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【速報】さゆと亀井が卒業

1 :名無し娘。:2007/01/02(火) 23:10
ソースは新宿ラジオ

70 :名無し娘。:2007/05/19(土) 03:20

 小春はこのまま墜落するのだと思った。これまで何度も助けられてきた神社の剣を握ってみた
が、それが小春を助けてくれるということはなかった。小春にはもうなす術がなかった。そんな時、
小春の視界に星が映った。星は輝いていた。小春はマンションを出て走り始めてからのことを走
馬灯のように瞬時に思い起こし、そしてそこに希望を見つけていた。
 ロケットは傾きを更に増してほとんど真下に向いた。そして小春は開いたふたから振り落とされ
た。千メートルほどの高さから落下し、小春は気絶しかかった。だが、希望を忘れてはいなかった。

 小春は背中に背負った落下傘の紐を引いた。落下傘が開き、その次の瞬間、落下の速度が一
気に止まった。小春は風船で空を飛んでいた時のように風に吹かれながら、ゆっくりと高度を下げ
ていった。遠くの方、東京の都心部の方にミサイルが落ちていくのが見えたが、特に爆発が起こる
というようなことはなかった。小春が乗っていたカプセルの中身は空で、爆薬や核弾頭などは積み
込まれていなかった。ミサイルが飛んできたことに変わりはないが、それは大型トラックが民家に
激突するようなものに近かった。

71 :名無し娘。:2007/05/19(土) 03:20

 落下傘に揺られながら、小春はミサイルに遅れること数分で東京に舞い降りた。何年ぶりの東
京なのか、小春にはわからなかったが、それでも懐かしかった。
 小春は走るのをやめ、歩いて月島のマンションに戻った。そして窓から東の空を眺めた。星は
昔とかわらずに輝いていた。結局、星にはたどり着けなかった。でも、それでいいのだと小春は
思った。
「あの星は……きっと心の中にあるんだろな……」
 小春は彼のきらりんとした瞳を懐かしく思い出しながら、笑顔を浮かべた。

 翌日、小春は久しぶりに事務所に顔を出した。モーニング娘。はとっくに解散していた。




72 :名無し娘。:2007/05/19(土) 03:21
丸々五時間とタバコ一箱を費やして一気に書き上げました。
タバコを吸いすぎて気分は最悪です。
それはさておき、感想がある方はお気軽にどうぞ。

73 :名無し娘。:2007/05/19(土) 03:27
ちなみに着想は『走れメロス』と『フォレスト・ガンプ』と「風船おじさん」と、
こないだ再放送してた『ロッキー』と『モンモンモン』の最後らへんです。

74 :名無し娘。:2007/05/19(土) 15:55
一気に読んだ
疾走感がいいね

75 :名無し娘。:2007/06/12(火) 21:49
自己保(←連立内閣っぽい)

76 :名無し娘。:2007/06/28(木) 21:18
読者の皆さんに質問ですが、需要はありますか?
他所での連載に専心してて新作の予定はないけど、
ここまでレスがないと気になります。

77 :名無し娘。:2007/06/28(木) 21:27
レスならついてるじゃん

78 :名無し娘。:2007/06/28(木) 22:19
少ないという意味です。それで需要がないのかと思った次第。
狩狩では受け入れられない作風ではないだろうかと。

79 :名無し娘。:2007/06/28(木) 22:30
狩狩って元々レス少ないよ

80 :名無し娘。:2007/06/28(木) 22:35
それは知ってます。色々連載してますから。
でも、おめレスが一件もないというのは、どうなのかなあと。
電源ぼっきという名前がまずかったのかなあと。

81 :名無し娘。:2007/06/28(木) 22:37
電源ぼっきという名前がまずかったんだと思います

82 :電源ぼっき5:2007/06/28(木) 22:43
語感でわかってくれると思ったんだけどね。

83 :名無し娘。:2007/06/28(木) 22:59
つづけ

84 :名無し娘。:2007/06/28(木) 23:05
>>82
何か深い意味があったの?

85 :電源ぼっき5:2007/06/28(木) 23:08
まさかと思うけど、誰一人として気づいてないとか?
作者名と作風でわかると思ってたんだが・・・

86 :名無し娘。:2007/06/28(木) 23:13
何が?

87 :電源ぼっき5:2007/06/28(木) 23:18
ネタ感想スレで今その話題になってます。そちらをどうぞ。

88 :名無し娘。:2007/06/28(木) 23:18
なるほどそういうことか

89 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:00

『天狗』

 東の山に天狗がいるそうな。天狗は岩だらけの険しい山谷の、一番奥まったところにある薄暗
い洞穴(ほらあな)に住み、里にはちっとも降りて来ん。どうやって暮らしとるのか、何を食べて生
きとるのか、気になるという話を、今もしとったところだわ。
 その話を聞いて、サヤカはその天狗こそが自分が求めている人物に違いないという確信を持っ
た。
「ありがとう。気をつけます」
 サヤカは大昔の営業用スマイルから比較して七割程度のほどよい笑顔を浮かべ、頭をゆっくり
と下げた。
 村人も、いやいや、なになに、などと返事をしながら、人のよさそうな顔で頭を下げ返した。
 これまでのサヤカは、余所者(よそもの)に対して並並ならぬ興味と警戒心を併せ持つという田
舎独特の慣習に、ほとほと困り果てていた。いくら笑顔で話しかけても敵を見るような目で冷たく
あしらわれ、否定の答えを聞き出すのにさえ労力を要する。特に山間部の離村ではその傾向が
強く、サヤカはそれが過疎化の原因だろうと思ったほどだ。
 それが、その村では違った。仏師の話は聞けなかったが、天狗の話は聞けた。
 サヤカは、その天狗こそが伝説の仏師に違いないと、話を聞いてすぐにピンときた。
 そしてまた、村人がそのことを話してくれたのは、村人にとって、サヤカ以上に警戒すべき存在
がいたからなのだろうとも思った。考えるまでもなく、その存在とは天狗だった。

90 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:00

   ○

 サヤカは山に登った。リュックサックの中には、たいがいの物が揃っている。専門的な登山用具
とまではいかないが、ロープもあれば詳細な地図もコンパスもあり、食糧や水は二日分を用意して
いた。リュックサックの上には、汗の染み込んだ寝袋と保温シートも載せてあった。
 仏師を探すために方方を渡り歩き始めてから、早三ヶ月が過ぎていた。
 最初の頃は何の情報もなく、諦めようと思ったこともあった。母親に預けてきた子供のことが心配
になったりもした。
 しかし、サヤカは自分の受けた天啓を信じた。
 自分を救ってくれるのは、自分を成長させてくれるのは、伝説の仏師しかいない。
 その思いは、どんなに絶望しても、最後まで決して消えることがなかった。
 サヤカは気を引き締め直し、山に登った。

   ○

 天狗はあっけないほど簡単に見つかった。
 沢伝いの道を、小さな滝がある場所まで進んだところ、その爽やかな川原に、隠れることもなく、
静かに座っていたのだ。天狗は座りながら、ノミを使って仏像を彫っていた。
 サヤカはその近くまで行くと、声はかけず、ただ黙ってその様子を見つめた。
 シュッシュッシュッと木屑のめくれる音がし、そのたびに木塊に魂が込められていく。
 見事だと思った。技術もだが、その静かなる様子に、サヤカは大いに感心した。
 見た目は六十歳を少し越えたくらいだったが、サヤカは、もしかしたら七十歳や八十歳を越えて
いるかもしれないとも思った。天狗には凛とした風格が備わっていた上、まるで悟りを開いた仙人
のように、不思議な靄のようなものが体全体から発散されていた。

91 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:00

   ○

 日が傾き出した頃、天狗はようやく顔を上げてサヤカのほうを見た。
 まるで、それまではまったくサヤカに気づいていなかったというような様子で、しかしそのどこにも
演技のようなものは見えなかった。
「お嬢さん、どうかなさったかね」
「あ、はい。あなたを探してました。かれこれ三ヶ月も」
「ほほお。天狗を探すとは、お嬢さんにしては奇怪な趣味をお持ちのようで」
 サヤカは次に何と言っていいかわからなくなった。
 彼を探していたのは、彼の彫った仏像に魅せられたからだった。そして、その仏像を手元に置い
ておきたいと願ったからだった。それも、その仏師がサヤカのためにだけ彫った仏像だ。そのプラ
スアルファの要素があることによって、サヤカはこれから先の人生を、自分という存在を無視する
ことなく、強く正しく生きていけるような気がしていた。
 しかし、彼の仏像を彫る姿を見ているうちに、その先に新たな願いが生まれてもいた。
「お嬢さん、わしの弟子になりたいと、そう思っているようだね」
「えっ?」と、サヤカは驚きを口にした。今まさに、サヤカはそのことを考えていたのだった。
 彼は日に焼けた赤黒い顔に笑みを浮かべて言った。
「何も心配することはない。弟子になりたいなら、なればいい。心がありさえすれば、誰にでも仏は
彫れる。もっとも、わしは自分が彫っているものを仏だとは思っておらんがね」
「それなら、それはいったい、何なのですか。私には立派な仏様に見えます」
「木じゃよ。わたしはただ、木を彫っておる。そこに顔のようなものがあるのは、木がそういう表情
を浮かべたいとわしに訴えかけ、わしもその声に耳を傾け、そうしているうちに自然にそうなってし
まうだけなのじゃ」
 その日、サヤカは天狗に弟子入りした。そして日が山陰に隠れた頃になってようやく、サヤカは
彼が山伏だか修験者だかの格好をしていたことに気づいた。
 サヤカはそれを、これまで見たどんなファッションよりも、おしゃれで自然だと思った。

92 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:00

   ○

 一年はあっという間だった。
 サヤカも今ではすっかり自然の中で暮らす天狗生活に馴染んでいた。自分が尼天狗と呼ばれ出
したことも知っているし、山道などで村人と遭遇した時、驚愕の表情を浮かべながら逃げ出される
ことにも慣れた。
 しかし、一番の目的である仏像を彫るということに関してだけは、サヤカはほとんど上達をしてい
なかった。
 師匠は自分が思うままに心で彫ればいい、それが木の顔なのだから、と言うだけで、技術的なこ
とを教えようとはしなかった。ただし、サヤカのほうも、木工技術を学ぶために弟子になったのでは
ないということを、ちゃんとわかっていた。うまく彫りたいだけなら、彫刻教室でも専門学校でも、道
は用意されているのだ。
 とはいえ、自分にまったく進歩が見られないことに、サヤカは内心で大いに焦っていた。
 どうすれば師匠のように、自然な、心のこもった像が彫れるのか、その最も大事なところがわか
らず、最後まで彫り通すことができなくなっていた。
 最初の頃は、下手なりに最後まで彫り、出来上がった木の顔を、丸一日かけて、朝から晩まで、
眺めていたものだ。そうするうちに木の声が聞こえてきて、僕は笑顔なんだけどとか、私は本当は
悲しいのとか、本当のことを教えてくれるような気がしたのだ。
 そして実際、そんな声が聞こえたような気がすることもあった。
 しかし、そういった試行錯誤を続ければ続けるほど、サヤカは自分の彫った顔がどれも作り物の
ように思えてきて、ついには最後まで彫り通すことができなくなってしまったのだった。

93 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:00

   ○

「師匠、お願いがあります」
 ある時、サヤカは思い切って師匠に頼み事をした。
 それがどういう結果を招くのかはわからなかったが、それを形としてはっきりと表したいという思い
が強くあったのだ。
 サヤカは言った。
「私のこの彫りかけの木の顔、ここまで彫って、もう続けることができなくなってしまいました。顔が、
声が、わからなくなってくるんです。でも、でも、師匠なら、この顔が本当はどんな顔なのか、どんな
顔になりたがっているのか、わかると思うんです。この顔がどんな顔なのか、私に見せていただけ
ませんでしょうか」
 つまり、サヤカは自分の彫りかけの木の顔を、師匠に完成させてほしいと頼んだのだ。
 師匠は、ほっほっほっと笑い、サヤカが手渡すまでもなく、その木片をひょいと手に取った。
「惜しいところまではいっておるんじゃがの。技術的には、たしかに下手じゃ。しかし、木の顔という
ものはのお、技術とは関係ないんじゃよ。心じゃ。心があれば、どんな顔も浮かび上がらせることが
できるというものじゃ」
 それから、師匠はその木片を手に持ったまま、じっと見つめ続けた。
 それが五時間にも六時間にもなった。
 サヤカはかがり火を焚き、まだ暗い早朝に山寺から貰ってきていた野菜を刻み、米とともに鍋で
煮て、それを晩飯として食べた。
 師匠はまだ動かなかった。

94 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 山寺はその場所から三十分ほど、岩肌の露出した小さな山を越えたところにあり、米や野菜を分
け与えてくれていた。里の村人は二人のことを天狗と恐れていたが、その山寺の和尚は仏師の彫
る仏像をはじめて見て以来、よき理解者となっていて、たまに様子を見にくるほか、訪れれば野菜
や米などの食糧を惜しむことなく分け与えてくれていた。
 師匠はサヤカに、定期的に、和尚に渡すお布施を持たせていた。お布施は現金で、サヤカは最
初、師匠が大金を溜め込んでいることに驚き、呆れもしたが、お金に対する価値観がまったく違う
ことを知ってからは、逆に自分を恥じた。
 師匠はお金にこだわりを持っていなかった。物品交換券くらいにしか見ておらず、それを溜め込
んでいたのも、もしもの時のためだとか、老いさらばえた後のためだとか、そういう俗物的、庶民的
な目的では決してなかった。大昔に、ある金持ちが仏像をどうしても売って欲しいと懇願し、その対
価として置いていったというだけのもので、それが今もなお手元にあるのは、ただ使い道というもの
がなかっただけなのだった。
 だからこそ、師匠は米や野菜を提供してくれる和尚に、多額のお布施を、まったく気にすることな
く渡していた。
 そんな師匠を見て、サヤカは生まれてはじめて、お金の使い道というものを知ったのだった。

   ○

 日は完全に沈み、辺りは真っ暗になっていた。チロチロと耀(かがよ)う火も、すでに木の枝の大
半が燃えかすとなり、消えかけようとしていた。
 師匠はまだ動かなかった。
 サヤカはそんな師匠の様子をじっと見ていたが、日の出とともに起き、山を越えた疲れもあって、
すぐに眠気が全身を包み込みはじめた。サヤカはシートの上に横になった。

95 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 翌朝、山鳥の鳴き声で目を覚ましたサヤカは、師匠が前夜とまったく変わらない場所に、まった
く変わらない格好で座っていたことに、大いに驚いた。そしてそれから、自分がいつの間にか眠っ
てしまっていたことに気づいた。
「おはようございます」と、サヤカは声をかけた。
 その声に、師匠はふとどこか遠くを眺めるような目を浮かべた。そして言った。
「うむ。ようやく、聞こえたわい。この木の顔は、サヤカ、おまえさんじゃよ」
「私?」
「おまえさんがここまで彫ったのは、木の声を聞いたからじゃが、それとともに、もう一つの声も聞
こえていたじゃろう。それがおまえさんの、自分自身の声じゃよ。この木はおまえさんに、おまえさ
ん自身の顔を彫ってもらいたがっていたんじゃ」
 サヤカは驚いた。自分が彫っていたのは木の顔だとばかり思っていたのに、それが自分の顔で
もあると聞かされたのだ。しかし、驚きの次にはまた別の感慨が湧いてきてもいた。不思議なこと
に、ずっと以前から、そのことを知っていたような気がしたのだった。
 師匠はふーっと大きく息を吐くと、置いてあったノミを手に取った。
 そして、その不恰好な彫りかけの木に、ちょんと、力強く、たった一つだけ、線を入れた。
「できたわい。これが、この木の顔、そしておまえさんの顔じゃ」
 サヤカは像を受け取った。そして見た。
 頭の中に同時に様様なことが浮かび、そして静かに消えて、一つだけが残った。
 サヤカが二週間もかけて彫り、最後まで彫り終えることなく諦めてしまったその像が、たった一
本の線を入れたことにより、見事に完成していた。
 サヤカはその木に刻まれた自分の顔を見て、知らず知らず笑顔を浮かべていた。

96 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 さらに一年が経った。
 最後まで彫り通すことができるようになったとはいえ、サヤカの技術はまだまだ未熟だった。
 師匠のように、最も重要な一点、一線を見究めたいと、何百という像を彫ったが、なかなかうまく
はいかなかった。
 サヤカは修行が足りないと思った。そして、もっと師匠に学ばなければと思った。
 ところが、奇しくも、そう決意を固めた日が、師匠との別れの日となってしまったのだった。

97 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 その日、師匠は岩肌を見てくるといって、朝早くから出かけて行った。木の顔と同じように、岩に
も岩の顔があるのだという。
 サヤカは岩にも顔があるということを聞き、なるほどそれもそうだと思うとともに、なぜ自分は今
までそのことに気づかなかったのだろうとも思った。
 師匠が言わなかったとしても、サヤカは山寺への行き帰り、岩肌の露出した箇所を通り、凄い大
岩だなあとか、面白い形の岩だなあとか、そういうことには気づいていたのだ。だから、そこにも顔
があるということに気づかなかったことを、自分の怠慢だと思い、その日は木を彫らずに、岩にど
んな顔があるのだろうかと、そのことを空想して過ごした。
 師匠は昼になっても、夕方になっても、夜になっても帰ってこなかった。
 サヤカは、師匠はきっと、大岩を前に座り込み、声を聞くためにじっと見つめているのだろうと思
い、様子を見に行くこともなく、先に横になることにした。
 サヤカが師匠が倒れているのを発見したのは、その翌朝、山寺へ向かう途中のことだった。
 師匠は大岩の前で、座禅を組んだまま前に崩れ落ちたかのような体勢で倒れていた。
 しかし、サヤカは狼狽しなかった。自分でも驚くほどに落ち着いていた。
 それは、サヤカにとって、師匠は生きながら自然と同化した存在で、最初から最後まで、生死を
超越した仙人のような人物だったからだった。
 悲しみや寂しさ、偉大な師匠を失った無念さや空虚さはあるにはあったが、サヤカには、師匠は
きっと幸せだったに違いないという確信があった。
 涙はしばらく止まらなかったが、サヤカは笑みを崩さなかった。
 師匠の彫った幾千の木の顔は、どれも師匠の顔でもあり、いつでもそばにいてくれるのだ。

98 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 その日、サヤカは崖に張りついていた。
 大岩の頂上を越えた向こう側の大木二本には命綱のロープが結んであり、すぐ横には縄梯子も
垂らしてあるし、下には万が一の時のためにクッションとなる毛布も積んである。
 サヤカがその大岩に挑戦しようとしたのは、師匠が死んで一週間後のことだ。
 山寺の和尚とも今後のことを話し合い、よければ寺で暮らしなさい、という話も出たが、サヤカは
これまで通り天狗として暮らすことを望み、そしてまた、師匠のやろうとしていた岩の顔を彫るとい
う偉業を受け継ぐ決意を固めてもいたのだった。
「それは、磨崖仏(まがいぶつ)ということかね」と、和尚は尋ねた。
「まがいぶつ?」
「石仏なんかではなく、浮き彫りの、岩に刻む仏像のことだよ。レリーフ状の浅いものもあれば、岩
を半分以上くり抜いたような立体的なものもある。以前に九州に修行に行った時に、国宝の磨崖
仏というのを見たことがあってな、いやいや、なかなか立派なものだったよ」
 サヤカはその話を聞き、ますます挑戦する決意を固めた。
 特に磨崖仏という言葉が気に入っていた。まがい者の自分にはうってつけだと思ったのだ。
「やります。私が、師匠の跡を継ぎ、あの大岩の顔を、浮かび上がらせてみせます」
「だが、大変な作業になる。道具も、これまでのような木工のものでは通用せんだろう。まあ、そな
たがやろうというのであれば、私も協力は惜しまんが」
 その翌日から早速準備を始めた。対象を一番大きな岩肌と決め、その前に腰を下ろし、その声
に耳を傾けた。その間、和尚は里に降り、さらに都市に出て、必要な道具を揃えた。
 そして一通りの道具が揃い、サヤカはついに大岩に挑みはじめたのだった。

99 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:01

   ○

 丸一年が過ぎた。夏になって岩肌が高温と化しても、冬になって岩に霜が降りても、サヤカは大
岩から離れなかった。天狗を恐れていた里の人たちも、今ではその岩場を訪れ、サヤカの彫刻の
様子を見守り、協力を申し出るようにまでなっていた。それには和尚の地味な説得もあったに違い
ない。
 村人たちにより木製の足場が組まれていた。
 サヤカはその上に立ち、目の前の岩にノミをふるった。
 カン、カン、カン、と小気味いい音が響く。その音にうっとりしている村人もいる。
 すでに大岩には顔や体らしきものが浮かび上がっていた。ある者はそれを見て不動明王だと言
い、ある者は大日如来だと言った。和尚は、さてさて、なんだろうか、と言った。
 日が暮れて、サヤカは足場から下りた。
 村の女たちが晩御飯を用意してくれていて、サヤカはそれをありがたく頂戴した。そのかわり、
サヤカは自分の彫った木の顔、仏像を村人たちに提供した。岩を彫る合間にも、これまで通り、
サヤカは木の顔も彫っていた。それは村人たちにとても評判がよかった。遠くのほうから、評判
を聞きつけて、わざわざ買いに訪れる者がいたほどだった。
 サヤカは予期せぬうちに、すっかり有名人に、そして聖者となっていた。尼天狗という呼称はそ
のままだったが、それも畏怖や侮蔑によるものではなく、尊敬のこもったものとなっていた。
 サヤカはそんな状況の変化に恐縮しつつ、しかし浮かれることなく岩に向かい続けた。

100 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 岩を彫りはじめて一年半。岩には奇怪な人物の姿が、半分立体的に、浮かび上がっていた。
 迫力のある大きな像が一つと、こじんまりとした人物大の小さな像が一つ。
 しかし、それが完成することはなかった。
 最後の最後にきて、サヤカはノミをふるうことができなくなっていた。
 それは、その岩に刻まれた姿が天狗の格好をしていたからだった。
 サヤカはその時にはじめて、自分が何を彫っていたのかを知った。それまでは無我夢中で、自
分が何を彫っているのか、まったく頭になかったのだ。
 それは天狗であり、そして師匠だった。
 サヤカは師匠の姿を、その岩の中に追い求めていたのだ。
 そしてまた、小さなほうの像は、サヤカ自身のものだった。手にはキノコのようなマイクを握って
いる。それはサヤカの青春時代の姿だった。
 それに気づいた時から、サヤカは自分が間違ったことをしていたのではないかという恐れに苛
まれるようになった。その思いは打ち消しても打ち消しても浮かんできて、サヤカを極度に衰弱さ
せた。
 和尚や村人の協力を得てそこまでこぎつけたのに、出来上がったのは、いや、実際はまだ出来
上がってはいないのだが、どちらにせよ、それが単なる自分の中の思い出だったというのでは、皆
に何と言っていいのか、すまないような気がしたのだ。
 そしてまた、サヤカは師匠の姿を彫ってしまったということに、大いに緊張してもいたのだった。
 数日間、サヤカは岩を刻めなかった。
 和尚も村人たちも心配しはじめた。しかし、サヤカは手を動かすことができなかった。同時に、木
像を彫ることもできなくなった。サヤカは何の声も聞こえなくなっていた。いや、ありとあらゆる声が
聞こえてきて、どれが自分への声なのか、どれが対象物の声なのか、その判別ができなくなってし
まったのかもしれなかった。
 目の前に立ちはだかった師匠の姿に、サヤカは静かに圧倒されていた。

101 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 サヤカの苦悩は一ヶ月も続いた。
 動きのなくなった作業を見て、村人たちもあまり寄ってこなくなった。
 村人たちの中には、すでに完成したと思い込んでいる者もいて、完成の宴をしたいという申し出
などもあったが、サヤカは無言で、じっと岩を見つめているだけだった。
 皆が皆、何か深い悩みがあるに違いないと気づいたが、それを尋ねかけられる者はいなかった。
 邪魔をしてはならない。静かに見守ってあげよう。そんな声が村人の間で上がっては消えていっ
た。

102 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 作業場から尼天狗が消えたという話が村中で話題になったのは、それから一ヵ月後のことだっ
た。
 その話は村人同士が会えば必ずといっていいほど繰り返されたが、それもいつしか消え、村人
たちは、尼天狗はすでに目的を達したのだろうということで、話を決着させた。それ以外になす術
がないというのも、その理由の一つだった。
 すでに足場は取り外され、岩の像の前には小さな祠のようなものまで用意されていた。
 村人たちはそれを親子天狗岩と名づけ、近くを通るたびにお供えをしたり、手を併せたりした。
 和尚もサヤカの消息を心配しつつ、村人と同じように定期的に天狗岩を訪れた。
「和尚さん、この天狗岩の見事さといったら、言葉になりませんなあ」と、ある村人が言った。
 しかし和尚の表情は冴えなかった。和尚は言った。
「たしかに、見事といえば見事だが、しかし、何か一つ足りないような気がして、それがどうも気に
かかるのだ。果してこれが完成なのか、それとも違うのか。今となっては、答えてくれる者もいない
のだが」
 村人はふむふむと頸突いたものの、祠の前で手を併せ、いやいや見事な岩だ、と言いながら、
その場を去って行った。
 和尚はその日、夕暮れまでその場にたたずんでいた。
 しかし、天狗の声が和尚の耳に聞こえることはなかった。
 サヤカの消息は、その素性とともに、わからないままだった。

 (おわり)

103 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02










.

104 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

『嵐』

 風がゴーゴーと騒がしい音を立て、海は大きくうねり狂っていた。
 雨は上からではなく、横から機関銃のように降りかかり、時には地面を跳ねて下からも飛びか
かってくる。
 ケイは必死に傘を握っていた。傘はすでに裏返しになり、本来の役目を果していなかったが、
暴風雨であることを効果的に見せるために、あえて持つようにと命じられていたのだった。
 そのせいで全身はとうにびしょ濡れで、突風が吹きつけるたびに、吹き飛ばされて海に投げ
出されるんじゃないかと、ケイは気が気でならなかった。
 カメラマンの後ろにいる雨合羽を着た男が、時計を睨みながら、大きく叫んだ。
「よーし、中継一分前。ミスがないように。いや、ミスはしてもいい。とにかく、この嵐をお茶の間
に見せつけることだけを考えろ。ケイ、わかってるだろうな。派手にやれ、派手に」
 いつも通りの命令口調にむっとしたが、ケイは反論せずに頸突くだけだった。

105 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 男は番組のディレクターの一人だった。以前はスタジオにいることが多かったが、ケイの出張
レポート企画が地味に人気が出てきたのをきっかけに、現場ロケに同行することが多くなってい
た。
 年齢は四十二歳。既婚者で子供が二人いる。顔の彫りが深く、ゴルフが趣味なこともあって肌
は日に焼けて黒く光っている。
 春はいつもカーディガンを肩にかけ、夏はきまってポロシャツ姿。二昔前のテレビマンの格好を
踏襲しているが、千葉のローカル局ではまだまだ通用するらしい。
 はじめてその格好を見た時、ケイはかなりのショックを受けた。男のダサさにではなく、千葉の
ダサさにでもなく、自分の都落ちをはっきりと実感させられたというショックだった。ケイは以前の
自分に惜別の念に近いものを覚えた。
 ただ、そんな境遇にもすぐに慣れた。
 今も年に一度は東京で舞台の仕事が入ることがある。全国区の番組に出れば、まだまだ知名
度はあるし、中堅の芸人はケイを格好の材料としていじってくれる。一度築いたブランドはそう簡
単には消え去らない。
 そうした要素がケイの自信に繋がっていた。落ちぶれても仕事があるだけましだった。自分より
歳下で奇麗なアイドルやタレントが消えていくのを、ケイも数多く見てきている。必要とされている
のなら、それに応えればいい。そしてそれを続ければいい。
 ケイは手を抜くことなく、地元千葉のローカル番組に全力を注いだ。

106 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 中継がはじまった。ケイは片手に傘を、片手にマイクを持ち、風雨で化粧を崩れ落ちさせなが
らもレポートをこなした。
 自分でも完璧だとケイは思った。ディレクターがジェスチャーで傘を手放すように指示した時も、
ケイは誰の目にも演技だとはわからないほどの完璧な演技でそれをこなした。傘はあっという間
に風に飛ばされ、高く遠く舞い上がった後、カメラの枠から消えた。
 ヘクトパスカルという言葉を噛んだのもよかった。危険手当は出るんですか、というアドリブのセ
リフもよかった。
 イヤホンの状態がよくなく、スタジオの反応がわからなかったのが唯一気になったが、ディレク
ターの表情や反応を見れば、求められているミッションをクリアしたのだということは、訊くまでも
なかった。オールクリアーだった。
 海岸を見下ろす展望台からの中継が終わり、クルーは中継車に戻った。全員がびしょ濡れに
なっていた。いつもの少人数の陣営とは違い、その日は房総半島直撃の台風中継ということで、
機材係やアシスタントを増員して臨んでいた。中継に出されたことを呪っている者もいれば、自
然のエナジーの凄さにはしゃいでいる者もいた。ディレクターは考えるまでもなく後者だった。
 中継車の横に停めてあるマイクロバスに乗り込もうとしたケイに、ディレクターが声をかけた。
「なあ、今夜、いいだろ? どうせびしょ濡れなんだし」
 ケイは口を開かずに、こくりと頸突くことで返事を示した。

107 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 テレビ局に戻る途中、ケイはケータイに着信が入っていたことに気づいた。
 画面に表示された名前を見て、ケイは思わず左右を見回した。
 周りには知られたくなかった。いや、知られたところで変に思われることはなく、むしろ正当な興
味を持たれるくらいだということはわかっている。しかし、ケイにはそれが恥ずかしかった。ケイが
昔モーニング娘。だったことは誰もが知っているのに、今もその繋がりの中にいるということが、
過去の栄光にすがっているように見えるのではないかと思えてならなかったのだ。
 ケイはマイクロバスの一番後ろに移動し、ケータイの通話ボタンを押した。
 相手はユウコだった。そしてユウコの話は、サヤカのことについてだった。
 サヤカが失踪したらしいという話をはじめて聞いてから、すでに二年以上が過ぎていた。
 サヤカとはもう何年も会っていない。だからケイにとってその二年は、感覚として、昨日と同じ程
度のものでしかなかった。
 ケイはサヤカの顔を思い浮かべた。そこにはいつまでも若いままのサヤカがいた。

108 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 県道沿いのモーテルの中で、ケイは後悔していた。
 高級ホテルとまではいわないものの、雰囲気のあるシティホテルくらい連れて行けばいいのに、
といつものように思うのだ。
 以前にはそういうこともあった。ホテルのバーでカクテルを飲み、その後は部屋でワインかシャン
パンをあけ、大人同士の恋を演じる。彼は零時前に部屋を出て、ケイは朝まで泊まっていく。
 それが最近はモーテルばかりだった。それは彼の趣味がゴルフということとも無関係ではなかっ
た。彼はゴルフの帰り、必ずケイを近くの駅や街まで呼び寄せていた。合流してモーテルになだれ
込むというのが、二人の逢引きの方法だったのだ。
 しかし、いつもいつもモーテルでは、女性として物足りないのも当然だった。彼は単にゴルフの延
長試合をしたいだけで、自分はホールとして呼ばれているだけなんじゃないかと、そんな気がしてく
るのだった。
「ねえ、たまにはあたしも、ゴルフに誘ってよね。いっつもアフターゴルフばっかり」
 甘えた口調でケイはそんなことを言ってみた。彼が不機嫌になるのは予想した通りだった。
「こっちは仕事なんだよ。そりゃ君は番組のレギュラーで看板みたいなもんだし、参加したって問
題はない。だけど、君が参加すると、こっちの仕事に支障が出るんだ。男には男の仕事ってもん
がある。わかるだろ」
 そんな話を聞くたびに、ケイはなんでこんな男とこんな場所にいるんだろう、と思ってしまうのだっ
た。
 彼に惹かれたのは、彼がテレビにすべての情熱を注ぎ込んでいたからだった。お茶の間にセン
セーションを巻き起こすためなら一切の妥協をしない。数字のためなら過剰な演出だろうが何だ
ってやってみせる。強い男だと思った。熱血漢だと思った。
 なのに、最近のケイは、それが自分の勘違いであったことにはっきりと気づきはじめていた。彼
は単なる暴君だった。それも、狭い世界でしか威張れない、井の中の暴君だった。

109 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 その日、ケイは東京に出かけた。最近は地元の番組くらいしか仕事がなく、食事の心配がいら
ないという理由で富津の実家で過ごすことが多くなっていたが、東京にもちゃんと、自分の部屋と
いうものを持っているのだ。
 高級マンションの十二階にケイの部屋はあった。4LDK。一人で住むには十分すぎるほどの広さ
があり、親友の女性タレントが居候して、まるで新婚のような生活を送っていた時期もあった。
 そこに久しぶりにユウコが来ていた。本当は千葉で落ち合い、船橋のサヤカの実家に行くつも
りだったのだが、ケイもユウコも、内心ではその訪問を恐れていて、結局、ケイの部屋で会うこと
になったのだった。
「どや、仕事は順調か?」
「まあまあ。そっちは?」
「仕事があるだけ感謝ってなとこやろな」
 二人は短すぎる近況報告を終え、また無言に戻った。
 紅茶を飲み、クッキーをパクつき、窓の外の景色を眺め、そして溜め息を吐く。
 二人とも三十歳を過ぎて独身だった。男に縁がないわけではなく、言い寄ってくる男は無数にい
たが、いざ結婚となると、その対象となるような男は周りのどこを探しても見当たらなかった。ケイ
が付き合っているのは妻子持ちの暴君で、ユウコの男関係も、似たようなものでしかなかった。
「矢口が週刊誌に出てたの、知ってるか?」と、ユウコが唐突に尋ねた。
「知ってる。うちの番組でも取り上げたから。相手は若い子でしょ。今売り出し中の」
「真里のほうもまだまだ売り出し中やろ。実際、うちなんかよりよっぽど売れてるし」
 ユウコも数年前に東京での活動を諦め、都落ちしていた。今は関西の幾つかのテレビ番組に
準レギュラーとして出演しているくらいで、レギュラーは週一のラジオ一本だけだった。ドラマ出演
の依頼もなく、歌手としての活動もない。舞台の仕事のあるケイよりも、ユウコには焦る必要があ
った。

110 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 結局、サヤカの話はほとんどしないまま、ユウコは帰って行った。
 昔の仲間とはいえ、サヤカと一緒に仕事をしていたのは、もう十年以上も前のことになる。二人
とも心配はしていたが、自分のこと以上に心配する必要も義理もなく、そこまでの友情もなかった。
 ケイにとってもユウコにとっても、それは久しぶりの同窓会で、旧友が交通事故で死んでいたと
いうような話を後から聞かされるのと同じような感じだったのかもしれない。仮にサヤカがどこかで
死んでいたとしても、それは今の自分と繋がりを持つものではなかった。
「ごめんね、サヤカ。でも、どうすることもできないの」
 ケイは一人でそんなことを言ってみた。
 そして誰も他人を助けてはくれないのだと、口を閉じてから続けた。
 ケイはベッドの上に横になった。仕事のことや男のことや過去のことや、色んなことを考えては頭
を空っぽにしようとし、それがうまくいかず、苛立ちだけが残った。
 シャワーを浴びに立ち、戻ってくると、タンスの抽斗の奥からバイブを取り出した。快楽によってな
にもかもを忘れようとしたが、虚しさが増しただけだった。
 ケイは一人、悶えながら絶叫した。

111 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 房総半島の南部、天津小湊から緩やかに続く山山をとことん分け入った先に、その村はあった。
 際立って峻嶮な山は滅多にないが、そこはまさに山の中という言葉が似合うような場所で、岩肌
の露出した崖のような山山が奇妙な景観を生み出していた。
 ケイは千葉県内にそんな辺鄙な場所があったことを知って驚いた。その周辺はまったく観光地化
されておらず、牧場もなければ店屋もなく、舗装された道路が一本通っているだけで、人の姿さえ
なかった。
 ケイは灯台下暗しという言葉を思い浮かべた。その村はケイが生まれ育った富津とは半島の反
対側に位置していたが、地図上ではそう遠くない距離にあった。
 ただし、所要時間を考えると、そこは東京よりも遠い地域だった。千葉県の中の最後の秘境と呼
んでもいいようなところだった。途中までは国道を通ったが、その先は県道となり、村に入ってから
は標識や街灯の一本すらないような道になった。
 それだけでもうんざりしたのに、そこからは徒歩だった。車を降り、曲がりくねった山道を一時間
以上も進んだ。ディレクターが同行しなかった理由をケイは理解した。
 しかし恨む必要はなかった。山道は険しかったが、久しぶりに自然百パーセントの中に分け入り、
ケイは清清しさを全身で感じていた。男なんて糞喰らえ、そんなことを言いたくなるような解放され
た気分だった。

112 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 天狗岩に着くまでの道中に、一行は何度も映像を撮った。
 景色もそうだが、険しい山道を進むケイと中継クルーという絵は、探検隊さながら、お茶の間受
けすることは確実だった。ディレクターでなくとも、誰だってそれくらいのことは考えつく。
 足を止めずに登っているところを撮影することもあれば、全員足を止めて、ケイのコメントを撮る
こともあった。
 小さな滝のある沢に出た時には、ケイはカメラに向ってマイナスイオーン(笑)と叫び、クルーから
爆笑を得たし、誰かが蛇を見つけた時には、ケイはマジ泣きしそうな顔を浮かべ、腰を抜かしてみ
せた。どちらもケイなりのリアクションで、もちろん演技だった。
 ちゃんとした人幅の道があるのに、わざと獣道を進んだり、急な斜面を登ったりしたのも、同様に
テレビの演出だった。
 ただし、その天狗岩までの道程が、都会人にとってかなり苦しいものだったのは事実だった。
 大岩の前まで来た時には、皆が皆、汗まみれで、ケイの化粧は中途半端に流れ落ちていた。

113 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 その日は生の中継ではなく収録だった。中継車が入れないような山奥だし、仮に携帯電話など
を使って中継したとしても、日が暮れてから山道を下りるのは危険だった。
 ケイは天狗岩の前でカメラに向ってコメントし、それからさらに三十分ほど歩いて近くの山寺ま
で行き、そこで天狗の親子の話を聞き、さらに山道を下りる途中でも探検隊の一員をそつなくこ
なした。
 ただ、帰りのケイの心中には様様なものが渦巻いていた。
 それは直感だったが、女の勘というような曖昧なものではなく、証拠のある直感だった。
 最初に天狗岩を見た時にはなにも思わなかった。ただ単に凄いなあと思ったくらいだ。
 それが寺の和尚にサヤカという名前を聞いてから、一転した。
 偶然の一致だったが、偶然にしては出来すぎていた。
 尼天狗は数年前に突然現れたというが、それはサヤカの失踪と時期が一致していた。
 サヤカの風貌も、村人の話と半ば一致していた。涼しげな目に、かわいげの残る顔立ち。
 ケイの知っているサヤカは、仏像にも仏教にも信仰にも彫刻にも無縁だったが、そんなものは
時間がどうにでも変える。ケイの友人のタレントの中にも、いつの間にか如来苑やPA教団に入会
していた者もいるし、扶桑学会に入り、しつこく勧誘してくる者もいる。悩みにつけこむのが新興宗
教のやり方だし、サヤカに悩みがあったことは、失踪した時点ではっきりしている。
 ただ、だからといって、ケイは尼天狗がサヤカと同一人物だと確信したわけではなかった。
 ケイは知らず知らず、その事実を否定する材料を探し続けていた。

114 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 帰りの車中で、ケイは大岩に刻まれた天狗の姿を思い起こした。
 力強い天狗の像。威厳があり、重く圧し掛かってくるような迫力があるのに、今にも岩から飛び
出してしまいそうな軽やかさもあった。
 その脇には人物大の小さな女性の像。涼しげな目に、愁いのある顔。それはサヤカに似ていた
が、似ているとか似ていないとか、そんなことはケイにはどうでもよかった。
 問題は、サヤカがそんな途方もない大事業を、一人で、誰にも知られずに成し遂げていたという
ことだった。
 ケイはそれを認めたくなかった。
 ケイにとって、男に走って仕事を早早に離脱したサヤカは、負け組でなくてはならなかった。
 結婚や出産こそが本当の勝ち組だということを内心ではわかっていて、羨ましく思ってもいたが、
それでも最後まで芸能界で生き残っている者が勝ち組なのだと、そう言わずにはいられなかった。
自分が負け組なのだと内心では自覚していても、それを他人に対して認めることはできなかった。
 そうでなければ、結婚も出産もせずにテレビの世界にしがみついている自分が哀れでならなくな
る。
 それも、千葉のローカル番組の中継レポートの仕事なんかであれば、なおさらだ。
 収入もあるし知名度もある。何度そうやって自分を慰めてきたか。そうするたびにケイはますま
す自分が厭になり、世界が厭になる。何が勝ちで何が負けで、自分は何を求めればいいのか、そ
れがわからなくなってくる。
 頭の中に嵐が吹き荒れ、手に握った傘は突風にあおられて飛んでいく。

115 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 天狗岩を彫ったのはサヤカではないのだと、ケイは何度も何度も言い聞かせた。
 しかし安心感を得ることはできず、それとは逆にケイの中の嵐は激しさを増していく。
 サヤカにはそんなことはできない。同じ名前の赤の他人。サヤカはリタイアしたのだ。サヤカは
不器用だった。サヤカは男に逃げた。サヤカは仏像なんて彫るガラじゃなかった。サヤカは諦め
が早かった。サヤカは都会に憧れ続けていた。サヤカはすぐに人のせいにする子だった。サヤ
カに田舎暮らしは無理。サヤカは虫が嫌いだった。サヤカは恐がりだった。サヤカは一人では何
もできない子だった。サヤカはいつも何かを勘違いしていた。サヤカはサヤカはサヤカは……。
 サヤカは弱い子だった。
 サヤカは優しい子だった。
 サヤカは自分のことを慕ってくれていた。
 サヤカはいつまでも友達でいようねと言ってくれた。
 そして、サヤカはいつの間にかいなくなっていた。
 嵐が収まった。ケイは顔を窓の外に向けて、ただ泣いていた。

116 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

「ケイ、昨日はどうして来なかったんだよ。ケータイも繋がらなかったし。あんなのナシだぜ」
 似合わない紺色のポロシャツを着たディレクターが、スタジオに入ったケイに小声で話しかけた。
 二人は前日、会う予定になっていた。いつも通りのアフターゴルフだったが、待ち合わせ場所に
ケイは行かなかった。
「おい、どうしたんだよ。そんなむくれた顔しちゃってさ。アレの日か? 違うだろ?」
 そう言われた瞬間、ケイは覚悟を決めた。
 ケイは右手を振り上げ、ディレクターを思いっきり引っ叩いた。
 パシンと乾いた音がして、スタッフの数人が反射的に視線を向けた。
 周りにばれたってかまわなかった。そんな男と今の今まで別れられなかった自分が悪いのだ。
 別れるならド派手に別れてやればいい。その方がむしろ仕事に影響しなくて済む。こっそり別れ
て私怨で仕事をクビにされたんじゃたまらない。皆の目があれば、ディレクターだってケイをクビに
はできない。もしクビにしたら、その理由をあれこれ噂されることになる。妻子のいる身にそれはま
ずい。出世にも響く。
「別れましょう。あなたのおもちゃはもうまっぴら。アフターゴルフは奥さんでも誘ったら?」
 ケイは演技ではなく、自然な笑顔でそういった。その笑顔は解放された喜びに溢れていた。
 茫然と突っ立っているディレクターの横を、ケイは颯爽と通り過ぎた。
 スタッフの一人が、どうしたんですか、と小声で尋ねた。
 ケイは一言、セクハラよ、とだけ答えた。魔法の言葉だった。

117 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 一ヵ月後、ケイは番組をやめた。
 それは自主的な降板で、ディレクターをビンタした一週間後に決めたことだった。制作サイドには
その時にすでに伝えてあり、了承を得ていた。
 最後の出演日には、ケイの中継レポートの総集編が放送された。
 しかし、ケイはスタジオにはいなかった。当初はスタジオで、他の出演者と一緒にその放送を見る
予定だったが、ケイはそれを断り、別のことを提案していた。
 それは最後の中継レポートだった。それも、これまでで一番大変な中継になる予定だった。
 ケイの提案は受け入れられ、中継クルーは午前中に現地入りした。中継車が入れないので、機
材を歩いて運ばなければならなかったのだ。

118 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:05

   ○

 ケイは天狗岩の前にいた。いつものような演出的なコメントはなく、ケイは真剣な表情でその大岩
を見上げていた。カメラはそのケイの横顔をずっと映し続けた。
 その映像に涙が見えた。
 涙はケイの目からすすすと流れ落ち、西日を浴びて一筋の輝きとなった。
 スタジオでかすかに笑いが起きたが、それはすぐに消えた。皆が皆、そのケイの表情に言葉では
伝えきれないものを感じ取っていた。
 ケイの涙は演技ではなかったが、どの演技よりも涙というものの素晴らしさを伝えていた。
 ケイは大岩に近づき、まるで感情を読み取ろうとするかのように、その岩に右手を当てた。
 ケイはしばらくそうしていた。放送事故に近い状態だったが、画面が切り替わることはなかった。
 ケイの口が小さく動いた。ケイの服につけてあるマイクが、サヤカという名前をかすかに拾った。
 説明はなかった。誰も尋ねず、誰もケイの邪魔をしようとはしなかった。
 ケイの口がふたたび動いた。今度は歌だった。

  この世界に生まれたことは きっと何かの運命
  今出来ることをしてみよう だけどあせらないで

  この世界に生まれたことは きっと何かの運命
  今やりたいことあるのなら それは大事なこと

 最後の中継が終わった。
 ケイの最後の表情は、これまでで一番澄みきった、迷いのない笑顔だった。

 (おわり)

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