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【速報】さゆと亀井が卒業

1 :名無し娘。:2007/01/02(火) 23:10
ソースは新宿ラジオ

101 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 サヤカの苦悩は一ヶ月も続いた。
 動きのなくなった作業を見て、村人たちもあまり寄ってこなくなった。
 村人たちの中には、すでに完成したと思い込んでいる者もいて、完成の宴をしたいという申し出
などもあったが、サヤカは無言で、じっと岩を見つめているだけだった。
 皆が皆、何か深い悩みがあるに違いないと気づいたが、それを尋ねかけられる者はいなかった。
 邪魔をしてはならない。静かに見守ってあげよう。そんな声が村人の間で上がっては消えていっ
た。

102 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 作業場から尼天狗が消えたという話が村中で話題になったのは、それから一ヵ月後のことだっ
た。
 その話は村人同士が会えば必ずといっていいほど繰り返されたが、それもいつしか消え、村人
たちは、尼天狗はすでに目的を達したのだろうということで、話を決着させた。それ以外になす術
がないというのも、その理由の一つだった。
 すでに足場は取り外され、岩の像の前には小さな祠のようなものまで用意されていた。
 村人たちはそれを親子天狗岩と名づけ、近くを通るたびにお供えをしたり、手を併せたりした。
 和尚もサヤカの消息を心配しつつ、村人と同じように定期的に天狗岩を訪れた。
「和尚さん、この天狗岩の見事さといったら、言葉になりませんなあ」と、ある村人が言った。
 しかし和尚の表情は冴えなかった。和尚は言った。
「たしかに、見事といえば見事だが、しかし、何か一つ足りないような気がして、それがどうも気に
かかるのだ。果してこれが完成なのか、それとも違うのか。今となっては、答えてくれる者もいない
のだが」
 村人はふむふむと頸突いたものの、祠の前で手を併せ、いやいや見事な岩だ、と言いながら、
その場を去って行った。
 和尚はその日、夕暮れまでその場にたたずんでいた。
 しかし、天狗の声が和尚の耳に聞こえることはなかった。
 サヤカの消息は、その素性とともに、わからないままだった。

 (おわり)

103 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02










.

104 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

『嵐』

 風がゴーゴーと騒がしい音を立て、海は大きくうねり狂っていた。
 雨は上からではなく、横から機関銃のように降りかかり、時には地面を跳ねて下からも飛びか
かってくる。
 ケイは必死に傘を握っていた。傘はすでに裏返しになり、本来の役目を果していなかったが、
暴風雨であることを効果的に見せるために、あえて持つようにと命じられていたのだった。
 そのせいで全身はとうにびしょ濡れで、突風が吹きつけるたびに、吹き飛ばされて海に投げ
出されるんじゃないかと、ケイは気が気でならなかった。
 カメラマンの後ろにいる雨合羽を着た男が、時計を睨みながら、大きく叫んだ。
「よーし、中継一分前。ミスがないように。いや、ミスはしてもいい。とにかく、この嵐をお茶の間
に見せつけることだけを考えろ。ケイ、わかってるだろうな。派手にやれ、派手に」
 いつも通りの命令口調にむっとしたが、ケイは反論せずに頸突くだけだった。

105 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:02

   ○

 男は番組のディレクターの一人だった。以前はスタジオにいることが多かったが、ケイの出張
レポート企画が地味に人気が出てきたのをきっかけに、現場ロケに同行することが多くなってい
た。
 年齢は四十二歳。既婚者で子供が二人いる。顔の彫りが深く、ゴルフが趣味なこともあって肌
は日に焼けて黒く光っている。
 春はいつもカーディガンを肩にかけ、夏はきまってポロシャツ姿。二昔前のテレビマンの格好を
踏襲しているが、千葉のローカル局ではまだまだ通用するらしい。
 はじめてその格好を見た時、ケイはかなりのショックを受けた。男のダサさにではなく、千葉の
ダサさにでもなく、自分の都落ちをはっきりと実感させられたというショックだった。ケイは以前の
自分に惜別の念に近いものを覚えた。
 ただ、そんな境遇にもすぐに慣れた。
 今も年に一度は東京で舞台の仕事が入ることがある。全国区の番組に出れば、まだまだ知名
度はあるし、中堅の芸人はケイを格好の材料としていじってくれる。一度築いたブランドはそう簡
単には消え去らない。
 そうした要素がケイの自信に繋がっていた。落ちぶれても仕事があるだけましだった。自分より
歳下で奇麗なアイドルやタレントが消えていくのを、ケイも数多く見てきている。必要とされている
のなら、それに応えればいい。そしてそれを続ければいい。
 ケイは手を抜くことなく、地元千葉のローカル番組に全力を注いだ。

106 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 中継がはじまった。ケイは片手に傘を、片手にマイクを持ち、風雨で化粧を崩れ落ちさせなが
らもレポートをこなした。
 自分でも完璧だとケイは思った。ディレクターがジェスチャーで傘を手放すように指示した時も、
ケイは誰の目にも演技だとはわからないほどの完璧な演技でそれをこなした。傘はあっという間
に風に飛ばされ、高く遠く舞い上がった後、カメラの枠から消えた。
 ヘクトパスカルという言葉を噛んだのもよかった。危険手当は出るんですか、というアドリブのセ
リフもよかった。
 イヤホンの状態がよくなく、スタジオの反応がわからなかったのが唯一気になったが、ディレク
ターの表情や反応を見れば、求められているミッションをクリアしたのだということは、訊くまでも
なかった。オールクリアーだった。
 海岸を見下ろす展望台からの中継が終わり、クルーは中継車に戻った。全員がびしょ濡れに
なっていた。いつもの少人数の陣営とは違い、その日は房総半島直撃の台風中継ということで、
機材係やアシスタントを増員して臨んでいた。中継に出されたことを呪っている者もいれば、自
然のエナジーの凄さにはしゃいでいる者もいた。ディレクターは考えるまでもなく後者だった。
 中継車の横に停めてあるマイクロバスに乗り込もうとしたケイに、ディレクターが声をかけた。
「なあ、今夜、いいだろ? どうせびしょ濡れなんだし」
 ケイは口を開かずに、こくりと頸突くことで返事を示した。

107 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 テレビ局に戻る途中、ケイはケータイに着信が入っていたことに気づいた。
 画面に表示された名前を見て、ケイは思わず左右を見回した。
 周りには知られたくなかった。いや、知られたところで変に思われることはなく、むしろ正当な興
味を持たれるくらいだということはわかっている。しかし、ケイにはそれが恥ずかしかった。ケイが
昔モーニング娘。だったことは誰もが知っているのに、今もその繋がりの中にいるということが、
過去の栄光にすがっているように見えるのではないかと思えてならなかったのだ。
 ケイはマイクロバスの一番後ろに移動し、ケータイの通話ボタンを押した。
 相手はユウコだった。そしてユウコの話は、サヤカのことについてだった。
 サヤカが失踪したらしいという話をはじめて聞いてから、すでに二年以上が過ぎていた。
 サヤカとはもう何年も会っていない。だからケイにとってその二年は、感覚として、昨日と同じ程
度のものでしかなかった。
 ケイはサヤカの顔を思い浮かべた。そこにはいつまでも若いままのサヤカがいた。

108 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 県道沿いのモーテルの中で、ケイは後悔していた。
 高級ホテルとまではいわないものの、雰囲気のあるシティホテルくらい連れて行けばいいのに、
といつものように思うのだ。
 以前にはそういうこともあった。ホテルのバーでカクテルを飲み、その後は部屋でワインかシャン
パンをあけ、大人同士の恋を演じる。彼は零時前に部屋を出て、ケイは朝まで泊まっていく。
 それが最近はモーテルばかりだった。それは彼の趣味がゴルフということとも無関係ではなかっ
た。彼はゴルフの帰り、必ずケイを近くの駅や街まで呼び寄せていた。合流してモーテルになだれ
込むというのが、二人の逢引きの方法だったのだ。
 しかし、いつもいつもモーテルでは、女性として物足りないのも当然だった。彼は単にゴルフの延
長試合をしたいだけで、自分はホールとして呼ばれているだけなんじゃないかと、そんな気がしてく
るのだった。
「ねえ、たまにはあたしも、ゴルフに誘ってよね。いっつもアフターゴルフばっかり」
 甘えた口調でケイはそんなことを言ってみた。彼が不機嫌になるのは予想した通りだった。
「こっちは仕事なんだよ。そりゃ君は番組のレギュラーで看板みたいなもんだし、参加したって問
題はない。だけど、君が参加すると、こっちの仕事に支障が出るんだ。男には男の仕事ってもん
がある。わかるだろ」
 そんな話を聞くたびに、ケイはなんでこんな男とこんな場所にいるんだろう、と思ってしまうのだっ
た。
 彼に惹かれたのは、彼がテレビにすべての情熱を注ぎ込んでいたからだった。お茶の間にセン
セーションを巻き起こすためなら一切の妥協をしない。数字のためなら過剰な演出だろうが何だ
ってやってみせる。強い男だと思った。熱血漢だと思った。
 なのに、最近のケイは、それが自分の勘違いであったことにはっきりと気づきはじめていた。彼
は単なる暴君だった。それも、狭い世界でしか威張れない、井の中の暴君だった。

109 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 その日、ケイは東京に出かけた。最近は地元の番組くらいしか仕事がなく、食事の心配がいら
ないという理由で富津の実家で過ごすことが多くなっていたが、東京にもちゃんと、自分の部屋と
いうものを持っているのだ。
 高級マンションの十二階にケイの部屋はあった。4LDK。一人で住むには十分すぎるほどの広さ
があり、親友の女性タレントが居候して、まるで新婚のような生活を送っていた時期もあった。
 そこに久しぶりにユウコが来ていた。本当は千葉で落ち合い、船橋のサヤカの実家に行くつも
りだったのだが、ケイもユウコも、内心ではその訪問を恐れていて、結局、ケイの部屋で会うこと
になったのだった。
「どや、仕事は順調か?」
「まあまあ。そっちは?」
「仕事があるだけ感謝ってなとこやろな」
 二人は短すぎる近況報告を終え、また無言に戻った。
 紅茶を飲み、クッキーをパクつき、窓の外の景色を眺め、そして溜め息を吐く。
 二人とも三十歳を過ぎて独身だった。男に縁がないわけではなく、言い寄ってくる男は無数にい
たが、いざ結婚となると、その対象となるような男は周りのどこを探しても見当たらなかった。ケイ
が付き合っているのは妻子持ちの暴君で、ユウコの男関係も、似たようなものでしかなかった。
「矢口が週刊誌に出てたの、知ってるか?」と、ユウコが唐突に尋ねた。
「知ってる。うちの番組でも取り上げたから。相手は若い子でしょ。今売り出し中の」
「真里のほうもまだまだ売り出し中やろ。実際、うちなんかよりよっぽど売れてるし」
 ユウコも数年前に東京での活動を諦め、都落ちしていた。今は関西の幾つかのテレビ番組に
準レギュラーとして出演しているくらいで、レギュラーは週一のラジオ一本だけだった。ドラマ出演
の依頼もなく、歌手としての活動もない。舞台の仕事のあるケイよりも、ユウコには焦る必要があ
った。

110 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 結局、サヤカの話はほとんどしないまま、ユウコは帰って行った。
 昔の仲間とはいえ、サヤカと一緒に仕事をしていたのは、もう十年以上も前のことになる。二人
とも心配はしていたが、自分のこと以上に心配する必要も義理もなく、そこまでの友情もなかった。
 ケイにとってもユウコにとっても、それは久しぶりの同窓会で、旧友が交通事故で死んでいたと
いうような話を後から聞かされるのと同じような感じだったのかもしれない。仮にサヤカがどこかで
死んでいたとしても、それは今の自分と繋がりを持つものではなかった。
「ごめんね、サヤカ。でも、どうすることもできないの」
 ケイは一人でそんなことを言ってみた。
 そして誰も他人を助けてはくれないのだと、口を閉じてから続けた。
 ケイはベッドの上に横になった。仕事のことや男のことや過去のことや、色んなことを考えては頭
を空っぽにしようとし、それがうまくいかず、苛立ちだけが残った。
 シャワーを浴びに立ち、戻ってくると、タンスの抽斗の奥からバイブを取り出した。快楽によってな
にもかもを忘れようとしたが、虚しさが増しただけだった。
 ケイは一人、悶えながら絶叫した。

111 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:03

   ○

 房総半島の南部、天津小湊から緩やかに続く山山をとことん分け入った先に、その村はあった。
 際立って峻嶮な山は滅多にないが、そこはまさに山の中という言葉が似合うような場所で、岩肌
の露出した崖のような山山が奇妙な景観を生み出していた。
 ケイは千葉県内にそんな辺鄙な場所があったことを知って驚いた。その周辺はまったく観光地化
されておらず、牧場もなければ店屋もなく、舗装された道路が一本通っているだけで、人の姿さえ
なかった。
 ケイは灯台下暗しという言葉を思い浮かべた。その村はケイが生まれ育った富津とは半島の反
対側に位置していたが、地図上ではそう遠くない距離にあった。
 ただし、所要時間を考えると、そこは東京よりも遠い地域だった。千葉県の中の最後の秘境と呼
んでもいいようなところだった。途中までは国道を通ったが、その先は県道となり、村に入ってから
は標識や街灯の一本すらないような道になった。
 それだけでもうんざりしたのに、そこからは徒歩だった。車を降り、曲がりくねった山道を一時間
以上も進んだ。ディレクターが同行しなかった理由をケイは理解した。
 しかし恨む必要はなかった。山道は険しかったが、久しぶりに自然百パーセントの中に分け入り、
ケイは清清しさを全身で感じていた。男なんて糞喰らえ、そんなことを言いたくなるような解放され
た気分だった。

112 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 天狗岩に着くまでの道中に、一行は何度も映像を撮った。
 景色もそうだが、険しい山道を進むケイと中継クルーという絵は、探検隊さながら、お茶の間受
けすることは確実だった。ディレクターでなくとも、誰だってそれくらいのことは考えつく。
 足を止めずに登っているところを撮影することもあれば、全員足を止めて、ケイのコメントを撮る
こともあった。
 小さな滝のある沢に出た時には、ケイはカメラに向ってマイナスイオーン(笑)と叫び、クルーから
爆笑を得たし、誰かが蛇を見つけた時には、ケイはマジ泣きしそうな顔を浮かべ、腰を抜かしてみ
せた。どちらもケイなりのリアクションで、もちろん演技だった。
 ちゃんとした人幅の道があるのに、わざと獣道を進んだり、急な斜面を登ったりしたのも、同様に
テレビの演出だった。
 ただし、その天狗岩までの道程が、都会人にとってかなり苦しいものだったのは事実だった。
 大岩の前まで来た時には、皆が皆、汗まみれで、ケイの化粧は中途半端に流れ落ちていた。

113 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 その日は生の中継ではなく収録だった。中継車が入れないような山奥だし、仮に携帯電話など
を使って中継したとしても、日が暮れてから山道を下りるのは危険だった。
 ケイは天狗岩の前でカメラに向ってコメントし、それからさらに三十分ほど歩いて近くの山寺ま
で行き、そこで天狗の親子の話を聞き、さらに山道を下りる途中でも探検隊の一員をそつなくこ
なした。
 ただ、帰りのケイの心中には様様なものが渦巻いていた。
 それは直感だったが、女の勘というような曖昧なものではなく、証拠のある直感だった。
 最初に天狗岩を見た時にはなにも思わなかった。ただ単に凄いなあと思ったくらいだ。
 それが寺の和尚にサヤカという名前を聞いてから、一転した。
 偶然の一致だったが、偶然にしては出来すぎていた。
 尼天狗は数年前に突然現れたというが、それはサヤカの失踪と時期が一致していた。
 サヤカの風貌も、村人の話と半ば一致していた。涼しげな目に、かわいげの残る顔立ち。
 ケイの知っているサヤカは、仏像にも仏教にも信仰にも彫刻にも無縁だったが、そんなものは
時間がどうにでも変える。ケイの友人のタレントの中にも、いつの間にか如来苑やPA教団に入会
していた者もいるし、扶桑学会に入り、しつこく勧誘してくる者もいる。悩みにつけこむのが新興宗
教のやり方だし、サヤカに悩みがあったことは、失踪した時点ではっきりしている。
 ただ、だからといって、ケイは尼天狗がサヤカと同一人物だと確信したわけではなかった。
 ケイは知らず知らず、その事実を否定する材料を探し続けていた。

114 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 帰りの車中で、ケイは大岩に刻まれた天狗の姿を思い起こした。
 力強い天狗の像。威厳があり、重く圧し掛かってくるような迫力があるのに、今にも岩から飛び
出してしまいそうな軽やかさもあった。
 その脇には人物大の小さな女性の像。涼しげな目に、愁いのある顔。それはサヤカに似ていた
が、似ているとか似ていないとか、そんなことはケイにはどうでもよかった。
 問題は、サヤカがそんな途方もない大事業を、一人で、誰にも知られずに成し遂げていたという
ことだった。
 ケイはそれを認めたくなかった。
 ケイにとって、男に走って仕事を早早に離脱したサヤカは、負け組でなくてはならなかった。
 結婚や出産こそが本当の勝ち組だということを内心ではわかっていて、羨ましく思ってもいたが、
それでも最後まで芸能界で生き残っている者が勝ち組なのだと、そう言わずにはいられなかった。
自分が負け組なのだと内心では自覚していても、それを他人に対して認めることはできなかった。
 そうでなければ、結婚も出産もせずにテレビの世界にしがみついている自分が哀れでならなくな
る。
 それも、千葉のローカル番組の中継レポートの仕事なんかであれば、なおさらだ。
 収入もあるし知名度もある。何度そうやって自分を慰めてきたか。そうするたびにケイはますま
す自分が厭になり、世界が厭になる。何が勝ちで何が負けで、自分は何を求めればいいのか、そ
れがわからなくなってくる。
 頭の中に嵐が吹き荒れ、手に握った傘は突風にあおられて飛んでいく。

115 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 天狗岩を彫ったのはサヤカではないのだと、ケイは何度も何度も言い聞かせた。
 しかし安心感を得ることはできず、それとは逆にケイの中の嵐は激しさを増していく。
 サヤカにはそんなことはできない。同じ名前の赤の他人。サヤカはリタイアしたのだ。サヤカは
不器用だった。サヤカは男に逃げた。サヤカは仏像なんて彫るガラじゃなかった。サヤカは諦め
が早かった。サヤカは都会に憧れ続けていた。サヤカはすぐに人のせいにする子だった。サヤ
カに田舎暮らしは無理。サヤカは虫が嫌いだった。サヤカは恐がりだった。サヤカは一人では何
もできない子だった。サヤカはいつも何かを勘違いしていた。サヤカはサヤカはサヤカは……。
 サヤカは弱い子だった。
 サヤカは優しい子だった。
 サヤカは自分のことを慕ってくれていた。
 サヤカはいつまでも友達でいようねと言ってくれた。
 そして、サヤカはいつの間にかいなくなっていた。
 嵐が収まった。ケイは顔を窓の外に向けて、ただ泣いていた。

116 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

「ケイ、昨日はどうして来なかったんだよ。ケータイも繋がらなかったし。あんなのナシだぜ」
 似合わない紺色のポロシャツを着たディレクターが、スタジオに入ったケイに小声で話しかけた。
 二人は前日、会う予定になっていた。いつも通りのアフターゴルフだったが、待ち合わせ場所に
ケイは行かなかった。
「おい、どうしたんだよ。そんなむくれた顔しちゃってさ。アレの日か? 違うだろ?」
 そう言われた瞬間、ケイは覚悟を決めた。
 ケイは右手を振り上げ、ディレクターを思いっきり引っ叩いた。
 パシンと乾いた音がして、スタッフの数人が反射的に視線を向けた。
 周りにばれたってかまわなかった。そんな男と今の今まで別れられなかった自分が悪いのだ。
 別れるならド派手に別れてやればいい。その方がむしろ仕事に影響しなくて済む。こっそり別れ
て私怨で仕事をクビにされたんじゃたまらない。皆の目があれば、ディレクターだってケイをクビに
はできない。もしクビにしたら、その理由をあれこれ噂されることになる。妻子のいる身にそれはま
ずい。出世にも響く。
「別れましょう。あなたのおもちゃはもうまっぴら。アフターゴルフは奥さんでも誘ったら?」
 ケイは演技ではなく、自然な笑顔でそういった。その笑顔は解放された喜びに溢れていた。
 茫然と突っ立っているディレクターの横を、ケイは颯爽と通り過ぎた。
 スタッフの一人が、どうしたんですか、と小声で尋ねた。
 ケイは一言、セクハラよ、とだけ答えた。魔法の言葉だった。

117 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:04

   ○

 一ヵ月後、ケイは番組をやめた。
 それは自主的な降板で、ディレクターをビンタした一週間後に決めたことだった。制作サイドには
その時にすでに伝えてあり、了承を得ていた。
 最後の出演日には、ケイの中継レポートの総集編が放送された。
 しかし、ケイはスタジオにはいなかった。当初はスタジオで、他の出演者と一緒にその放送を見る
予定だったが、ケイはそれを断り、別のことを提案していた。
 それは最後の中継レポートだった。それも、これまでで一番大変な中継になる予定だった。
 ケイの提案は受け入れられ、中継クルーは午前中に現地入りした。中継車が入れないので、機
材を歩いて運ばなければならなかったのだ。

118 :◆Rich1NDNCw :2008/07/24(木) 23:05

   ○

 ケイは天狗岩の前にいた。いつものような演出的なコメントはなく、ケイは真剣な表情でその大岩
を見上げていた。カメラはそのケイの横顔をずっと映し続けた。
 その映像に涙が見えた。
 涙はケイの目からすすすと流れ落ち、西日を浴びて一筋の輝きとなった。
 スタジオでかすかに笑いが起きたが、それはすぐに消えた。皆が皆、そのケイの表情に言葉では
伝えきれないものを感じ取っていた。
 ケイの涙は演技ではなかったが、どの演技よりも涙というものの素晴らしさを伝えていた。
 ケイは大岩に近づき、まるで感情を読み取ろうとするかのように、その岩に右手を当てた。
 ケイはしばらくそうしていた。放送事故に近い状態だったが、画面が切り替わることはなかった。
 ケイの口が小さく動いた。ケイの服につけてあるマイクが、サヤカという名前をかすかに拾った。
 説明はなかった。誰も尋ねず、誰もケイの邪魔をしようとはしなかった。
 ケイの口がふたたび動いた。今度は歌だった。

  この世界に生まれたことは きっと何かの運命
  今出来ることをしてみよう だけどあせらないで

  この世界に生まれたことは きっと何かの運命
  今やりたいことあるのなら それは大事なこと

 最後の中継が終わった。
 ケイの最後の表情は、これまでで一番澄みきった、迷いのない笑顔だった。

 (おわり)

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0ch BBS 2006-02-27