やはり福田は何かが違っていた。
しかし、問題はその次の言葉だった。

「それじゃ、真希が髪を切ったことも全く触れていないんですか？」

223 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:04

そう、後藤は数日前に髪を切っていた。そしてそれがまた言葉では表現できないくらいに似合っていた。
しかし、私はそのかわいさに癒されるだけで、そのことについては何も触れることはなかった。

「何もわかってないんですね・・・もうさくさんは・・・」

そう言うと福田は歩を早めた。私が何をわかっていないというのだろうか。
それとも、それは福田自身のことなのだろうか。福田も後藤と同じくらいの髪の長さ、そして色をしていた。

大阪城のコンクリートのハリボテを眺めながら並木道を歩き、外の世界へと戻る。
しばらく普通の会話をしながら、今度は城から離れた川沿いの遊歩道へと出た。
雨は降っていなかったものの、薄暗い雲が空を覆っているのは変わりなかった。

「もうさくさん、彼女は作らないんですか？」

またもや唐突な質問――それも福田の口から出たとは思えないような質問だった。

「そんな余裕ないからな・・・」
「でも一人や二人くらいいてもおかしくない年頃ですよね？」
「どういう年頃だよ・・・」
「私がここに来るようになってから、一度もそういう話聞いてませんからね」
「まあなんつーか、こっちにも色々あんだよ・・・」
「やっぱり圭のことが好きなんですか？」

それは直球だった。150km/hのストレートくらいだろうか。

「ノーコメントだ」

私はそう答えた。打てない球が来たらバットを振らなければいいのだ。
しかし、ピッチャーは今度はバッターボックスに立つ私に向かって球を投げてきた。

「それじゃ、もしかして、私たちのせいで？」

224 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:05

それは彼女たちが私の部屋に来ているせいで、私の私生活が制限されているのではないか、と、
多分そういうことが言いたかったのだろう。彼女たちも色々気を使っているのかもしれない。

「それはないな。お前たちがいようといまいと、こっちの生活には関係ないよ・・・」

しかし、それは別の意味で嘘だった。彼女たちは、すでに私の生活の一部になっていたのだから。
確かにそれがマイナスになることも中にはあっただろう。
しかし、私にとっては、それはマイナスを補って余りあるほどのプラスとなっていたのだ。

彼女たちのことで悩むこともあった。それが原因で倒れてしまったというのも確かにあった。
でも、私は彼女たちのことで悩めるということに、むしろ感謝すべきだと、そう思っていた。

そしてまた、そういう話題にはあまり触れたくなかったのも確かだ。
その問題を突き詰めていけば、最後にはこの部屋は終わりを迎えてしまうしかないのだから。

「お、なんか熱いなあ・・・青春ってやつか？」

そう言ってわざとらしく話題を変えた。少し先のベンチで高校生のカップルが抱き合っていた。
その後ろをジョギングのおじさんが通り、そして自転車が通り過ぎていった。
人目をはばからぬというか、若いというか、まあ若さが全ての行動力の源といった感じだろうか。

「お前も今のうちに楽しんどけよ。俺も若い頃に色々やっとけばよかったなあ・・・」
「素直にもてなかったって言った方がいいですよ。見苦しいですよ」
「ははは、まあ確かにもてなかったけどな、でも何人か振ったことはあるんだぜ？」
「私は信じませんよ。それを信じるくらいならTBSの報道を信じる方がマシです！」

まあ、「何人か」と言いながら実は「一人だけ」だったりするんだが、でもそれは一応は事実だった。

「自分に自信が持てないのは昔から変わらないからなあ・・・」

そう私が呟くと突然――そしてゆっくりと――私は、自分の左腕にあるものが触れたことに気づいた。

225 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/01(月) 00:05

「自信持ってください」

腕に触れたもの――それは福田の手だった。そして福田の小さな囁き私の耳に届いた。
それは腕を組む、というものではなかったが、福田の手は確かに私の腕にそっと触れていた。

「ああ、ありがとう・・・」

福田は手を離さなかった。私の左腕の後ろを右手で軽く握り添えたといった感じだろうか。
不思議な感覚だった。それが別の女性であれば、それはドキドキしたり、あるいは嫌な感じがしたかもしれない。
でも、福田にそうされて、私は多少は戸惑ったものの、それを自然と受け入れている自分に気づいていた。
しばらくその距離を保ったまま進み、例のカップルの後ろを通り過ぎたくらいだろうか。福田が再び口を開いた。

「もう見ちゃいられませんね」

高校生カップルは唇を合わせていた。多分自分たち二人だけの世界に入り込んでいたのだろう。

「見ちゃいられないなら見なきゃいいんじゃねーの？」
「それを見てしまうのが人間の性というものですよ」

福田はそう言った後、すぐに言葉を続けた。

「もうさくさん、ライター貸してください！」
「ライター？何に使うんだ？」
「燃やしてきます！！！」

心臓の違和感などすでにどこかへ吹っ飛んでいた。たった一日前に起こったことなのに。
福田と二人、のんびりと川沿いを歩き、私はいつもとは違った景色が見え始めたように感じていた。

――――――
　　 つづく
――――――

226 ：名無し娘。：2003/12/02(火) 08:20

更新乙です
時事ネタの取り入れ方がうまいなぁ
今後どうなるのか楽しみです

227 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:34

＃７

それにしても、後藤の頑張りにはただただ脱帽である。
先月の中旬から月末にかけて、ほぼ毎日のようにテレビやラジオに出演していたのだ。
生の歌番組であったり、録画の番組であったりはするが、とにかく連日出ずっぱりだった。
もちろん新曲のプロモーションなどもあるのだろうが、それでも凄いとしか言い様が無かった。

この部屋――正確には以前の私の部屋だが――に彼女が来始めたのは春のツアーの頃だった。
そして秋になってまた地方ツアーへと繰り出し、更にその合間を埋めるようにたくさんの仕事をこなしていた。

その日もテレビの画面には後藤が映っていた。福田と一緒にイチョウ並木を歩いた日である。
あの後、私たちはスーパーで晩御飯の材料を買った後、夕暮れの街を部屋へと戻った。

「今晩のメニューは福田スペシャルδ（デルタ）ver.1.01です。楽しみにしててください」
「なあ・・・その一見凄そうなネーミングつけるのって・・・どうなんだ？」

なぜかはわからないが、福田は必ずと言っていいほど、自分の作った料理に名前をつけていた。

「その方が気合が入りますから。それに上達の過程が把握しやすいですし」
「で、今日のデルタってのは？」
「それはできるまでのお楽しみです。もうさくさんはのんびりしててください」

のんびりと言うか、一応安静にしていなければならない身ではあったわけで・・・。

「あ、そうそう。どうしても暇なら、ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど」

そう言って福田は自分の――彼女たちの部屋へ行き、そして一冊の雑誌を持って戻って来た。

「これです。ひどいと思いませんか？」
「ん？」
「その次のページです。ほら、私の名前がありますよね？」

228 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:34

そこには確かに“福田明日香”という名前が載っていた。
しかも、それは現役時代の記事ではなく、つい最近の彼女についての記事、そして写真だった。

「ほおほお。あれか、もしかして『あの人は今』ってやつだろ？・・・これ、隠し撮りだよな」
「ひどいと思いませんか？」

福田はもう一度同じ言葉を繰り返した。顔には怒りの表情が浮かんでいた。
記事を読むと、痩せて綺麗になったとか、ボーイフレンドはいるが本命はいないらしいとか、
バンドを組んでいるとか、定時制に通っているとか、まあ色々なことが書かかれてあった。
そしてその記事の横に大きな写真が掲載されていた――明らかに隠し撮りと思しき写真。
もちろん、今私の目の前にいる女性の写真だ。

「確かにひどいよなあ。今は普通の一般人なのに、こんな写真載っけちゃって・・・」
「私は絶対に許しませんよ。こんな写真を雑誌に載せるだなんて！」

福田はまるで思い出したように怒りを爆発させていた。福田にしては珍しい感情の発露だったが、
ひょっとすると、その日の福田が来た時からおかしかったのは、そのせいもあったのだろうか。

「うーん、確かに問題だな。これは」

私はそう言って福田の顔色を窺った。怒りはエスカレートする一方という感じだった。
しかし、その怒りは――私の予想とは全く別のことに対する怒りだったらしい。

「なんなんですかこの写真は！なんでもっとかわいく撮ってくれなかったんですか！」
「・・・えっ？」
「もうさくさんもそう思いますよね？これじゃ私のかわいらしさが全然活かされてませんよね！」
「あ、あのさ・・・もしかして・・・それで怒ってるわけ？」
「当たり前じゃないですか！こんな写真を載せるなんて、私に対する冒涜です！！！」

結局、福田が怒っていたのは、隠し撮りされた写真や自分の近況が勝手に掲載されたことではなく、
その写真の出来に納得がいかない、ということだったらしい。ある意味福田らしい怒りかもしれなかった。

229 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:35

福田はまだ怒りが収まらないらしく、ブツクサ言いながら台所へと戻った。
そんな福田の後姿を見て、私は思わず微笑を浮かべてしまっていた。

福田明日香という女性はやはり面白い女性だ――面白いというか興味深いというべきか。
その発想はいつでも私を裏切ってくれ、そして楽しませてくれていた。
全く予想ができない、それが福田の個性であり、そして良さだと私は感じていた。

福田の料理が出来上がるまで、私は再び記事に目を通した。
バンド活動をしているというのは聞いていたが、実家がパブレストランというのは初耳だった。
もしかすると、福田が料理に一々名前をつけるのも、そうしたことが影響しているのかもしれない。

しばらくして、“その”名前のついた料理が出来上がり、福田は作った料理を自慢気にテーブルに並べ始めた。
なんのことはない、普通の料理だった。思わずどこがδなのか小一時間問いつめたくなってしまう。

「なあ、どこがδなんだ？」
「御飯をおかゆにしてみました。もうさくさんは病気の身ですからね」
「病気って・・・確かにそうだけどさあ・・・でも微妙に認識ずれてねーか？」
「病人にはおかゆ、それが日本人としての定説ですから」

確かに倒れてからたった一日――単なる動悸だったとはいえ、私の体は万全とは言えなかった。
昼間に外出はしたものの、実は自分でも少し不安だったりしていたのだ。
そして、福田はそんな私を気遣ってくれていたのだろう。それは素直に嬉しいものだった。

「ああ・・・ありがとな・・・」
「突然どうしたんですか？もうさくさんからそんな言葉を聞くなんて・・・やっぱり重病なんですか？」
「素直に感謝しただけだって。まあ確かにちょっと不安になってるかもしんないけどさ」
「・・・それじゃ・・・外出しなかった方がよかったですね。ごめんなさい、わがまま言って・・・」
「いや、いいってば。気分転換になったしさ。それに激しい運動とかしたわけじゃないし」

福田の作ってくれた福田スペシャルδver.1.01は何の味もついていない普通のおかゆだった。
でも、私にはほんのちょっぴり味がついているように感じた――それは多分、優しさという名の味なのだろう。

230 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:35

福田がテレビを見ていた私に話し掛けてきた。料理の後片付けが終わったのだろう。

「もうさくさん、私にできることがあれば何でも言ってください！なんでもしますから！」
「何でもって言われてもなあ・・・特に無いんだよな・・・」
「何でもいいんですよ。なんならキスだってエッチだっていいんですよ！」
「ぶうﾞっ！！！」

あまりのことで私は飲んでいたお茶を噴き出してしまった。

「な、何言ってんだよ！バ、バカかお前は！」
「確かに、ある意味バカかもしれません」
「いい加減にしろって！悪い冗談言ってると本気にしちまうぞ！」

さすがにそれは冗談では済まされない発言だった。そしてその言葉は私の警告を表したものだったのだが。

「私は至って本気ですよ」
「お、お前がそういうこと言うやつだとは思わなかったぞ・・・」

少し強い口調でそう言うと、福田は落ち込んだのか、黙って俯いてしまった。

「あ・・・別にその・・・なんつーか、お前を責めてるとか嫌いになったとか、そういうことじゃなくて・・・」
「いいんです・・・すいませんでした。私の失言でした。今の言葉は忘れてください・・・」
「いや、そこまで謝らなくてもいいんだけど・・・なんつーか、ほら、あまりに意外だったからさ・・・」
「本当にすいません。・・・激しい運動が無理だって言うから、ついからかうつもりで・・・」

それは福田のブラックジョークだったのだろう――私を元気付けるための。
そして、私にはそう思うより他に選択肢は無かった。
福田のその言葉が本当はどういった感情から発せられたのか、それは知ってはいけないような気がしたのだ。
特にその日一日の福田の様子を踏まえると、それはあながち冗談でもなく・・・。

しかしまあ、そうやって思い違いをして失敗するのが私がこれまで痛いほど経験したことでもあって・・・。

231 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:35

トレーナー姿に着替えた福田がバスタオルで髪を乾かしながら私の隣のソファに座った。
風呂上りの女性というのは、どんな女性であっても、どこか魅力的に感じるものである。

「一応もうさくさんの希望通り、いつもより少し温めに調節してみました」
「お、ありがとな・・・」
「もうすぐ真希の番組が始まりますから、それまでに入ってきたらどうですか？」
「それじゃ、お言葉に甘えて・・・」

昨日倒れてから、私は医者から幾つかの注意を受けていた。タバコや酒は当分控えること、
熱いお風呂は駄目、辛い食べ物や塩分の取り過ぎも駄目など。まあよくある注意だろう。
それと二、三日に一度、念のために病院に通わなくてはならない、というのもあった。

風呂にのんびりと浸かり、私はその日一日あったことを思い起こしていた。
その日の心臓は特に違和感があるというようなことは無かった。もちろん安心はできないのだろうが。
しかし、問題は心臓ではなく、その日の福田の態度――ただし、私の最終的な結論を言えば・・・。

――結局、その日の福田の発言や態度や私への接し方は、全て私を気遣ってのものだったのだろう。
どれもこれも、私を元気付けようとしてくれたり、励まそうとしてくれたり、落ち込まないようにしてくれたり。
感情表現の苦手ないつもの福田からしてみれば、それは多分、満点に近いものだっただろう。
さっきのブラックジョークのように、多少行き過ぎた点があることは否定できなかったが。

私はそう納得しながら風呂から上がり、そして着替えてリビングへと戻った。
ちょうど後藤がゲスト出演する番組が始まったところだった。

「なあ、そう言えば昼に髪がどうとかって言ってたよな？あれってさ・・・」
「どうして真希が髪を切ったか知らないんですか？」
「もしかしてあれか？よくある失恋とかってパターンか？」
「やれやれ、一体いつの時代の人間ですか。髪を切る“イコール”失恋なんて今時流行りませんよ」
「そんなもんなのか。それじゃなんでだ？」

そう言ったものの福田は答えを教えてくれなかった。

232 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:35

もしかすると、福田の髪型も関係していたのだろうか。私は思い切って直接尋ねてみることにした。

「なあ、お前も後藤と同じ髪型だよな。二人で合わせたのか？それとも流行ってるのか？」

しかし、返ってきたのは素っ気無い言葉だった――それもまるで呆れたような表情で。

「自分の胸に聞いてみてください」

自分の胸に――と言われても、わからないから聞いたわけで・・・。
でもまあ、そこまで珍しい髪型というわけでもないし、多分ただの流行なのだろう。
それに二人の髪型は私の好みの長さでもあったわけで、それだけで十分なのは確かだった。

そんな会話の向こう側で、すでに番組は盛り上がりを見せていた。
番組はゲストに対して様々な質問をして、それに答えるという形式で進んでいた。
もちろん、その質問に答えるのはゲストの後藤だ。

後藤が質問に答えるたびに私が福田に尋ねたり、あるいは福田が話し掛けてきたり、
まるでその場に自分たちがいるかのように、私たちはテレビの画面を眺めていた。

「今の発言はなかなか興味深いですね。太陽と月を同一視するというのは、人間の本質的な概念の・・・」
「・・・なあ・・・お前が難しいこと言う時ってさ、実はよくわかってない時なんじゃねーの？」
「バ、ババカ言わないで下さい！わ、私が太陽と月の違いもわからないガキだとでも言うのですか！！！」

図星だった・・・。しかしまさか、福田までもが太陽と月の違いを知らなかったとは――驚きだった。

「それじゃ金星と火星の違いってわかるか？」
「当然ですよ。それくらいの漢字が読めないとでも思ってたんですか？」
「か、漢字？」
「そうですよ。金星は金でできてるんですよね？だから火星は多分燃えてるんです」
「・・・」
「冗談ですよ・・・火星が燃えてるわけないじゃないですか。燃えてるのは太陽と私のハートです！」

233 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:36

その言葉に私は思わず笑ってしまっていた。もちろんその福田のアドリブに対してだ。
しかし、そう言った当の福田はハッとした表情を浮かべ、申し訳無さそうに私の顔を見た。

「すいません。心臓が燃えたら大変ですよね。もうさくさん、倒れたばかりだったのに私・・・」
「ああ、そういうことか。・・・まあ確かに燃えるような痛さだったからなあ・・・」
「ごめんなさい、不謹慎でしたね・・・」

部屋の中が急にションボリしたような感じだったが、しかしテレビの中は更なる盛り上がりを見せていた。
そしてその盛り上がりの中に、一つだけ引っ掛かるものがあった。
福田は全く気づいていない様子だったが、それは後藤の観覧車の話・・・。

あれはいつだったか――福田と紺野と高校野球を見に行く前だったか後だったか。
私はある日、福田と後藤を連れて海遊館に遊びに行ったことがあった。
その時のことは省くとして、問題なのはその海遊館の近くにあった天保山の巨大観覧車だった。

私は観覧車が大の苦手だった。もちろん今もだ。
高所恐怖症というのもあるし、それ以上に足場がしっかりしていないと落ち着かないというのもあった。
だから電車は大丈夫でも飛行機は苦手、ケーブルカーはよくてもロープウェイは駄目という感じだった。
とにかく、足場がぐらついている不安定な乗り物が苦手だったのだ。

そんな中、突然後藤が観覧車に乗ろうと言い出したのだ。

「ねえねえ、三人で乗ろうよ！もうさくさん、どうですか？明日香も一緒に！ね？」
「あー駄目駄目。俺観覧車苦手だからさ・・・マジ泣くから・・・乗るなら二人で・・・」
「頼りない人ですねえ。それでも男ですか？」
「いや、本当に観覧車だけは駄目なんだって。マジ勘弁してくれ・・・」
「へ〜、男の人でも苦手なものってあるんだあ〜」
「この人は男じゃないですから。今日からはもさ美ちゃんと呼んであげましょうかね」
「もさ美ちゃんかあ。あははは、なんか全然かわいくないね！・・・でも残念だなあ〜」

あれはもしかして、そういうことだったのだろうか――とまあ、そう思ってしまったのだ。

234 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:36

もちろん、あの時は福田もいたし、それに結局観覧車には乗らなかったわけで・・・。
でもまあ、それもまた私のいつもの思い違いに過ぎないのだろう。
自分に自信が持てないくせに自信過剰――被害妄想というやつだろう――なのが私の悪い癖なのだ。

そんなことを思い出している間も番組は当然のように進んでいた。

「きれいな顔が好きねえ・・・じゃあ俺は問題外ってことか」

そう言って私が笑うと、福田が何か言いたげにニンマリとした笑みを浮かべた。

「もうさくさんはほんっとにわかってないんですねえ」
「だからさ、何がわかってないんだ？」
「こういう番組でそういうこと言うってことについてですよ。まさか本心だと思ってるわけじゃないですよね？」
「違うのか？」
「人間は恋愛に対しては裏腹なことを言ってしまう生き物なのですよ。それが本気であればあるほど」
「うーん、なんかわかるようなわからないような・・・」
「まあいいです。もうさくさんももう少し恋愛経験を積めばわかるようになりますよ。多分」

１８歳の小娘からそんなことを言われる筋合いは無いのだが、それは確かに私に当てはまるものだった。

「恋愛に対しては臆病だからなあ・・・あやっぺなんて二人も子供いるってのに・・・」
「もうさくさんにもいつかきっと素敵な人が見つかりますよ」
「いつかきっとねえ・・・ていうか、結婚願望とか全然無いんだけどな。大体、経済的に無理だし・・・」
「恋愛と結婚は違うと言いますからね」
「そう言えばさ、中澤姉さんってどうなんだ？彼氏できたみたいだけどさ、何か聞いてないか？」
「残念ですが、その件については黙秘権を行使させていただきます」
「もしかして緘口令でも出てるのか？」
「・・・」
「今日の『ハロモニ。』で彼氏募集中とかって叫んでたけどなあ」
「・・・」
「あー、はいはい。わかったわかったって。もう訊かないからさ、なんか喋ってくれって！」

235 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:36

「なーんて、冗談ですよ。私は何も聞いてませんから」

そう言って福田はあどけなく笑った。それにしてもその日の福田は珍しいくらい元気だった。
私を元気付けようとしているどころか、まるで私の“心臓”を嘲笑っていると思えるくらいに・・・。

「そうそう。これが理由でしたね・・・」
「ん？理由って？」
「今の聞いてなかったんですか？ほら、真希が普段も化粧しているって話ですよ」
「ああ、聞いてたけど、でも理由ってのは？」
「もうさくさん、例の小説で真希のことを実は男って書いてたじゃないですか」

私が書いているこの小説――いや、小説というよりも日記というべきだろうか。
この日記は私が経験した日常を書き留める点で言えば、一応はノンフィクションということになる。
しかし、中にはどうしても書けないこともあるし、それに少し脚色している部分があるのも事実だった。
日記だから本当のことを書けばいいのだが、照れくさかったり問題があったり、それに自信が無かったり。
だからある意味、事実を基にしたフィクションというものに含まれるのかもしれない。

そして、そうした脚色の中でも一番の例が、後藤が男という設定だった。
どうしてそのような設定にしたのか、その理由は色々とあったのだが、
その一つが、さきほど番組で後藤が語っていた、決して素顔を見せないということだった。

後藤は部屋にいる時も必ず化粧をしていた。化粧を落とすのはいつも寝る前。
だから他のメンバーと比して、私が後藤の素顔を見る機会はほとんど無かった。
それに後藤がその外見的なイメージとは全く違って、女性以上に女性らしいということもあった。

そうしたことがあって、私は後藤のことを“男”として書き進めたのだ。
まあ、それを閃いたのは、市井がドラクエ３で間違って後藤を男にしていたのが発端だったし、
それに、あまり現実味を含ませると、彼女たちに迷惑がかかってしまう、という思いもあったかもしれない。

「本人が知ったらどう思いますかねえ」
「いや、頼むから絶対にばらさないでくれよ・・・な？」

236 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:36

そうこうしているうちに、後藤がELTの歌を歌って番組は終わりを迎えた。

「こういう曲歌わせてもらえれば、まだまだ売れると思うんだけどなあ」
「高音がかなり辛いみたいですけどね。でも確かにそれは一理あると思います」
「原色GALって感じじゃないよなあ。どう考えても・・・」
「方向性を見定める能力が欠如した事務所ですから。“ロックヴォーカリスト”の慣れの果てが口パクですし」
「さりげなく批判するんだなあ。・・・まあ確かに口パクってのは俺も好きじゃないけどな」
「歌が下手でも別にいいんですよ。重要なのは“魂”ですからね。あれじゃメンバーがかわいそうです」
「かわいそうねえ・・・確かにそういう見方もできるよなあ・・・」

福田は複雑な表情を浮かべていた。そしてそれも当然だった。
福田はモーニング娘。を脱退したことに対して、二通りの感情を併せ持っていたのだから。
それは後悔と満足――ただし、それはどちらの比重が重いかというようなものではなかった。
もし福田が脱退せずに今も現役であったとしても、その現状は決して満足できるようなものではないのだから。
そしてそのことを一番理解していたのは、福田本人だったのだろう。

「さて、番組も終わったことですし、そろそろ寝ますかね」
「ああ、そうだな。夜更かしは体に悪いしな・・・」
「そんなこと言って、また小説書くつもりでしょ？色んな出来事がありましたし」
「そりゃまあ、倒れちまったからなあ。ある意味おいしいハプニングってやつかもしれないけどな」
「私は見ないことにしてますけど、あまり無理しないでくださいよ」
「だな。まあ気ままに進めるよ・・・」
「あ、そうそう。私のことはもちろんかわいく描いてくださいよ。頑固で偏屈に描いたら許しませんからね！」

福田はこのスレの存在を知っていた。第四部の作成に関わったのだから、それも当然だろう。
しかし、第五部が始まった少し後、私は福田――紺野からもだ――から一通のメールを受け取っていた。
それは、自分たちが覗くことで、私が思い通りに書けないのではないか、というような内容だった。
そして二人は、私が許可しない限り、今後このスレを覗かないと言って――約束してきたのだ。

そして、そのことがあったからこそ、私は今、こうして自由に彼女たちを描くことができているのだ。
もちろん、リクエストに反して頑固で偏屈な福田の姿を描くことができるのも、そのおかげだった。

237 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:37

私はパソコンに向かい、その数日間に起こった出来事をまとめ始めた。
市井の引退発表があってからのメンバーの様子や、後藤のこと、前日に私が倒れたこと、
その時安倍が部屋を訪れたということ、そしてその日の福田とのこと・・・。

それをまとめ、更新した時にはすでに日付は変わっていた。
特に夜更かしということではなかったが、状態が状態なだけに、少し無理しすぎた感が否めなかった。
そしてパソコンの電源を切り、私は布団にもぐりこんだ。

静かな夜だった。時より車が行き交う音が聞こえてくるも、それも静けさに因むものなのだろう。
ここ数日、小雨が降ったり止んだりの天気が続いていたため、空気は奇妙に澄んでいた。
遠くの方で救急車の音が聞こえ、それに続いて犬の遠吠えが小さく響き渡った。

救急車のサイレンの電子音も犬の声も、人間の耳には全く別のものにしか聞こえない。
しかし、犬の耳には、そのサイレンの音は犬の――仲間の声に聞こえるものであるらしい。

なぜかそんなことを思い出していた。今流行りの些細な雑学的知識というやつだろうか。
自分が救急車で運ばれたことなどは全く思い出さなかったのに、余計なことばかりが頭をよぎった。

サイレンの音が途絶え、幾重にも連鎖していた犬の遠吠えもいつしか止んでいた。
辺りには再び静寂が戻っていた。閉じた目の中でただただ無音の世界だけが広がっていた。

私は言い知れない不安を覚えていた。それは孤独なのか、それとも恐怖なのか・・・。
日常生活には何の支障も無いはずだったのに、その無音の世界では全く違っていた。

決して倒れた時の痛さや苦しさを思い出したわけではなかった。
ただ、その時の状況が淡々と頭をよぎり、それがそうした不安を呼び覚ますものとなっていた。

時間の流れにそのまま飲み込まれてしまいそうな、あるいは逆に時間の流れから置いていかれるような、
そんな複雑な不安の中に私はいた。一言で言えば・・・それは“淋しさ”というものだっただろうか。

そしてその“淋しさ”から逃れる方法は一つしか無かった。それは誰かに頼るということしか・・・。

238 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:37

ドアの隙間からは光が漏れていた。もちろん、福田がいる――彼女たちの部屋だ。
私はそのドアをノックし、そして返事を待って部屋の中へと入った。

「一体どうしたんですか？眠れないんですか？」

福田は手に読んでいたと思われる本を持ったまま、ベッドから起き上がった。
下はパジャマで、上はさきほどと同じトレーナーを着ていた。
部屋の片隅のスピーカーからは、私の部屋から持ち出したらしいクラシックの音色が聞こえていた。

「ああ、なんつーかさ・・・眠れないっていうか・・・その・・・」

うまく説明できなかった。それに、素直に“淋しい”なんて、そんなことを言える勇気は無かった。
しかし、福田は私のその反応を見て、瞬時に私の気持ちを察してくれたらしい。

「一人で寝るのが淋しいんですね」
「・・・淋しいっていうか、なんというか・・・」
「仕方ありませんね。あんなことがあったんですし・・・今晩だけは一緒に寝てあげますよ」
「いや、一緒とかそういうのじゃなくて・・・ただ・・・」
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ。私がもうさくさんのママになってあげますから」
「だからなんでママとかそういう気持ち悪いこと・・・」
「それじゃ一日だけ彼女になってあげます。添い寝してほしいんでしょ？」
「・・・いや、いいや・・・なんつーか・・・おやすみ・・・」

そう言って私は部屋へと戻った。精神的に弱っているのは自分でも感じていたし、自分でも認めていた。
しかし、私の中にはまだ、精神的な弱さを人に見られたくないという強がった気持ちも残っていたのだ。

私は再び布団に入った。ただ、先ほどよりかは幾分――不安が楽になっているように感じた。
福田の顔を見たせいか、それとも福田が私の気持ちを察してくれたせいか、
とにかくそういったことが私の中での“淋しさ”を少し和らげてくれたのは確かだった。

ただし、福田にとっては、私のその行動はかなり心配なことであったらしい。そして・・・。

239 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:37

コンコンと小さなノックの音がして、部屋のドアがゆっくりと開いた。
そこには片手に枕を持った福田の姿があった。

「私もなんだか淋しくなってしまいました。一緒に寝てもいいですか？」

福田はそう言うと、私の返事を待たずに寝ている私に近づき、そして布団へともぐりこんだ。
慌ててスペースを空けたものの、それは決して承諾の意図を示したというわけではなかった。
ただ、そのゆっくりでありながら勢いのある福田の動作に自然と反応してしまっていたのだ。

私の頭の右側に新しい枕が置かれ、そこに暗闇の中、福田の顔が浮かび上がった。
そして少しこちらを向きながら、福田は私に話し掛けてきた。

「えへへ、もうさくさんももっと素直になるべきですよ」
「素直・・・ねえ・・・」
「あ、念のために言っときますけど、激しい運動は駄目ですからね」
「わかってるよ・・・」

そう言って笑い、私は少し顔を右に向けた。福田もほんのりとした笑顔を浮かべていた。

「もうさくさんが淋しがり屋さんなのはみんな知ってますよ。だから遠慮なんてしなくてもいいんですよ」
「別に遠慮してるわけじゃないし・・・」
「でもこうして一緒に寝てると、なんだか不思議ですよね。恋人でもないのに・・・」
「まあな・・・」
「・・・」

色々と話し掛けたいことはあった。でもそれらは頭に浮かんではすぐに消えていった。
そうした――福田曰く、不思議な――状況下だったのだから、それも当然だった。

「もうさくさん、しばらく女性と一緒に寝てないんじゃないですか？」
「余計なお世話だよ・・・」
「それじゃ感謝してもらわないといけませんね。こんな美女が添い寝してくれるんですから！」

240 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:37

福田は自分で言った“美女”という言葉がおかしかったのか、鼻の穴をピクピクさせながら笑っていた。

「“美女”は余分だけどな・・・でもまあ・・・ありがとな・・・」
「えへへ、今日何回目ですかね、もうさくさんに感謝されるの・・・」
「いつも感謝してるって・・・ただ、今日は精神的に弱ってたから・・・」

私は素直にそう答えた。しかし、その“素直”があまりにも素直すぎたのか、
福田はその私の“素直”を素直に受け入れることができなかったらしい。

「人が一番優しくなれるのは死ぬ直前らしいですからね。今晩が山じゃないですか？」
「まーた、どうしてそういう毒を言うかなあ」
「冗談ですよ。もうさくさんがあまりにも素直すぎるからちょっとからかっただけです」

二人で一つの布団で寝るというのは、普通ならばかなりドキドキするものだろう。
それもすでに慣れてしまった彼女ならいざ知らず、彼女でも何でもない女性ならばなおさら・・・。
しかし、その時の緊張は最初だけで、私はいつしか福田の温もりに安心を覚えていた。
ただ、人が弱っている時ほどからかいたくなるのが福田の習性であるらしく・・・。

「それじゃどうしましょうか。やっぱりおやすみのチューは必要ですよね？」

しかも顔は笑っているものの、目が笑っていないところがちょっと怖いものでもあり・・・。

「悪いけど却下な。それは素敵な彼氏を見つけた時にでもとっとけって」
「それはそうですね。消毒の用意もしないといけませんしね」
「消毒って・・・それはないんじゃねーの？」
「冗談ですよ。でも、本当にチューはいらないんですか？今日だけのサービスですよ？」
「ああ、いらない。って言うか、もうそれ以上誘惑するのやめてくんねーかな・・・」
「どうしてですか？」
「本気になっちゃうといけないからな。キスなんかしたら激しい運動したくなっちゃうだろ？」
「さすが女っ気ゼロのもうさくさんですね。ちまたで言うところの飢えてるってやつですね」
「・・・まあ確かに飢えてるけどさ・・・」

241 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:38

さすがにそれ以上、その話題を続けることはできなかった。
おやすみのキスなどしてしまった時には、私は多分猛獣になって福田に襲いかかっていたことだろう。

正直な話、私は二年以上、女性とそうした交渉を持っていなかった。
学生時代はまるで日課のようにこなし、彼女がいない時期には酔った勢いで・・・ということも幾度かあった。
しかし、後になって思い返すと、それらは決していい思い出というものではなかった。
むしろそうした交渉が無かった場合の方が、心の中では懐かしい――綺麗な思い出として残っていた。

そしてだからこそ、私にはそれ以上、その話題を続けることはできなかったのだ。
ここしばらく保っていた自制心が外れてしまった時、自分がどうなるのかがわかっていたのだ。
そしてその後に訪れる深い後悔の念も・・・。

「本当に悪いけど、冗談でももうその話題は無しな。お前の顔見れなくなったりしたら嫌だからな・・・」
「それは大丈夫ですよ。でも、もうさくさんがそう言うのなら、それに従います」

それはよくわからない答えだった。福田は本気で私を誘惑していたのだろうか。
いや、福田が本気だったのは確かだ。しかし、その本気は“誘惑”ではなく“からかい”だったのだろう。

こうして不思議な状況の中、私は眠りに落ちていった。
あれほど漂っていた淋しさが消え、落ち着きを抱きながら・・・。

翌朝、私が目を覚ますと、すでに隣には福田の姿は無かった。
福田はすでに朝御飯の支度を終えて、リビングでソファに座りながらテレビを見ていた。

「おはよー」
「おはようございます。よく眠れましたか？」
「ああ、お前のおかげでな、サンキュ！」
「私はもうさくさんの寝相のおかげで全く眠れませんでしたけどね。なんなんですか、あれは！」
「そんなにひどかったか？まあ昔はよくベッドから落ちてたけどな・・・」
「かなりひどかったですよ。あれはある意味“激しい運動”ですよ。ええ。間違いありません」
「そりゃ悪かったなあ。ていうか、お前そのフレーズ好きだよなあ・・・」

242 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:38

その日は何も無い一日だった。まあ一日中安静にしていたということになるだろうか。
朝に病院に行って検査を受けたくらいで、後は部屋の中でぼけっと過ごしていた。

福田は私が病院に行っている間にレンタルビデオ屋に行ったらしく、
私が気分転換がてらに作った昼御飯を食べた後、それを二人で見ることになった。
しかし、その借りてきたDVDは・・・。

「あのさ・・・それ・・・明日テレビでやるんだけど・・・」
「な、な、なんですって！！！」
「・・・」
「そ、そんな・・・私が・・・この私が・・・そのようなイージーミスを犯すとは！！！」
「そこまで落ち込むようなことでもないと思うんだけど・・・それに大体、『ゴジラ対メカゴジラ』って・・・」
「・・・もうさくさん、ゴジラ好きじゃないですか。だから一緒に見たかったんです・・・」
「まあ、どうせテレビだとカットされる部分あるだろうし、せっかくだから見るか」
「は、はい！」

せっかくの福田の好意を無駄にすることはできるはずもなく、結局私たちはそれを見ることにした。
オープニングが始まり、そしてしばらくしてタイトルが画面全体を覆い、そしてその時私は・・・。

「も、もうさくさん！な、なに泣いてるんですか！！！」
「い、いや、別に泣いてるわけじゃ・・・」
「で、でも目がウルウルしてるじゃないですか！ゴ、ゴジラで泣くなんて！しかもこんなところで！！！」

私は自分でもよくわからないのだが、映画などの最初のタイトルで泣いてしまうという変な癖があった。
いや、泣くというよりは、これから始まるんだといったワクワクとゾクゾクの交錯した感触が、
なぜか目を熱くしてしまうのだ。そしてそれは、自分でも止めることができない不思議なものだった。

「・・・そう言えば『ドラえもん』の映画でも最初のタイトルで泣いてましたよね・・・」
「あの場合はさ、なんつーか、のび太が叫んでタイトルが出るじゃん・・・あれがね・・・なんつーか・・・」
「『タイタニック』で死んだ乗員の数を笑いながら数えてた人と同じ人だとは思えませんね・・・」
「・・・」

243 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/04(木) 17:38

私が二十歳を過ぎた頃から、なぜかそうした不思議な現象が発生するようになっていた。
悲しい映画を見ても全く泣けないくせに、なぜかそうしたタイトルとその音楽によってのみ泣いてしまうのだ。
それも『ドラえもん』とか『ゴジラ』とか、小さい頃から親しんでいるものに関してその傾向が強かった。

多分、それは自分が大人になったということを無意識的に認識させられることが原因なのだろう。
ある意味、ピーターパン症候群と呼ばれるものの症状なのかもしれない。
大人になれない子供、そして子供になりたい大人――私は多分、その中間くらいで燻っていたのだろう。

映画を見終え、その日は夜にBSの歌番組を見るだけとなった。
その時に後藤が歌ったのは新曲の『原色GAL　派手にいくべ！』だった。
何度聞いても変な曲だったが、その時の後藤には、なぜかそれが似合っているように感じた。

「紅白でもこれ歌わせるつもりなんでしょうか。トップバッターならこの勢いもありかもしれませんが」
「うーん、確かにそれもありかもしれないけど、でもなあ・・・」

そんな会話をしているうちに、その日もまた寝る時間を迎えていた。

「今日はどうしますか？また一緒に寝てあげましょうか、淋しがり屋さん？」
「いや、もういいよ。落ち着いたし。それに俺、寝相悪いからな」
「遠慮しなくていいんですよ。私もそれくらいしか役に立てませんから・・・」

そう言うと、福田は私の返事を待たずに、自分の部屋から枕を持ってやって来た。
まあ二度目ということで、安心していたというのもあるのかもしれなかった。

しかし――それがまさか重大な事態を引き起こすことになるとは、私は全く予想だにしていなかった。
ただし、それは決して、私が猛獣に変身してしまったのでも、福田と間違いを犯してしまったのでもなかった。
そう、それは私たち二人ではなく、この部屋を必要としていた“ある一人の女性”にとって・・・。

――――――
　　 つづく
――――――

244 ：名無し娘。：2003/12/08(月) 03:37

おお、知らないうちに第５部が。
乙です。
期待してますぜ。
まあ、この期待度を表す方法としては
添い寝をしてあげるくらいしかないのかもしれないが。

245 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:10

＃８

「何をしてるんですか！早く追いかけてください！！！」

そう福田の怒声が聞こえ、私は言われるままに――反射的に立ち上がっていた。
そして開いたままになっていた部屋のドアから出ると、慌てて彼女の姿を探した。

しかし、時はすでに遅かった。
その瞬間にはもう、玄関のドアがガチャリと閉まる音が聞こえていたのだ。
その私の後ろから、福田が間、髪を入れずに声をかけた。

「早く追って下さい！何呆然としてるんですか！しっかりしてください！」
「あ……ああ……」

正直、私はその時、そのあまりの突然の出来事に我を失っていた。
何が起きたのか、そして自分が何をすべきなのかを冷静に考えることができなくなっていたのだ。
そうした私の態度に対し、福田は明らかに苛立ちの表情を浮かべていた。

「はやくっ！何してるんですかっ！！！もうさくさん！！！」

そう言って福田は唐突に私の頬をぶっ叩いた。バシッという乾いた音が響いた。
それは混乱していた私を正気に戻すための措置だったのだろう。

「あ、ああ。わ、わかった。と、とりあえずコンタクト……」
「コンタクトなんていいから！早く追いかけてください！！！」

福田が私の部屋から私の上着を取ってきて、玄関で慌てて靴を履いていた私に渡した。

「頼みましたよ！」
「あ、ああ……」

外は意外なほど寒かった。ここしばらく暖かい日が続いていたのが嘘のようだった。

246 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:10

私はちょうど止まっていたエレベーターに乗り込み、そしてマンションの一階へと下りた。
オートロックのドアを通り、走って建物の前の道路へと飛び出た。そこまで遠くへは行っていないはずだ。

左右を見渡す。しかしそこにはもはや彼女の姿は無かった。
いや、例え誰かがいても、コンタクトをしていない私の視力では、その判別はできなかっただろう。

彼女が左右どっちへ行ったのか、そしてどこへ向かったのか、私には全くわからなかった。
そしてふと考えたことがあった。こんな時、自分ならどこへ向かうだろうか、と。

――その事態は突然の出来事だった。
私は昨夜と同じように福田と一緒に寝ていた。もちろん何があるというわけでもなく、ただ話をしていた。

ところが、二人の話が盛り上がりかけた時、突然部屋のドアが開き、そして一人の女性が姿を現したのだ。
その表情までははっきりと見ることはできなかったが、その口調は驚くほど陽気だった。しかし……。

「ただいま〜！しばらくお世話にな……」

その陽気な言葉はすぐにトーンが落ち、彼女は数秒その場に立ち尽くした後、
慌てるように――まるで汚いものでも見てしまったかのように――私たちの視界からその姿を消したのだ。
その瞬間は、私も福田もただ呆然とするだけで、ようやく言葉が出てきたのはその姿が消えた後だった。

「い、市井！」
「さ、紗耶香！」

――とりあえず私はその道路を明るい大通りの方へと進んだ。
彼女が逃げるとすれば、それはいつも通っている駅やバス亭に向かう道だと思ったのだ。
一方の反対の道は、彼女たちはあまり利用せず、よく知らないだろうから、と。

大通りに出て再び左右を見渡した。オレンジ色の街灯と車のライトが眩く道路沿いを照らしていた。
しかし、コンタクトをはめていない私にとっては、それはぼんやりとした光の連続に過ぎなかった。
そして、そこを歩いている幾つかの人影も、私にはただのぼやけた固まりにしか見えなかった。

247 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:10

それから何分が過ぎただろうか。私は左に右にと走り回った。市井を見つけるために。
しかし、ふとあることが私の頭をよぎった。彼女は何のために家を出たのだろうかと。

それは決して自分の家に帰るためではなかった。むしろ、自分の頭を落ち着けるためだろう。
と言うことは、駅やバス停への道をいくら探しても、そこに彼女の姿があるというわけでもないのだ。
むしろ、頭を落ち着けるための場所――そこを探すべきだったのだ。

私は一度マンションの前に戻り、そして先ほどとは反対側の道へと進んだ。
その先には公園があった。そして更に進むと川沿いにもう一つの公園があった。
そこは私がよく利用していた公園だった。後藤や福田、それに紺野と一緒に来たことも何度かあった。

市井と来たことがあったかどうかは覚えておらず、また、多分無かったとは思うのだが、
しかし市井だってこの部屋には何度も来ているのだ。私が出かけている間に近所を出歩いたりして、
この公園の存在を知っていたとしても少しもおかしくはないのだ。

しかし――結局、私のその予想も外れていた。
公園には誰もいなかった。ベンチにも人はおらず、周辺にも市井らしき人影は見えなかった。
川沿いの遊歩道にも出てみた。しかし、そこにも市井の姿は無かった。

三十分くらいが過ぎただろうか。私は自分の部屋へと戻ることにした。
福田に言われて慌てて家を出たものの、やはりコンタクトをしていない状態では限界があったのだ。
それに時より吹き抜ける風が、私の就寝用のジャージの布目をすり抜け、寒さを直接伝えていたのだ。

そしてもう一つ……多分走り回ったせいだろう、私は心臓に再び違和感を感じてしまっていたのだ。

玄関のドアを開けると、すぐに福田が出迎えてくれた。そしてそこにはもう一人の姿も……。

「……なんだ、いたのかよ……」
「……うん……」

よくわからなかったが、市井は私が走り回っている間にこの部屋に戻っていたらしい。

248 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:11

どうやら福田が事情――私の心臓のことも含めて――を説明してくれたらしい。
市井は笑顔こそぎこちなく、どこか申し訳無さそうな表情をしていたものの、誤解だということは理解したらしい。

「まあ、なんつーか、結構探したんだけどな……どこにいたんだ？」
「それがもうさくさん、実は……」

私の行動は全くの無駄な努力だった。そして、それは私が冷静でいさえすれば、
すぐにわかったことでもあった。彼女は外へは出ていなかったのだ。
いや、彼女は部屋の外へは出たものの、マンションの外へは出ていなかったのだ。
彼女はエレベーターの奥にある、この階の階段にただ座っていたのだ。

そしてそう言われればそれも納得できることだったのだ。
私が彼女を追いかけた時、エレベーターはそのままこの階に止まっていたのだから。
普通ならそれだけで、彼女がエレベーターを使っていないということがわかったはずなのだが、
慌てていたせいか、それとも混乱していたせいか、私の頭はそこまで及ばなかったのだ。

「ごめんね……なんか迷惑かけちゃって……」

市井はそう言って謝った。
ただ、それが今回のことなのか、それとも引退のことも含めたものなのかはわからなかった。

「まあ、とにかく誤解が解けて良かったよ……」
「もうさくさんが淋しがり屋で添い寝してほしいなんて言うからですよ」

福田がそう言うと、市井が私の顔を眺めるように見て、そしてようやく笑顔を浮かべた。

「って言うか、今日はお前が自主的に来たんだろ？昨日はそりゃまあ……」
「強がっても無駄ですよ。そのことをさっき話したら紗耶香、大爆笑してましたから」
「ごめんごめん。なんかさ、まさか明日香に添い寝頼むとは思わなかったもんだからさ」

その話に私は少し安心――それは市井が思ったよりも元気だったということに対して――していた。

249 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:11

玄関からリビングに場所を移動し、私はその隙にこっそりと薬を飲んだ。
やはり激しい運動は駄目という医者の忠告は正しかったのだろう。
私の心臓は痛みこそしなかったものの、以前のような違和感を覚えていたのだから。

「それにしても、全く気づきませんでしたよ。物音だってしないんですから」
「ごめんごめん。ちょっともーちゃん驚かそうと思ってさ、それでこっそり忍び込んだんだよね」
「そしたら俺と福田が一緒に寝てたってわけか。そりゃ驚くよなあ」
「でもさ、冷静に考えると、二人がそういう関係になることはありえないんだよねえ」
「それはわかりませんよ。私だって年頃の女ですからね。色恋沙汰があってもおかしくはありませんよ」

福田はそう言ってニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
しかし、その笑みを見せられたんじゃ私も黙っているわけにはいかない。

「そうそう。それも自称“絶世の美女”だからな。俺も福田の“お色気”にはまいる時があるしなあ」
「自称ってどういうことですか！それにそのあからさまにからかうような口調はなんなんですか！」
「二人とも仲いいよねえ。なんかいいなあ。この部屋に帰ってきて良かったなって……そう思った」

市井はそう言って、どこか嬉しそうな表情を浮かべた。
それは口語的に不思議な構文であったものの、市井にしてはかなり珍しい素直な感情の文章化だった。

「そっか……もう……大丈夫なんだな？」
「うん……」
「それは安心しました。私なんか今でも時より未練と復讐の念にかられますけどね」
「なんでそうやって吹っ掛けるかなあ。せっかく市井が大丈夫だって言ってんのに……」
「あはは、でも大丈夫だよ。あたしにもそういうのはあるけど、でもね、なんか納得しちゃったから」
「ちょっと試してみただけですよ。もうさくさんはまだ紗耶香への接し方をマスターしてませんからね」
「それはそうだな。俺はお前への接し方をマスターするのに半年以上も無駄に費やしてるからな」
「それ、どういう意味ですか！」

福田とそういうやりとりをすることはよくあった。しかし、その日はいつも以上だっただろう。
それは二人がはしゃいでいたということなのだろうが、その理由はもちろん、目の前にいる市井の存在だった。

250 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:11

「みんな心配してるみたいだぞ。電話とかかけてないのか？」
「う、うん……落ち着いたらかけようかなって……」
「そっか。まあ慌てなくても時間はあるからな。とにかく、ゆっくりしてけよ！」
「ありがと……やっぱり、来て良かったな……」

そう言って市井はえへへっと笑った。それはいつもとは違った、透き通るような笑い方だった。

「紗耶香もようやく素直になれたようですね。後はもうさくさんだけですよ。素直じゃない人は」
「お前にだけは言われたくないけどな」
「ほんっと、仲いいよねえ……やっぱりエッチしちゃったんじゃないの？」

市井の冗談を聞いたのはいつ以来だろうか。
とにかく、それだけで私は嬉しかった。その言葉自体はもちろん問題だったが。

「とりあえず、今日はゆっくり風呂でも入ってさ、明日また話聞かせてくれよな？」
「うん。わかった」

そう言って私は自分の部屋へと戻った。市井がまたこの部屋に来てくれたことは確かに嬉しいことだった。
しかし、私はその裏に、ある大きなこと――不安を隠していたのだ。それは私の心臓の違和感……。

昨日今日と私の心臓は全く正常に機能していた。
しかし、それも日常の生活の範囲内でのことに過ぎない――そういうことに気づかされてしまったのだ。
たった少し走り回っただけで、私はまたもや心臓に違和感を覚えてしまっていたのだから。

医者は大したことではないと言っていた。でも、しばらく安静にするようにと言っていた。
それに薬を処方されていたし、定期的に病院に通うようにとも言われていた。
それはやはり、私の心臓が正常ではないということなのだ。そしてそれが大きな不安だった。

私はその不安を二人に見せないようにしながら――今度は、一人で布団に潜った。
リビングから聞こえていた二人の話し声もすぐに消え、ただただ一人の時間が過ぎていった。
もう日付は変わっていただろうか。と、突然部屋のドアが開き、その隙間から大きな物体が顔を覗かせた。

251 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:11

「もう寝てましたか？」
「いや、まだ起きてたけど……なんなんだ、それ？」
「淋しがり屋のもうさくさんを一人で寝かすわけにはいきませんからね。あっちの布団を持ってきました」
「明日香だけだと問題だからさ、あたしも一緒に寝てあげるよ。二つあれば三人で寝れるよね？」
「……」

私の反応を見るまでもなく、二人は私の布団の横に抱えていた布団を下ろした。
つまり、二つの布団で三人で川の字になって寝るつもりなのだろう。

「ほらほら、もうさくさんは真ん中に移動してください。今日は“美女”に挟まれて世界一の幸せ者ですよ」

その言葉に私はただただ照れ笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
私の右側には福田が、そして左側には市井がいた。確かに幸せ者には違いないだろう。
ただ、それとともにやっぱり嬉しかったのが、市井が私に――いい意味で、介入してきたということだった。
それまでの市井は部屋で過ごしていても、あまり積極的に私と関わろうとしなかったのだから。
それはやはり、市井が新しい一歩を踏み出したということなのだろう――私はそう受け取っていた。

それからは右の福田と左の市井がしばらく話を続けていた。
たわいのない話――でも、それもこれまでの市井にはあまり見られなかったものだった。
そしていつしか福田の声が聞こえなくなり、そして右側からすやすやと寝息が聞こえてきた。

「明日香……寝ちゃった？」
「……みたいだな……」
「もーちゃん、起きてたんだ……」
「……まあな……」
「緊張して寝れない、とか？」
「……どうだろな……」

その不思議な状況のせいか、それとも嬉しさと不安が入り混じっていたせいか、
私の反応はあまりいいもの――快活とはいえなかった。でも、市井はポツリ、ポツリと言葉を続けた。
まるで独り言のようだったが、しかし私のそのぎこちない反応を待っているのは確かだった。

252 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:12

その独り言のような会話もやがて静かに消え去り、部屋にはただ福田の寝息だけが聞こえていた。
私も目を瞑り、そして静かな、そして温かな眠りの世界に入ろうとしていた。

そしてその時だった。眠りに落ちる寸前に、私にはある一つの言葉が聞こえたような気がしていた。

「ごめんね……ありがと……」

それが現実のものだったのか、それとも夢の世界のものだったのかはわからない。
しかし、その日見た夢は、いつもとは違ってどこかのんびりした、そして幸せな余韻を残していた。

翌朝――私が目を覚ますと、すぐ目の前には市井の寝顔があった。
そしてそれだけではなかった。二人の体は一応離れてはいたものの、
私と市井はまるで紙一重で抱き合うような格好で、そして一部には触れ合っている部分もあったのだ。

私は慌てて離れ、そして音を立てないようにゆっくりと起き上がった。右側にはすでに福田の姿はなかった。

「おはようございます。よく眠れましたか？」

リビングで福田がニヤニヤしながら声をかけてきた。すでに朝食の準備はできているらしい。

「ああ、おはよう。今日の寝相はどうだった？」
「さすがに二人に挟まれていましたからね。“激しい運動”は無理だったみたいですよ」
「そっか。そりゃ良かった」
「でも驚きましたよ。目覚めたらもうさくさんと紗耶香が抱き合っていたんですから」
「バ、バカ言うなって！な、何言ってんだよ！」
「冗談ですよ、冗談。もしそんなことがあったら私がぶっ叩いてますよ。ええ」

福田のニヤニヤした笑みはそれが原因だったのだろう。
それにしても、今月の福田はどこかが違っていた。真面目のベクトルが別の方向へ向いているような。
何事も真面目なのはいいことかもしれないが、それにも限度というものがあるだろう。
このままではいつか危険な方向へと向かってしまいそうな、そんな少しながらの危惧を私は感じていた。

253 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/15(月) 23:12

市井が起きてきたのはそれから少し経ってからだった。
福田の作った朝食は、トーストとハムエッグ、それにサラダとコンソメのスープだった。

テレビを見ながらその朝食を食べると、驚くことに市井が言われるでもなく自分から後片付けを始めた。
その姿を見て福田が私にアイコンタクトを送ってきた。多分福田もそこに何かを感じたのだろう。

「そうそう、せっかくだからさ、たまには二人で買い物にでも行って来たらどうだ？」
「そういう場合はショッピングと言ってくださいよ。それじゃ近所に惣菜買いに行くみたいじゃないですか」
「なあ……お前もしかして反抗期だろ？」
「子供じゃないんですから、それを言うなら反骨精神とでも表現してください」
「明日香って頭いいよねえ。よくそんな難しい言葉知ってるよね？」
「……紗耶香まで私に嫌味ですか？ええ、頭はいいですよ。なんといっても定時制ですからね」

一見、どこかぎくしゃくした会話だったが、しかし、三人ともそれが冗談だということはわかっていた。
それはある意味、お互いを理解し、信用しているという証拠だったのかもしれない。

「でもせっかくだしね。一緒に遊びに行こっか。明日香はどう？」
「もちろんかまいませんよ。部屋でむさい男と一緒にいてもつまらないですしね」
「はいはい。どうせ俺はむさい男ですよ」
「とりあえず口ひげ剃ってくださいよ。顎ひげはいいんですけどね。両方合わせると凶悪犯ですよ」
「どうせ一日安静に過ごすんだからいいじゃねーか」
「それはそうと、どこへ行きましょうかね」
「無視かよ。……まあ、せっかく俺がいないんだからさ、街中でも行ったらどうだ？俺は人込み苦手だからさ」
「そうですね。もうさくさんが一緒だと人の多い場所には行けませんからね。新喜劇以外は」

結局二人はどこかへと出かけ、そして部屋には私一人が残されることになった。
しかし、その一人の部屋はいつもとは違っていた。まるで全員がそこにいるかのように温かく、そして……。

――――――
　　 つづく
――――――

254 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:40

＃９

「それ……どうしたんだ？」

思わずそう声をかける。玄関の――目の前の二人は、両手に抱えきれないほどの袋を手にぶら下げていた。

「どうしたって、買ったに決まってるじゃないですか」
「ちょっと買いすぎちゃったかな？やっぱり買いすぎ？買いすぎ？……だよねえ」

二人はそう言って顔を見合わせると、私の引きつった顔とは対照的に満足そうな笑みを浮かべた。

「いや、でも買いすぎって言うか……よくそんなに買ったなあ……」
「冬物とか揃えたかったしね。こっちに持ってきてる服だけじゃ足んないしさ。それに靴も欲しかったし」
「タクシー代はかかりましたが、元は十分取ったと思いますよ」
「タクシーまで使ったのかよ……そりゃ一大事だな……」

私のその言葉は、ある種の羨望と感心と揶揄と嘲笑と皮肉の入り混じったものだった。
買い物に行くようにと提案したのは私なのだが、まさかそれほど買い込むとは予想していなかったのだ。

「買い物というのは女性にとっては特別な意味を持っていますからね」
「でも特別すぎるんじゃないのか？さすがにその量は……。幾らくらい使ったんだ？」
「やれやれ。もうさくさんはほんっと女心がわかってませんね。お金の問題じゃないんですよ」
「お前に女心があるとは初耳だけどな……」
「あはは。もーちゃんひど〜い！明日香だって一応は女なんだよ〜！」
「一応ってなんですか、一応って！」

とにかく、二人はショッピングとやらを満喫してきたらしく、表情がそれを物語っていた。
二人はガサゴソと紙袋の音を擦り鳴らしながら自分たちの部屋へと戻ると、
袋の中身を一つ一つ確認しているのだろうか、二人のはしゃぐ声はリビングにまで届いていた。
やはり女性にとって“それ”は特別な意味を持っているのだろう。私には理解できないことではあったが。

255 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:40

しばらくして――それから二十分くらいだろうか、二人はリビングの私の前にようやく姿を現した。

「そうそう。ちゃんともーちゃんの分も買ってきたんだよ！」
「え？……俺の？」
「そうですよ。紗耶香がもうさくさんがいつもみすぼらしい格好ばかりしてるからって」
「まあ確かに自分でもそう思ってるけど……ファッションとかぜんっぜんっ興味ないしなあ」
「だから、はい！二人で選んだんだよ！」

そう言って市井は私に一つの袋を差し出した。しかし、その袋にあったロゴマークは……。

「……って……これユニクロじゃん……」

唖然とする私の表情を見て、二人は思い出したかのように同時に声を出して笑った。

「もうさくさん、ユニクロ好きでしたよね。気を利かせたんですけど、気に入りませんでしたか？」
「そうそう。だっていつも着てるじゃん！ねえ？」

そう言って市井は――私ではなく、福田に対して同意を求めた。

「好きで着てるわけじゃないんだけどな……お前らわかってて買っただろ！」
「あらあら、もしかして気に入りませんでしたか？」
「まあ……せっかく二人が買ってくれたんだし、な。ありがたくいただくよ。……ありがとな」
「やっぱりユニクロにして良かったね。ね、明日香？」

それは私が完全にからかわれていたということだったのだが、
しかし、私にはそれ以上に二人のその行為――好意なのだろう――が嬉しいものだった。

それからの二、三日はそうしたのんびりとした三人の生活が続いた。

市井は今までとは打って変わって落ち着いていた。多分、背負っていた苦悩から解放されたからなのだろう。
そして、それは私が心臓のことがあって一週間バイトを休ませてもらっていたのも、時期的に好都合だった。

256 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:40

そして金曜日――その日の夜は少しだけ特別な夜だったかもしれない。
いや、それは二人にとって特別ということではなく、私が関係するという意味でのみ特別だったのだが。

その夜は特におもしろいテレビもなく、私たちは三人ともそれぞれ気ままな時間を過ごしていた。
市井は雑誌を読みふけり、福田は私が買った後藤主演ドラマの原作の文庫本を読んでいた。
リビングのテレビは誰が見るでもなくついていて、私はぼーっとテレビの画面――ニュースを見ていた。

ところがニュースが終わって私が寝ようとすると、二人は途端に――それも一方的に会話を始めたのだ。
まるで私が寝るのを阻止するかのような、そして私を引き止めるような、そんな感じだっただろう。

「悪いけど、俺もう寝るから……話ならまた明日聞くからさ」
「それは駄目です。まだ話があるんですから」
「そうそう、明日香、明日帰っちゃうんだから。ね？」
「もう十分話したと思うんだけど。大事な話なら別だけどな」
「大事な話ですよ。もうさくさんにとって……とっても……」

福田はそう言って真剣な面持で私を見た。市井はそれとは対照的に、どこかにやけているように見えた。

「で、なんなんだ？その大事な話って」
「明日、何の日かもちろん知ってますよね？」
「明日？……さあなあ、何かあったっけか？」

私は流すように答えた。しかし、私はその福田の言葉で、二人が何を言いたいのかを大体理解していた。
なぜなら、それを一番意識していたのは私であって、そして――その答えは偽りだったのだから。

「ひどい男ですね……もうさくさんって。正直、見損ないましたよ……」

福田は私を軽蔑するような表情を浮かべた。しかし、それは私の演技に騙されたということでもあった。
いや、それは演技というものではなかったのだろう。私の演技は確実に学芸会レベルでしかないのだから。
多分、私が一番触れられたくないことだったからこそ、自然とそういう反応ができてしまったのだろう。
自分の本当の感情を隠すという点で、それは演技というものではなく、私の本音そのものだったのだから。

257 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:40

「明日は圭ちゃんの誕生日だよ……」

市井が呆れたようにそう呟くと、それに合わせるように福田が軽く溜息をついた。

「ああ、そう言えばそうだったっけか？」
「そう言えばって……何ですかその言い草は！自分の好きな人の誕生日ですよ！」
「なんだよ、その好きな人とかって……そんなのお前には関係ないだろーが」
「何言ってるんですか！関係ないわけないじゃないですか。これは私たちの問題でもあるんですよ！」
「ほんっと、もーちゃんって素直じゃないよね。ある意味私以上かもしんないよ」

市井はそうぶっきらぼうに言うと、福田をなだめるようにその頭を軽く撫でた。

「いいですか？誕生日というのは女性でなくても大切なイベントなんです！」
「へぇー、俺は誕生日なんて全然興味ねーけどな」
「それは知ってますよ！もうさくさん、自分の誕生日、誰にも教えてないですもんね！」

その福田の言葉は事実だった。私は誕生日というものに対してあまりいい印象は持っていない。
特に不遇な子供時代を過ごしたということでもないが、ただ、昔からなんとなく苦手だったのだ。
その理由を一言で言えば、それは年を取りたくない、ということになるのかもしれない。
自分の思う年齢相応の理想像に対し、今の自分が全く追いついていないことを痛感しているのだ。
だからこそ、自分が理想とするその人間像から益々遠ざかっていく自分、というものを隠したかったのだろう。

「そう言えばそうだよね。私ももーちゃんの誕生日聞いたことないよ。年は知ってるけどさ」

市井が今さら気づいたかのようにそう口にした。

福田と市井の言う通り、この部屋に来る彼女たちは誰一人として私の誕生日を知らなかった。
知っているとすれば、石黒と同級生でありながら今のところは一つ年下、ということくらいだろう。

私が彼女たちのことを完全に把握していないのと同様に、彼女たちもまた私を把握していないのだ。
それはある意味、私が彼女たちから距離を置く必要を“今も”感じている、ということなのかもしれない。

258 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:41

「とにかく、圭に電話してください！あと十分で日付が変わりますから。その瞬間を狙うんです！」
「そうだよ。一番最初に電話してきたら、絶対圭ちゃんも喜ぶってば！」
「だから、なんでお前たちにそんなこと言われなきゃいけないんだ？」
「決まってるじゃないですか！もうさくさんが臆病で意気地無しで後ろ向きで優柔不断だからですよ！」
「はいはい、どうせ俺は臆病で意気地無しで後ろ向きで優柔不断ですよ」

その言葉は、私が福田に対して喧嘩を吹っ掛けた、もしくは喧嘩を受けた――ということだったのだが、
しかし、福田はその言葉をいつもの冗談――普段の二人のやりとりだと受け取ったらしかった。
表情がどこか緩み、口調もそれまでの早く強いものから、ゆっくり優しいものへと変わっていた。

「いいですか？なにも愛の告白をしろなんて言ってないんですよ。ただ電話をかけてほしいんです」
「そうだよ。誕生日おめでとうって言うだけだよ。もーちゃんでもそれくらいは一人で言えるよね？」
「だから、なんで俺なんだよ。お前たちが電話すればいいじゃねーかよ」
「まだわかってないんですね。私たちじゃ駄目なんですよ。圭が一番喜ぶ人じゃないと」

一番喜ぶ人……福田はさりげなくそう言ったが、私にはその言葉を信じることはできなかった。
保田と私の関係は夏頃から徐々に冷め始め、秋の終わりには自然と落葉してしまっていたのだから。
そして、そう言った福田自身も、ほんの数日前にそんな二人の状態を“隙間風”と表現していたのだから。

「もうさくさんがそういう態度だから圭も受け身になっちゃうんですよ。圭はずっと待ってるんですからね？」
「なんだかんだ言ってもお互いに好き合ってるんだからさ。今のうちになんとかしないと、ほんっとヤバイよ」
「だから……それはお前たちには関係ないことだろ？例え俺が保田のことを好きでもお前たちには……」
「紗耶香、今の聞きましたか？」
「うん。ばっちし聞いたよ！」
「もういい加減、自分の気持ちに素直になってくださいよ。見てる方はじれったくてたまらないんですから」

福田は再び真剣な表情に戻っていた。それは絶対に自分の考えを譲らない、という時の表情でもあった。
こうなると福田は絶対に引き下がることをしない。ある意味頑固だが、それが福田の強さでもあった。
自分の信じるものに向かって真っ直ぐに進む――それが福田の性格だった。
しかし、それは決して自分の考えを相手に無理やり押し付ける、というものではない。
むしろ、その自分の考えが相手に伝わらないことを歎き、逆に自分を責めるのが福田なのだ。

259 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:41

「見てる方はって言われてもな、別に見せたくて見せてるわけじゃねーしな。勝手に見てるだけだろ？」
「それじゃ困るんですよ。もうさくさんが圭のことを想ってるってところをちゃんと見せてくれないと……」
「なんだよそれは……わけわかんねーし。それになんでお前が困んだよ」

そう言ったものの福田の表情は変わらなかった。
ただし、その隣の市井はその言葉に何かを感じたのか、なぜか不敵な笑みを浮かべていた。

「ほらほら、明日香がここまで言ってんだからさ、電話するだけでいいんだから」
「何と言われても俺は電話しないからな。例え電話するつもりだったとしても、言われてやることじゃないし」
「なーんだ。そんなことかー。それって、電話するなら自発的にしたかったってことだよね？」
「そんなことは言ってないけどな……ただ、そういうのは言われてやることじゃないし……」

市井はその言葉で私の気持ち――ある種の行動理念だろうか――を理解したらしかった。
勉強していない時に勉強しろと言われるのは私としても全然かまわないのだが、
勉強するつもりがある時にそう言われると逆にやる気を無くしてしまう、それが私の性格だった。

やる気にさえなればなんでもできる、それが小さい頃の私だった。成績も良く行動力もあった。
しかし、そのやる気は些細なことで吹き飛んでしまう――そしてそれが今の私にまで続いているのだ。
もちろん、そうやってやる気を無くしても困るのは自分だということには昔から気づいていた。
でも、気づいていてもそれを止めることはできなかった。悪い意味で意固地、それが私の基本性質なのだろう。

「でも言われないと何もしないのがもうさくさんの悪いところですからね。ここは絶対に電話させます！」

私とは正反対に、いい意味で意固地な性格の福田が強い口調でそう言った。

それにしても、福田がここまでこだわるというのもかなり珍しいことだった。
私が保田に電話をかける、それが福田にとってそれほど重要なことなのだろうか、といった疑問が浮かぶ。
特にお互いのプライドを懸けて言い争いをしているというわけでもないのだ。

しかし、ここまでくるとさすがに何らかの禍根を残すことになるかもしれない、という懸念が頭をよぎる。
福田が折れる気配は全く無かった。となると、残された選択肢は……。

260 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:41

「わかったよ……電話すればいいんだろ？」

福田の大きな溜息が聞こえた。市井は二人の顔をキョロキョロと面白そうに見比べていた。

「本当に困った人ですね。最初から素直にそうすれば良かったんですよ」
「今日のところは明日香の勝ちみたいだね。やっぱりもーちゃんでも明日香にはかなわないかー」

市井は多分、私たち二人の頑固さについて言ったのだろう。そして福田の方が頑固だったと。
しかし、福田はその言葉になぜか気分を良くしたらしく、私に向かって最後のとどめの言葉を発した。

「やれやれ。こんなに頑固な人を好きになる圭の気持ちが私には全く理解できませんよ」

その言葉に市井は笑いながらソファから立ち上がると、一言だけ言い残してリビングを出て行った。

「ちゃんと電話するんだよー。聞かれたくないだろうから、私あっちに行ってるね」
「それでは私も席を外すとします。日付が変わった瞬間が効果的ですからね」

福田が市井の後を追うように部屋から出て行く。私はただその後姿を眺めていた。
そしてふと疑問を覚える。二人は私のためにわざわざそんなことを言い出したのだろうか。
それとも保田のためなのだろうか。あるいは、もっと別の理由があったのだろうか。

ただ、それは私が考えるようなことではないのだろう。それは彼女たち個人の問題なのだから。
そして私や保田に対してどのような気持ちを持っているのか、そういうことの表れなのだろうから。

私は自分の部屋に行き、充電器に置きっぱなしになっていた携帯を取り出した。
住所録から保田の番号を探す。もちろん彼女たち全員の連絡先がそこには入っていた。
ただし、私から保田へかけるというのは、もしかすると半年ぶり以上だったかもしれない。

そう思うと――ただボタンを押すだけなのに――やたらと緊張を覚えてしまう。
福田から念を押されたように、部屋の時計の秒針を確認しながら、その重いボタンを押す。
そして押した後で気づく。何と声をかけるべきか、そして何を話すべきか……。

261 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:42

「あ……俺だけど……」
「もーちゃん？」
「ああ。ってか画面に名前出てるだろ？」
「うん。出てるよ。珍しいからちょっとびっくりしちゃって」
「まあ……なんつーか、俺からお前に電話す……」

そこまで言ったところで保田が矢継ぎ早に私の言葉を遮った。

「ねえ、もーちゃん大丈夫だったの？倒れたんでしょ？救急車で運ばれたって聞いたよ？」
「なーんか楽しそうだな。まあ一応大丈夫っぽいけどな」
「そっか。心配してたんだよ。みんなからは大丈夫だって聞いてたんだけど……」
「まあ心配するほどのことでも無かったからな。さっきも福田と市井にいいように遊ばれてたし」
「そっか。紗耶香来てるんだよね。明日香からメール貰ったんだよ」
「ああ。なんか今までとは別人みたいだぞ。福田と二人で楽しそうにしてるし。福田もちょっとおかしいしな」

それを聞いて保田はどことなく嬉しそうだった。もちろんその表情を見ることはできないが、
ただ、そんな雰囲気がその携帯の電波を通じて私に語りかけてきていたように感じられたのだ。

「そうそう。テレビみたよ。あの深夜にやってるやつ。藤井隆の」
「あはは。マシューね。見ちゃったんだ、マシュー」
「お前、タクシーの運ちゃん誘ったんだってな。あれか？前に俺が断ったやつだろ？」
「そうだよ。みんなに駄目だって言われちゃったから。念のためにもーちゃんにも聞いたのにね」
「念のためってなんだよ。まあ俺はどうせそっちには行かないけどな。それにお前と二人なんてご免だし」

それは決して会話が弾む、というものではなかったが、しかし、なぜかそれが途切れることはなかった。
淡々とした会話のリレーが続き、私が倒れたことや市井のこと、保田の舞台稽古のことなど、
とにかく、一ヶ月分――もしくはそれ以上の会話が次々と話題にあがっていた。

「で、舞台はどうなんだ？かなり搾られてるんじゃないのか？」
「そっか。まあ誰もお前に演技なんて求めてないんだしさ……って冗談だよ、冗談。そんなに怒るなって」
「ん？なんでだ？見に来ないでなんて言われると無理してでも見に行きたくなっちゃうけどな」

262 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:42

五分くらいが過ぎただろうか。電話の苦手な私にしてはそれはかなりの長電話だった。
特に何かを意識するということもなく、私は普通に会話をこなしていた。
ただ一つ忘れていたのは、その電話を何のためにかけたのか、ということだった。

「ねえ、それより、なんで電話してきたの？珍しいよね？もーちゃんが電話してくるなんて」
「あ、ああ……あのさ、なんつーか、ほら、お前、今日誕生日だろ？」
「……うん……そっか。それで電話してくれたんだ」
「まあな……ってか、正直に言うけど、福田と市井から催促されてな……」
「……ははは。そうだよね。もーちゃんが誕生日祝ってくれるなんて、なんか、らしくないもんね」
「なんだよそれ。せっかく電話してやったのに……」
「冗談だよ、じょ、う、だ、ん！」
「とりあえず、誕生日おめでとう。……まあなんだ、らしくないけどさ、たまにはこういうのもいいだろ？」
「うん。ははは。なんか照れるね。もーちゃんからおめでとうなんて、卒業以来じゃないかな？」
「だな……まあ、それにあれだ。久しぶりにさ……その……なんつーか……」
「久しぶりに、何？」
「いや、ははは。まあなんでもないよ。気にすんな。特に大したことじゃないから」
「変なのー」

私が言わなかった言葉……いや、言えなかった言葉……。

――声が聞きたかった。

誕生日なんてどうでもよかった。私はただ、彼女の声が聞きたかったのだ。
それが私の素直な気持ちだった。そして、そんな素直な気持ちを素直に言えないのが私の性格だった。
ある意味で、それが私にとって最も素直な態度だったのかもしれない。
自分の性格に無理してまで素直になることは、私にとっては逆に素直とは言い難いものなのだから。

電話を切ると、途端に全身を脱力感が襲う。話している間は全く意識していなかったものの、
私はかなり緊張していたのだろう。それもそのはず、電話の相手は私が大好きな女性だったのだから。

なんだかんだ言っても私は彼女のことが好きなのだ。それはさっき市井に言われた言葉でもあった。

263 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:42

電話が終わって少ししてから市井と福田が姿を見せた。

「ちゃんと電話したみたいですね。今、圭に確認しましたから」
「……確認って……何やってんだ、お前ら……」
「でもさあ、正直に言わなくても良かったのにねえ。ほんっと、そういうとこが馬鹿正直なんだから」
「……なあ、お前らが電話すんなら、俺がしなくても良かったんじゃん……」
「やれやれ。まだ私たちの善意がわからないんですか？感謝されこそすれ、文句を言われるとは……」
「はいはいどうもありがとうございました感謝してます。これでいいか？」

福田はどこか納得のいかないような表情をしていた。
私がわざわざ福田向けに――福田が喜ぶような感謝の言葉を述べたというのに。

「それじゃ私はもう寝ますから。明日の朝に帰りますからね。寝坊なんてしないでくださいよ」

そう言って福田はリビングから出て行った。やはり今週の福田はどこかがおかしかった。
あの日なのだろうか、などといったことを考えてしまうほど、いつもとは違っていた。
自分で自分のことが許せない、というような感じにも思えた。自己嫌悪にでも陥っているのだろうか。

そんなことを考えていると、市井が――さきほどからずっとニヤニヤしている――話し掛けてきた。

「もーちゃんも、もう少し女心勉強した方がいいかもね。じゃ、私も寝るから。おやすみ！」
「はあ？」

市井が何を言いたかったのか、私にはわからなかった。
言われた通りに保田には電話をかけた。一応、それは私が女心というものを解そうとしたからだった。
しかし、それでも私にはまだ理解できていないものがあったのだろうか。
とすればそれは何なのだろうか。保田のことなのか、それとも別のことなのか……。

翌朝、その日は福田が東京に帰る日だった。福田は東京でバイトもしているし、学校にも通っていた。
それなのに一週間もの休みを取って来るというのはやはり並大抵のことではなかった。
ただ、福田という人間にはどこか不可能を可能にするような、そんな底力というものがあった。

264 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:42

それに、学校は四年制の定時制ということで、普段真面目に通っている福田にとって、
一週間くらいの休みというのはそこまで影響を及ぼすようなものではなかったらしい。
バイトも同様で、それはシフトを少しいじれば済むようなものだったらしい。

問題は金銭的な面だったが、そこにはなぜか特別な措置が取られていた。

「おーい、そろそろ時間だぞ。準備できたか？」
「もちろんですよ。そんなことより、駅まで見送りに来てくれるのなら寝癖くらい直してくれませんか？」
「わかってるって。そうそう、姉さんからの交通費ちゃんと受け取ったか？」

この部屋に来るメンバーの中で、福田だけが中澤から交通費を受け取っていた。
それは福田が一般人であり、そして未成年だったからなのだろう。
一人だけ特別待遇ということになるのだろうが、それに異論を唱える者は誰もいなかった。
ある意味、メンバー全員にとって、福田というのは特別な存在だったのかもしれない。

「それじゃ行くか。市井はまだいるんだよな？」
「なんか一緒に帰れって言ってるみたいだよね。残念だけど当分いるから」
「ははは。まあゆっくりしてけよ。俺も広い部屋に一人ってのは好きじゃないしな」

三人で駅まで見送りに行く。普段はそんなことはしないのだが、
一週間も部屋で安静にしていたこともあり、また、それが今年最後ということもあった。

久しぶりの新大阪のホーム。しばらく見ないうちに新幹線というのはかなり進化していたらしく、
昔の丸みを帯びたかわいらしい車両は見当たらず、ホームには不思議な形状の車両が停まっていた。

アナウンスが流れ、福田がその車両の中に入っていく。

「次に会うのは来年ですね」
「ああ、来年も、いい年になるといいな」
「それは違いますよ。いい年になるといいな、じゃなくて、いい年にしような、でしょ？」
「ははは。そっか。そうだよな。ああ。……来年もいい年にしような！」

265 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:43

その言葉が福田の全てを表していたのかもしれない。
普通の凡人なら、“いい年になるといいな”とついつい考えてしまうが、
それは社会や時代の流れに全てを委ね、任せているということになるのだろう。

しかし福田はそうではないのだ。“いい年にしような”というその福田の言葉には、
自分で人生を切り開くという意味と、そして明確な自己の意志が込められているのだから。

列車はゆっくりと動き出し、そして徐々に加速しながらホームから離れていった。
まるで今年一年がゆっくりと、そしてあっという間に過ぎ去ったかのように。

「なあ、福田ってさ、昔からああなのか？」
「ああって？」
「だからさ、なんつーか、昔からああいう性格なのか？しっかりしてるというか……」
「そっか。もーちゃん、全然知らないんだよね。昔のこと」
「まあな。福田が歌ってる姿とかもほとんど見たことないしな」
「あ、じゃあさ、私がいいもの買ってあげるよ。いつも迷惑ばっかりかけてるし、ね？」
「まあ迷惑はかけられてるからな。断る理由はないだろうけど」
「なによそれ。そういう場合は否定してよ。まじでショックなんだけど」
「冗談だよ。冗談だってば。お前、結構真に受けるタイプだな？」

市井が買ってくれたもの、それはモーニング娘。のライブDVDだった。それも福田が卒業した日の。
家に帰り、早速そのDVDを見る。

しかし、それは衝撃だった。――それもかなりの。

そこに映っていたのは、私が知っているモーニング娘。ではなかった。
メンバーはまだ８人で、そこには後藤の姿すら無かったが、しかしそれはそのこととは関係なかった。
とにかく、今のモーニング娘。にはない迫力と緊張感があった。そして個性があった。

保田だけがあまりパッとしてなかったものの、他のメンバーは全員がそれぞれの個性を持っていた。
そして、その全ての個性を吹き飛ばしても余りあるほどの強烈な個性を放っていたのが……。

266 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:43

福田明日香――当時１４歳。

私はその姿に唖然とするばかりだった。言葉が出てこなかった。
世の中広しと言えども、これほど強い１４歳というのは多分、他にはいないだろう。

「どうだった？」

終わった頃を見計らってやって来た市井が私に声をかけた。

「ああ、なんつーか、凄かった」
「でしょ？」
「只者じゃないとは思ってたけど、そこまで凄い奴とは思ってなかったからな……」

それを聞いて市井はちょっと自慢気な表情を浮かべた。

「いやはや、ほんと凄いわ。ちょっと惚れたかもしれん」
「惚れたって、明日香に？」
「ああ、勘違いすんなよ。人間としてってことな」

私は福田のその過去の姿に魅せられていた。そしてあることを理解していた。
それは姉さんがその舞台の上で言った言葉――それもある意味でヒントになっただろう。

――モーニング娘。は永遠に８人です！

彼女たちにとって、その言葉は今も続いていたのだろう。
メンバーはそれから増減を繰り返したものの、彼女たちにとってのモーニング娘。は今も昔も……。
福田という一人の少女の存在は、それほどまでに大きいものだったのだろう。

こうして単に過去の映像を見ている私がそう思えるほどなのだ。
福田と一緒に過ごしていた彼女たちにとっては、それはもっと大きな意味を持っているはずだった。
そして、それこそがこの部屋の存在意義だったのかもしれない。――そう思えたのだ。

267 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:43

「凄いよね。明日香ってさ……」

市井がちょっと淋しそうにそう言った。

「ああ、強いよな。……ちょっと弟子入りしたい気分だわ」
「弟子入りって？明日香に？」
「ああ、今度から師匠って呼ばせてもらおうかな？」

笑いながら言ったものの、それは冗談ではなかった。私は本心から福田を尊敬したのだ。
ただし、それはただ福田の表面的な強さというものに対してのものではなかった。

その強さからはどこか儚いものを感じてしまうのだ。
ある意味、自分の弱さを知っているから、痛感しているからこそ強くなれる、というものなのかもしれない。
だからその強さには、どこか淋しげな色が垣間見えてしまうのだ。
そして、それが福田の人間味というものを更に深くさせていたのだろう。
それはその画面に映る過去の福田だけではなく、今の福田の姿にも当てはまるものだった。

自分の弱さというものを知りながらも何もできない自分……。
それに比べて、福田はその弱さと真正面から向き合い、そしてそれに打ち勝とうとしていたのだ。
それは福田がその日の別れ際に言った“いい年にしよう”という言葉とも共通していただろう。

「ねえねえ、明日香はいいんだけどさ、私はどうだった？」

市井が突然話題を返る。私があまりにも福田のことばかりを話していたからなのだろう。

「ああ、お前ね。なんつーか、ちょっと空回りって感じだったかな？」
「……」
「お前さ、なんかさ、もしかして福田みたいになりたいって思ってたんじゃねーの？」

その瞬間、市井の表情ががらっと変わった。まるで気づいていないものに気づかされたように……。
私はその後は言わなかったものの、ただ、それは言わなかった方が良かったのかもしれない。

268 ：◆5/w6WpxJOw ：2003/12/30(火) 18:43

市井は多分、福田のことを少し見下していたのだろう。いや、福田だけではなく、全ての人間を……。
しかし、市井は福田の強さには勝てないということを知っていたのだろう。
だからこそそこで歯車が狂ってしまったのだ。もちろんそれは私の勝手な推測に過ぎないが。

「まあ、福田は福田だし、お前はお前だからな。俺も俺だけど……」
「よくわかんないよ」
「あはは。まあ俺はお前の歌が好きだしな。それでいいんじゃねーの？」
「そういうファンしかいないからこうなっちゃたんだよ。あ〜あ、なんで一般受けしなかったのかなあ」
「おいおい、俺も一応普通の一般人だぞ。確かに音楽的感性は普通じゃないけどさあ」
「もう、認めないでよね。もーちゃんが普通のセンスしてたらまだ救われたんだけどなあ」

元々暗い性格の二人ということもあるが、話はいつの間にか自虐的な方向へと向かっていた。
さすがにこの二人でそんな話をしていたのでは空気が持たなかっただろう。

「さーてと、明日からまたバイトだし、たまにはゲームでもやるか？」
「もーちゃんがゲームとか珍しいよねえ。どうしちゃったの？」
「てか、お前最近ゲームやってないだろ。そっちの方が珍しくないか？」

福田がいたせいもあるのだろうが、市井は来てから一度もゲームをしていなかった。
それはもう現実逃避をする必要が無くなったということなのかもしれない。
ただ、そうは言っても、それまでの生活を一気に180度変えるというのもまた危険な反応だった。

私も市井も福田のようにはできないのだから……。だから、少しずつ、少しずつ自分を変えていくしか……。

「ほんじゃ対戦でもすっか。キン肉マンでいいよな？」
「いいよ。それじゃ私はテリーマンとアシュラマンね」
「きったねー、テリーマン使うのかよ。じゃあ俺もブロッケンマン使うからな！文句なしだぞ！」

――――――
　　 つづく
――――――

269 ：名無し娘。：2003/12/31(水) 19:12

更新乙です。
私も7の時から見てます。
来年もこのスレを楽しみにさせてもらいますね。

270 ：名無し娘。：2004/01/02(金) 12:48

“いい年にしような”ここの件いいね

271 ：名無し娘。：2004/01/04(日) 10:17

辻加護卒業でどうなる？

272 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:58

それはあまり目覚めのいい朝とは言えないものであっただろう。

眠っている私の耳に突如として騒がしい音が聞こえた。――それは玄関をドンドンと力強く叩く音。
夢の中にいた私にも、それが誰かが玄関を叩いている音だということは認識できていた。
そしてまた、私は夢の中でそれを冷静に分析していた……。

その日、彼女たちの誰かがこの部屋を訪れる予定は確か無かったはずなのだ。
それもその元日の朝――いわゆる元旦だ――に訪れるなど、どう考えてもありえなかった。
しかしまあ、実際にドアを叩く音が聞こえていたのも確かだった。

私は夢の中でそう分析し終えると、目を開け、そして起き上がって、ゆっくりと歩いて玄関へと向かった。
それは新年になって初めての目覚めではあったが、私にはそれが新年だという実感は無かった。

ドアを開けると、そこには中澤姉さんが立っていた。艶やかな着物姿で、髪も綺麗に結ってあった。
多分鍵を忘れて入れなかったのだろう。新年早々おっちょこちょいだと思いながらも、
私はそのいつもとは違う華麗な外見の姉さんに見惚れてしまっていた。しかし……。

「どうしたんすか？今日来るなんて聞いてないですよ」
「ああ、ちょっとな、あんたに大事な話があってな」
「大事な話……ですか？」

新年の挨拶も無いまま、姉さんはその場に立ったまま話し出した。それも単刀直入に……。

「あんな、もうこの部屋、終わりにしようて思ってんねん」
「な、なんでですか！」

私は全身から一気に汗が引くのを感じていた。その言葉はあまりにも突然だったのだ。
姉さんはそんな私の様子に全くかまうことなく、淡々とした口調で話を進めた。

「もうな、この部屋の役割は終わったねん。もう……用済みや」
「そ、そんなことないですよ。ま、まだまだみんなにはこの部屋が……」

273 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:58

私は必死で抵抗していた。まるで自分のテリトリー（居場所）を守ってでもいるかのように。
しかし姉さんの表情は、全く変わらなかった。

「いいや、もうこの部屋は必要ないんや。あると思ってんのは、“あんた”だけや！」
「そ、そんな……で、でも、どうしてですか？どうして、突然……」
「それはな、もちろん“あんた”のせいや！」
「……！！」

姉さんは“あんた”という言葉を強調して繰り返した。
まるで私のせいでこの部屋が終わってしまうかのように。

「全部“あんた”が悪いんや！“あんた”のせいや！“あんた”のせいや！“あんた”のせいや！」

姉さんは顔色一つ変えずにその言葉を何度も繰り返した。
その言葉を聞くたびに、私は目の前の景色がグルグルと回転していくのを感じた。
まるで私のいる世界の秩序が崩壊し、全てがカオス（混沌）へと戻っていくかのように……。

「“あんた”のせいや！」

そしてその言葉は姉さんだけではなかった。
いつの間にか姉さんの後ろに立っていた市井も、同じ言葉を繰り返していた。

「“あんた”のせいや！」「“あんた”のせいや！」

その言葉は後ろからも聞こえてきた。振り返るとそこには石黒と保田が立っていた。

「“あんた”のせいや！」「“あんた”のせいや！」「“あんた”のせいや！」「“あんた”のせいや！」

四人に囲まれ、私はどこにも逃げることができなかった。
ただ黙ってその歪んでいく景色を見ていることしかできなかった。
そして、その景色はやがて全てが融合したかのようにドロドロの状態になり、そして……。

274 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:58

ピンポーン。

天井が見える。インターホンの軽やかな電子音が聞こえて、私は目を覚ました。
枕元の時計を見ると八時。昨夜は紅白を見た後、一人で近所の四つの神社に初詣に行き、
そして寝たのは三時前だった。そしてまた、帰る前にいつもの公園でベンチに座って一服している時、
一組のカップルが長い長いキスを交わしていたのを何となく観察していたのを思い出す。
新年早々何をやってるんだと言いたくもなるが、それを見ている私の方も何をやってるんだか。

そんなことを思い出しながら――現実を確認しながら――私は起き上がり、そして玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこにはスーツ姿の見知った男が二人立っていた。

「あけましておめでとうございます。これ、姐（あね）さんから頼まれていた差入です」
「あ、それはどうも、わざわざすいません。あ、今年もよろしくお願いします」
「もしかして寝てらっしゃいましたか？どうもすいません、起こしてしまったみたいで」
「あ、いえ……ちょうど起きたばっかりだったんで……こんな格好でこちらこそすいません……」

少しの挨拶の後、二人は丁重に頭を下げながら帰っていった。
二人が持ってきたもの、それは風呂敷に包まれたお重――中身はおせちだろう――だった。
多分姉さんが気を利かせてくれたのだろう。もちろん姉さんが作ったものではないのだろうが。

二人はこのマンションの一階の一室に住んでいる。
表札には○○コンサルティングとあり、二人はそこの社員ということなのだが、
はっきり言えばあっち系の人たちで、まあこの部屋のボディーガードと言ったところだろうか。

その存在や経緯については――軽く触れたことはあった――また追々説明しなくてはならないのだろうが、
とにかく、私の新年はそうやって後味の悪い初夢と、そして姉さんの差入によって始まったのだった。

もっとも、初夢というのは、元日から二日にかけて見る夢とする説などもあるから、
あえてその夢を初夢として認定しなくても良かったのだろう。

ただ、私にはどうも、その時に見た夢がいつか実際に起きるような、そんな不安を感じてしまい……。

275 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:59

新年早々そんな夢を見てしまったのも、私がこの部屋のことで、色んな点で悩んでいるからなのだろう。
そしてまた、そのような夢は、私がそれ以前からずっと見続けているものだった。

特に先月私が倒れてからは、そういった後味の悪い嫌な夢ばかりを見るようになっていた。
誰かに追われる夢、崖から落ちる夢、彼女たちが去っていく夢、そして死ぬ夢……。

中にはその全ての要素がミックスされた夢を見たこともあった。
あれは確か、福田が帰った翌朝のことだっただろう。

――私は夢の中で何かの選択を迫られていた。どのような選択だったかは覚えていないが、
しかし、私が選んだのは“逃げる”ということだった。

私は一人の女性と一緒にその部屋から逃げ出していた。その女性が誰だったのかは覚えていない。
慣れない運転ながら、私は遠くの山の方へと車で走り逃げた。後ろからは追手の車が迫っていた。
ところが、いつの間にか私が運転していた車はタクシーに変わっており、
その運転手は突如急ブレーキを踏むと、不敵な笑みを浮かべながら後ろを振り返ったのだ。
「逃げられないよ」――それは中澤姉さんだった。私は慌ててドアを開けて駆け出した。
そして鬱蒼とした山林を必死で逃げていた。その時にはもう一緒に逃げていた女性の姿は無く、
私はただ逃げるためだけに逃げていた。なぜ逃げ始めたのか、ということはもう関係なくなっていた。

後ろからは黒ずくめの男たちが迫っていた。私は慌てながら急な斜面が続く方向へと逃げ駆けた。
と、足を踏み外し、私は全身に――確かに――痛みを感じながらその傾斜を転がり落ちてしまった。
その斜面の最後には断崖絶壁があった。遥か下の方には川が流れており、岩場が広がっていた。
落ちたら即死、直感的にそう感じた私は、最後の最後で崖の手前にあった木の枝に手を伸ばした。
しかし、私の手はその枝には届かなかった。ただ、次の瞬間、私の手は何かに助けられていた。

「もうさくさん、つかまってください！」

その姿は見えなかったものの、それは確かに福田の声だった。
が、私がその救いの手を掴むことはできず……。
私は崖の下へと真っ逆さまに落ちていた。――自分の死を覚悟しながら。

276 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:59

目を覚ますと、目の前には市井の顔があった。

「だ、大丈夫？すごいうなされてたみたいだけど……」

市井は心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいた。
と言うことは、多分私のうなされた声が部屋の外まで漏れ聞こえていたのだろう。

「あ、ああ……夢か……ああ、大丈夫……大丈夫……なんでもないから……」
「本当？すごい叫んでたよ。……『あすか〜、あすか〜』って……」
「……！」

その言葉はかなり意外だった。確かに夢の中で私は福田に助けられようとしていた。
しかし、でも福田の名前を――それもその名前を――叫ぶなど、そんなことは考えられなかった。

「おいおい……またそんな冗談言って……」
「本当だよ。何度も叫んでたよ。『あすか〜』って。ねえ、どんな夢見てたの？」
「……忘れてくれ……多分……誤解だ」
「まあどうでもいいけどさ、とりあえず朝御飯作ってよ。お腹すいちゃった」
「……おまえなあ……。まあいいや。わぁったからちょっと待ってろ」

市井はあまり自分からは料理を作りたがらなかった。
福田などはせっかくの機会とばかりに料理を自ら買って出ていたし、後藤もよく作ってくれていた。
ただ、それが中澤や保田のように料理音痴であるというのならば納得がいくものだっただろう。
でもそれは違っていた。市井は意外にも料理は上手だったのだから。
ということは、そこには何か理由があるのだろうが、ただ、それは私が触れるべきことではないのだろう。

その日は市井が来てから一週間くらいが経った頃、になるだろうか。
倒れて休養を取っていた私がバイトを再開したのもその日だった。
しかし、その一週間という時間は、私の生活リズムを完全に崩壊させるものとなっていた。

そして、それは肉体的なリズムだけではなく、精神的にも……だったのだろう。

277 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:59

それから再び数日が過ぎた。その間、市井はずっとこの部屋に居続けていた。
私が出かけている間、市井がどう過ごしていたのかは知らないし、知る必要もないだろう。
ただ、私にはその市井との二人の時間というものが、徐々にストレスに、そして苦痛になっていた。

この部屋で――前の部屋も含めて――これほど長い時間を二人で過ごすということは無かった。
あっても福田が長くて一週間滞在するくらいだっただろう。しかし、その時の市井はそれを軽く越えていた。

もちろん、市井といるのが嫌というわけではなかった。
ただ、二人きりで一つの部屋で生活するということに関して、私は経験上、少し嫌悪感を抱いていたのだ。
例えそれが愛し合う二人であっても、ずっと一緒にいることで相手の欠点ばかりがちらついてしまうのだ。
そして、そうで無かったとしても、一人の男として、やはりそれは健全な環境とは言い難いものだった。

例えばこんなことがあった。
私が珍しく長風呂に漬かっていると、それを心配したのか、突如市井が風呂場の戸を開けて中を覗いたのだ。
慌てる私とは対照的に、市井はそんな照れ慌てる私の様子を楽しむような、そんな表情を浮かべていた。

「生きてる？」と市井。
それは私にとってかなり強烈な言葉だった。

「……生きてるに決まってんだろ……てか、閉めろよ……」
「ふーん、生きてたんだ……ちょっと長かったからさ、心配しちゃって……」

市井は平然とした顔でそう言ってのけた。
しかし、それは市井からだけは聞きたくない言葉だった。
いや、市井だけはそんな冗談を言える立場に無い、と言った方がいいだろう。

これはあまり触れたくないことなのだが、市井には以前に一度、そうした疑惑が持ち上がったことが……。
まあ、私もそのことを実際に確認したわけでもなく、単にそうした疑惑の存在というものを、
かなり後になってから、それも遠まわしな表現で中澤から聞いたことがあったという程度であって……。

しかしそれはまだよかった。問題は、その次に起こった出来事だった。

278 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:59

「はいはい。心配してくれるのはいいんだけど、とりあえず閉めてくれ」
「へえ、もーちゃんって意外とウブなんだねえ。うはっ」

市井はようやくその戸を閉じた。わけのわからない笑いをこぼしながら。
角度的には大丈夫だと思うのだが、もしかすると見られていたのかもしれない。

そんな市井が去り、私が一安心していたのも束の間だった。
戸の磨りガラスの向こうに、再び人影が表れ、そして何やら動いているのが見えたのだ。

「お、おい……何してんだ？……なあ、まさか……お前、脱いでるんじゃないだろな？」
「えへへ、ちょっと待ってね〜」
「バ、バカッ！何考えてんだ！『はな寛太いま寛大』みたいなこと言ってんじゃねーよ！」

そう、市井は脱衣所で衣服を脱いでいたのだ。
それはつまり、私がいるにも関わらず風呂に乱入する……ということを意味していた。

そしてすぐにキュキュッと戸が開く音がして……私は慌てて両手で目を覆った。
それはつまり、私の下半身が無防備になるということでもあったが、
私にとっては、見られることよりも、それを見ることの方が回避すべきことであったのだ。

「ジャーン」
市井の発したありきたりな効果音が狭い風呂場に響いた。そして……。

「あはははっ、もーちゃん丸見えだよ！駄目だよ、ちゃんと前隠さないと！きゃははっ」
「何言ってんだよ！お前が入ってくるからだろ！」と、目を覆ったまま私。
「それは大丈夫だよ。ほら……水着着てるから！どう？かわいいでしょ？」
「えっ？」

私が目を開けると、そこには冬にも関わらず水着姿の市井が立っていた。
それはつまり、私の見られ損だったということになるのだろうが、
しかし、問題は見られたとか、見られていないとか、そういうことではなかった。

279 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 06:59

「お前なあ……」
私の怒りはかなりの域にまで達していた。
その言葉が咄嗟には出てこないほど、それは膨らんでいたのだ。

しかし、市井はそんなことには全く気づかない様子で、
と言うよりも、むしろ私が喜んでいるとでも勘違いしているような態度だった。

「えへへ。どう？かわいいでしょ？」
「……とりあえず……出てってくれないか？」

怒りを爆発させないように、私はかなり自分を抑えながら、まるで業務連絡のようにそう言った。

「遠慮しなくてもいいって。サービスだよ！サービス！背中流してあげるから！ね？」
「お前は水着だからいいかもしれんが……こっちはマッパだろーが……」
「いいっていいって。別に見られても減るもんじゃないし」

それはお前のセリフではない……そう思ったものの、それを突っ込むほど私には余裕は無かった。
そしてまた、それは水着だから許される、というものでもなかったのだ。
いや、むしろ風呂場で水着というその違和感のあるシチュエーションの方が、
私にとってはより一層辛いものだったのかもしれない。

私が彼女たちと出会ってから、自らをずっと戒め、守り通していたことがあった。
それは、彼女たちを性の対象にはしない、ということ。
……いや、確かに一度だけ、そう、たった一度だけ、酔って姉さんとキスを交わしてしまったことはあった。
しかし、あれ以来、私は前にも増して、自分の男としての本能をずっと隠匿していたのだ。
そして、そのことがあったが故に、私は次にその自戒を破るということがどういうことなのか、
どういうことを齎すのか、そして私がどうなるのか、それを痛いほど理解し、そして決意していたのだ。

彼女たちを恋の対象にはしても、絶対に性の対象にはしない……と。

その自戒を破った時、その時にはもう、その部屋には私の姿は無いだろう……。

280 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:00

だからこそ、私はその市井の挑発的な態度に対して怒りを覚えていたのだ。
向こうは私のそうした自戒や決意のことなど当然、何も知らないのだろうが、
しかし、男の部屋で一緒に過ごし、何も無い状態をずっと続けるということがどういうことなのか、
それはわかっていてもいいことだと、いや、わかっているべきだと、そう私は思うのだ。

結局その時は私が怒鳴ってしまい、市井が渋い顔をしながら風呂場を出て行く、という結末になった。
ただ、それでも市井には、私がなぜ怒ったのか、その理由は理解しきれなかったことだろう。
見られたことを怒ったと、そう捉えていたかもしれない。

そんなことがあって、その夜だっただろう。
私は思い切って姉さんに電話をかけていた。

市井がずっと居続けていること、それは確かに色々な事情があるのだろうが、
しかし、一人の男としてそのような状況を続けるわけにはいかない、というような内容だっただろうか。
そして、それは以前にも、彼女たちが前の部屋に来始めた頃にも私が相談していたことでもあった。

ただ、その電話をかけるにはかなり勇気が要った。
なぜなら、それはすなわち、この部屋の存在を否定することにも繋がりかねないことでもあったのだから。

彼女たちはこの部屋を必要としていた。だからこそ、そうやって定期的にやって来るのだ。
しかし、そこに定住的な必要性があるとするならば、私にそれを否定する権利はあるのだろうか。
そもそも私は、その部屋にとって必要な存在なのか、そして何のためにいるのか……。
考えれば考えるほど、全ては一つのことへと導かれてしまう。

それは私の存在……そして存在理由……。

そして、そうした私の悩みを表現するかのように、後味の悪い夢を見るようになったのかもしれない。
ただ、それらの夢には一つだけ不思議なことがあった。
それは私の深層心理を表しているのだろうか。

自分でもわからなかった。それがなぜなのか……。なぜ彼女なのか……。

281 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:00

現実世界の私は姉さんを頼りにしていた。それも当然だろう。
一番年長者であり、そしてこの部屋の企画者であり持主でもあったのだから。
だからその時も、私は姉さんに相談したのだ。それ以外に相談することなどは頭に浮かばなかった。

しかし――しかし、夢の中の私は違っていた。
どうしようもない状況に追い込まれた時、最後の最後で姿を現しかけるのは決まって福田だった。
そして逆に私を追いかける存在の方こそが、なぜか姉さんである場合が多かったのだ。

それがなぜなのかはわからなかった。
そして、それが何を意味しているのかも。

今思えば、そういった夢を見始めたのは福田が帰ってからのことだった。
それはやはり、私にとって、福田が何らかの重要な意味を持っている必要な存在、ということなのだろうか。
そして夢は私にそれを教えようとしてくれていたのだろうか。

まあ、結局のところ、それは単なる夢に過ぎないのかもしれない。
それに、それ以上考えを巡らせたところでどうなるものでもないのも確かだった。

そしてまた、その時は夢ではなく、現実の問題の方が当然重要だったのだから――。

市井のその挑発――私はそう捉えていたし、そう捉えられても仕方がないものだろう――があって、
私はその問題に対して、彼女たちにも何らかの理解を求めたい、という思いが出てきていた。

しかし、だからと言って、私の口からそれを直接伝える、というのは抵抗があるだろう。
だからこそ、私は姉さんに相談したのだ。

私も一人の男である、ということ。魅力的な女性たちと過ごす、ということにはリスクもある、ということ。
だからこそ、長い期間、一緒にいる、ということに対して何らかの対策をしてほしい、ということ。

そんなことを話した。姉さんはそれを「うん、うん」と頷きながら聞いていた。
そしてその問題について、何らかの対処をすると約束してくれたのだ。

282 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:00

そんな相談をしたことなど当然知らないのだろうが、市井はまだ部屋に居続ける様子だった。
私が怒鳴った直後はさすがにどこか落ち込んでいた様子だったが、
しかし、翌朝にはケロッとした表情で、いつも通りの言葉を口にする。

「ねえ、朝御飯まだ？お腹空いちゃったよ〜」
「……はいはい」

引退があって、そのことから吹っ切れたということ自体は歓迎すべきことだろう。
しかし、私にはどうも、彼女が本当に吹っ切れたのかどうか、疑わしいという思いもあった。
彼女がこの部屋に居続けること自体、それが彼女の心の内幕を表しているようにも思えて……。

その翌日の夕方、私がバイトを終えて帰宅すると、
部屋には姉さんと、そしてなぜか――予定では翌日の昼に来るはずだった――彩っぺの姿が見えた。
もちろん市井の姿もあったが、ただどことなく元気が無いようにも見えた。

とすると、姉さんが何らかの話をしてくれたのかもしれない。
ただ、その表情を見ると、話をした、という程度のものではなく、
説教であるとか、あるいは怒ったとか、そういったことがあったのかもしれない。
あまり大ごとにはしたくなかったのだが、しかし姉さんがそういう方針であるならば、
まあ私には文句を言う筋合いは無いのだろう。元々私が相談したことでもあったのだし。

その夜は三人で近所の居酒屋へと足を運んだ。近所にある、私の行きつけの店だ。
姉さんとはよくその店に行っており、店には姉さんのサインも飾られてあった。
以前姉さんが店内にいた大学生たちとラブマシーンを大合唱したのもこの店だ。
他にも彩っぺとも行ったことがあり、少し前には姉さんとともに福田を連れて行ったこともあった。
もちろん福田の場合はお酒はビール程度だったが。

「ちわーす、今をときめく中澤裕子で〜す！」

姉さんは店に入るなり、そんな挨拶をした。店内に誰もいなかったことを確認しての言葉だ。
それに対してマスターがすかさず反応する。

283 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:00

「おう、今をときめく中澤さん、いらっしゃい。それに、山田さんやったかな？」
「はい、こんばんは」

山田さんというのは彩っぺのことだ。結婚しているので、当然『石黒』という名乗り方はしないのだ。
それに実を言えば、彩っぺは結婚後に姓名判断によって『亜弥』と改名しているので、
『彩っぺ』という文字も間違っているのだが、まあそこまでこだわる必要も無いだろう。

市井はこの店に来るのは初めてだった。こういう庶民的な居酒屋というのも初めてだろう。
一人だけ少し戸惑っている様子だった。

「乾杯ベイベー！」

お決まりの乾杯。ただ、その前には別の言葉が加えられていた。

「それじゃ、圭ちゃんと明日香と、そして紗耶香の今月の誕生日を祝って……」

そう、今月誕生日を迎えたのは保田だけではなく、17日には福田が19歳、
そして大晦日の31日には市井が20歳の成人を迎えるのだ。

多分その日居酒屋に行ったのも、その市井の成人を祝う意味もあったのだろう。
おしゃれなバーではなく居酒屋……というのがまあちょっと悲惨ではあったが。

「紗耶香もやっと二十歳なんやなあ」
「うん。もう二十歳だよ」
「もうってことはないやろ。まだ十代やったってことの方がよっぽど不思議やで」
「そうよねえ。私が娘。に入ったのは19だったし。裕ちゃんは24だっけ？」
「そうそう。今の娘。からじゃ考えられんことやけどな」

そんな話をしながらも、二人はビールを飲んで注いで、そして料理を口にする。
市井はどうしていいかわからないといった表情を浮かべていた。
確かに誕生日を祝う、という雰囲気では無かったのだが。

284 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:00

「ん？紗耶香どうしたんや？食わへんのか？」
「そうじゃないけど、ただね、ちょっと食欲が無くて」

それは私が帰ってくる前に説教されたこともその理由だったのだろうが、
ただ、それとともに初めての居酒屋体験、ということもあったのかもしれない。

「駄目よ。いっぱい食べないと。うん、これ美味しい！」

彩っぺはいつもとは別人のようにがむしゃらに料理を頬張っていた。
彼女がこれほどまでに庶民的な表情を見せる、というのもかなり珍しいことだった。
いつもはどこか近寄りにくいオーラのようなものが感じられていたのだが。

「もしかしてあれか？やっぱりおしゃれなバーとかが良かったんか？」
姉さんが私が思っていたのと同じことを口にする。

「そんなんじゃないよ」と市井。
しかし、姉さんはかまわずに続ける。

「でもいきなり新地とかはまずいやろ？だってほれ、こん人だって新地は未体験やで？」

そう言って姉さんは私を指差した。新地というのは北新地、東京で言えば銀座のようなところだろう。
ただ、おしゃれなバーでなんで新地が出てくるのかはちょっと疑問だった。
あそこはそれとは違う、もっと別な世界という印象があるのだが……。

「しかしあれやなあ。紗耶香もこれでようやく大人の仲間入りやなあ」
「だね。明日香と真希ちゃんの二人はまだ19だっけ？真希ちゃん18？」
「後藤はまだ18のはずですよ」
「そうだっけ。なんか明日香より年下ってのが考えられないのよねえ。一番下って印象があるから」
「そうやなあ。昔からしっかりしとったけど、でも一番年下ってのは確かにあるなあ」

そんな会話が続く。ただ、その中には後になって初めてわかったこともあった。それが……。

285 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:01

「しかしなあ。せっかく大人が増えたってのに。まあ、あんたも色々大変やと思うけど……頑張ってや」

そう言って姉さんは隣の私の肩をポンと叩いた。
私は何のことだかわからずに、その時はただ、姉さんが私を励ましたのだと思っていた。
その意味がわかったのは年が明けてから。ただし、私にはまだ正式には伝えられていないので、
その“二人”が果たしてどういう存在になるのか、それはまだわからないままである。
それに、今はまだその“二人”よりも、もうすぐ来ることになる安倍の存在が気になるところでもあった。

「そうやそうや。そう言えばなっちが来たんやってな？」
「あ、ええ。ちょうど倒れた時に……後藤も病院に来てくれて……」
「そうそう。そうやった。すっかり忘れてたけど、あんた倒れたんやったなあ。いやあ、ほんま忘れてたで！」

そう言って姉さんは薄っすらと笑い声をこぼしながら、笑みを浮かべた。
ただ、それは忘れていたことに対する笑みではなく、私が元気なことに対する笑みなのだろう。
と言っても、私自身、自分の体がどういう状態にあるのか、それは把握しきれていなかったのだが。
悪い夢を見るようになったり、突然立ちくらみがしたり、息苦しく感じたり……そういう兆候が幾つもあった。
それは精神的な面に起因するのかもしれないが、私が万全とは言えない状態にあったことは間違いない。
そしてそれは今も続いているのだが……。

店を出て部屋へと戻る。が、宴会はそこで終わったわけではなかった。
それもそのはず。その日は四人ものメンバーが集結しており、
それはつまり、彼女たちの、そして私たちの忘年会でもあったのだから。

一応、少し前に保田と姉さんと三人でかなり早い忘年会をしたものの、
市井や彩っぺといったメンバーが一緒になる、ということは滅多にない、いい機会だったのだ。

彩っぺは本当は翌日の昼に、こちらで仕事があるとかで少しだけ立ち寄る予定になっていたのだが、
急遽、前日入りすることにしたらしい。とすれば、その四人が揃ったというのは奇遇と言えるだろう。

市井が気分が悪いと言って部屋へと戻り、リビングには三人が残った。
ただ、そこで二人はにやけたような表情で私の顔を見て……。

286 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:01

「紗耶香から聞いたで〜」
そう言って中澤は彩っぺと顔を見合わせた。何か面白いことでもあったかのだろう。

「うん。私も聞いちゃった」
彩っぺは珍しく酔っている様子で、甘えるような口調でそう言った。

「何のことですか？」

私がそう尋ねると、二人はククククッという笑いをこぼしながら……。
ただ、それはここでは書かない方がいいだろう。それは私自身のためにも……。

――翌朝、目が覚めると、すでにテーブルの上には朝御飯の準備がしてあった。
もちろん彩っぺが作ってくれたのだろう。さすがに主婦だけあって手馴れたものだった。
そして思い出す。それは少し前に彩っぺが出ていた番組だった。

「あ、そう言えばあれ見ましたよ。アイアン主婦」
敬語っぽくなってしまうのは、私が彩っぺと話す時のいつもの癖だった。
彩っぺは普通でいいと言ってくれるのだが、なぜかそれを直すことができず、
結局そういう話し方が普通になってしまっていたのだ。

「見てくれたんだ。どうだった？ちょっと表情硬かったよね？」
「うーん。でも存在感があって良かった、かな？」
「そう。でも優勝逃しちゃったからね」

そう言って彩っぺは“主婦”とは思えないような素敵な“女性”の笑顔を浮かべた。
彩っぺは私の好みではないものの、さすがにそれは眩しく感じるほどだった。

「もう出来上がるから、悪いけど二人起こしてきてくれないかな？」

エプロン姿の彩っぺからそう言われ、
私はなぜか、結婚というものも悪くないかもしれない、とそのようなことを考えていた。

287 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:01

これまでの私は、家庭というものに対してあまりいい印象は持っておらず、
一生独身を貫く……というような意志を持っていたのだが、
もしかすると、そこにはそれを補って余りあるものがあるのではないか、と、
エプロン姿のさわやかな彩っぺを見て、そのようなことを考えたのだ。

ただ、それは彩っぺだからこそ、私がそのように感じたのだろう。
私もかなり以前に半同棲状態を経験したことがあったが、
その時は一度もそんなことを感じたことは無かったのだから。

やはりアイアン主婦準優勝……だけのことはあるのだろう。

その日は午前中に姉さんが仕事に出かけ、彩っぺも正午前に仕事へと出かけていった。
残ったのは、バイトが休みだった私と、そして市井。

ただし、市井は私と二人きりという状態が、どこか気まずいような、そんな表情を浮かべていた。
多分、姉さんから言われたことが気になっていたのだろう。

姉さんがどのようなことを言ったのか、それはかなり気になることだった。
私の気持ちがそのまま伝わっていればいいのだが、もしそれが曲解されていたりしたら……。
そう思い、私は市井にそのことを確認することにした。

「なあ、姉さんから聞いたと思うけどさ……」
そう話しかけて、市井の反応を待つ。
私が思った通り、市井は少し誤解している部分があったのだ。

「えっと、だからさ、俺も男だから、あんまり魅力的に振る舞われると困るんだよ」
「うん。それはわかった」
「それとさ、あんまり長いこといるってのもね。同棲みたいな感じになっちゃうし……」
「うん。それもわかった」
「そっか。……別に今すぐ帰れって言ってるわけじゃないからな？それはわかるよな？」
「うん。大丈夫だよ」

288 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:01

市井はそう言ったものの、それを正しく理解している、というわけではなかった。
なぜなら……。

「クリスマス過ぎたらちゃんと帰るよ。ね、それでいいでしょ？」
「はあ？クリスマス？」
「うん。クリスマスだよ」

市井はどうやらクリスマスまでこの部屋で過ごす予定でいたらしい。

「あ、あのさあ……悪いけど、クリスマスは帰った方がいいんじゃねーのか？」
「え？いいよ。だってもーちゃん一人で淋しいでしょ？だから一緒にいてあげるよ」

それは市井なりの冗談だったのかもしれないが、
ただ、市井ならありえない話でもない、と私は感じていた。

結局、私はクリスマスより前に帰るようにと、市井に約束させることに成功した。
元々イベント事が嫌いだということもあり、また、さすがにそういう若者が特別視するようなイベントで、
二人きりで過ごす、ということは回避すべきこと、という思いもあったのだ。
そしてそこには、誤解されたくない、という私の思いも含まれていた。
その誤解されたくない相手……それはもちろん、保田のことだったのだが。

ただし、その約束と引き換えに、私は市井と一つの約束をさせられてしまった。

「じゃあさ、その代わりに私とデートしてよ。ね？そしたら帰ってあげるからさ」
「ブフッ……デ、デートって、お前なあ……結局なんにもわかってねーじゃねーか！」
「あ、違うって。ほら、明日香といつも出かけるじゃん。だからさ、どっか連れてってってこと」
「なんだ、そういうことかよ。……それくらいなら別にいいけどさ」
「よかったー。それじゃさ、もーちゃんのすっきなところでいいから。ね？エスコートしてくれるよね？」
「そうだなあ。明日もバイト休みだし……」

そう言って私が市井を連れて行った場所……それは。

289 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:02

ピットからエンジン音が響き、そしてファンファーレが鳴り響く。
一斉に飛び出したのも束の間、すぐにエンジン音は止まりコース取りが始まる。しばしの沈黙。

「ねえ、ねえ、あれ何してるの？なんで走らないの？」
「ああ、場所取りだよ。あれで自分の得意なコースを取るわけ」
「じゃあ、いつ走るの？」
「まあ待ってろって。ほら、あそこに大時計あるだろ？」
「うん。あるね」

私が市井を連れて来た場所、それは競艇場だった。
ちょうど住ノ江競艇で一年の総決算である賞金王決定戦(SG)が一週間にわたって開催されていたのだ。

大外に陣取った一艇がまずエンジンを始動させ、その内の二艇がそれに続く。
少し遅れて中の二艇、そして最後にインコースの一艇が動き出す。

動き出したタイミングやコースはそれぞれバラバラだが、
それが大時計の針が真上を指す時には、大体スタートラインの手前で全艇が揃うのだ。
競艇の醍醐味の一つがこのスタートだろう。

「わ、走ったよ。ねえ、走ったよ」
「ほれ、最初のターンだぞ！」

そして競艇の一番の醍醐味は、やはりこの最初のターンだ。
インから逃げたり、アウトから差したり、まくったり、とにかくここが一番の見せ場だ。

「わあ、凄い凄い。ぶつかりそうだったよ！」
「そこをかき分けて突っ込むのが腕ってやつだな」
「ねえ、これ何周するの？」
「三周。ほとんど最初のターンで決まるんだけどな。後は二着、三着争いってやつで」
「へえ。じゃああのトップの人はもう一着決定？」
「だな。かなり差がついてるだろ？」

290 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:02

とにかく、競艇というのは競馬などと違ってルールがわからない、というのがあるだろう。
私も最初テレビで見た時には何がどうなのかが全くわからなかった。
ただ、私が競艇に興味を持ったのは、その最初のターンでの転覆シーンがきっかけだった。
豪快なモンキーターンのあまり、ひっくり返ってしまうことがたまにあるのだ。
その日はさすがに賞金王決定戦というだけあって、そのシーンを見ることは無かったのだが。

「へえ、転覆する人もいるんだ。なんか面白そうだね」
「だろ？」

市井もようやく競艇というものがわかりかけたらしく、色んな質問をしてくる。

「じゃあさ、スタートでフライングしたらどうなるの？」
「フライングは当然、失格だよ。それと出遅れも失格な」
「出遅れなんてあるの？」
「見たことはないけどな。確か大時計が0秒から1秒の間に通過しないといけないんだったかな？」

ただ、私もそんなに詳しいというわけではなく、実際に競艇場を訪れたのもこれが三回目だった。
だから例えば「チルト角度0.5って何？」などと言われても、それがどう影響するのかまではわからないのだ。

「ねえねえ、馬券は買わないの？」
「馬券じゃなくて舟券な。もちろん買うぞ。今のはいきなり始まっちゃったからな」
「ねえ、私買えないよね？まだ未成年だし」
「ああ、駄目だけど、俺が代わりに買ってやるから」
「ほんと？いいの？やった〜」

そんなこんなで、次のレースに向けてまずは展示航走を見る。
その前に次のレースのコース取りの予告みたいなものがあるが、それはまあいいだろう。

「ねえ、一着と二着を当てるんだよね？」
「まあ普通はな。でもほら、エンクミがCMやってるだろ？『三連単は競艇！』とかってやつ」
「うん」

291 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:02

「三連単は三着までな。あと三連複ってのもあるけど……」
「それは何？」
「三連単は三着まで順番通り当てないといけないんだけど、複勝の場合は順番はどうでもいいわけ」
「そうなんだ。じゃあそっちの方が当たるんじゃない？」
「まあそうだけど。その代わりオッズは低いぞ。ってか三連単が当たるとかなり大きいからな」
「でもさ、六人の中から三人選べばいいんでしょ？それって、二分の一の確率じゃないの？」

市井は多分、単純に6÷3をしたのだろうが、当然それで合っているわけはない。

「おいおい、そりゃないだろ。6C3だから……えっと、20通りだな」
「そんなにあるんだあ……」
「ははは。三連単は120通りだからな。6P3だから。それに比べれば当たるだろ？」
「うん。でもさ、それ何？さっきの、その6C3とかって」
「ああ、確率の計算の方法だよ。文系だったけど確率は好きだったんだよなあ」
「へえ。そうなんだ。もーちゃん頭いいもんねえ」
「まあお前らに比べたらそりゃいいだろうけど。でも頭いいってのはあれだろ？嫌味だろ？」
「違うよー。ほんとにそう思うもん」

とまあ、そんな会話をしつつ舟券を購入。
私が三連単を三通り。そして市井の分の三連復を三通り足して合計で六百円。
ただ、市井の場合は好きな数字を選んだだけだったりするのだが。

そんなこんなでレースは進み、その合間に競艇場を散策する。
さすがにSG競争だけあって、イベント会場には吉本の漫才師などが出演していた。
名前を聞けばわかるんだけど……、たまに見かける人……、といったレベルの芸人ではあったのだが、
ただ、市井はお笑い芸人、と聞いて少し引きつったような顔を浮かべていた。

その理由は私も知っていた。それは彼女が以前、お笑い芸人と付き合っていたということ。
その市井の様子からすると、それはあまりいい付き合いではなかったのかもしれない。

そして……それは一ヵ月後に、一つの事件をもたらすことになってしまったのだが……。

292 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:02

競艇を数レース楽しんだ後、私たちは競艇場を後にし、私としては珍しくミナミの繁華街へと向かった。
市井が幾つかのお店に入り、私が特にやることもなく、その後ろをついて回る。
まあ、たまにはそういうのも悪くないのかもしれない。
以前はそういうことが大嫌いだったのだが、それはその時の相手が悪かったのだろう。
ろくな相手に恵まれなかった、というのが私の青春時代の総括なのだ。

つい先日、福田と一緒に大量に買い物をしたせいか、その日市井が何かを買うということは無かったが、
それでもどこか満足げな表情を浮かべていた。私としてはほっと一安心というところだっただろうか。

しばらくして私たちは部屋へと戻っていた。ただし、それで終わり、ということではなかった。
それは次の場所への一時的な中継点に過ぎなかったのだ。

「ねえ、まだどっか行くの？」
「ああ、デートはまだ終わってないぞ。俺の好きな所に連れてってって言ったろ？」
「うん」
「よっしゃ。それじゃ自転車乗るけど、お前乗れるよな？」
「自転車乗るの？」
「あ、どうすっかな。一応古いオンボロのやつと二台あるけど……後ろにでも乗るか？」
「うん。後ろ乗りたい」

ということで、私は市井を自転車の後ろの部分に座らせて、ある場所へと向かった。

そう言えば、私が中学・高校時代に抱いていた――結局当時はかなわなかったが――ささやかな理想は、
こうやって自転車の後ろに彼女を乗せて、そして川沿いを走ることだった。
それも後ろにロッカク――地域で呼び方は違うが、二人乗りに悪用される金属棒のことだ――をつけて、
立たせて乗せるのではなく、後ろの部分に座らせ、彼女が腰に手を回す、というのが理想だったのだ。

立たせて乗せたことなら何度もあったが、そうやって座らせて乗せるのは多分初めてだっただろう。
ある意味、それは私のその理想がかなった瞬間でもあった。

そうやって自転車を進め、ある地点で私はペダルを止めた。

293 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:02

「よし、ついたぞ」

そこは何もない、ただの堤防上の一地点だった。

「ここ？何もないよ？」
「まあいいから。ほら、とりあえずそこに座れって」

そう言って私は斜面の芝生を少し下り、その途中で腰を下ろした。
何もない、ただの芝生。目の前には草の生い茂った河川敷が広がっていた。

「ねえ、ここ何なの？」

市井が不思議そうな表情を浮かべるのも当然だった。
しかし、私との“デート”であるならば、その場所が一番自分らしい場所だったのだ。

「ほら、見てみろって。夕陽がきれいだろ？」
「あ、ほんとだあ……」

そこは私の好きな夕陽観察ポイントだった。
元々公園などでぼんやりと過ごすのが好きな私だが、一番気に入っていたのがその場所だった。

「でもさ、なんかもーちゃんらしくないよね？……なんか……ロマンチック過ぎだよ」
「ははは。でもお前が俺にエスコート頼んだんだから、これくらいは我慢しろよな」
「うん。じゃあ我慢するよ」

そんな会話を続けながら、私たちは夕陽を眺めていた。
そして、目の前に広がるススキの野原……少し前ならもっと綺麗だったのだが、
それでもまだ、そこには私の好きな景色が残り広がっていた。

「それにほら、ススキも綺麗だろ？」
「うん……へへへ。なんか変な感じだなあ。もーちゃんからそんなこと聞けるなんて」

294 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:03

市井が引退した後、以前よりもその笑顔を見ることは多くなった。
しかし、その本当の笑顔というものを見たのは、多分その時が初めてだっただろう。

市井のその笑顔はとても自然で、それは私の心にも素直に映りこんでくるものだった。

「えへへ。今日はありがとね。すっごい楽しかったよ。夕陽もきれいだったし」

部屋に戻った市井が、照れながらそう感謝の言葉を述べた。
それは多分、さきほどの笑顔と同じく、今までで一番素直な言葉だっただろう。

そんな市井に接して、私はようやく、ある一つのことを悟っていた。

それは、それまで市井が私に対して心を開いてくれなかったということ。
私はずっと、その理由は市井が原因なのだと思っていた。しかし、それだけでは無かったのだ。
むしろ私の中に、どこか市井に対する苦手意識のようなものがあったのだろう。
そして、だからこそ、私は市井と長く過ごすことに対して、苛立ちのようなものを感じていたのだ。

後から考えればそうだった。もし仮に、市井ではなく福田と一緒に長く過ごしていたなら、
私は多分、そこに苛立ちも覚えなければ、姉さんに相談するというようなこともなかっただろう。
その問題は全て、それが市井だったからこそ、だったのだ。

しかし、その日一日を市井と過ごし、そんな苦手意識はどこかへと消え去っていた。
私はようやく、市井と打ち解けることができたのだ。
ある意味それを手助けしてくれたのは、その日見た、夕陽――だったのだろう。

――その夜、部屋にいたのは市井と姉さんの二人だった。
姉さんは三日連続ということになるのだろうが、それもこちらの仕事が続いたかららしかった。
ただ、姉さんは市井の表情を見てかなり戸惑っている様子だった。

「なあ……あん子、どうしたんや？何かあったんか？」
「ははは。なんでもないですよ。本当になんでもないですって」

295 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/24(土) 07:03

翌朝、姉さんは早朝に、市井が目を覚ます前に部屋を出て、私もしばらくしてバイトへと出かけた。
市井も昼には東京に帰ることになっていたが、もちろんそれを私が見送ることはできず、
結局、見送られたのは私の方だった。

「それじゃ、私今日帰るからね。色々迷惑かけちゃって、ごめんね」
「ああ、いいってことよ。迷惑かけられるのが役目だからな！」
「ははは。それじゃ、来年もまた、いっぱい迷惑かけに来るから！」
「おう、待ってるぞ！……それじゃ、行って来るから！」
「うん。行ってらっしゃい！」

そう言って市井は再び素直な笑顔を見せた。
そして、それがその年の、彼女たちとの締めくくりだった。

バイトを終えて部屋に戻ると、そこはガランとした空洞だった。
福田もいなければ市井もいない。姉さんも彩っぺもいない部屋。
もちろん後藤も保田もいない。

その部屋で一人で過ごすことは、誰かと過ごすことよりも断然多いはずだった。
そして慣れているはずだった。しかし、それは違っていたのかもしれない。
その違いを……その淋しさをわからせてくれたのは――それはもちろん……。

ただし、それは裏を返せば、私が彼女たちに依存している、ということでもあった。
そしてまた、それは私の存在や、この部屋の存在、というものを考えさせるものともなっていたのだ。

依然、私の夢は続いている。
ただ、それは多分、私がこの部屋にいる限り、決して無くならないのかもしれない。
私がその部屋を……そして彼女たちを失ってしまわない限り……。

――――――
　　 つづく
――――――

296 ：名無し娘。：2004/01/26(月) 03:19

おつかれです。もうすぐなっちが来るわけですねぇ。

297 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:01

新年というものは人生の区切りとしては必要なものだろう。
しかし、だからと言って、それが今までとは違う、全く新しいものの始まりであるとは思わない。
今年一年をどうしたいか、どのように過ごしたいか、抱負や目標は様々だろう。
それは確かに、同じような日々が続くといった怠惰な生活を打破し、
新鮮で刺激のある、意義のある人生を送るためには欠かせないものなのかもしれない。

でも、それは人が、普段の生活において、毎日を適当に過ごしているが故の産物なのだと思う。
もしそうした意義のある人生を送りたいのならば、それは新年だからこそ、そう考えるのではなく、
それを普段の日々にも適用すればいいだけのことなのだから。

しかし人はそれをしない。普通の日々を普通の日々として単に過ごす。
私にはそれが不思議でならなかった。新年の抱負や目標は、一ヶ月もすれば忘れてしまう。
そして春が来て、夏になり、秋が過ぎ、冬が訪れ、その頃にはそうした心意気は遠い昔である。

だからこそ、私は小さい頃、新年の抱負や目標などを尋ねられることが嫌いだった。
いい言い方をすれば、物事の真髄を深く見つめる、思慮深い少年ということなのかもしれないが、
はっきり言えばひねくれたガキだった、ということになるだろう。それは私自身が最もわかっていることだ。

人生とは何か、生き様とは何か、死に様とは何か、そんなことばかりを考えている小学生。
それは結局、“バカ”の二文字で表すしかないものなのだろう。

頭のいい奴は、決してそんなことは考えたりしないのだから……。

ただ、私が小さい頃、そんなことを考えていたのには理由があった。
それは、その頃の私が、実際に毎日を新鮮に感じ、そして同じ毎日を繰り返さないようにと意識し、
そして実際に全力で行動していた時期があった、ということだった。

しかし、それには一つの欠点があった。それは、そんな生活を続けると……疲れる……ということだ。
そして、それこそが人が新年という特殊な区切りにおいてのみ、そうした希望を口にする理由なのだろう。
それは極々簡単な理由なのだ。疲れる、ただそれだけのことなのだ。
しかし、そんな簡単なことがわからなかった私は、やはり“バカ”だったと言わざるを得ないのだろう。

298 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:02

人は新鮮な毎日を求めつつも、どこかで変わらない日々をも望んでいる……。
小さい頃の私はそのことが理解できなかった。実際に疲れ果ててしまうまでは……。

しかし、私は今でも、そのことを認め理解しつつも、どこかで疑問を持ち続けているのかもしれない。
私が二十歳を過ぎた頃に痛感した言葉がある。それが“三つ子の魂百まで”という諺。
私がどれほど人生経験を積み、様々な挫折を味わっても、結局“バカ”であることは変わらないのだろう。

なぜなら、私は今でも、“凡人として”、こうしてそのようなことを考えてしまっているのだから。
そして、それは多分、私が死ぬまで、一生続いていくのだろう……。

……。

――新年を迎え、私の耳に一つのニュースが飛び込んできた。
それは、今夏に辻と加護がモーニング娘。を卒業するという話だった。
もちろん単なる芸能ニュースなのだが、しかし私にとっては、
それは私の今後を左右するであろう、重大な話でもあった。

今月には安倍が卒業し、この部屋へとやって来ることになっている。
そして夏には更に二人が加わる……ことになるのだろう。

それはまさに、小さい頃の私が望んでいた、新鮮な毎日と言えるものなのだろう。
しかし、今の私には、それを歓迎するといった気持ちはあまり浮かばなかった。

なぜなら、私は今のこの生活に満足し、それが続くことを望んでいたのだから。
それはまた、私がこの生活ですでに手一杯であり、それを壊したくない、ということでもあった。

ある意味、私も大人になったのかもしれない。平凡な大人ではあるが。
自分の限界を知り、そしてその範囲の中でのみ生活する……。

そして、そのせいなのかもしれない。
今の私が……自分の恋愛に対して素直になれないのは……。

299 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:02

そんな保守的な私とは違い、この部屋のメンバーはそれぞれの人生を切り開こうとしていた。
その一番の例は保田だろう。今月から一ヶ月間、いよいよ舞台公演が始まるのだ。

ただ、それはそれで私にとってはどこか淋しいものでもあった。
と言っても、それは公演の間会えないということではなく、
彼女がどこか遠い世界へと旅立ってしまうようで……。

もちろん、彼女たちと私の住む世界は元々違っていたのだろう。
それが偶然に出会い、この部屋がその二つの世界を結ぶ接点になっていただけのことで……。
それに保田にとっては、それが今後の芸能生活にとって重要な意味を持つものなのだから、
私としてもそれを応援する、というのが本来の在るべきスタンスなのだろう。

ふう……やはり“三つ子の魂百まで”という言葉が私にはお似合いなのだろう。
今の生活を続けたいと言いながら、それを楽しむどころかそれで悩み続ける……。

自分で自分の性格を変えたいといつも思う。
深く悩まずに気楽に人生を過ごしたいと思う。

ただし、この部屋にも、私と同じようにそんな願望を持ったメンバーが一人存在していた。
それは……。

「あけまして〜！今年も迷惑おかけしま〜す！」

そう言って部屋にやって来たメンバー、それは市井だった。
去年の最後に私と少し打ち解けたせいか、彼女はかなり陽気だった。

「おう。どうしたんだ？やたらハイだな？」
「えへへ。色々、ね。……うん。実はね。……うん」

自分でもその理由がわかっていないのだろうと私が思うほど、それはよくわからない返事だったが、
とにかく、彼女が年が明けて最初にやって来たメンバーだった。

300 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:02

ただ、彼女がそんなに陽気だったのには、ある一つの理由があった。
それは理由と言うよりも、決意とでも言った方がいいのかもしれない。
そして、その決意を固めたが故に、彼女はそんなに陽気だったのだが……。
ただし、私がその理由を知ったのは、実際にある出来事が起きた後になってのことだった。

その日の正午前、彼女はバイトが休みだった私に対して、ある頼みごとをした。
それは単にある場所へ行くから付き添ってくれというだけのことだったのだが、
しかし、そこにはとんでもない理由が……。

とある街のとある建物――彼女が向かった先は何の変哲もない住宅だった。
彼女はその一室に向かうと、そのドアの前で一度立ち止まり、スーッと深呼吸をした。
そして私に向かってニコリと微笑みかけると、意を決してドアの横にあったチャイムを押す。

と、しばらくして鍵を外す音がして、そのドアがゆっくりと開いた。
中から顔を覗かせたのは一人の男性……それもどこかで見たことのある顔だった。

「はあ？なんで？」

男は市井の顔を見た瞬間に驚きの声を漏らした。
そして少し離れた場所から成り行きを見守っていた私の方をチラッと見た。
それは動揺を隠そうとする無意識的な反応だったのだろう。

市井はそれに対しては何も言わず、もう一度その場で深呼吸をすると、
突然――そう、突然だ！――左手を振りかぶってその男の顔を平手打ちしたのだ。
バシッという渇いた音が響いた。

男は突然のことに目をパチクリさせながら頬を抑え、混乱した表情でただ市井を見つめていた。
市井はそれですっきりしたのか、緊張がほぐれたのか、もう一度その場で深呼吸をすると、
淡々とした声で一言だけ言い残し、そして私に目配せをして廊下を去っていった。

「最低だよ」

301 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:03

その男はあるお笑い芸人だった。
そして、市井と以前付き合っていた男でもあった。

「なあ、あれ……あれだよな？」

帰りの道を歩きながら私はそう尋ねた。
最初の「あれ」は「あの男」という意味だったが、次の「あれ」には、
「あのお笑い芸人」という意味と「あのお前が以前付き合ってた」という意味が含まれていた。

「うん」と市井。
その両方を肯定した答えだ。

「それじゃ……あれか？けじめってやつか？」
「うーん、どうだろ。けじめなのかな？ううん。けじめじゃないよ。うん」

それは答えながら考えた、といった答え方だった。

「なんかあったのか？」
「えへへ。まあね。ちょっとね。うん」

私の質問は「彼との付き合いにおいて」という意味だったのだが、
市井の答えはそれとは違う意味での答えだったらしい。

「実はね……」

そう言って市井は話を始めた。

それによると、彼との付き合いは特に問題のあるようなものではなかったらしい。
まあ、彼が大阪に本命の彼女がいながら東京で市井と遊んでいる時点で、
私から見ればかなり問題があるのだが、市井にとってはそれは大したことではないらしい。
問題は、彼の起こしたちょっとした騒動だった。

302 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:03

それは去年の大晦日のこと。その日は市井の二十歳の誕生日でもあったのだが、
その日、彼はあるバラエティ番組において、トークバトルのような企画に参加し、
そこで対戦者からあることを言われたのだ。

それが市井のことだったのだ。

もちろん番組ではピー音がかぶせられていたのだが、
それは誰が聞いても市井だとわかるものだったらしい。

そして、彼はそれに対して最初は不快な反応を見せたものの、
その直後、開き直って――逆切れというやつだろう――それを全面的に肯定したらしいのだ。
会場はそれで爆笑したらしいが、しかし、それはつまり、
彼が市井とのことで笑いを取ったということでもあった。

お笑い芸人としてはそれでもいいのだろうが、
しかし、それは一人の男としては確かに最低な行為だっただろう。
市井にとっては、それは裏切られたというよりも、売られた、という思いがあったのかもしれない。

そして、市井はそのことを知り合いから聞き、その日の行動になったのだ。

しかしまあ、今回は相手が何もしなかったから良かったものの、
もし相手がぶちきれたりしたら、それ以上の騒動に発展していたことだろう。
もっとも、そのために私をボディーガードとして付き添わせたのだろうが。

「ごめんね。変なことに付き合わせちゃって」
「ああ。確かに変なことだよなあ。でもまあ、見てて面白かったぞ」
「ほんと？」
「ただなあ。芸人が相手なんだから、パイ投げとかの方が良かったんじゃないか？」
「ははは。そっか。そういう手もあったんだよね」

そう言って笑う市井。そこには一つのことをやり遂げたといった表情があった。

303 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:03

部屋に戻った後の市井は、一仕事終えて安心したせいか、やたらと饒舌だった。
私に向かって次から次へと話を投げかけてくる。

そんな市井を見て、私はあることを感じていた。
それは市井にとって、“そのこと”は別に大したことではなかったのだろう、ということ。
ただ、市井はそれまでの自分を変えようと、新しい自分になろうとして、
そしてその最初として、ただそれを口実にしただけだったのだろう、ということだった。
その相手にとってはたまったものではないのだろうが、しかしそれも自業自得なのだろう。

とにかく、市井はご機嫌だった。以前の自分とは違うんだ、といった実感を持てたのだろう。
そして、私はそんな市井が更に喜ぶような、あるプレゼントを用意していた。

「ちょっと遅くなったけど。これ」
「これ何？」
「はは。まあなんつーか、一応誕生日プレゼントってやつで……」
「うそっ？ほんとに？」
「ああ。お前が元気になるようにって思ってな」

市井が私が渡したラッピングされた箱を開けた。
そしてその中身を取り出す。ただ、それはどこか困ったような表情でもあった。

「これって……グローブ？」
「ああ。お前とキャッチボールでもしようと思ってな」
「うそー……ほんとに？私にくれるの？」

それは野球のグローブだった。それも左利き用の。

「えへへ。なんか女の子へのプレゼントっぽくないけど……でも嬉しいよ！」
「まあ一応福田と保田の分もあるんだけどな」
「ねえねえ、早速キャッチボールしようよ。ね？」
「そう言うと思った。それじゃ暗くなる前に、ちょっくら出かけるか！」

304 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:03

初めて市井が私の部屋に来た頃、その頃は会話のキャッチボールもちぐはぐだった。
ほとんど喋らない市井に無理に話し掛けたり、ぎこちない会話をしたり……。
それが今は、こうして打ち解け、そして公園でキャッチボールをして楽しんでいる。
それはどこか不思議なものに感じられた。

「よっしゃ、次は150km/hのストレートな！」
「うわあ。本気で投げないでよ？怖いじゃん」
「大丈夫大丈夫。そんなの投げれたらこんなとこにいないって」
「ははは。それもそうだよね」

この公園で市井とキャッチボールをするなんて、少し前なら考えられないことだっただろう。
後藤が持ってきたサッカーボール――フットサルがあった頃だろう――を使って、
後藤や福田と――それぞれ別々にだったが――遊んだことなどがあったりしても、
市井だけは一度も参加することはなかった。唯一、くにお君のサッカーを一緒にプレイしたくらいだろう。

それが今では自分からキャッチボールをしようと誘い、そしてそれを楽しんでいるのだ。
そんな市井の姿を見て、私はこの一年間も無駄ではなかったのかもしれない、と感じていた。

寒空の下、白球が宙を行き交う。その線は瞬間的に見ればただの点に過ぎないのだろう。
でも、その点は弧を描きながら、二人の間をしっかりと、一つの線として繋いでいた。
ある意味、そのボールこそが、この、私の部屋のようなものなのかもしれない。

なぜなら、それは決して、ボールがあるからこそ成立しているのではなく、
ボールを投げる者がいて、それを受け取る者がいて、
そしてそれを繰り返すことによって初めて成立するものなのだから。

点と点を線に結びながら、私は去年一年間にあったことをゆっくりと思い起こしていた。
そう言えば、最初の頃はまだ、保田は現役のモーニング娘。のメンバーだった。
それが卒業するまでは長く感じた。でも、いざ卒業してからはあっという間だっただろう。
私にとっては、それはつい先日のことのように思い出され……。

305 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:04

今、この部屋は新たに安倍なつみという住人を迎えようとしている。
しかし、それは保田の卒業の時とは全く違った雰囲気を持っていた。

保田は卒業前から部屋にやって来ていた。そして、私との付き合いもそれ以前からあった。
だからあの時は、保田の卒業に向けてそれぞれがそれぞれの意識を持っていた。
しかし安倍の場合、彼女が来たのは一度きり。それも単に部屋を訪れただけだった。
部屋で他のメンバーと接したり、一緒に過ごしたということもない。
保田の時のように、他のメンバーが安倍の卒業に向けて何か意識を持つということも無いように見えた。

それはどこか冷めたような感じでもあったが、
しかし、私にはなんとなく、その理由がわかるような気がしていた。

彼女たちも……どこかで……新しい日々を怖れているのだろう……と。

彼女たちも、新鮮な、刺激のある生活を求めながら、どこかで変わらぬ日々を望んでいるのだ。
そして彼女たちは、それをこの部屋に求めていたのかもしれない。

つまり、この部屋は、彼女たちが新たな自分を探すための部屋でもあり、
そして逆に、彼女たちが変わらぬ自分――そして自分たち、を確認するための部屋であるのかもしれない。

「なあ、安倍の歓迎パーティーとかどうするよ？」パシッと音がして市井がボールを受け取る。
「なっちの？」ワンバウンドして私のグローブに返ってくる。

「そそ。やっぱ必要だろ？これから部屋に来るんだろうし」再びボールは市井へ。後ろにボールがそれる。
「どうなんだろ。みんな忙しいみたいだし……裕ちゃんに聞いてみないと」ボールを追いかけながら。

「なんか実感ないんだよな。保田の時とは違ってさ……」ボールを待ちながら。
「まだ来てないもんね」市井がボールを投げる。
「だよなあ」取った体勢のまま軽く投げ返す。
「ねえ、もーちゃんってさ、どうなの？」山なりの球が返ってくる。
「どうなのって？何がだ？」ボールを数回グローブの中に叩きながら。

306 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:04

「なっちのことだよ。だってさ、なっちってかわいいじゃん。だからさ、どうなのかなあって」
「ははは。それはあれか？心配してんのか？」
「そんなんじゃないよ。ただ、もーちゃんから見て、なっちはどうなのかなって」
「そうだな。なんつーか、かわいいんじゃなくて、かわいらしいよな？」
「どう違うの？」
「うーん、よくわかんねーや。あ、でもさ、耳はかわいいよな。あの耳は好きだなあ」
「耳？」
「そう、耳。なんつーか、耳の形はかなり好みだな。うん、耳はかわいい」
「変なのー。もしかして耳フェチってやつ？」
「フェチって言うなよ……。まあなんつーか、耳の形は確かに好きなんだよ」
「やっぱり好みなんだ」
「耳は、な。ただ、俺の好みはほら、前にも言ったろ？」
「……うん」
「おいおい、何赤くなってんだ？照れてんのか？」
「ち、違うよ。バカ！そんなんじゃないよ」
「ははは。お前がいつもそんな素直な反応見せてたらなあ。もしかしたら惚れてたかもしんねーぞ？」
「バ、バカ！」
「冗談だよ。本気にすんなって。……お前、もしかして俺に気があるんじゃねーの？」
「からかわないでよ！もーちゃんなんて全然興味ありません、よーだ！」
「ムキになるなよ。あ、でもそういうところは結構かわいいかも、な？」
「も、もう、からかわないでってば！」
「ははは。お前って結構遊んでるわりにそういうの弱いんだなあ」
「ちょっとちょっと、遊んでるって言わないでよね。まるでバカな女、みたいな言い方じゃん」
「わりいわりい。でももっとまともな恋愛した方がいいぞ。俺ごときの揺さぶりでそんなんじゃなあ」
「大きなお世話だよ。もーちゃんだって人のこと言えないじゃん。恋愛下手のくせに！」
「そりゃそうだけどさ。でもお前もどっこいだろ？」
「どっこいって何よ！」

白球が何度も二人の間を行き交い、そう言って市井は頬を膨らませた。
市井がそのような顔を作るのは珍しいことだった。思わず私もその真似をする。
それを見た市井が笑い、そして私も笑い、白球もどこか笑っているように見えた。

307 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:04

部屋に戻ると、そこには後藤の姿があった。予定表には何も書いてなかったのだが。

「あ、おかえりなさい」
そう言って後藤は私たちの手元を見た。多分手にしていたグローブが気になったのだろう。

「よっ！ちょっとキャッチボールしててさ」
「へへ。これね、もーちゃんから貰ったんだよ。誕生日プレゼント！」
「そうなんだ」
「あ、後藤には何も無かったよな、誕生日の時。ちょっとまずいか？」

そう言って後藤の顔を窺がうと、後藤は逆に嬉しそうな表情を浮かべていた。

「じゃあ、何かおねだり、しちゃおっかな？」と後藤。私を試すような口調だ。
「まじかよ……言っとくけど俺、金無いからな？グローブだって三つ買ってかなり痛手だったんだぞ」
「うーんとね、じゃあ取っとく。……いつか必要な時が来るかもしれないし」
「必要？」
「ううん。なんでもないです。こっちのことです」

よくわからなかったが、どうやらキープしておく、ということなのだろう。

「さーて、後藤が来たってことは、今日の晩飯は……作ってもらえるってことかな？」
「あの、ごめんなさい。これからラジオの仕事があるんです。三時間も空きがあったから……」
「そっか。それにしても忙しそうだなあ。来月はミュージカルもあるんだろ？」
「あややとなっちと対決なんですよ。だから絶対に負けられなくて」
「そっか。安倍もミュージカルなのか。……じゃあ、ここに来るのも当分先になりそうだなあ」
「卒業してからの方が忙しいかもしれませんよ。人気がありますからね。なっちは」

後藤がちょっと皮肉っぽく答えた。多分、後藤にとって安倍はライバル的な存在なのだろう。
そう言えば、彼女たちが私の部屋に来始めた頃、その関係はかなり殺伐としていたかもしれない。
まあ今では彼女たちの間にそうした問題があるようには見受けられないのだが、
しかし、安倍がそこに加わることで、またそうした懸念が広がってしまう……のだろうか……。

308 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:05

少しの間雑談――私の体調の話など――をした後、後藤と市井は自分たちの部屋へと入っていった。
何か二人だけの話があるのだろう。まあ市井の引退のことなど、話すことは多いのかもしれない。

そう言えば、後藤と市井との関係、というのは少し不思議なものだった。
以前の石黒と保田などのように、朗らかながらどこか睨み合うような雰囲気がある、ということではないのだが、
ただ、仲がいいのにどこか疎遠……表現するなればそんな感じだっただろうか。
私の目からだと、後藤が市井を慕っているのに市井が無理にそれから逃げていた、そんな風に映っていた。

ただ、それも昔の話で、今の市井なら、多分誰とも素直に接することができるはずだろう。
まだどこかにシコリはあるのだろうが、しかしそれでも市井は、新しい自分というものに対して、
前向きに進みつつあったのだから。そして、私にはそう見えていたのだから。

「行ってきまーす！」そう言って後藤が出て行こうとしたのを市井が止める。
「あ、そこまで送ってくよ」
「ほんと？あ、でもほら、下の人たちに車で送ってもらうから……」
「そっか。じゃあ下まで送るね！」そう言って市井も靴を履いて部屋を飛び出る。

下の人、というのは例のこのマンションの一階に住んでいる姉さんの“知り合い”の人たちのことだ。
他のメンバーはそんなこともないのだが、後藤の場合、彼女がトップアイドルであり、
また未成年であるということで、送り迎えやボディーガードなどをしてくれているのだ。

それはかなり前のこと。ある場所で、私が少し離れている隙に後藤がナンパされてしまい、
そして数人の若者――チャラチャラしたガキどもだ！――に絡まれたことがきっかけだった。
その時はなんとか無事に――相手はノビていたが――抜け出したものの、
さすがに後藤クラスになると危険も多い、ということで、姉さんが考え出したのがその措置だった。
そしてまた、それはあの狭い部屋から今の部屋に引っ越した理由の一つでもあった。

――新年になり、私の部屋にも何通か年賀状というものが届いている。
しかし、この部屋に来る彼女たちからは当然来ない。
それは、彼女たちにとってこの部屋が自分たちの部屋でもあるからなのだろう。
ただし、一人だけ、“この部屋”に対して年賀状を送ってきた人物が存在していた。

309 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:05

その年賀状を送ってきたのは、紺野あさ美。
紺野は現役のメンバーであり、この部屋の正式な一員ではない。
彼女がたまにこの部屋に立ち寄るのは、私の個人的な知り合い、友達だから、ということになっている。
ただし、紺野が年賀状を“この部屋”に送ってきたのは、“皆に対して”という気持ちがあったからなのだろう。

「オフィスゆうこ　御中」

その年賀状の宛先にはそう書いてあった。
『オフィスゆうこ』というのは、この部屋の表向きの名前である。

名義は姉さんなのだが、主に住んでいるのは私。そんな不自然な状態を説明するために、
そういう名前の事務所を設立した、ということにしていたのだ。もちろん正式な会社ではなく、
単なる任意団体――そう提案したのは私だ――ということになるのだが、
一応私はそこの留守番役、という立場でその部屋で暮らしていることになっている。
だから表札には、私の名字とともにその『オフィスゆうこ』という文字も刻まれていた。

そして、その『オフィスゆうこ』とともに、そのマンションの一階の一室に同時に入居したのが、
『○○コンサルタント』という名前の会社――例のその人たち――だった。

話はややこしくなるが、中澤姉さんは決してヤクザの娘ではない。
ただ、その血縁の中において、そういう組が存在しているというのは確かだ。
姉さんはかなり遠い親戚であって、成人するまでその存在すら全く知らなかったらしいが、
問題は、なぜ姉さんがその組とこうして関係するようになったか、ということだろう。

姉さんの話によると、その組には姉さんと同い年くらいの跡取り息子がいたらしい。
そして、姉さんはその息子――何代目かは知らないが――と許婚（いいなずけ）の関係だったのだ。
と言っても、姉さんが生まれてすぐ、姉さんの父親が酔った席で口約束した、という程度のものだったらしい。

しかし、その息子は十年くらい前に交通事故で亡くなり、その組は後継ぎを失ってしまった。
そして、その組の存亡も危ぶまれていたのだが、そんな時に持ち上がったのが姉さんの名前だったのだ。
一応血縁関係もあり、そして後継者の許婚だったということでその名が挙がったのだろう。

310 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:05

ただし、姉さんは小さい頃に父親を無くしてしまったため、
自分にそんな許婚がいるということは当然知らず、その父親もそれを覚えていたかどうか……。

まあ、そんな感じで姉さんはその組と関係するようになってしまったのだ。
本人は当初かなり嫌がっていたらしいのだが、今ではまあ、こうしてそこそこの関係を保っていた。

そして、そんな姉さんが初めてその組に相談したのが、この部屋のことだったのだ。
正確に言えば、この部屋に来る彼女たちの身の安全の問題だ。

芸能界というのは一般的にそっちの世界との結びつきが強く、
むしろ牛耳られている、というのが真相らしいのだが、
ただ、その組は福知山の地元の昔ながらの組であって、そうした世界とは無縁・中立であったらしい。
だからその組がそこに加わるというのもある意味ではかなり問題だったのだろうが、
しかし、姉さんの頼みとあって、その組はそれを快く了承したのだった。

そしてそれ以降、彼女たちが外出する時には彼らがボディーガードを務めることになったのだ。
と言っても、成人したメンバーについては、中澤・保田などは警護の必要はあまり無いだろうし、
また、芸能界を引退し、街中を歩いても誰からも気づかれない一般人の福田の場合も、
未成年であってもそこに特別に警護がつく、というようなことはなかった。つまり後藤専属、と言えるだろう。

だからその日、後藤が彼らに送迎を頼んだのも、別段特殊なことではなかった。
そして私たちも、そうしたことにすでに慣れているため、それを特別視するようなことは全くなかった。

――市井が部屋を出た後、一応私もそれに続いて一階へと降りた。
後藤は来た時にすでにその後の送迎を頼んでいたらしく、彼らはすでに準備を終えて待機していた。

「それじゃお願いします」

そう言うと二人の男が無言でコクリと頷く。以前は黒いダブルのスーツなどを着ていたのだが、
いつからか普通のカジュアルな格好をするようになっていた。グラサンは相変わらずだったが。
まあ、いかにも……な格好では、さすがに余計に問題になる、ということなのだろう。

311 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:06

ただし、彼らとの関係において、たった一度だけ、ある“事件”が起きたことがあった。

後藤はこの部屋でよくお菓子などを作ったりしていた。
ある時、後藤はその出来立ての手作りのお菓子を下の階まで持っていった。
いつもお世話になっている、その感謝の気持ちだったのだろう。
しかし、それに対して、彼らの一人が感極まって涙を流してしまったのだ。
後藤もかなり驚いていたが、一番驚いたのは多分私だっただろう。

だからこそ、あれは私にとってはかなり特殊な“事件”と言えるものだった。

――とまあ、そんなことを思い出しながら後藤を見送り、私は市井と部屋へ戻った。

「さーて、そろそろ晩飯の支度しないとな。お前作るか？」
「え？うーん、いいよ、遠慮しとく」
「だよなあ。昼は外食だったし、やっぱ俺が作らないと駄目か」
「それじゃ一緒に作ってあげよっか？それなら別にいいよ」
「ほんじゃ何すっか？なんか食べたいものでもあるか？」
「うーん、特にない、かな？」
「それが一番困るんだよなあ。何か指定してくれた方が……」
「あ、じゃああれがいいな。もーちゃんの好きな、コロッケ茶漬け！」
「おいおい、別に俺に合わせなくていいんだぞ？ああいうのはただの貧乏料理なんだから」
「えー、でもあれ美味しいじゃん。ソースとお茶ってのが最初は気持ち悪かったけどさ」
「うーん、それじゃコロッケ自分で揚げるか。それならまあ、料理って感じするよな？」
「うん！」

私の作る料理というのは、一人暮らしの男の料理、というものの典型だろう。
ただ炒めるか、ただ焼くか、ただ煮るか、ただ揚げるか、必ずそのどれかであって、
料理の本などを見たこともなかった。だから材料の分量も味付けもいつも適当だった。
だから肉じゃがを作ってもそれが肉じゃがなのかどうか、自分でもよくわからなかったりするほどだ。
肉じゃがを想定してそれっぽく仕上げた、というだけの料理であるから、肉じゃが風、と呼ぶべきかもしれない。
ただ、そんな料理でも喜んでくれる人がいる、というのはかなり嬉しいことだっただろう。

312 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:06

彼女たちと一緒に買い物をする、というのはどこか照れくさいものだった。
夫婦……と見られることはさすがに無いだろうが、
彼氏と彼女が仲良くお買い物……というように見られているようで。

まあ、私がそう思うのも、それは過去にそうした相手がいた、そのせいなのかもしれない。
だから女性と一緒にスーパーで買い物をすると、私は自然にそう思ってしまうのだろう。

彼女たちと一緒に買い物をするというのはよくあることだった。
ただ、それはメンバー的にかなり差があるものだっただろう。

石黒は自分のペースがあるのか、スーパーに行く時は必ず一人だったし、
中澤・保田の場合は深夜のコンビニに酒とつまみを買いに行くくらいだろう。
残ったのは三人だが、その中で一番買い物が好きだったのは意外にも後藤だった。

後藤はスーパーの買い物かごを手にぶらさげるのが好きらしく、
そして特に、商品の前で指をあごに当てて考える素振りをするのが好きらしかった。
そうした素振りをしながら、「どう？主婦みたいでしょ？」と言って嬉しそうな後藤。
見かけとは違って庶民的なことに憧れるのが後藤だった。

一方、福田の場合は、妹が一緒に付いて来た、といった感じだった。
私を困らせるかのように、勝手にかごの中にプリンやヨーグルトや果物を入れてくるのだ。
そして、それに文句を言う私の反応を楽しんでいるかのような、そんな無邪気なところがあった。
それは普段の冷静で理知的な面を知っていることで、さらに際立つものだっただろう。

そして市井の場合。彼女はイメージに反して、スーパーではプロフェッショナルだった。
入口から野菜コーナーを通り、肉や魚などを一通り見て回った後、
今度は逆回りに進んで、そこでようやくカゴに商品を入れ始める。

計算などは苦手なはずなのだが、しかしその時だけは別だった。
どれとどれの組合せが買い物的にお得か、それを瞬時に把握する、
どこでそんな技を覚えたのか不思議だったが、とにかく、市井の買い物だけは独特だった。

313 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:06

「さーて、たまには一緒にゲームでもするか？」

晩御飯の片づけを終えて私はそう提案した。
しかし、市井はどこかいつもとは違った表情を浮かべていた。

「ごめん、なんか、ちょっと眠くなっちゃった」
「そっか。まあ今日は色々あったもんな」
「うん……」

そう言って市井は部屋へと戻ろうとした。
が、その様子は明らかにおかしかった。

「お、おい……大丈夫か？今お前……よろめいただろ？」
「ああ、なんでもないよ。ちょっと疲れちゃったみたい」
「ちょっと待てって。こっち向いてみろって」

そう言って市井の肩を軽くつかみ、自分の方へと振り向かせる。
さっきまでは気づかなかったが、市井の表情は薄っすらと赤みを帯びていた。

私は無意識的に市井の額に手のひらを当てていた。
そして、私のその予想は当たっていた。

「お前……熱、あるんじゃないのか？」
「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけだってば」
「いや、絶対熱あるって。ちょっと計ってみろよ」

その日の市井はかなり無理をしていたのだろう。
自分では大丈夫だと思っていても、それは無意識的に疲れるものだったのだから。
そして、寒空の下でキャッチボールをしたことが、それを表面に押し上げてしまったのだろう。

「ごめんね……なんか御飯食べたら急に……辛くなっちゃって……」

314 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/01/28(水) 00:07

そう言って市井はベッドに横になった。それはどこか弱々しい声だった。

「俺にできることがあったら何でも言ってくれよ。な？無理しなくていいんだぞ？」

冷水で搾ったタオルを市井のおでこに乗せながら、
私はなるべく優しい口調を心掛けながらそう言った。

「えへへ。じゃあ甘えても、いいのかな？」
「まあ、お前がそれで落ち着くんなら、な？」
「じゃあ、私が眠るまで、そこにいてくれる？」
「別にいいけど、その代わり、早く寝てくれよ、な？」

そう言うと市井は細い笑顔を浮かべた。
まるでその照れ隠しの冗談を見透かしているような表情で。


　　　My　Babe　君が先に眠るまで
　　　心配だから　起きてる
　　　それは約束だけど　でもそれだけじゃなくて


スースーという寝息が私の耳に溶ける。
すっかり安心したような、そんな市井の寝顔。
その左手は布団から微かにはみ出て、その先には私の右手。

それは何の関係もない男と女。でも、だからこその二人。
私にとって、彼女たちはそう、そんな存在……。

――――――
　　 つづく
――――――

315 ：名無し娘。：2004/01/29(木) 22:16

つづけ

316 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:31

「正直言うとな、辞めた奴ん中ではお前が一番悲惨や。俺かてそう思うわ」

男はそう言ったものの、そこには憐れみの色は微塵も感じられなかった。

「せやけどな、だーれもお前を惜しむ声はあらへん。それがなんでか、わかるか？」

その――内容ではなく――淡々とした口調に、私はその場にいるのが辛くなっていた。
なるべく二人と顔を合わせないように、壁に掛けられていた時計に視線を合わせる。
秒針の音は一定の周期で、マイペースに時を刻んでいた。

「厳しい言い方かもしれへんけどな、その原因はお前や。才能とかやのうて、お前自身やねん、原因は」

男の言葉と秒針の音。その二つだけが部屋の空気から妙に浮いていた。

「そらお前はもう引退したんやから、今さら俺がどうこう言うことやあらへんけどな」
「でもな、お前がそのことに気づかん限り、これからの人生もおんなじやと思うで。俺は」

それは多分、その男からの励ましの言葉だったのだろう。
優しい言葉で全てがうまくいくのなら、人は誰しも苦しんだり、悩んだりすることはないのだから。
でもそうではないのだ。そしてまた、芸能界という特殊な世界であるならば、それはなおさらのこと……。

その男が部屋にやって来たのは突然だった。もちろん、それは私も聞かされていなかったことだ。

市井が風邪をひいた翌日――。
市井は自分ではもう大丈夫と言ってはいたが、まだ熱もあり、顔もどこか赤らめて見えた。
私に迷惑をかけたくないという思いがあるのか、市井はその“大丈夫”を強調するかのように、
いつもとは違った――いかにも不自然な――態度で私に臨んでいた。

「ねえ、今日は私が朝御飯作るね」
「おいおい、無理すんなって。まだ熱あるんだからさ、飯は俺にまかせて、休んでろって」
「でも寝てるのってつまんないんだよね。退屈だし」

317 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:31

市井が自ら料理を作るなどと言い出した時点で、それはすでに市井の状態を表していたのだろう。
そんな市井に、念のために釘を刺しておく。さすがにそこまでの気力は無いとは思うのだが。

「とりあえず今日は安静にしてろよ。わかってると思うけど、出かけたりすんなよな？」
「うん……わかった」
「昼飯も作って置いとくから。ちゃんと寝て、ちゃんと食べるんだぞ？」
「うん」

夕方になり、私が帰宅すると、市井は自分たちの部屋ですやすやと寝息を立てていた。
ただ、テレビの前にゲームが置きっぱなしになっていたのはちょっと気にはなったが。

その日の晩御飯は鍋焼きうどんだった。
胃に優しく、それでいて栄養があり、体が温まるもの、というのがその理由だ。
すでに材料は準備し終え、後は市井が起きるのを待つだけだったのだが、
無理に起こすわけにもいかず、かと言ってそのまま待っているというわけにもいかず、
と、そんな時に、部屋に一人の人物がやって来たのだ。

「はい？」
「寺田言うもんやけど、○○君やな？」
「ええ、そうですけど」
「あ、寺田やわからへんか。つんくや、つんく」
「………………つ、つつんくさんですか？？？」
「そうや。ちょいと話があるねんけどな。上げてもらえへんやろか？」
「わ、わかりました。今開けます……」

慌てて一階のオートロックを解除するボタンを押す。
まさかつんくが部屋にやって来るとは……。それはかなりの驚きだっただろう。
それを表すかのように、私はその一階の玄関と通じる受話器を持ったまましばらく立ちすくんでいた。

もう一度インターホンが鳴り、心の整理がつかぬままに私は部屋の玄関のドアを開けた。
彼がなぜ、この部屋にやって来たのか、その理由を考えながら……。

318 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:32

「あー、あー、君か。顔見てようやく思い出したわ。君や、君」

開いたドアの隙間から、男が私の顔を確認するように眺めてそう言った。
金髪ではなく、やや金色が残る黒髪に、薄茶色のサングラス、服装は思ったより地味だったものの、
腕にはキラキラと下品なブレスレットが見えていた。もちろん、実物のつんくだ。

軽く挨拶した後――どう対処すべきか迷ったものの、結局――彼をリビングへと通した。
とりあえずソファに座ってもらい、その前のガラステーブルにお茶とお茶請けを出す。
後藤が持ってきた東京の老舗の煎餅、高級すぎて私が手を出せないでいたものだ。

「突然でびっくりしたやろ？ははは、一応中澤には行く言うとったんやけどな。おらへんのかいな？」

彼、つんくと私は以前にも会ったことがあった。もちろん、それはあのドラマの時だ。
保田の卒業をテーマにしたドラマで、私の家を彼が訪ねるというシーンがあったのだ。
しかし、あくまでも一度会ったことがあるというだけで、特に知り合いというわけではなかったのだが、
まあ、彼女たちとこうして過ごしている以上、無関係の間柄というわけではないのかもしれない。

「あの……どうしたんですか？突然」

こういう時はどういう言葉遣いをすればいいのだろうか。
そう思ったものの、結局私はごく普通に尋ねることにした。

「ああ、後藤たちが世話になってるやろ。せやから一度挨拶しとこ思うてな」
「はあ……世話、ですか。……まあ一応はそういうことになるんですかね……」

そう答えたものの、“後藤たち”という言葉の中に誰が含まれているのかはよくわからなかった。
彼はプロデューサーなのだから、それは彼の管轄内の人間を指すのだろうが、
しかし、福田・石黒・市井は論外として、中澤や保田がそこに含まれるとも思えない。
となると、その語句には後藤以外の存在は含まれない、ということになるだろう。

ただ、この部屋にわざわざ足を運んだのだから、そこには何らかの理由が存在するはずだった。

319 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:32

そして、私はその理由に二つばかり心当たりがあった。
一つは、彼がこの部屋に、この部屋の存在に興味を持っているということ……。

モーニング娘。には仕事のストレスを解消するための憩いの部屋があった。
それはあのドラマの中で語られていたこと――それだけならフィクションだろう――だったが、
しかし私はそれが本当に実在していたということを、中澤や保田から聞いて知っていたのだ。
そして、その部屋を企画した人物こそが、私の目の前にいるつんくだったということも。

音楽プロデューサーというのは、普通は音楽だけを扱ってればいいのだろう。
しかし彼の場合、モーニング娘。結成から不動の人気を得るまでの間に、
それ以外にも様々な役割を果していた。そしてその一つが、その部屋の企図だったのだ。

ただし、私のこの部屋は彼のそうした部屋とは無関係の存在だった。
その部屋をヒントにして姉さんが自分で、自分たちのために作ったものなのだから。
そして、だからこそ、私はその時、彼を部屋に上げるべきかどうかで少し迷ったのだ。
彼はあくまでも部外者なのだから……この部屋にとっては。

当然、彼もそのことは熟知していたのだろうが、しかし、だからこそ彼はやって来たのだろう。
この部屋の存在を、その様子を、自分の目で確認するために……。
もちろんそこには、今後、安倍や辻・加護といった主力メンバーが訪れることになるかもしれない、
といったことも関係しているのだろうが、とにかく、それが思い当たった一つ目の答えだった。

「色々大変やろ？一筋縄ではいかへん連中やさかい」

リビングを一通り眺め回しながら彼がそう尋ねた。
さすがに初期モーニング娘。を作り上げた男だけあって、その言葉には実感がこもっていた。

「そうですね……でも、自分は何をするってわけでもないですから。ただ居るだけで……」
「うんうん。ま、そうかもしれへんけど、実際問題その“居る”ってのがなかなか難しいもんやからな」

そんな感じで、彼は私が彼女たちとどう接しているのか、そこに興味を持っていたらしかった。

320 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:32

「福田とかも来るんよな？」

しばらくして彼がそう切り出した。私について聞くことは一通り聞いたということなのだろう。

「ええ。たまにですけど。……でも来る時はまとめて来ますね」
「ほうか。俺よう知らへんのやけどな、和田さんとこがなんやアプローチするとかせえへんとか……」
「和田さん？」
「あ、いやいや、こっちの話やさかい。ま、福田のことや、下手なことはせえへんやろうけど」
「はあ……」
「石黒とかも来よるんか？あれ、最近雑誌とかでようけ活躍してるやんな」
「みたいですね。……まあ、この部屋には滅多に来ませんけど」

彼は私の答えをうんうんと頷きながら聞いていた。
それは一つ一つを納得し、消化しているような感じだった。

そして、それは私が思い当たったもう一つの答えを表すものでもあっただろう。

彼がモーニング娘。のプロデューサーなのは誰もが知っていることだ。
しかし、彼のその立場が今現在どのような状態にあるのか、それはよくわからない。
ただ、素人目から見ても、彼がもう昔のようにモーニング娘。に対して、
自由に介入できる立場ではないということは薄々察することができた。

そして、だからこそ彼はやって来たのだろう。
自らの感性と熱意を用いてモーニング娘。をプロデュースしていた頃を懐かしく思い……。
そして彼のそうした努力と、ともに歩んできた彼女たちをいとおしく思い……。

つまり、それは彼女たちがこの部屋にやって来る理由と、ほぼ同じものだったのだろう。

と、リビングのドアが開き、部屋に一人の女性が姿を見せた。それはもちろん、市井だ。
つんくが彼女の姿を見て「おぉぅ」と驚きの声を上げる。
しかし、それ以上に驚いた表情を浮かべていたのは、当然市井の方だっただろう。

321 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:32

「なんや、市井やんか。ひっさしぶりやな〜。元気やったか？なんや、おったんかいな〜」
「……」
「あ、えーと、ちょっと風邪ひいて寝込んでたんですよ。ちょっと言うのが遅れましたけど」
「いやあ、ほんまにおったんやな〜。君ももっとはよう教えてくれへんと、びっくりするわ〜」

つんくのその感嘆の声は、彼がその状況に対して全くの予想外だったことを表していた。
そしてなるべくならその状況を避けたかったということも……。

「ほうか。風邪ひいたんかいな。そりゃあかんで〜。風邪ははよ治さんと」

彼はそう言ったものの、彼の顔は市井ではなく、なぜか私に向いていた。

「あ、実は御飯まだなんですけど……彼女が起きるの待ってたんで……」
「あー、あー、そうやったんか。ほな俺にかまわんと、食べてくれてええで。急に押しかけたんやし」
「あ、つんくさんも一緒にどうですか？」
「いや、俺はもう済ませたさかい。ほんま気にせんでええで」

三者が三者とも、気まずい空気を阻止したいという表情をしていた。
まいったなあといった表情のつんくに、どうしていいのかわからない私、
そして久しぶりにどこか冷たい目をしていた市井……。

とりあえず私は台所へと向かい、用意してあった土鍋に火をつけた。
後はうどんを入れて煮込めば完成だったが、その行方がどうなるかは全くわからなかった。

「あ、お茶お代わりしましょうか？それともお酒の方がいいですかね？」
「あー、かまわへんでええで。この後行くところあるさかいな」
「そうなんですか……」

ソファに座っていたつんくと、食卓の椅子に座った市井との間に会話は無かった。
さすがにそれ以上、そのままでは空気が持たなかっただろう。
私はその状況を打開するために、意を決して二人に話し掛けた。

322 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:33

「色々と話すこととかあるんじゃないですか？自分、下がってましょうか？」
「いや、そんな気ーつかってくれへんでもええで。土台、君の部屋なんやから」
と、ようやく市井が口を開いた。小さな声でポツリと一言……。

「……別に話すことなんて無いよ……」

しかし、それは部屋の空気を良くするどころか、一瞬で凍りつかせるものだった。

「ははは……ま、まあそれもそうですね……引退したんですし……」
思わず苦笑いを浮かべる私。つんくも同様に笑いを浮かべていた。

再び元のたわいの無い会話に戻り、私は煮込み終えた土鍋を食卓へと運んだ。
「いただきます」と言って市井がそれを食べ始める。どこか冷めたような目をしていたのは、
多分熱のせいなのだろう。辛い状態なのに、そんな時につんくがやって来たことを恨むような、
そんな気持ちがあったのかもしれない。

確かに市井は基本的に性格が悪かった。
つんくが言う一筋縄ではいかないという中にも、そのことは含まれていただろう。
ただ、それも昔の話であって、今の市井は以前に比べると別人のように素直なのだ。

「ニンジンちゃんと食べろよ。シイタケもだぞ。シュンギクも忘れるなよ」
「うん。わかってるよ」

つんくと私との会話の横で、市井はその鍋焼きうどんをフーフーしながら食べていた。
それは確かに素直だっただろう。しかし、それは私に対してだけ素直ということだったのかもしれない。

それからどうやって冒頭のような流れになったのかはよく覚えていない。
ただ覚えているのは、そのきっかけとなった二人の発言だけだった。

「しかしあれやな。市井も大丈夫そうで、俺も安心したわ」
「……あんたなんかに……私の気持ちはわかんないよ……」

323 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:33

市井の中には、多分つんくに早く帰って欲しいという思いがあったのだろう。
ただ、市井にはそれを実行するだけの語彙と話術がなかったのだ。
それでいつの間にか話がややこしくなってしまったのだ。

結局は、二人とも一筋縄ではいかない人間だった、ということなのだろう。
――つんくが帰り、部屋はいつも通りの部屋へと戻った。

「大丈夫か？まだ熱はあんのか？」
「ううん。大丈夫。もう大丈夫だよ」
「そっか。でもちょっとタイミング悪かったよな。突然だったし……」
「……かなりね」
「はは。それにしてもつんくが来るとは思わなかったからな。姉さん何も言ってなかったし」

その姉さんが部屋にやって来たのは、それから数日後のことだった。

「姉さん、あれですよ。最近適当ですよね？」
「ん？ああ、つんくさんのことかいな。あれ、言うてなかったっけ？」
「ひっとことも聞いてませんでしたよ。それにそれだけじゃないですよ」
「ん？まだあんのかいな？」
「今日だって来るなんて聞いてないですし、この前来るって言ってて来ませんでしたよね？」
「んー、まあ色々あんねんて。この年やろ？急に淋しくなったり一人泣きたい夜があったりすんねん」
「ははは。裕ちゃんらしいや」
「笑ってられるんも今だけやで。紗耶香かていつかわかんねんから。あんたはわかるやろ？」
「俺ですか？……まあ何となくわかりますけど……」
「やろ？やっぱりなあ。あんたもうちと同じで弱い人間やからなあ」
「それは認めますけど……でも姉さんと同じってのには同意できませんよ」
「異議あり！ってやつだね。なるほどくん！」
「誰がなるほど君だよ。なに逆転裁判みたいなこと言ってんだか……」
「だってもうすぐ発売日なんだもん」
「ったく、安倍の卒業よりそっちが気になるのかよ……」
「……」

324 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/05(木) 18:33

「とにかく、今度からはちゃんと事前に教えてくださいよ」
「はいはい」
「なんなんですか、そのいかにもうんざりって返事は！」
「なんや、あんた明日香みたいな言い方やで、それ」
「ごまかしても無駄ですよ。それに予定が駄目になった時もちゃんと連絡してくださいよ」
「はいはい」
「……」
「まー、裕ちゃんもちょっぴり反省してるさかい、許したってや。な？」
「自分のこと裕ちゃんとか言わないでくださいよ。いくつだと思ってるんですか、ったく」
「あんた厳しいなあ。ほな、つんくさんがなんで来たんか教えたるさかい、それで許したってや」
「はあ？」
「聞きたいやろ？」
「私はどっちでもいいよ」
「あんな、つんくさん、こっちに彼女ができてん。それもな、誰やと思う？」
「そんなん知るわけないじゃないですか。それに誰も聞きたいなんて言ってませんよ」
「まあまあ。それがな、実はあんたもよう知っとる人やねん。ま、ぶっちゃけお笑い芸人ってやつ？」
「ぶっちゃけとか言われても……しかもなんで疑問口調なんですか？」
「ほんで最近ようけ大阪に来るってわけや。この部屋来たんはそのついでってやつやな」
「へえ、そうなんだ。あの人って結構恋愛下手なんだよね、もーちゃんと一緒で」
「なんでそこで俺が出てくるんだ？」
「ま、そういうことやから。ほな、少し遅めの新年会でも始めよか。三人だけやけどな」

結局、つんくがなぜこの部屋に来たのか、その真意はよくわからなかった。
ただ、私が思い当たった二つのことと、そして姉さんの話を踏まえると、そこには一つだけ答えがあった。
それは単なる“気まぐれ”……。でも、もしかするとそれが一番正しい答えだったのかもしれない。

なぜなら、彼女たちがこの部屋にやって来るのも、結局は同じような答えなのだから……。

――――――
　　 つづく
――――――

325 ：◆5/w6WpxJOw ：2004/02/08(日) 06:34

新スレに移行しました。引き続きお付き合いください。

ほぼ毎日、娘。のとある奴が俺の家にいる・・・!!!5
http://www.omosiro.com/~sakuraotome/live/test/read.cgi/bbs/1076188587/

481KB

---

新着レスの表示

---

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

名前： E-mail（省略可）：

0ch BBS 2006-02-27